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 5月2日――日曜日。
 世間は、ゴールデンウィークの真っ只中である。
 その真っ赤なフェラーリは、有名な別荘地を走っていた。
 そして目的地の入り口へと差しかかり、その門をくぐったあとも、目の前の大きな建物に向かって伸びる道を颯爽と走る。
「はあぁ〜、ここにくると途端にブルーになるわ」
 晴れ晴れとした天気とは裏腹に大きく息を吐き、祥太郎は頬杖をつく。
 愛車の真っ赤なフェラーリを運転しながら、由梨奈は言った。
「あのねぇ、うちの施設を使わせてあげてるのよ? 環境もいいし、文句言わないの」
「遊びに来たのなら、快適な場所かもしれねーけどよ。せめてもの救いは、姫も一緒ってことくらいだよ」
 拓巳も浮かない表情で、ブツブツと呟く。
 健人は、そんな3人の会話を黙って話を聞いている。
 都心から、車で3時間余り。
 由梨奈の夫の所有している施設で、鳴海先生の言う“プチ強化合宿”が行われるのだ。
 広大な敷地に能力者の育成に適した設備がすべて揃う、能力者のための訓練施設。
 妻である由梨奈自身が能力者ということもあり、彼女の夫であるサワムラカンパニーの社長は、能力者に協力を惜しまない人物である。
「ていうか、車のメンバー割り、おかしくねぇか!? 姫が何で、鳴海の車なんだよ!?」
 由梨奈の車には、拓巳・祥太郎・健人が乗っていた。
 そして眞姫と准と詩音は、鳴海先生の車で移動中である。
 祥太郎は、悪戯っぽく笑って言った。
「あ、そうや、いいコト考えたでっ? たっくんと姫をトレードすればいいやんか」
「なんでオレと姫なんだよっ! ていうか、たっくんって呼ぶなっ! あーあ、姫……」
「それいい考えだな、祥太郎」
 そう呟く健人にじろっと目を向けて、拓巳はちっと舌打ちする。
「健人まで何だよっ、そーいうおまえが姫と代われよなっ」
「あーのーねぇ。お姫様じゃないにしても、こんな綺麗なお姉さんがここにいるでしょ? 拓巳ちゃん」
「何て言ったって、ゆり姉だからな。こっちは」
 はあっと溜め息をつく健人を見て、由梨奈は言った。
「なによぉっ、健人ちゃんまでそんなコト言うワケ? あっそう。あんたたち、ある程度覚悟してそんなコト言ってるのよね? いい度胸ねぇ、覚えてらっしゃいよ」
「いやぁ、毒々しいくらい美しい派手な薔薇の奥方とドライブなんて、鳥肌がたつくらい嬉しいわぁ」
「……それって、褒めてるのかしら? さ、着いたわよぉ」
 わははと笑う祥太郎を睨んでから、由梨奈は車を止める。
 先に到着している鳴海先生の車が、その隣に見えた。
 荷物を降ろしてから、映研部員たちと鳴海先生、そして由梨奈は施設に足を踏み入れる。
「ささっ、お姫様、お荷物をお持ちいたしましょうか?」
「ありがとう、祥ちゃん。大丈夫よ」
 祥太郎の申し出に、眞姫はにっこり微笑む。
「まあっ、祥太郎ありがとーっ、私の荷物持ってくれるんだぁっ」
 眞姫の隣を歩いていた由梨奈が、笑って言った。
 由梨奈の言葉に、祥太郎は拓巳に視線を移す。
「たっくん、由梨奈お姉さまが荷物持てっておっしゃってるで?」
「あのなぁ、何でオレなんだよっ」
「拓巳ちゃんありがとーっ、優しいーっ、まさか断ったりとかしないわよねぇ?」
 ふふっと笑う由梨奈に、観念したように拓巳は溜め息をついた。
「だーっ、わかったよっ! 持てばいいんだろっ……って、重っ! 何が入ってるんだよ、この荷物っ!?」
「……騒がしいヤツらだ」
