「……っ!」
 ガシャンッと、ガラスの砕ける大きな音が再び耳に響いた。
 どうしていいか分からなかったが、とにかくCD店でじっとしていても何もならない。
 そう思い、眞姫は必死でCD店の出口に向かって駆け出した。
 ジャリジャリと、砕けたガラス片を踏む感触と音がする。
 そして駆け出した眞姫を追撃するように、その後を宙に浮いたCDが飛び交う。
 眞姫は恐怖に表情を強張らせながらも、後ろを振り返った。
 不幸中の幸いか……眞姫を襲うCDたちのコントロールはあまりよいものではなく、あちらこちらに軌道を取り、無駄に店内を破壊している。
 このままなら、出口まで辿り着けそうだ。
 店を出てどうにかなるわけではないが、じっと店の中にいることは間違いなく危険だ。
 そして、ドオンッと棚が倒れる音に耳を塞ぎながら何とか出口まであと数歩のところまで来た眞姫であったが。
「! あっ!」
 床に散らばったCDに足をとられ、眞姫は躓く。
 咄嗟にバランスを取ったが、思わず肩膝をついてしまった。
 次の瞬間……眞姫は、背筋にゾクリと寒気を感じた。
 そして青ざめた顔をゆっくりと背後に向け、言葉を失う。
 ふわふわと不気味に宙を舞う無数のCDが足を止めた眞姫に狙いを定め、今にも襲い掛からんとしていたのだ。
 いくら軌道の定まらないCDの攻撃とはいえ、あれだけの数が一斉に襲い掛かってきたら、直撃は免れないだろう。
 砕け散ったガラスを見れば、それらの攻撃の大きさが容易に想像できる。
 もしも直撃してしまえば……少しの怪我では済まないだろう。
 眞姫は急いで立ち上がろうとした。
 だが、恐怖で足に力が入らない。
 ずるずるとしゃがんだまま後退して、眞姫はぎゅっと瞳を瞑った。
 そしてまさにCDが眞姫目がけて襲い掛かろうとした、その時だった。
「! えっ?」
 眞姫は、ハッとその顔を上げる。
 今まで立ち込めていた“邪気”が消えたのを感じ、眞姫は驚いたように瞳を見開いた。
 周囲を取り巻く“結界”の中の空気の雰囲気が、一瞬にして変わったのだ。
 さっきまで眞姫に狙いを定めて浮いていた無数のCDも、跡形なく目の前から消えている。
 そして、驚いた表情を浮かべる眞姫の瞳に映っているのは。
「大丈夫かい? お姫様」
 いつの間にか現れたその人物はにっこりと微笑み、眞姫にスッと手を差した。
 その人物を見て、眞姫は声を上げた。
「あっ、傘のおじさまっ!?」
「怪我はないかね? もう大丈夫だよ」
 しゃがみこんでいた眞姫を優しく立たせて、その人物・傘の紳士は破壊された店内を見る。
「こんなに派手に破壊して……芸術を愛でる私の美学に反するな」
 そう言ってから、傘の紳士はその両の目をふっと閉じた。
「あっ」
 眞姫はそんな紳士に大きな瞳を向け、驚いたように声を上げる。
 目の前の紳士から、あたたかくて優しい、大きな“気”の力を感じたからだ。
 ふわりと淡い光が、一瞬にして彼の身体を包みこむ。
 そして紳士は、おもむろにパチンと指を鳴らした。
「えっ!?」
 その瞬間、眞姫は目の前の光景に大きく瞳を見開く。
 散乱したCD、原型を留めていないほど破壊された陳列棚、粉々に砕け散ったガラス。
 それらすべてが、一瞬にして元に戻ったのだ。
 それだけではない。
 美しいクラシック音楽が優しく店内に流れ、先程までの出来事がまるで嘘のようである。
「こ、これって」
「いくら“結界”の中とはいえ、あのままでは美しくないからね。音楽とは本来、人を癒すためのものだから」
 優しく耳に響く旋律とともに、紳士のバリトンの声が聞こえる。
 眞姫は、その言葉にきょとんとした。
