――6月16日・水曜日。
6月も中旬に入り、少しずつ夏の気配が近付いてきたかのように、外はいい天気である。
夏服に衣替えされた胸のリボンを綺麗に結びなおして、眞姫は教壇に立っている担任の鳴海将吾先生の姿をその大きな瞳に映した。
今日の授業はすべて終わり、今は帰りのホームルームの時間である。
眞姫は相変わらず淡々と連絡事項を伝える鳴海先生から、今度は視線を隣の席の友人・立花梨華に向けた。
「ねぇ、梨華。今度祥ちゃんと拓巳と映画観に行くんだけど、梨華も来ない?」
パッと明るい表情を見せ、梨華はうんうんと頷く。
「あ、行く行くっ。いつ?」
「今度の日曜日なんだけど、いつものところに11時に待ち合わせしてるの」
その眞姫の言葉に、梨華は頭を抱える。
「あっ、今度の日曜、もう予定入ってるんだ。残念だなぁ」
「予定入ってるんだ……ふたりに言って、日にちずらしてもらおうか?」
「ううん、ふたりにも悪いし。次の時にまた誘ってね」
残念そうに笑ってから、梨華は教科書類をしまった鞄を閉めた。
そして眞姫はもう一度、その目を鳴海先生の方に向ける。
その時。
連絡事項を告げている先生の切れ長の瞳が、おもむろにふっと眞姫の方を向いた。
急に自分に向けられたその視線に、眞姫はドキッとする。
何度見つめられても、あの先生の瞳の色にどうしても慣れることができない。
いつも、何故だか心拍数が急激に上がってしまうのだ。
先生の持つ厳しくて近寄り難いその雰囲気は、彼の切れ長の瞳のせいでもある。
だが眞姫は、そんな先生の瞳の中に、表には決して出さない優しい光が宿っているように思えるのだった。
眞姫から目を逸らして、先生は言った。
「先日の中間考査の成績上位者発表が、掲示板に貼り出されている。期末考査ももうすぐだ。日頃から予習復習を怠らないように。今日のホームルームは以上だ」
先生のその言葉と同時に、学級副委員長である眞姫のすぐ前の席の少年・芝草准が終礼をかける。
そしてホームルームも終わり、鳴海先生が教室を出て行った後、教室に生徒たちの活気が戻ってきた。
「ねぇ、准くん。今度の学級委員会議って、いつだったっけ?」
帰りの荷物をまとめながら、眞姫は准に聞いた。
いつものように穏やかで優しい微笑みを眞姫に向け、准は言った。
「確か来週の火曜日だったと思うよ、姫。クラスの議案は先日決めたことでいいよね?」
「あ、うん、ありがとう。火曜日か、忘れないようにしなきゃ」
持っている手帳に予定を書き込んでから、眞姫はそれも鞄にしまう。
「ねぇ眞姫、掲示板見ていくでしょ? 芝草くんも一緒に行かない?」
すでに帰りの準備万端な梨華は、そう言って眞姫と准を交互に見た。
「うん、行こうか」
「うん、もう荷物まとめ終わるから」
ふたりはそれに頷き、そして梨華と共に教室を出る。
成績上位者が貼り出された掲示板の前は、生徒たちで人だかりが出来ていた。
「やっぱりすごいなぁっ。眞姫がクラストップで、芝草くんが2位だって! 学年でも10位以内だなんて、本当に頭いいよねぇ、ふたりとも」
掲示板に群がっている生徒たちの後ろから背伸びしながら、梨華は興奮したように言った。
「あ、そうなんだ……ていうか、よくこんな遠くから見えるね、梨華」
「それにしても混んでるね。明日だったら空いてるから、明日の朝にでも見ようかな」
興奮している梨華とは逆に、当の本人たちはあまり試験結果に関心は少ないようである。
梨華は、そんな二人の肩をポンポンと叩いた。
「もっと喜びなさいよー、ふたりとも。私からしたら、羨ましい限りよぉっ」
「え? あ、一応これでも喜んでるつもりなんだけど」
梨華の言葉に、眞姫はきょとんとした表情をする。
それから准は、眞姫と梨華に目を向けて言った。