 深く溜め息をついてから、鳴海先生はスタスタと建物の中に入っていく。
 鳴海先生に続いた眞姫は、その大きすぎるその建物を、きょろきょろと興味深そうに見回した。
 それから各自割り当てられた部屋に、荷物を置きに行く。
 眞姫は荷物を置いて、もらったこの建物の地図を見た。
 信じられないくらいのたくさんの部屋、そして充実した施設がある。
 トレーニングルーム、テニスコートや屋内プールなどなど。
 迷子になりそうな広さだと、眞姫は思った。
 そして部屋を出て、ミーティングの行われる会議室へと足を運ぶ。
「あ、姫。今から会議室に行くんだよね? 一緒に行こうか」
 別の部屋から出てきた准に、眞姫はこくんと頷く。
「それにしても、すごい施設よね。迷子になっちゃいそう」
「僕たちは何度か来ているから、分からないことがあったら聞いてね」
「うん。それにしても、何だかみんなと3日間一緒なんて不思議な感じ」
 これからはじまる合宿に、眞姫は少しワクワクしていた。
 そんな眞姫とは反対に、准は溜め息をつく。
「3日後が一体どうなっているか、本当に心配だよ」
「?」
 准の言葉の意味するものが分からずに、眞姫は首を捻る。
 准はいつものように穏やかな微笑みを眞姫に向けてから、言った。
「姫も頑張ってね。相手がゆり姉なら、心配ないと思うし」
 眞姫は不思議そうな顔をしながらも、ミーティングの行われる会議室に足を踏み入れる。
 広い会議室には、すでにほかのメンバーの姿があった。
 そして最後に、定刻通りに鳴海先生が現れる。
 鳴海先生は、由梨奈にちらりと目を向けた。
 そんな鳴海先生に、由梨奈はウインクして立ち上がる。
「じゃあ眞姫ちゃん、私たちは向こうの部屋に行きましょっ」
「えっ、もう姫と別々かよ!?」
 あからさまに不服な表情を浮かべ、拓巳は顔を上げる。
 鳴海先生は、眞姫にその切れ長の瞳を向けて言った。
「清家、無理はするな。分かったな」
「え? あ、はい。鳴海先生」
 相変わらず口調は淡々としていて素っ気無いが、眞姫は鳴海先生なりの気遣いの言葉が、嬉しかった。
「さ、眞姫ちゃん。私たちは隣に行きましょ」
 由梨奈に促されて、眞姫は会議室をあとにする。
 そして、それに続こうとした由梨奈は、もう一度会議室の中に目を向けて笑った。
「じゃあねー、ボーイズ。くれぐれも、なるちゃんに殺されないようにねー」
 ひらひらと手を振って、由梨奈はそのドアを閉める。
「おい、洒落にならねーぞ、あの言葉」
「冗談として笑えないよね。リアリティーありすぎで」
「はあぁ〜、姫とは別やしなぁ」
「お姫様は、さしずめ地獄の中の女神様ってところかな」
「姫……」
 思い思いに口を開く少年たちに、鳴海先生はじろっと鋭い視線を向ける。
「黙れ、おまえたち。まぁそんな無駄口叩く余裕も、もうなくなるがな」
「姫がいなくなった途端、これだからな」
 ちっと舌打ちをして、拓巳は机に頬杖をつく。
 鳴海先生はそんな拓巳の言葉も気にせずに、話を進めだした。
「それでは、今から映画研究部の“プチ強化合宿”を行う。スケジュールは事前に渡しておいたプリントに記載されてある通りだ。スケジュールに関して、何か質問はあるか?」
「質問以前に死ぬで。何や、このハードさ」
 はあっとブルーな表情で、祥太郎は嘆息する。
「これでも、まだおまえたちには足りないくらいだ。異論があるなら帰れ」
「ごちゃごちゃミーティングなんていいからよ、さっさと始めろよ」
 キッと鳴海先生に目を向け、拓巳は言った。