 あんなに恐怖を感じていたのに、不思議とそんな感情も消えていくような気がしたのだ。
 ……その時。
 眞姫はハッと顔を上げた。
「! お、おじさま」
 不安そうに紳士に瞳を向け、本能的に数歩後ずさりをする。
 破壊された店内は元に戻ったが……再び眞姫たちの目の前に、数枚のCDが浮かびあがるのが見えたのだ。
 そんな様子に臆することもなく、傘の紳士は柔らかい微笑みを眞姫に向けた。
「お姫様、すでにこの“結界”は私の“空間”で満たしているから、心配はいらないよ」
「! “結界”を“空間”で!?」
 そう眞姫が呟いた、その瞬間。
 グワッと大きな“邪気”が弾けるのを感じた。
 そして宙に浮いていたCDが、一斉にふたり目がけて襲い掛かってきたのだ。
「……!」
 その様子に顔を強張らせて、眞姫は思わず数歩後退する。
 そんな眞姫とは反対に、紳士は彼女の盾になるように位置を取りつつも動じる様子は全くない。
 だが無数のCDは、すごい勢いでふたりの目の前まで迫ってくる。
 思わず眞姫はその大きな瞳をギュッと閉じた。
「きゃっ! ……あ、あれ?」
 だがその攻撃は、ふたりに届くことはなかった。
 見えない壁に阻まれているかのように、それらすべてがふたりの数メートル手前でピタリと止まったのだ。
「私は争い事は好まないが、美しいレディを怖い目に合わせたことは許せないな」
 そう言って、傘の紳士はスッと右手を翳した。
 その瞬間、動きを止めていたCDが逆方向に軌道を変える。
 無数のCDたちは、眞姫たちから死角になっている店の奥目がけて飛んでいく。
 そして、ドンッという大きな音がしたかと思うと……。
「あっ」
 ふっと店の中の光景が、一瞬にして変化する。
 目の前に戻ってきた日常の雑踏を見て、“結界”が解かれたことが分かった。
「敵はどうやら、先程の攻撃に怯んで、張っていた“結界”を解いたようだね」
 ざわざわと人の行き交う店内をじっと見ている眞姫に、傘の紳士はそう言った。
「あ……ありがとうございました」
 まだその大きな瞳をパチパチさせながらも、眞姫は目の前の紳士に頭を下げる。
 眞姫の栗色の髪を優しくそっと撫で、紳士は笑った。
「怪我はないかな? 駆けつけるのが遅くなってしまって、怖かっただろう?」
「いえ、本当に助かりました。おじさまが来てくださらなかったら、今頃どうなっていたことか」
 破壊された店内の光景を思い出し、眞姫は改めてゾッとする。
 逆に、あんな状況でよく無傷だったなと。
「さあ行きましょう、お姫様」
「え?」
 きょとんとする眞姫に、紳士は優しく微笑む。
「自宅までお送りしますよ、お姫様」
 差し伸べられた手を思わず取った眞姫に笑いかけ、紳士はCD店の前に止めてある車に彼女をエスコートした。
 助手席のドアを開けて眞姫を座らせた後、紳士も愛車に乗り込む。
「シートベルトは締めたかな?」
「あ、はい」
 頷く眞姫を見て、紳士は車を発進させた。
 そして、おもむろに彼はCDの再生ボタンを押す。
 車内に流れるのは……あの曲。
「これは、“月照の聖女”」
 美しく儚く、そして懐かしい……本当に聴くだけで心が休まるような、不思議な曲。
「この曲のCD探したんですけど、見つからなくて。誰の曲なんですか?」
 おそるおそる聞いた眞姫に、紳士は笑った。
「探しても見つからないはずだよ。これはね、私の妻が作った曲をCDにしたものだから」
「おじさまの奥様……あの綺麗なすみれ色の傘の持ち主、ですか?」
「そうだよ。この次でよければ、君にもこのCDをプレゼントしよう」
「えっ、いただけるんですか?」
 嬉しそうにパッと表情を変え、眞姫は紳士を見る。