「当分混んでるだろうから、明日見ようかな。今日寄るところあるし、先に帰るね」
「あ、そうなんだ。またねぇ、芝草くん」
「准くん、また明日ね」
にっこりと微笑んで歩き出す准の後姿を見送ってから、眞姫はもう一度成績が貼ってある掲示板に目を向ける。
その場で背伸びをしてみたが、そんなに背が高くない眞姫には、掲示板に群がる生徒たちの頭しか見えなかった。
諦めて溜め息をついて、眞姫は隣の梨華を見る。
「私も明日の朝にでも見ようかなぁ。梨華はこれから、もう帰るの?」
「うん、今日は楽しみにしてるドラマがあるからねーっ、早く帰って準備しなきゃっ」
「準備?」
不思議そうにする眞姫に、梨華は笑った。
「ドラマが始まるまでに、夕食済ませてお風呂入ってパジャマに着替えてビデオセットするのよーっ」
「そ、そっか。じゃあ私、図書館に寄って帰るから……また明日ね、梨華」
眞姫はそう言って梨華に手を振り、人だかりに背を向けて歩き出す。
眞姫の言葉に、梨華は屈託のない笑顔で手を振った。
「うん、また明日ね、眞姫っ」
もう一度振り返って梨華に微笑んでから、眞姫は図書館に向かって歩を進める。
放課後で賑わいを見せる廊下から階段にさしかかり、図書館のある一階まで降りた。
校舎から見える窓の外では、体育部がすでに部活を始めている姿が見える。
そんな風景をじっと見ながら歩いていた眞姫だったが。
「! きゃっ」
ドシンと何かにぶつかり、眞姫は思わず声を上げた。
そして顔を上げた眞姫は、ぎょっとしたように目を見開く。
「あっ! す、すっすみませんっ、鳴海先生っ」
「何をぼーっとしている? 気をつけなさい」
慌てて頭を下げる眞姫に、鳴海先生はその瞳を向ける。
その視線にドキドキしながらも、眞姫は再び頭を下げた。
そして顔を真っ赤にしたまま、急いでその場を離れようと歩き出す。
「清家」
その時鳴海先生の声に呼び止められ、眞姫はふと振り返った。
眞姫の大きな瞳に、鳴海先生の姿が映る。
眞姫は不思議そうな顔をして、鳴海先生の言葉を待った。
その切れ長の瞳を閉じてから、先生は言った。
「……十分に気をつけて下校しなさい」
「え? あ、はい」
きょとんとしてその言葉に頷く眞姫を後目に、鳴海先生は廊下を歩きだす。
先生の後姿を見送って、眞姫も再び図書館に向けて歩を進めた。
図書館は一般校舎から離れた特別教室用の別館にある。
渡り廊下を歩いて、眞姫は図書館に足を踏み入れた。
放課後の雑踏に包まれた一般校舎とはうって変わり、図書館の中はとても静かである。
借りていた本を返却してから、眞姫は何か目ぼしい本がないかと本棚に目を移した。
その時。
本棚の前で熱心に本を選んでいる、ひとりの少年の姿が目に入った。
「岡田くんもこのシリーズ、好きなの?」
「え? あっ、清家さん」
眞姫に急に話しかけられ少し驚いた少年であったが、その聡明そうな顔に笑みを浮かべる。
その少年・岡田秀一は、眞姫と同じ1年Bクラスの生徒である。
眞姫と准に続いてクラスでも成績優秀な、いわゆる優等生タイプの少年。
穏やかで優しそうな雰囲気は准と共通するものがあるが、この岡田という少年はどちらかと言えば大人しく内向的なイメージが眞姫にはあった。
「その手に持ってる本、私も読んだわ。面白かったよ?」
「そっか、清家さんオススメだったら、間違いないね」
そう言って持っていた本を小脇に抱える岡田に、眞姫は慌てて手を振る。
「あっ、でも本って人によって結構好みとかあるから、岡田くんが面白そうと思ったものを選んだ方がいいかも」
「いいんだ。クラストップの清家さんが面白いっていう本、僕も興味あるから」
眞姫は岡田の言葉に、恐縮そうな表情をした。
