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都心の高層マンションの一室。
ふとグランドピアノを弾いていた手を止めて、その少年・梓詩音は顔を上げた。
そしておもむろに椅子から立ち上がり、部屋のドアを開ける。
ちょうどドアの外にいたその女性は、そんな詩音ににっこりと笑った。
「あら、ありがとう。詩音ちゃん」
「いいえ、こちらこそお構いなく、ミセスリリー」
ティーセットを運んで来たその女性・沢村由梨奈に優雅な微笑みを向けてから、詩音は再びそのドアを閉める。
そんな詩音にジャスミンティーをいれて、由梨奈は言った。
「ごめんね、急に呼び出しちゃって」
「ミセスリリーのグランドピアノを弾くのは好きだからね、お呼びいただいて光栄だよ」
ジャスミンティーをひとくち飲んでから、詩音は再びピアノに向かった。
広い部屋に、美しく繊細な詩音の旋律が響き渡る。
由梨奈はその演奏を聴きながら、窓の外に視線を移した。
空はすっかり真っ赤に染まり、その景色は車や人の流れで忙しく動いている。
外を見つめる由梨奈の顔は夕焼けに彩られ、美しい中にも憂いの色を帯びていた。
軽くウェーブのかかった長い髪をスッとかきあげて、由梨奈はじっとそんな景色を見ている。
1曲演奏を終え、詩音はそんな由梨奈に無言で視線を向けた。
由梨奈はふと、そんな詩音に振り返る。
「なぁに? 詩音ちゃん」
そんな由梨奈に詩音はゆっくりと言った。
「ミセスリリー、どうして日本に残ったんだい? 貴婦人が、わざわざ女騎士になることなんてないのに」
「…………」
詩音の言葉に、由梨奈は何もこたえず俯く。
由梨奈に優しい微笑みを向けたまま、詩音は言葉を続けた。
「今ならまだ間に合うよ? 愛する伯爵のもとに帰ったほうがいいんじゃないかな」
「なるちゃんと同じコト言うのね、詩音ちゃん」
そう言って由梨奈は近くのソファーに座る。
そして細くて長い足を組み、由梨奈は詩音に瞳を向ける。
「私は決めたの、日本に残るって。このまま帰ったら、胸の中でモヤモヤしているこの気持ちが一生消えない……それじゃ、後悔すると思うの」
由梨奈の大きな瞳に見えるのは、固い決意の色。
真っ直ぐに自分を見ているその瞳の色を感じ、詩音はふっと笑った。
「貴女らしい決断だけどね。ミセスリリーが決めたのなら、僕はもう何も言わないよ」
「ありがとう、詩音ちゃん」
詩音はもう一度椅子に座りなおし、鍵盤に手を添える。
それからその優しい両の目を由梨奈に向けた。
「さて、何を弾きましょうか? ミセスリリー」
足を組み替えてから、由梨奈はもう一度窓の外に広がる夕焼けの空を見つめる。
そして美しい顔に笑みを湛え、言った。
「ショパンの別れの曲……なんてベタだけど、どうかしら」
「ショパンの別れの曲ね。これは、過去の思い出の曲? それとも、決断した未来のために別れを告げる現在への気持ち?」
ふっと笑って、詩音は由梨奈を見る。
少し寂しげに微笑んでから、由梨奈は答えた。
「そうねぇ。その両方、とでも言っておこうかな」
「その両方、ね」
それだけ呟き、詩音はゆっくりと旋律を奏で始める。
真っ赤に部屋を染める夕日と繊細な旋律が溶け合い、由梨奈の心にじわりと響いた。
視界がぼやける感覚を誤魔化すように、由梨奈は大きな瞳を宙に向ける。
そして、自分に言い聞かせるように呟いた。
「私は強い女なんだから。後悔したくないんだから……もう決めたんでしょ」
★
――同じ頃。
「杜木様ぁっ、お久しぶりですーっ」
街の雑踏の中から駆けてくるそのセーラー服の少女に、杜木はその端整な顔に笑顔を浮かべる。