 だが、それと同時にふと俯いた。
「でも、いつもおじさまには……物をいただいたり、助けてもらったりしてばかりで」
「そんなことを気にしているのかい? じゃあ、こうしよう」
 優しく眞姫に微笑みを向けて、紳士は言葉を続ける。
「君さえよろしければ、今から私と一緒にお茶でもいかがですか? お姫様」
「……え?」
「やはりこの私では、役不足かな?」
「いえっ、とんでもないですっ! 私でよければ是非」
 びっくりしつつも、眞姫は思わず頷く。
 何故かこの紳士の誘いには、つい応じてしまうのだ。
 まだ本当の名前も、彼が何者かも分からないのに。
 でも……悪い人ではないということは、眞姫には分かっていた。
 先程の紳士の“気”・“空間能力”は、映研部員や先生と同じ“能力者”のものだった。
 紳士の雰囲気と同じ、優しくて淡い“気”の光を感じたのだ。
 それにしてもこの紳士は、本当に不思議な雰囲気を持つ人である。
 それにその上品な容姿は、どことなく眞姫の知っている誰かに似ている気がした。
「一度自宅に戻って着替えてくるといいよ。おうちの方も心配されるだろうから」
「あ、はい。でも、いいんですか?」
「それは私の台詞だよ、無理に付き合ってくれてるんじゃないかい? お姫様」
「いえ、とんでもないですっ、喜んで」
 照れたようにそう言ってから、眞姫は車内に静かに流れる旋律に耳を傾けたのだった。




「あ、はろぉっ、智也っ」
 屈託なく手を振って駆け寄るその少女に、高山智也は溜め息をついて言った。
「……待ち合わせ、何時だったっけ? 綾乃」
「んー? 待ち合わせ? 17時だったよ」
「で、今一体何時だと思ってるんだ?」
「今? えっとねぇ、18時10分」
 全く悪びれのないその少女・綾乃の様子に、智也は呆れたようにもう一度嘆息する。
 そんな智也の手を取って、綾乃は楽しそうにあたりを見回した。
「ねぇねぇっ、あそこのお店のパフェ、めっちゃ美味しいんだってよぉっ。昨日テレビでやってたんだよっ? 綾乃、行きたいなぁーっ」
「俺に決定権はないんだろ、どうせ」
 連行されるように引っ張られながら、智也は諦めたように呟く。
 綾乃はそんな智也を見て、にっこりと微笑んだ。
「やだぁ、そんなに怒らないでよぉ。綾乃ちゃん、一仕事してきた後なんだからぁ」
「! 一仕事、って」
 綾乃の言葉に、智也は表情を変えてその顔を上げる。
「綾乃ちゃんとデートしたくなった? 智也」
 くすっと笑ってから、綾乃はお目当ての店にウキウキ気分で足を踏み入れる。
 智也もそれに続いた。
 席に案内され注文も終わり、智也は目の前の綾乃に視線を移す。
「それで一仕事って、おまえ」
 じっと真剣な眼差しを向ける智也に、綾乃はテーブルに頬杖をついて言った。
「智也ってさぁ、昔からそんなに仕事熱心だったっけ?」
「いつだって俺は仕事熱心だろ? おまえと違って、真面目だからな」
「真面目? ふーん、仕事に託けて巫女姫様を口説いてる人が、真面目なんだぁ」
 楽しそうにそう言う綾乃に、智也はふっと笑う。
「仕方ないだろ? 眞姫ちゃん可愛いんだから。それに、言われた仕事はしてるよ」
 そんな智也の言葉に、綾乃は悪戯っぽく笑って言った。
「そんなに可愛いの? 巫女姫様って。じゃあ、綾乃ちゃんとどっちが可愛……」
「眞姫ちゃんに決まってるだろ」
 絶妙のタイミングで即答され、綾乃は満足気に笑う。
「じゃあ眞姫ちゃんって、めっちゃめちゃめちゃめちゃ可愛いってコトじゃなーい」
「……本当におまえって、頭の中幸せそうだよな」
「これでパフェがくれば、もっと幸せよぉっ」