「そんな岡田くんも、成績優秀じゃない。今回の中間試験だって、ひとりだけ国語満点だったし」
「うん、そうなんだけど……」
岡田はそれだけ言って、ふと俯く。
その表情は硬く、陰りのあるものに変化している。
その変化に眞姫はふと気がついた。
そして何とか場の空気を変えたくて、話題を逸らした。
「えっと、岡田くんはよく図書館に来るの?」
「普段はそんなに来ないんだけど……今日は、何だか家に帰りたくなくてね」
ふっと微笑む岡田のその顔は、無理して笑ったもののように見えた。
だが、それ以上聞いてはいけないような気がして、眞姫は深く詮索することを止めた。
そして会話が途切れた、その時。
「……変なこと、聞いてもいいかな?」
今まで俯き加減だった岡田が、ふと顔を上げる。
少し驚いた眞姫であったが、ゆっくりこくんと頷く。
それを見て岡田は再び俯き、言葉を続けた。
「清家さんはさ……自分の運命を呪ったことって、ある?」
「自分の、運命?」
岡田の問いに少し考えてから、眞姫は言った。
「自分の運命を恨むというよりも、運命を受け入れようと決めたのに、実際今の私にはまだそんな力はなくて……自分に不甲斐なさを感じることはあるわ」
大きな力が眠っているはずなのに、まだそれを使いこなせない自分。
今はまだ、守られるだけの自分。
どうしたらみんなの力になれるんだろうか。
少しだけ力の使い方を覚えた今でも、やはり眞姫の心の根底にはそういう感情が強くあるのだ。
しかし、眞姫の心の中の強い思いは、それだけではなかった。
ふっと瞳を岡田に向け、眞姫は言葉を続ける。
「でもね、不甲斐ないと思うと同時に、それなら余計に頑張らないとって思うようになったんだ。自分の運命を恨むことは簡単だけど、それじゃあずっと暗闇を彷徨ったままなんじゃないかな、なんて」
「清家さん……」
眞姫の大きな瞳に真っ直ぐ見つめられ、岡田は少し戸惑った表情をした。
だが次の瞬間、ふっと笑顔を見せる。
「意外だったな、清家さんって強い人なんだね。僕は弱い人間だから、すぐに目を背けようとして……結局、暗闇から抜け出せないんだ」
眞姫の言葉に陰りのある微笑みを浮かべてそう言って、岡田は歩き出した。
「清家さんと話せて楽しかったよ、ありがとう。清家さんのオススメのこの本も借りて読んでみるね」
「あ、いや、何だか変なことばかり言ってごめんね。それじゃあ、また明日」
少し照れたように手を振ってから、眞姫は足早に歩き出した。
栗色の髪が揺れている眞姫の背中を見送ってから、岡田は彼女に勧められた本を借りるためにカウンターへと歩を進める。
岡田は貸し出しの手続きをしながら、眞姫の言ったことを思い出していた。
「自分の運命を恨むことは簡単、か」
それだけ呟くと、岡田は荷物を持って図書室を出る。
何だか図書館に長居する気も、いつの間にか失せていたからだ。
さっきまで晴れ間ののぞいていた空は、すっかり雲で覆われて薄暗くなっている。
岡田は校舎から出て、正門へと向かった。
歩きながら図書館で借りた本をペラペラとめくってみたが、すぐにそれも鞄にしまう。
クラスメイトとはいえ、岡田と眞姫はまともに話をしたことが今までなかった。
彼は真っ直ぐに自分を見ていた眞姫の瞳を思い出し、再び俯く。
何故かあの大きくて綺麗な瞳の色を、じっと見ることができなかったのだ。
依然として帰宅する気にはなれない岡田は、本屋にでも寄ろうと学校の正門を出て繁華街の方に進路をとる。
……その時。
彼はふと、顔を上げる。
普段、この時間は特に賑やかなはずの街が……とても静かな気がしたのだ。
人はおろか、車も一台も通ってはいない。
珍しい状況に首を傾げながらも、それ以上は特に気にせず岡田は歩みを止めなかった。
そして彼が大きく溜め息をついた、次の瞬間。