「私を待たせるのはおまえくらいなものだよ、綾乃」
「ごめんなさい、杜木様のことはめちゃくちゃ大好きなんですよ? 私」
悪びれもなく笑って、綾乃と呼ばれた少女は杜木の腕を取った。
「ねぇ、杜木様。早くデートしましょう? どこに行きます?」
「そうだな、とりあえず喫茶店に入ろうか」
杜木の言葉に、綾乃は嬉しそうに微笑む。
肩より少し長いストレートの黒髪を揺らして、綾乃は杜木と腕を組んだ。
そんな彼女の行動に慣れているかのように、杜木は微笑むだけである。
そして近くの喫茶店に落ち着き、綾乃はオーダーを取りに来た店員に言った。
「チョコレートパフェとコーヒー1つずつ、以上でっ」
「……まだ私はメニューも見ていないんだが? 綾乃」
「杜木様が何を頼むか、綾乃はよーく知ってますもん。あ、パフェ一緒に食べましょーうっ」
「本当に相変わらずだな、おまえは」
ふっと微笑んでから、杜木は綾乃にその深い漆黒の瞳を向けた。
にっこりと笑って、綾乃はテーブルに頬杖をつく。
そして、その杜木の整った美形の顔を見つめて言った。
「杜木様からデートに誘っていただけるなんて……綾乃に何かお仕事でもあるんですか?」
「察しのいい子は好きだよ、綾乃」
そう言って杜木は、店員の持ってきたコーヒーをひとくち飲む。
そしてカチャッとそのカップを置いてから、言葉を続けた。
「私としては一刻も早く“浄化の巫女姫”に、その能力を開花させて欲しいんだよ。まわりから刺激を与えれば、その力をより早く目覚めさせることができるだろう。僕の言いたいことが分かるかな?」
「ええ。でも“邪者四天王”の私の出番がこんなに早いなんて、綾乃びっくりしましたぁ」
チョコレートパフェをスプーンですくって、綾乃はパクッと口に運ぶ。
そんな様子を見ながら、杜木は言った。
「能力者と巫女姫のもとに派遣している四天王は、おまえだけではないんだよ」
「え?」
パフェの上に飾ってあったサクランボをくわえたまま、綾乃は驚いた表情を浮かべる。
再びコーヒーを口に運んでから、杜木は続けた。
「智也には少し前から、能力者と巫女姫に接触してもらっている。まだ様子を見ている段階ではあるが、巫女姫の力も徐々に蘇ってきているみたいだからな」
「智也に? そっかぁ、後でメールか電話してみよっと」
サクランボの芯を出してから、綾乃はそう呟く。
ふと、その時。
「あっ、杜木様っ、ちょっとごめんなさいっ」
綾乃のかばんの中で、おもむろに携帯電話が鳴り出したのだ。
「ああ、ゆっくり構わないよ? 綾乃」
にっこり微笑む杜木に頭を下げ、綾乃はストラップのたくさん付いた携帯電話を持って退席する。
店の外まで出てから、綾乃は通話ボタンを押した。
「もしもし? あっ、梨華? どーしたのぉ? ……え?何? ごめん、今外なんだぁ」
人の雑踏や街の雑音に左手で耳を塞ぎ、綾乃は壁にもたれる。
そして悪戯っぽく笑いながら、話を続けた。
「あ、今度の日曜日でしょ? うんうん、11時にいつもの場所ねーっ。……え? 遅れたら承知しないって? やだなぁっ、時間までに綾乃が来ると思う? ……自慢気に言うなって? 頑張る頑張るっ……んじゃあ、また日曜日ねぇ」
通話終了ボタンを押してから、綾乃は携帯電話をポケットにしまった。
ポケットに入りきれないストラップが、歩くたびにジャラジャラと音を立てる。
そして再び店内に戻った綾乃は席に座って、目の前の杜木ににっこりと微笑んだ。
「ごめんなさーい、杜木様。あ、綾乃のパフェ食べます?」
「僕はコーヒーだけで大丈夫だよ、綾乃」
優しくそう言って笑う杜木を見つめてから、綾乃は再びチョコレートパフェを嬉しそうに口に運んだのだった。