 早くパフェ来ないかなぁと子供のようにはしゃいでいる綾乃を、智也は改めて見た。
 その視線に気がついて、彼女は言った。
「なぁに? そーんなに気になるぅ? 綾乃ちゃんの仕事のコト。あっ、パフェきたーっ」
 運ばれてきたパフェに目を輝かせて、綾乃はその頂上に乗っているチェリーをパクッと口に運ぶ。
「ねーねーっ、舌でチェリーの茎を結べる? 私ねぇ、得意なんだぁっ。ほらっ」
 器用に結んだチェリーの茎を見せて、綾乃はキャハッと楽しそうに微笑む。
「おまえって、見かけによらず器用だからなぁ」
「器用に舌で結び目作れる人って、キスも上手いって言うでしょ? 本当か試してみる? なーんちゃってっ」
「……で? おまえの仕事って?」
「めちゃめちゃさりげなーくスルーしたでしょ、今」
 スプーンでパフェをすくいながら、綾乃は笑った。
 そして、その黒い瞳を智也に向ける。
「この間ね、杜木様とラブラブデートしたのよぉ。その時にね、言われたの。巫女姫様の眠ってる能力を刺激しなさいって、ね?」
「眞姫ちゃんの眠ってる能力を……」
「うん。それにうってつけでしょ? この綾乃ちゃんの特殊能力ってさぁ」
「おまえの特殊能力のひとつ……精神体の“邪”を、意のままに操れる力か」
「おあつらえ向きにね、ちょうど大きな“邪”に身体を狙われてる人がいてね。ちょっと刺激して、“憑邪”として“契約”を交わさせたのよぉ」
 そこまで言って、綾乃はふっとその瞳の色を変える。
 そして、続けた。
「眞姫ちゃんの命を“契約”の条件のひとつにして、ね」
「! 眞姫ちゃんの命を!?」
 綾乃の言葉に、智也は表情を変える。
 そんな智也の反応ににっこり微笑み、綾乃は言った。
「智也って、本当に眞姫ちゃんのコトが好きなんだねぇ。でもね、大丈夫だって。あの程度の“憑邪”なら、彼女の近くにいる“能力者”が簡単に片付けるって」
「あくまで、眞姫ちゃんの能力開花を早めることだけが目的の仕事ってわけか」
「そーいうコト。もしも本気で杜木様が“能力者”に仕掛けるのなら……私たちが直接手を下すように言われるはずでしょ?」
「…………」
 智也は、何かを考えるように俯く。
 そして険しい表情を浮かべたまま、言った。
「猛のこと、おまえも聞いただろう? 綾乃」
「うん。“能力者”に、やられちゃったんでしょ?」
 あっさりそう言ってから、綾乃はパフェをもうひとくち口に運ぶ。
 智也はその言葉に、首を横に振った。
「確かに“能力者”との戦いで彼はやられただけど……実は猛、杜木様から渡された“邪体変化”を起こす薬を飲んで……」
「え? 薬って……」
 はじめて綾乃は、パフェを食べる手を止めて顔を上げる。
 そんな反応を見て、智也は続けた。
「杜木様は、猛に“邪体変化”を会得できる力があるか試したんだ。失敗するだろうと分かっていながら。勝手な行動とることも多かったし、アイツ」
「確かに普通の“邪者”の中ではさぁ、猛の“邪気”って大きかったけど……どう考えても“邪体変化”を使えるレベルじゃないじゃん。しかも、杜木様の言うこと聞けないなんて。当然の報いといえば当然でしょ? “邪体変化”なんて“邪者四天王”のうちらだって、よっぽどのことがない限り使わないんだからさぁ」
「そうなんだけど、俺はさすがに目の前で見て……ショックだったんだよ」
 頼んだコーヒーを飲んで、智也は溜め息をついた。
「優しいのねぇ、智也って。智也のそーいうトコ好きだけどねぇ」
「……おまえは結構冷静だよな、いつもは何も考えてなさそうでバカっぽいけど」
「脳ある鷹は何とやら、って言うでしょ? ていうか、仕事とプライベートは全く別だもん」
