臨時ミーティングが終わった、その帰り。
 夕方になり、すっかり空も赤く染まっている。
 眞姫は、家の方角が同じである健人と一緒に下校していた。
 交わされる会話はいつもと何も変わらないが、眞姫には健人が何かを考えているのが分かった。
 そして、ふたりの分かれる道に差し掛かった、その時。
 健人はその蒼の瞳を眞姫に向ける。
 それから、足を止めた。
 眞姫は不思議そうに、立ち止まった健人を見る。
「健人、どうしたの?」
「知らなかったよ。姫が鳴海先生に、あんなこと言ってたなんて」
「あんなことって、力の使い方を教えて欲しいってこと?」
 健人の問いに、眞姫は表情を変えてそう答える。
 健人は眞姫の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、言った。
「俺たちじゃ、役不足か?」
「え?」
「俺たちの力じゃ、不安なのか? 姫」
 健人の思いがけない言葉に、眞姫は驚いた表情を浮かべる。
 そして、首を大きく横に振った。
「それは全然違うよっ! 私、いつもみんなに助けられてばっかりで、そんな自分がイヤなのっ! 力があるはずなのに、使えないなら何も意味を成さないでしょ? 私にも、もう少し何かできないかと思って」
 眞姫はそこまで言って、ぐっと唇を噛み締める。
 眞姫を見つめたまま、健人は言葉を続けた。
「俺たちが……俺が、何があっても姫を守ってやるからっ! だからっ!」
 普段声を荒げることの無い健人のその言葉に、眞姫は瞳を見開く。
 健人はハッと我に返ったように顔を上げ、言葉を続けた。
「ごめん……でも、俺たちをもっと信用して欲しいんだ。もっと頼って欲しい、俺だけじゃなくて、みんな今日そう思ったと思う」
 それから困ったような顔をして、健人は眞姫の頭をくしゃっと撫でてから言った。
「ごめん、姫。姫の気持ちも分かるんだ。だから……もう、泣くな」
「え? あ……」
 眞姫は健人のその言葉で、自分が泣いていることに気がついた。
 眞姫の意思とは関係ないように、ぽろぽろとその大きな瞳から涙が零れている。
 その涙には、無力な自分への悔しさ、そして仲間たちへの想い、いろいろな感情が入り混じっていた。
 眞姫は、ぐいっとその涙を拭って、健人に視線を向ける。
「私の方こそ、ごめんね」
 まだ涙で潤んだ眞姫の大きな瞳を、健人は黙ってじっと見つめていた。
 そして、すっとポケットからハンカチを出して眞姫に差し出す。
 丁寧にたたまれた、チェック柄のハンカチ。
 眞姫はそれを受け取り、ふっと微笑む。
「このハンカチ、可愛いね」
「そうか? 適当に持ってきただけなんだけど」
 そのハンカチは使わずに手で涙を拭ってから、眞姫は健人に言った。
「ありがとうね、健人。信用してるよ、みんなのこと、健人のこと」
 そう言って、眞姫は笑顔を作って歩き出した。
 その時。
「! 姫っ」
 歩き出した眞姫の右手を、咄嗟に健人は掴んだ。
 眞姫は、そんな健人に振り返る。
「姫、もう無理して笑わないでくれ。泣きたいときは泣けばいい、受け止めてやるから」
「健人……」
「姫は気づいていないかもしれないけど、俺たちは、たくさんのものを姫から貰ってる。俺たちは仲間だ、お互いがお互いを支えあってる、それでいいんじゃないか?」
「うん、そうだね。健人」
 そう言った眞姫は、今度はにっこりと心から微笑む。
 それから渡されたチェックのハンカチを健人に返して、手を振った。
「じゃあ、また明日ね、健人」
「ああ」
 ふっと眞姫に笑みを見せてから、健人は軽く片手を上げる。
 そして眞姫が歩き出そうとした、その時だった。
 ハッと顔を上げ、その歩みを止める。
 健人も表情を変え、振り返った。
 その視線の先には。
「! 貴方はっ」
「こんにちは、眞姫ちゃん」
 目の前に現れた人物に、眞姫は瞳を見開く。
 その人物、邪者のひとり・高山智也はにっこり笑った。
「ねぇねぇ、俺と今からお茶でもしない? お姫様」
 そう言って近づこうとする智也の前に、健人が素早く立ちはだかった。
「姫に近付くな」
「能力者か……と、言いたいところだけど」
 自分に鋭い視線を向ける健人に、智也は言葉を続ける。
「今日は、邪者として眞姫ちゃんに会いに来たわけじゃないからね。戦いをしにきたわけじゃない」
「何? どういうことだ」
「どういうことって、さっき言った通りだよ。可愛いお姫様とお茶でもして、もっと仲良くなりたいだけだから」
 警戒を解かない健人から、智也は眞姫に視線を向けた。
 眞姫は、そんな智也をじっと見ている。
 もう一度眞姫に微笑んで、智也は言った。
「そんな大きな瞳で見つめられたら照れちゃうなぁ。あ、前から聞きたかったんだけど、眞姫ちゃんって彼氏いるの?」
 急に聞かれて、眞姫は驚いた表情を浮かべる。