「ねーねー、そこの聖煌の君っ」
突然背後から能天気な声がして、彼は驚いたように振り返る。
そこには近くの女子高のセーラー服を着た、ひとりの少女が立っていた。
肩よりも少し長い黒髪と、それと同じ色の屈託のない瞳。
元気で愛嬌のある感じの、今時の女子高生であるが。
それと同時に何故か、岡田は彼女に対して恐怖のような感情をおぼえる。
だが、その少女の顔に見覚えはなく、一瞬別の人を呼び止めたのかと岡田は思った。
しかし予想に反して、その少女はにっこりと笑って彼に近付いた。
「あなたさぁ、今すごーく悩んだりしちゃったりしてなぁい?」
「え? き、君は誰?」
唐突にそう言われ、岡田は驚いたような顔をする。
屈託のない笑顔を浮かべて、その少女は言った。
「私、藤咲綾乃(ふじさき あやの)って言うのっ。あ、名乗っても数分後には忘れちゃうかぁ」
「え? 忘れちゃうって、どういうこと?」
状況が分からず、岡田は綾乃の顔を困ったように見ている。
そんな彼にふっと笑って、おもむろに綾乃はその右手を翳す。
「まぁ、そんな深く考えないでさぁっ。ちょっとだけ……貴方の心を見せてねぇっ」
「えっ? ……っ!」
次の瞬間、眩い光が目の前で弾けた。
その光は岡田の身体を包みこみ、心の中にまで入り込んでくるような感覚さえ覚える。
目の前でフラッシュを焚かれた時の様に、瞳の奥がチカチカして何も見えない。
そんな中……聞き覚えのある声だけが、彼の耳に響いていた。
だから僕は、出来損ないなんかじゃ……!
『出来損ない!』
『家族の恥さらしだな、おまえは!』
そんなこと、言わないで!
きっと一位取ってみせるから、出来損ないなんて言わないで!!
「ふーん。頭いい人も、結構大変なのねぇ」
それだけ呟いて、目の前で放心状態の岡田に綾乃は目を向ける。
そして改めて彼の姿をまじまじと見て、言った。
「心の傷は分かるけどさぁ、こんなに大きな“邪”を呼び寄せちゃって……綾乃ちゃんが協力してあげるから、早いトコ“邪”と“契約”しちゃいなさーいっ」
そう言うなり、綾乃は再び右手を翳す。
瞬時にその右手に強大な“邪気”が漲り、バチバチと音をたてている。
「ちょっとかわいそーな気もするけど、これも綾乃ちゃんのお仕事なのよねぇ。んじゃ、いっくよぉっ!」
その掛け声と同時に、綾乃の右手がぶんっと振り下ろされた。
次の瞬間、カッと光が弾けて岡田の身体を包みこむ。
「!! うあっ、うわああっ!!」
バチバチと身体に電流がはしるような感覚を覚え、岡田はたまらずに声を上げた。
「苦しいのはちょっとだけだからさぁ、我慢してねぇっ」
「ぐ、あ……っ」
岡田の体が、ドサッと地に落ちる。
気を失って倒れた彼に、綾乃はにっこりと微笑んだ。
「“契約”できたみたいねーっ、これでよしっと。杜木様に褒めてもらえるかなぁっ」
倒れた岡田の身体を近くのベンチに寝せてから、綾乃はそう呟く。
そして……周囲に張り巡らせていた“結界”を解いた。
途端に、街の喧騒が彼女の目の前に戻ってくる。
「ま、あの程度の“憑邪”だったら“巫女姫”様の能力を刺激するのに、ちょうどいいかもねぇっ」
くすっと笑ってから、綾乃はそう呟く。
そしてベンチで寝ている彼に背を向け、賑やかな街に向かって歩き出したのだった。
同じ頃。
学校を出た眞姫は、繁華街のCD店にいた。
「えっと、ラブモンスターの新曲は……あった、これね」
お目当てのアーティストのCDを手に取り、満足そうに眞姫は頷く。
そしてレジに向かおうとしたのだが。
ふと、回れ右をして店内を見回した。
それから眞姫は、あるコーナーへと足を運ぶ。
「さすがに曲名だけじゃ、探せないかなぁ」
眞姫は“クラシック”のコーナーの前で、首を捻る。