「本当に女ってコワイよなぁ、おまえ見てたら本当にそう思うよ。こんなにバカっぽいのに、仕事になったら本当に別人だもんな。どう見ても、“邪者四天王”には見えないのに」
「バカっぽいバカっぽいって……そんなに綾乃ちゃんって、超可愛らしい?」
「そういう言動がバカっぽいって言ってるんだよ、おまえ」
 ふっと笑って、智也はテーブルに頬杖をつく。
 そんな智也を見てから、綾乃はパフェに乗っているクッキーを口に運んだ。
 そして、人懐っこい笑顔を浮かべる。
「楽しみだなぁ、智也がゾッコンラブな可愛い眞姫ちゃんに会えるのが」
「彼女は本当に可愛いよ。ただ、まわりに目障りな“能力者”がいるけどな」
「“能力者”、ねぇ。あ、このアイス美味しいーっ、智也も食べてみるぅ?」
 無邪気に笑う綾乃を見て微笑んだあと、智也はふっと何かを考えるように俯いたのだった。




「まだ、レストランに予約した時間には早いわねぇ。お茶でもしない?」
 由梨奈はそう言って、隣で運転をしている鳴海先生に目を向ける。
 相変わらず表情を変えないまま、先生は頷いた。
「お茶か。久しぶりに“ひなげし”でも行くか」
「うん、行く行くっ。相当久しぶりよぉ、あそこ行くの」
 信号が青になり、先生はアクセルを踏む足に力を込めようとする。
 だが……その時だった。
 鳴海先生は、その切れ長の瞳をふっと細める。
 そして、言った。
「……駄目だ、“ひなげし”はやめておこう」
「え? どうしたの? 何で?」
「何ででも、だ」
 有無を言わさない口調でそう言って、鳴海先生はちょうど目の前に見える喫茶店の駐車場に強引に入る。
 急にそんなことを言い出した鳴海先生の顔を不思議そうに見ながら、由梨奈は首を傾げた。
 そんな由梨奈のことを気にもかけずに、先生は呟いた。
「まったくあの人は……一体、何を考えているんだっ!?」
「え? どーしたの? なるちゃん」
「何でもない、さっさと店に入るぞ」
 バタンと運転席のドアを閉める鳴海先生に続いて、由梨奈も車を降りる。
 そして鳴海先生は遠くに瞳を向け、何故か大きく溜め息をついたのだった。
 その、同じ頃。
 眞姫は、興味深そうにあたりを見回した。
「すごい、綺麗なコーヒーカップがたくさん!」
「気に入っていただけたかな、お姫様」
 眞姫は紳士に連れられ、喫茶店にいた。
 そんなに広くない店内には、何百種類もの色鮮やかなコーヒーカップが並べられている。
 そして、店内に流れるバロック音楽と、明るくも暗くもないほどよい品のいい照明が、眞姫たちを優しく迎えてくれた。
 はじめて訪れた店であったが、不思議と心が和んでいくような気さえおぼえる。
「いらっしゃいませ、こんばんは。今日は随分と可愛らしい女性とご一緒なのですね」
「ああ、大切な私のお姫様だからね、彼女は」
 にっこりと微笑んで、紳士は話しかけてきたマスターに言った。
 その言葉に照れながらも、眞姫はもの珍しそうに店内を見回す。
 そんな眞姫に、マスターは言った。
「コーヒーカップ、どれにしましょうか?」
「この店は、好きなカップでコーヒーをいれてくれるんだよ」
「え? そうなんですか? えっと、どれにしようかな……」
 うーんと悩んで、眞姫はたくさんのカップをひとつずつ見ている。
 眞姫が選んでいる間も、マスターと紳士は楽しそうに談笑していた。
 どうやら紳士はこの店によく来るみたいだということが、何も言わずに彼の目の前に出てきたコーヒーカップを見ても分かる。
 悩んだ挙句、白地に小さな赤い花の咲いている可愛らしいカップを眞姫は選んだ。
 マスターは慣れた手つきで、目の前で手際よくコーヒーをいれてくれる。