 そんな拓巳に、鳴海先生は じろっと視線をむけて言い放つ。
「合宿は、スケジュール通りきっちり定刻から開始だ。そう焦らなくとも、じっくり鍛えてやる」
 その頃。
 隣の部屋では、由梨奈と眞姫が和やかな雰囲気で話をしていた。
「由梨奈さん、私の合宿の予定ってどうなってるんですか?」
「予定はねぇ、バッチリ決めてるから大丈夫よん」
 にっこり笑って、由梨奈は続ける。
「今日はね、まず16時まで“由梨奈お姉さんと楽しくトーキングコーナー”でしょ」
「え? 16時まで、楽しくトーキング?」
 眞姫は、ちらりと時計を見た。
 今の時間は、13時を少しまわったところである。
 16時までは3時間も時間がある。
 由梨奈の予想外のスケジュールに、眞姫はきょとんとした。
「そうそう、楽しい時間を過ごしましょうねぇっ。それで16時から、映画鑑賞でしょ」
「16時から、映画鑑賞?」
 眞姫は、さらに首を傾げる。
 この合宿は、能力の使い方を教えてもらうためのもののはずだが。
 不思議そうな顔をしている眞姫に、由梨奈は笑った。
「なるちゃんがね、映研の合宿なんだから映画鑑賞もすべきだって。戦争ものの映画を3時間観るらしいわよぉ。私は遠慮させてもらうけどねぇ」
「…………」
 鳴海先生らしいなと、眞姫は妙に納得する。
 きっとそのあとレポート提出が待っていることも、容易に想像できるのであった。
「えっと、映画観て今日は終わり、かな」
「今日は終わり、ですか?」
「うん、部活の合宿は学校の規定で19時までって決まってるからなんだって」
「…………」
 何と言っていいか分からない様子で、眞姫は再び首を傾げる。
 そんな眞姫に、由梨奈は楽しそうに言った。
「じゃあ早速、“由梨奈お姉さんの楽しいQ&Aコーナー”始めよっかっ」
「由梨奈さん……コーナーの名前、変わってます」
 何気にツッこんでから、眞姫は目をぱちくりとさせる。
 由梨奈は、ふっと微笑んでから言った。
「何でも聞いて、眞姫ちゃん。きっとまだ、分からないこと多いでしょ?」
 その言葉に、眞姫はハッと顔を上げる。
 そんな眞姫の様子を見て、由梨奈は笑った。
「察しのいい頭のいい子、私大好きよ、眞姫ちゃんっ」
 そう言ってから、由梨奈はウェーブのかかった長い髪をかきあげる。
 そして、言った。
「じゃあ、何から話せばいい?」
 少し考えて、眞姫は口を開く。
「えっと、まずは……能力者の能力と邪者の能力について、とか」
「優等生ねぇ、眞姫ちゃんって。オッケー、まず能力者の力ね。ちょうどおあつらえ向きな教材がたくさんいるからねーっ」
 由梨奈は丁寧に解りやすく、そして楽しく話をしてくれた。
 眞姫はその話を聞きながら、由梨奈の聡明さを感じる。
 眞姫を飽きさせることのない話術、時々垣間見える彼女のものの考え方。
 外見や普段の様子とは対照的に、冷静に物事を見ていると感心した。
 あの鳴海先生の幼馴染みなのも、何だか納得してしまう。
 それから眞姫は、由梨奈に聞いた。
「鳴海先生の持つ能力って、まだ見たことがないんですけど」
 あの切れ長の瞳を思い出しながら、眞姫は由梨奈を見る。
 話に聞いた感じでは、強大な“気”を操ることができるらしい。
 悪魔とまで言われる彼の力に、眞姫は少なからず興味があったのだ。
 眞姫の問いに、由梨奈はニッと笑う。
「それはねぇ、最終日のお楽しみ、ってだけ言っておこうかなっ」
「?」
 その言葉に首を捻る眞姫に、由梨奈はもう一度にっこりと微笑んだのだった。




「…………」