いつも突然現れる、上品で不思議で優しい“傘の紳士”が聞かせてくれた、あの曲。
「“The holy woman of moonlight”……“月照の聖女”……」
その幻想的で何故か懐かしい感じのしたあの曲をもう一度聴きたくて、眞姫はぶつぶつ曲名を呟きながらCDを探した。
だが、その苦労も虚しく、それらしい商品は見当たらない。
「仕方ないな、今度会った時に誰の曲なのか、傘のおじさまに聞いてみよう」
いつ会えるかも分からないのだが、何となく眞姫は、近々再びあの紳士に会えるような気がしてならなかった。
眞姫はCDを探すのを諦めて、クラシックのコーナーからレジへと足を運んだ。
そして精算を済ませて、店の出口に向かおうとした……その時。
「!」
眞姫は、ハッと顔を上げる。
背中にゾクッと悪寒がはしり、空気の流れが変化したのを感じた。
それと同時に、今まで人で賑わっていた店内が、不気味なほどに静まり返っていることに気が付く。
「えっ!? これってもしかして、“結界”!?」
そう呟き、眞姫は表情を険しいものに変える。
あたりを包む“気”の感じは、映研部員の誰のものでも、もちろん鳴海先生のものでも由梨奈のものでもない。
むしろ重々しい、憎しみのようなものを眞姫は感じた。
「だ、誰なの?」
がらんとした店内を不安そうに見回し、眞姫は言った。
だが、何も返事は返ってはこない。
しんと静まり返っているその場に、眞姫は恐怖を感じた。
この“結界”を破る術(すべ)さえ、自分はまだ知らないのだから。
そして、これからどうなるのかと不安に思った……その時。
「!! きゃっ!」
がしゃんっと突然大きな音がして、眞姫はビクッと身体を震わせた。
そして振り返った眞姫は、思わず息を飲む。
突然飛んできた一枚のCDが、店の大きなガラスを貫通し、それを粉々にしたからだ。
その威力によって砕けたガラスの破片が、そこら中に散らばっている。
「これは、一体!?」
状況がまだ把握できない眞姫は、驚いたように目を見開く。
そして次の瞬間、血の気がすうっと引いていくのを感じた。
眞姫のすぐ目の前に、先程ガラスを破壊したCDが、ふわふわと宙に浮いているのが見えたからだ。
それは眞姫に照準を定めているかのように、小さく左右に揺れている。
「きゃっ!!」
眞姫は、咄嗟にその身を屈めた。
それと同時に、眞姫のいた位置にある陳列棚が、ドオンッと音を立てて倒れる。
先程ガラスを破壊したそのCDが、突然すごいスピードで襲い掛かってきたのだ。
CDの直撃を受けた棚はすでに原型を留めておらず、並べられていた商品が激しい音を立てて床に散乱する。
身を低くして頭を抱えていた眞姫は、恐る恐るその顔を上げた。
そして信じられない状況に、その瞳を大きく見開く。
「!」
床に散乱したCDが……次々に、ふわりと浮き上がっていくのが見えたからだ。
その数は、10……20……と増えていく。
(どっ、どうしたらいいのっ!? 何とかしなきゃっ)
全身に鳥肌が立ち、その足は震えていた。
だが、眞姫は気持ちを引き締めてぎゅっと唇を結び、次々と浮き上がるCDの大群を見つめたまま、負けじと立ち上がったのだった。
その頃、学校の廊下を歩いていた鳴海先生は、その切れ長の瞳を細めた。
そして大きく溜め息をついてから、おもむろに校舎の外に出る。
そんな鳴海先生の姿を見つけて、その人物はにっこりと微笑んだ。
「はぁい、なるちゃんっ」
「……学園内は関係者以外は立ち入り禁止だ。さっさと出て行け」
「何よぉ、可愛い幼馴染みにそんな言い方ないんじゃない?」
冷たい鳴海先生の言葉にぶつぶつ文句を言って、その人物・沢村由梨奈は、かけていたサングラスを外す。
