放課後の校内は生徒たちの話し声で賑わいをみせているが、この場所はいつも静寂が広がっている。
 耳には、さらにその勢いを増しただろうことが容易にわかる激しい雨音だけが聞こえていた。
 図書館で一冊の本に目を落としていたその少年・岡田は、ふと顔を上げた。
 そして、それと同時に館内に姿をみせた人物の姿に、口元に笑みを浮かべる。
 岡田は瞳を細めて、その少年・芝草准を見つめた。
 そして図書館に現れた准は、ゆっくりと岡田の近くまで歩みよる。
 その表情は、日常の学園生活では決して見せない厳しいものであった。
 パタンと本を閉じて、岡田はふっと微笑む。
「きっと来ると思っていたよ、芝草くん」
「……この前、僕は言ったよね」
 真っ直ぐに岡田を見据えたまま、准は言葉を続けた。
「姫に危害を加えるのなら、僕は容赦なく君を消滅させるってね」
 准がそう言った、次の瞬間。
「!」
 岡田は、ハッと表情を変えた。
 図書館内の空気の流れが一瞬にして変化したのを感じたからだ。
 周囲には閑散とした空間“結界”が形成され、まばらながらに館内で読書を楽しんでいた生徒の姿も今は見えない。
 目の前の准の身体からは、美しい“気”が立ちのぼっていた。
「くっ」
 ガタッと素早く立ち上がった岡田は、反射的に准から数歩離れる。
 そして、たくさんの本が収納してある本棚を背に位置を取った。
「僕はもう、吹っ切ることができたんだよ。この間の僕とは違う、目的を達成するために何も戸惑いはない!」
 そう言った岡田は、ふっとその右手を頭上に翳す。
 たちまちその右手に“邪気”が宿り、漆黒の光が彼の手を包んだ。
 周囲に、どんよりとしたいやな空気が立ち込める。
 そんな岡田の様子に表情も変えず、准はひとつ溜め息をついた。
「この間はまだ“憑邪”と“契約”を結んだばかりで、“邪気”も不安定だったのに」
 まだ以前は、“契約”を結んで日が浅かったため完全に“憑邪”と同化できておらず、彼の“邪気”は不安定なものであった。
 自分の体内に宿る“気”を使う“能力者”と違い、“憑邪”の“邪気”はその媒体の人間そのものの能力ではない。
 それ故、“邪気”を使うことに慣れていないために、“契約”を結んだばかりの媒体の人間の身体には負担がかかる。
 岡田自身、教室で時折苦しそうな表情を見せていた。
 そして“憑邪”がその“邪気”を抵抗なく使えるようになるためには……身体だけでなく心までその“邪”に委ねる必要があるのだ。
 目の前の岡田からは、もう以前のような不安定さはなくなっている。
「邪に、心まで委ねたのか」
 それだけ呟き、准はグッとその拳を握り締めた。
「君には申し訳ないけど、僕は君の命をもらわなきゃいけないんだよっ!」
 そう言うやいなや、岡田は“邪気”の漲ったその手を振り下ろす。
 彼の右手に宿っていた漆黒の光が、それと同時にその大きさを増した。
 そして一斉に本棚に収納されていた無数の本が、ガタガタと音をたてながら宙に浮き上がるのが見える。
 そしてそれらは唸りをあげながら空気を割き、ものすごい勢いで准目がけて襲いかかる。
 一冊でもそれに直撃しようものなら、確実に身体に穴があいてしまうだろう。
 だが、そんな様子に臆することなく、准はその右手をスッと前に翳した。
 その掌にあっという間に大きな“気”の光が漲り、目の前に“気”の防御壁が出来上がる。
「なっ!?」
 岡田は、思わずその眩い“気”の光に目を瞑った。
 次の瞬間、ドンっと激しい音をたてながら岡田の放った本の大群は次々に准の張った壁に激突する。
 そしてそれらはすべて准に届くことはなく、浮力を失ってバサバサと床に散らばった。
 本の攻撃を無効化させた後、准はゆっくりと岡田に歩み寄る。
「“憑邪”に心を委ねそれを受け入れたために、確かに君の“邪気”は安定して力を増したみたいだけど……君の攻撃は、僕には届かないよ」
 それから、真っ直ぐに岡田に視線を向けて続けた。
「ひとつ聞かせて欲しいんだ……何故、姫と僕の命を?」