 楽しいトークの時間もあっという間に終わり、眞姫は映画鑑賞のために、シアターへと足を運んだ。
 そこで目にしたのは。
「……大丈夫? みんな」
「おっ、姫っ! ……いっ、つっ」
 眞姫の姿を見て立ち上がった拓巳は、その表情を歪める。
「なぁによ、だらしないわねぇ」
 ぐったりしている5人の少年を見て、由梨奈は笑った。
 そんな由梨奈に、拓巳は言った。
「おっ、ちょうどいいところにっ。ゆり姉、傷治してくれよ」
「傷を、治す?」
 由梨奈は不思議そうな顔をする眞姫をちらりと見てから、おもむろに拓巳のTシャツを捲り、あざになっている腹部を指先で突付く。
「いっ!! 痛っ! いててっ!! 乱暴に触るなよなっ!!」
「あーあぁ。またなるちゃんに反抗的な態度とったんでしょ? ほら、今回だけ特別よっ、じっとして」
 けほけほとむせる拓巳の腹部に右手を添え、由梨奈はその瞳を閉じた。
 眞姫は次の瞬間、その大きな瞳を見開く。
 由梨奈の手が、美しい“気”の輝きを放ち始めたからだ。
 そして由梨奈の“気”が、そのあざを包み込んだかと思うと。
「! あざが、消えた?」
 眞姫は信じられない様子で、そう呟いた。
 拓巳の腹部にあったあざが、“気”の力によってきれいに消滅したのだ。
「小さな傷やダメージなら、能力者の誰でもその自分の“気”で回復させることができるんだけどね」
「ゆり姉は人よりもその能力が得意だから、人の傷も癒せるんだよ」
 驚いた表情の眞姫に、由梨奈と准がそう説明してくれた。
 いろいろなことができるんだなぁと感心しつつも、眞姫は今目にした由梨奈の“気”の光を思い出し、何かを考える仕草をする。
 ふと、その時。
 時計が16時をさすと同時に、鳴海先生がシアターに入ってくるのが見える。
 今から観る映画の詳細の書かれたプリントを配り、鳴海先生は言った。
「今から約3時間、ベトナム戦争を題材とした映画を観てもらう。もちろん、明朝までに感想をレポート提出してもらう」
「戦争ものの映画を、3時間かい……嫌がらせも、ここまでくると文句も言えんわ」
 がっくりとうなだれて、祥太郎は溜め息をつく。
 そして問答無用の映画上映がはじまり、眞姫はスクリーンを見つめていた。
 映画開始から1時間くらい経った、その時。
 眞姫はふと、少年たちに目を移す。
「…………」
 完璧に熟睡モードの彼等に、眞姫は言葉を失う。
 あの優等生な准まで、すやすやと寝息をたてているのだ。
 どんな特訓をしてるんだろうと思いつつ、至福の表情で眠りについている少年たちを見て、眞姫は何だか可笑しかった。
 唯一起きている詩音が、眞姫の視線に気がついてにっこり微笑む。
 眞姫の隣の席に移動して、詩音は笑った。
「非常に興味深い映画だね。人間同士の戦争とは、何て愚かなことなのだろう? ああ、一曲思い浮かんだよ。激しい戦いの旋律と悲しくて切ない旋律の共存だよ」
 相変わらず自分の世界に入っている詩音に、眞姫は目を向ける。
 そして、言った。
「詩音くんは平気なの? 身体……」
 残りの4人がスヤスヤと寝ている中、普段と変わらない様子で独自の世界を作り上げている詩音に、眞姫は意外な顔をする。
 詩音はふっと笑って、優雅な笑顔で答えた。
「おやおや、王子のことが心配なんだね、お姫様。もちろんハードなスケジュールで、さすがの僕もかなり参ってるよ?」
「…………」
 全然参っているように見えないんだけどと眞姫は思ったが、あえて言わなかった。
 それと同時に、ある意味詩音くんってスゴイ人かもと、妙に関心する。