彼女の派手な赤いフェラーリとそのセクシーな服装を見てもう一度嘆息してから、鳴海先生はますます威圧的な声で言った。
「聞こえなかったか? 学園は部外者の侵入を禁止している。分かったら帰れ」
「えー、やだぁ」
「……力づくでつまみ出すぞ」
「あら、こんなところでなるちゃんにそれができるのなら、やってみなさいよぉ」
くすっと笑って、由梨奈は鳴海先生に舌を出す。
楽しそうな由梨奈とは対照的に、鳴海先生は呆れたように言った。
「本当に性格の悪い女だな、おまえは」
「なるちゃんって紳士だから、女性には優しいのよねぇっ」
「それで、何の用だ?」
諦めたようにそう言って、鳴海先生は切れ長の瞳を由梨奈に向ける。
そんな先生に、由梨奈はにっこりと微笑んだ。
「ディナーでも一緒にどうかなぁって思って、なるちゃんを迎えに来たの」
「…………」
そう言った由梨奈に無言でくるりと背を向け、鳴海先生は歩き出そうとする。
「あっ、もう何よぉっ! 待ってよ、なるちゃーんっ!」
「そんな個人的な用事なら、電話で済むはずだ。まったく、おまえはっ」
「やだ、怒っちゃったぁ? ごっめーんっ」
「本当にすまないと思っているように聞こえないのは、私の気のせいか?」
はあっと大きく息をついてから、振り返りもせずに先生は校舎に向かって歩き出した。
由梨奈は悪戯っぽく笑って、そんな鳴海先生の後姿を黙って見送っている。
そんな彼女の表情は悪びれもなく、この状況を楽しんでいるようだった。
そして、数メートルふたりの間に距離ができた、その時。
相変わらず振り返りはしなかったが、鳴海先生はピタリとその足を止める。
「……今は勤務中だ。勤務が終わり次第、連絡する。とりあえず学校外に出ろ」
「はいはーい、了解しました、鳴海先生っ」
くすくす笑う由梨奈にもう一度溜め息をついて、先生は再び足を踏み出そうとした。
だが、次の瞬間。
「!!」
「! えっ!?」
鳴海先生と由梨奈は、同時に顔を上げる。
その表情は先程とうって変わり、険しいものに変化していた。
「眞姫ちゃんが……誰かの“結界”に閉じ込められたみたいね」
「どうやらそのようだな。今、一番現場の近くにいる“能力者”は……誰だ?」
鳴海先生はそう呟き、その瞳をスッと閉じた。
ボウッと身体から“気”が立ちのぼり、彼の持つ“空間能力”が、大きな“気”を持つ者たちの所在を探る。
「! この気配は……あの人が、“結界”のすぐそばにいる」
「え? あの人って、まさか」
先生の言葉に、由梨奈は驚いた表情を浮かべた。
こくんと無言で頷いた後、鳴海先生は複雑な顔をする。
そんな先生に、由梨奈はふっと笑った。
「あの方が近くにいるのなら、眞姫ちゃんは大丈夫よ。それはなるちゃんがよく分かってるでしょ?」
「それはそうだが……俺には、あの人の思考は理解し難い」
「そーお? 私は好きよ、あの方の考えること」
「好き嫌いの問題ではない。あの人の考え自体が、俺には分からないと言っているんだ」
険しい表情を浮かべている鳴海先生を見て楽しそうに笑ってから、由梨奈は“結界”の張られた方向に目を移す。
そして、言った。
「とにかく、あの方が近くにいるのなら眞姫ちゃんは大丈夫よ、なるちゃん」
「……それは心配していない」
それだけ言って、鳴海先生も由梨奈の視線と同じ方角に目を向ける。
そして何度目になるか分からない溜め息をつき、再び歩き出した。
「とにかく、職務が終わり次第連絡する。とりあえずは校内から出ろ」
「はいはーい。ご連絡、お待ちしておりまーすっ」
にっこりと微笑んで手を振って、由梨奈は再びサングラスをかけて愛車に乗り込んだ。
そして、そんな由梨奈に振り返りもせず、鳴海先生は何かを考えるかのように再びその切れ長の瞳を細めたのであった。