 湯を注いだ途端にモコモコとコーヒー豆が盛り上がるのが見え、そしてそれと同時にコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
 珍しそうに目を輝かせてその様子を見ている眞姫に、紳士は優しい眼差しを向けていた。
「どうぞ、お嬢さん」
 目の前に出されたコーヒーは深い漆黒の色を湛えており、その香りだけでも幸せな気持ちになる。
 そしてひとくち飲んだ途端、濃いのにまったくくせのないその深みのある味が、口の中いっぱいに広がった。
「こんな美味しいコーヒー、はじめて飲みました」
「ありがとうございます。ごゆっくりしていってくださいね」
 眞姫の言葉に嬉しそうにマスターは笑って、そしてさりげなくその場から離れる。
「ここは私の行きつけの店なんだよ。喜んでくれて私も嬉しいよ」
「何だか、すごく落ち着きます。一見敷居が高そうな上品さがあるのに、入るとすごくホッとするような……コーヒーもとても美味しいです」
 もうひとくちそのコーヒーの味を堪能して、眞姫は笑顔を浮かべる。
 紳士はその優しい瞳を向け、言った。
「この店の名前・“ひなげし”の花を、知っているかい?」
「ひなげしの花って、白っぽい花ですよね?」
 眞姫の言葉に頷いてから、紳士は話し出した。
「ひなげしの花言葉は、心の平静・慰め・精神の安定。まさにこの店にぴったりだろう? それにひなげしは、別名・虞美人草と呼ばれていてね。貴婦人のドレスのフリルのようにひらりとした花びらを持つんだよ。そして、どんなに風が吹いても懸命に咲き続ける強い花だ。それでも散り際は儚く、音もなく美しく散っていく……」
 そこまで言って、紳士は言葉を切る。
 眞姫はそんな彼の横顔が、何だか少し寂しげなものであると思った。
 眞姫の視線でふと我に返り、紳士は笑った。
「私の大切な人は、まさにそんなかんじの人だったよ。強く懸命に生きて……そして、美しく散っていったから」
「おじさま……」
「おっと、こんな湿っぽい話をしてしまって、すまなかったね」
 いつもの優しい微笑みを浮かべ、紳士はコーヒーをひとくち飲む。
「でも、おじさまの心の中ではずっと咲き続けているんですよね。ひなげしの花」
 眞姫の言葉に、紳士はこくんと頷いた。
「お姫様はロマンチストなんだね。そうだよ……ずっと私の中で、いつまでも咲き続けているよ」
「私にも、そんなに大切に想える人が現れるんでしょうか」
 そうポツリと呟く眞姫に、紳士は笑った。
「お姫様はこんなに可愛いし、まだ若いんだ。これから燃えるように劇的に恋をして、そして一生を共にする王子様をきっと見つけられるよ」
 眞姫はその言葉に微笑み、そして自分よりもずっとこの紳士の方がロマンチストだな、と心の中で思った。
 まだ特定の王子様はいないが……大切に思える仲間は、近くにたくさんいる。
 大切な人を思う気持ち、それは恋とは違うものだけど。
 でも、その人たちのために何かしたいと眞姫は思った。
「私、何だか頑張れそうです、いろいろと」
「お姫様ならきっと大丈夫だよ。私もそばにいるからね」
 眞姫はこくんと嬉しそうに微笑んでから、そして漆黒のコーヒーをもうひとくち口に運んだ。
 そんな眞姫に、紳士は思い出したように言った。
「そうだ、お姫様。今日私が君を助けたことは、ふたりだけの秘密にしてくれないかな?」
「え?」
 紳士の言葉に、眞姫は驚いたような表情を浮かべる。
 彼女を見つめたまま、紳士は言葉を続けた。
「鳴海将吾……彼は、確か君の担任教師だったよね? もしも誰かに今日のことを聞かれたら、彼に助けてもらったことにして欲しい。彼には、私から言っておくからね」