 いつも自分のペースを全く崩さない詩音を、眞姫はじっと見つめた。
「お姫様はミセスリリーと頑張っているみたいだね、偉い偉い」
 詩音の言葉に、眞姫は何と言っていいか分からない表情をする。
 確かに、必死にいろいろなことを吸収しようと頑張ってはいるのだが。
 まだ、実用的なことは何も会得できてはいない。
 あと2日間で、何かを得ることができるのだろうか。
 眞姫は、無意識のうちに俯いてしまった。
 そんな眞姫の手を、詩音は優しくそっと取った。
 その詩音の手の温もりに、眞姫は驚いたような表情を浮かべる。
「きっと大丈夫、自分を信じてあげて。君は素敵な僕のお姫様なんだから」
 そう言って、詩音は眞姫の頭を軽く撫でる。
 眞姫はその詩音の手の温もりに、にっこり笑った。
「うん、ありがとう」
「お姫様には、その月のように柔らかくて美しい笑顔がとてもよくお似合いだよ」
「詩音くん……」
 その感受性の強さゆえドリーマーな詩音ではあるが、眞姫はいつも彼の柔らかで優雅な笑顔と、その優しさに元気づけられている。
 あんなに綺麗な旋律を奏でることができる詩音はその心もきっと美しいんだろうなと、眞姫はいつも思っていた。
 その時。
「うーん……ドンパチ戦争の音がうるさくて、おちおち寝てられんわ」
 ふわぁっとあくびをした後に伸びをして、祥太郎が起き上がる。
「十分熟睡してたみたいに見えたんだけど? 祥ちゃん」
 くすっと笑って、眞姫は祥太郎に言った。
「祥太郎、この映画、まだあと1時間54分30秒あるよ」
 詩音の言葉に、祥太郎は溜め息をつく。
「なんや、まーだそんなにあるんかい! あーあ、また寝るとするかな……お?」
「ん……あ、僕、寝ちゃってた?」
 その時、目をこすりながら、准もむくっと身体を起こす。
 悪戯っぽく笑って、祥太郎は言った。
「准が居眠りとは、珍しいもん見たわ」
「さすがにハードだから、身体が持たないよ。それに僕この映画、前に見たし」
「マジでっ!? レポート見せてな、准ちゃんっ」
「どうせ最初からそのつもりだろ、祥太郎。ていうか、映画の感想のレポートうつすなんて、絶対バレるし」
 呆れたように溜め息をついてから、准は祥太郎を見る。
 眞姫はそんなやりとりに笑って、仲間と過ごす時間の楽しさをかみしめていたのだった。




 その日の、夜。
 映画感想のレポートを提出したあと、眞姫はふと中庭に出た。
 時間は、21時半を回ろうとしている。
 夕食も入浴も終わり、あとは就寝するのみであるが、このまま部屋に戻って寝てしまうのも何だか勿体無い気がしたのだ。
 その広大な中庭は、綺麗に手入れがしてある。
 月明かりを浴びて、眞姫はゆっくりと歩を進めた。
 そしてベンチに座り、瞳を宙に向ける。
 今日は結局、能力を使えるまでにはいかなかった。
 由梨奈と話したことは、能力者や邪者そしてその能力について認識の浅かった部分を、かなり埋めることができた。
 よく能力を知ることから始めないといけないことは、眞姫にも分かっている。
 由梨奈が今日の一日実戦的なことを一切しなかったのも、納得ができるのだ。
 しかし、やはり眞姫は不安だった。
 本当に自分には、力が眠っているのだろうか。
 焦っても仕方がないことではあるが、どうしても考えてしまう。
 いつの間にか俯いてしまっている眞姫は、大きく溜め息をついた。
 その時。
「姫?」
 声をかけられて、眞姫は振り返る。
 そしてその人物を確認し、にっこり微笑んだ。
「あ、准くん。どうしたの?」