 准の大きな“気”の力に圧されてじりじりと後退しながらも、岡田はふっと笑みを浮かべる。
「何故って? 僕よりも優秀な成績を持つ君たちが、憎いからだよ」
「……成績?」
「僕は今まで、中学の時まで、ずっと常にトップの成績だった。それが、君たちが現れたせいでっ」
 不敵に笑みを浮かべていた岡田は、そう言ってその表情を憎悪に満ちたものに変える。
 そして岡田を取り囲むまわりの空気が、今の彼の感情を表すかのように重苦しいものに変化した。
 准は首を小さく横に振り、おももろにその足を止める。
「成績? たかがそんなことなんかで、姫の命を狙ってただって?」
 岡田はその准の言葉に、キッと鋭い視線を向けた。
「たかがそんなこと、だって? 君たちに、僕のこの心の痛みが分かるか!?」
 そう言うやいなや、再び岡田はその手に“邪気”を漲らせる。
 それと同時に、床に散らばっていた本たちが再びフワリと浮かび上がる。
「君たちになんか分かってたまるか。この僕の苦しみがっ!」
 岡田の感情の変化によって、宙に浮く無数の本が不安定に大きく揺れた。
 そんな無数の本のことなど気にもかけず、准はグッと拳を握り締める。
「僕のこの心の痛み? 僕の苦しみ? 君こそ、分かってなんかない……」
 そう呟いた准は、ふっとその視線を真っ直ぐに岡田に向ける。
 そんな両の目は、静かな怒りの色を湛えていた。
 決して激しいものではないが、准の静かな瞳の中に宿る威圧的な何かに、岡田は思わず数歩後退する。
 だがすぐに気を取り直して、“邪気”を宿した右手を掲げた。
「言ったはずだろう、君には死んでもらうってねっ!!」
 そう叫び、岡田はその手をブンッと振り下ろす。
 それと同時に、無数の本が再び准目がけて放たれた。
 憎悪によって膨れ上がった“邪気”により、その勢いも先程のものとは比べ物にならない。
 しかし准は、“気”の防御壁を張ろうとはしなかった。
「なっ!?」
 そして岡田は、准のとった行動に驚いたように目を見張る。
 次々と襲い掛かる本の攻撃を信じられない身体能力ですべて身体を翻して避け、気がつくと准の姿は岡田のすぐ目の前にまできていた。
 そして。
「!!」
 ガッと鈍い音がしたかと思うと、准の放った拳が岡田の身体を吹き飛ばした。
 空の本棚に背中を打ちつけ、岡田はその衝撃に顔を歪める。
 そんな岡田に、准は言った。
「君こそ、分かってなんかないっ! 君のしたことで、姫がどんなにつらい思いをしたかっ」
 そして准は、その右手に眩い“気”の光を漲らせる。
 その様子を見て、岡田はくっと唇を噛んだ。
「僕を、殺すつもりか? 芝草くん」
 岡田の言葉に動じる様子もなく、准は静かに言った。
「姫を傷つけることは、僕が絶対に許さない」
 そう言ったと同時に、グワッと准を取り囲む光の大きさが膨れ上がる。
 そして、それをまさに岡田に放とうとした、その時だった。
「!! 准くんっ!!」
 背後から聞こえてきたその声に、准はぴたりとその動きを止め、振り返った。
「姫っ!? どうしてっ」
「清家さん!?」
 突然“結界”内に姿を見せた眞姫に、岡田も驚いたように視線を向ける。
 まだ息を切らしたままの眞姫は呼吸を整えることもせずに、大きく首を振った。
 そしてその大きな瞳を准に向けて、言った。
「准くん、ちょっと待って……お願い」




 その頃、視聴覚教室。
 拓巳は気が気ではない様子で落ち着きなく、健人はさっきからその青い瞳をじっと窓の外に向けたままで、詩音はいつものように表情を変えない。
 鳴海先生はミーティングが終わるやいなや、数学教室へと戻っていった。
 祥太郎は、何かを考えるように瞳を閉じる。
 今回の“憑邪”の背後にいる“邪者”の存在。
 そして祥太郎の瞼の裏に映るのは……漆黒の強い光を宿した瞳。
 その漆黒の輝きが脳裏から離れないままで、祥太郎はふと目を開けた。
 それから視線を、おもむろに詩音に向ける。
「なぁ、詩音。頼みがあるんやけど」
 しんとしていた教室に、祥太郎の声が響いた。
 詩音だけでなく、健人と拓巳の瞳も祥太郎へと向けられる。