「えっ!? 鳴海先生と、お知り合いなんですか?」
 思いがけない人物の名前が出てきて、眞姫はさらに大きな瞳を見開く。
「彼とは……ちょっとした知り合い、でね」
 そう言ってにっこり眞姫に微笑んでから、紳士は彼女の栗色の髪をそっと優しく撫でたのだった。


      


 時間は、夜の23時をさしていた。
 紳士はクラシックを聴きながら、毎日の習慣として飲んでいる赤ワインをグラスに注ぐ。
 そして、窓の外に瞳を向けた。
 美しい月明かりが、優しく部屋に差し込んでくる。
 ゆっくりと赤ワインの味を楽しんで、そしてソファーに腰を下ろした、その時。
 部屋の電話が、おもむろに鳴り始めた。
 紳士はCDを消してから、ゆっくりと受話器を取る。
「……もしもし」
『一体、どういうつもりなのですか?』
 聞きなれたバリトンの声が、紳士の耳に響く。
 そんな電話の相手の言葉に、紳士はふっと微笑んだ。
「どういうつもりかとは、どういうことかな?」
『清家を助けていただいたことは、感謝しています。だが、何故彼女をすぐに家に送り届けなかったのですか!?』
「それは、私と彼女のプライベートな部分だよ? あ、もしかして妬いてるのかい?」
 くすっと笑う紳士の言葉に、電話の相手・鳴海先生は冷たく言い放った。
『私は彼女の担任でもあります、教師としての責任で言っているのです』
「彼女は一度家に帰ってるよ。生徒のプライベートは、教師の管轄外だと思うんだが?」
 楽しそうにそう言う紳士に、鳴海先生は大きく溜め息をつく。
『……それはともかく。清家が襲われた時の状況を、教えてください』
「ああ、そのことだね」
 持っていたワイングラスをテーブルに置いて、紳士はふっと声のトーンを変えた。
 そして一息ついて、言った。
「今日、お姫様を襲ったのは“邪者”ではなく“憑邪”だ。しかも、まだ“契約”したばかりなのか“邪気”を使い慣れていないようで、その力は不安定なものだったよ。少し脅かしたら、すぐに退散した」
『そうですか。“邪者”ではなく“憑邪”ですか……』
「それからひとつ……気になったことがあったんだが」
 ひとくちワインを飲んで、紳士は続ける。
「あの“憑邪”は、お姫様が“浄化の巫女姫”だと気が付いていないようだった。それなのに、お姫様を襲ったということは……」
『清家が“憑邪”の“契約”の対象である可能性が高い、そういうことですね』
「そうだよ。しかし、そう偶然が起こるだろうか? もしかしたら、別の“邪者”の存在が背後にあるかもしれないな」
『……分かりました、ありがとうございました』
 それだけ言って、何かを考えるように鳴海先生は口を噤む。
 そんな鳴海先生に、思い出したように言った。
「ああ、それから。お姫様には、君に助けてもらったようにしなさいと言っておいたよ。私のことを知っているのは、詩音くんだけだろう? その方が都合がいいと思ってね」
 紳士の言葉に、電話の向こうで鳴海先生は言葉を失う。
 そして、言った。
『なっ!? 清家に、私の名前を言ったのですか!?』
「言ったのは名前だけだよ、大丈夫だから」
『…………』
 鳴海先生は、はあっと再び大きく溜め息をつく。
 そして少し間を置き、鳴海先生は口を開いた。
『以前からお聞きしたかったのですが……何故、清家にあの傘を』
 先生の問いに、紳士はふっと微笑んだ。
「言わなくても、君なら分かるはずだろう? 彼女にあの傘をプレゼントした理由をね」
 それから紳士は、優しい声で言った。
「今度、一緒に食事でもどうかな? 久しぶりに、君とゆっくり話がしたいな」