「姫が中庭に出て行くのが見えたから。隣、座っていい?」
 こくんと頷く眞姫の隣に座ってから、准は夜空を見上げる。
「綺麗だね。ここに来ると、月明かりってこんなに明るいものなんだって思うよ」
 俯いていた眞姫は、再びその顔を上げた。
 その栗色の髪が、ふわりと揺れる。
 眞姫の髪のほのかに香るシャンプーの匂いが、准の鼻をくすぐる。
 その香りに頬を少し染めて、准は眞姫のその横顔を見つめた。
 月光の下の眞姫はキラキラと輝いていて、少し憂いの表情を浮かべるその顔はとても美しいものだった。
「……准くん? どうしたの?」
 じっと自分を見ている准の視線に気がつき、眞姫は首を捻る。
 そんな眞姫に、准はいつもの穏やかな笑顔を向けた。
「いや……今回の合宿、ハードだけど来てよかったなって」
「合宿、あと2日しかないんだよね」
 眞姫はそう言って、再び俯く。
 准は、優しい声で笑った。
「姫、あと2日もあるって思わなきゃ。ね? 大丈夫だよ、姫なら」
「准くん……」
「僕で力になれることがあったら、何でもするし。それに姫は、何があっても守るから。不安に思う姫の気持ちは分かる、だからもうひとりで抱え込まないで。そんな姫の姿、見ていて僕もつらいから」
 眞姫はその准の言葉を聞いて、先日健人に言われたことを思い出していていた。
『俺たちじゃ役不足か? 俺たちを、もっと信用して欲しい』
 信用はもちろんしている、申し訳ないくらいに頼っているつもりなんだけど。
 眞姫は、ふっとその瞳を准に向ける。
「この間ね、健人にも言われたんだ。俺たちじゃ役不足か、もっと頼ってくれって。私、みんなに頼りすぎなんじゃないかって思ってたから、だから鳴海先生に力の使い方を教えてもらって、少しでも自分で何かをしたかったの」
「姫……」
「私、みんなのこと信頼してるし大好きよ。一緒にいても楽しいし、みんなとこうして同じ時間を過ごすことがとても嬉しいの」
「姫がそう思ってくれていること、みんなも分かってるよ。逆に、僕たちも姫と一緒ですごく嬉しいよ? 今までの合宿って、男ばかりだったから……もっとこうピリピリした雰囲気で、心身ともに休まる時間なんてなかった。でも今こうやって姫とふたりで話ができて、すごく僕、癒されているよ」
 眞姫は、准の言葉が嬉しかった。
 美しい光を湛える月が、途端にぼやけて見える。
 涙で潤んだ大きな瞳は、それを零さないように必死に耐えていた。
 そんな眞姫に、准は優しく微笑む。
「姫、ありがとうね」
 その言葉を聞いて、たまらず眞姫の瞳から涙が零れ落ちる。
「あっ、ご、ごめんっ! 泣かせるつもりなんて、なかったんだけど」
 眞姫の瞳から涙がぽろぽろ零れ落ちるのを見て、准は少し慌ててハンカチを差し出す。
 眞姫は首を大きく横に振って、涙を拭った。
「違うの、謝るのは私の方なの。最近いろいろ、自分で考えることもあって……でも、みんな優しくて。嬉しいの、すごく」
 ようやく止まった涙をもう一度だけ拭って、眞姫は准に笑顔を向ける。
「私の方こそ、ありがとうね。准くん」
「姫……」
 准は月光に照らされた眞姫の姿を、真っ直ぐにじっと見つめている。
 そんな准に、眞姫は言った。
「そろそろ部屋に戻ろうか、准くん」
「そうだね。もう大丈夫? 姫」
「うん、もう平気。准くんと話したら、気持ちがすごく楽になったよ」
「よかった、じゃあ戻ろうか」
 ベンチから立ち上がり、眞姫と准は中庭をあとした。
 眞姫は部屋に戻りながら、この合宿に臨む気持ちを改めて引き締めたのだった。