 相変わらず柔らかな表情のままで、詩音は言った。
「何だい? 祥太郎」
「今、ココから一番近い場所におる“邪者”の位置とか……分かるか?」
「祥太郎?」
 その言葉に、健人はその青い瞳を細める。
 拓巳は顔を上げ、怪訝な表情をした。
「おまえ、どういうつもりだ?」
「ちょっとな、その今回のことに関わってるかもしれん“邪者”に、心当たりがあってな」
 ちらりと拓巳を見て、祥太郎はそう答える。
 詩音はそんな3人を後目に、スッとその瞳を閉じた。
 ボウッと彼の身体を柔らかい光が包み込み、その光は優しく空気と溶け合う。
 数秒後、ゆっくりと詩音は目を開いた。
 そして、いつになく真剣な表情を浮かべている祥太郎に言った。
「すぐ近くに……この校内に、“邪者”の気配を感じるよ」
「校内に……」
 そう呟いて、祥太郎はふと考えるように俯く。
 それからおもむろに、祥太郎は立ち上がった。
「校内の、どこか分かるか?」
 祥太郎の問いに、詩音は柔らかな微笑みを浮かべて答える。
「もちろんだとも。中庭だよ」
「中庭、か。んじゃ、そーいうことで行ってくるわ」
「ちょっと待てよっ、行くって……勝手に動くなって鳴海に言われただろっ」
 驚いた表情を浮かべる拓巳に悪戯っぽく笑って、祥太郎はヒラヒラと手を振る。
「俺がセンセの言うこと素直に聞くような、優等生に見えるか? 拓巳」
「まぁ全然見えねぇけどよ。勝手に動いたら、あとで鳴海にボコられるぞ?」
「拓巳やあるまいし、この祥ちゃんのとっておきの必殺技・口車で、何とか誤魔化すから大丈夫やっ」
「本当に大丈夫なのかよ、俺は知らねーからな」
 はあっと溜め息をつく拓巳に微笑んでから、祥太郎はドアへと足を向ける。
「そーいうことやから、お留守番頼むわ」
 そう言ってニッと笑って、祥太郎は視聴覚教室を出て行った。
「どーいうことだよ、まったく」
 ブツブツ言いながら、拓巳は大きく溜め息をつく。
 そしてドカッと近くの椅子に座って言った。
「ったく、なんで俺が大人しくじっと留守番しなきゃいけねぇんだよ。俺も姫のところに行きてぇよっ」
「行ったら本当に鳴海先生にボコられるぞ、おまえの場合」
 ちらりと青い瞳を拓巳に向け、健人はそう呟く。
「鳴海先生にボコられるだけじゃなくて、准にも説教されるんじゃないかな? 拓巳の場合」
 くすっと笑って、詩音もそう続ける。
 そんなふたりに怪訝な表情を向け、拓巳は舌打ちする。
「なーんだよっ、俺の場合ってよっ」
「今回はおまえの出番はないんだ、大人しくしてろ」
 はあっとわざとらしく溜め息をつく健人に、拓巳はムッとした顔をする。
「うるせーなっ、ていうかおまえだって出番がないのは同じだろーがっ」
「何だと?」
 健人はその言葉に反応して、じろっと拓巳に視線を投げる。
「まぁまぁ、そんな言い争っていても美しくないよ。ここは准や祥太郎、そしてお姫様を信じて、待っていようじゃないか」
 睨み合う拓巳と健人ににっこりと微笑み、詩音はそう言った。
 ふたりは、仕方ないようにお互いに視線を外して嘆息する。
 拓巳は瞳にかかる前髪を鬱陶しそうにかきあげてから、詩音に目を移した。
「ていうか、詩音。何でおまえって、いつもそんなマイペースなんだよ」
「マイペースって、僕がかい? 今の僕は、お姫様のことが心配で気が気じゃないっていうのに」
「ていうか、全然気が気じゃないように見えないのは俺の気のせいか?」
 疑うような目で見る拓巳にふっとその上品な顔に優雅な微笑みを浮かべて、詩音は言った。
「うん、きっと気のせいだよ、拓巳」
「…………」
 優雅な微笑みを絶やさないままの詩音に、拓巳はもう一度溜め息をつく。
 そんなふたりの会話も耳に入っていない様子の健人はもう一度窓の外に青い瞳を向けた。
 窓の外の景色は激しく降り続ける雨のせいで薄暗く、雨露でほとんど何も見えない。
 健人は、眞姫の澄んだ大きな瞳の色を思い出しながら、呟いた。
「姫を信じて、か」
 そしてその声は、激しさを増す雨の音にかき消されたのだった。