 そして、おそるおそる答えた。
「彼氏? いないけど」
「彼氏いないんだっ。じゃあ、俺にも十分チャンスはあるってことだねっ」
「え?」
 智也の言葉に、眞姫はきょとんとしている。
 健人は先程よりも険しい表情で、智也を見据える。
 そんな健人に目を向け、智也はニッと笑った。
「そーいうコトだから、俺と眞姫ちゃんの邪魔しないでくれる?」
「何だと? おまえこそ、今すぐ姫の前から消えろ。痛い目にあいたくなければな」
 自分を睨みつける健人を挑発するかのように、智也は言葉を続ける。
「あらあら、そんなコワイ顔しちゃって。でも、どうしてもやるっていうんなら、相手してやってもいいよ?」
「…………」
 キッと無言で智也を睨みつけてから、健人は身構えた。
 そして、眞姫にちらりと目を向ける。
「姫、あぶないから下がってろ」
「健人っ」
 眞姫はハラハラした様子で、じっと健人を見つめている。
 身構えてから、智也は言った。
「あ、そうそう。俺は“邪者”としてここにいるんじゃないからね、“結界”は張る必要はないよ? ま、力使わなくても十分だろうし」
「! 何だとっ!?」
 智也の言葉に、健人はピクリと反応を示す。
 そんな健人の様子に、智也はふっと笑った。
「どうする? やめとくなら今のうちだよ」
「おまえこそ聞こえなかったか? 痛い目にあいたくなかったら、消えろ」
「んじゃあ、仕方ないな」
 そう言うなり、智也の表情が一瞬にして変化する。
「!!」
 ヒュッと風のなる音とともに、素早い動きで智也は健人との間合いをつめる。
 そして突然襲い掛かってきた智也の拳をかわし、健人は右手に力を込めた。
 僅かにできた隙を狙いすまし、健人の右拳が唸りをあげる。
 それをすれすれのところで避け、智也は体勢を整える。
 そんな智也に向かって、健人は間を置かずに蹴りを繰り出した。
 ガッとそれを右腕で受け止め、智也は笑った。
「この間戦った能力者もそうだったけど、よく訓練されてるみたいだね。眞姫ちゃんの力はまだ覚醒してないのに」
「俺たち能力者の力を試している、というところか。邪者としてここにいるんじゃないと言ったのは、おまえじゃなかったか?」
「ん? あ、そうそう、そう言えばそうだったっけ、なっ!」
 バッと一気に間合いをつめて、智也は再び攻撃を仕掛ける。
 智也から放たれる攻撃を巧みにかわし、健人は隙ができる機会をうかがう。
 お互い、まだ様子を探っているにすぎない。
 だが、この邪者の動きを少し見ただけで、かなりの腕を持っていることが健人にも分かった。
 それと同時に、強大な“邪気”が、智也の体内に漲っていることも。
 バシッと、自分目がけて飛んできた智也の右拳を健人はその手で受け止めた。
 そんな健人に、智也は言った。
「眞姫ちゃんって、本当に可愛いよなぁ。あの大きな瞳で見つめられて、思わずときめいちゃったよ。まぁ、ストレートに言うと」
 スッと受け止められた拳を取り戻してから、智也は続ける。
「彼女に本気で惚れちゃった、俺」
「! なっ!? ぐっ!」
 智也の言葉に、健人は一瞬表情を変え、動きを止める。
 そして、その僅かにできた隙を、智也は見逃さなかったのだ。
 健人の腹部に、智也の放った右拳がヒットする。
 その衝撃に思わず健人の身体が、前方にぐらりと揺れた。
 クッと唇を噛み、健人は体勢を立て直そうとする。
 しかし、それを許さずに、智也の蹴りが正確に健人を捉えんと襲いかかった。
 智也の蹴りを両腕で辛うじて受け止めた健人であったが、不安定な体勢であったため、その威力に圧される。
 ふっと笑みを浮かべ、智也は素早く健人の懐に入った。
「……っ!」
 その瞬間。
 ドスッと鈍い音がし、力のこもった智也の拳が健人の腹部に鋭く突き上げられ、叩き込まれた。
 健人の身体が、ずるりと地に崩れる。
「健人っ!」
 眞姫は顔を上げ、そんな健人に走り寄ろうとした。
 そんな眞姫の行く手を素早く阻んでから、智也は微笑む。
「邪魔されたくないから、ちょっとだけ本気で入れたからね。彼、しばらく目覚まさないんじゃない? さ、それじゃあお茶でもしに行こうかっ」
「えっ、ちょっ、ちょっとっ!」
 強引に自分を促す智也に、眞姫は困惑の表情を浮かべる。
 そんな眞姫に笑顔を向け、智也は嬉しそうに言った。
「ねぇねぇ、眞姫ちゃんはケーキとパフェ、どっちが好き?」
「ちょっと待ってっ、私、貴方とお茶する気ないからっ」
「どうして? やっぱり、俺が“邪者”だから?」
 眞姫の言葉に、智也はふっと一瞬寂しそうな表情をする。
 その智也の顔を見つめたまま、眞姫は思わず言葉を失ってしまった。
「いやだなぁ、眞姫ちゃん。そんな顔しないでよ」
 黙ってしまった眞姫を気遣うように、智也は優しく微笑む。
 眞姫は俯いたまま、言った。
「健人のこと、放っておけないから」
「んー、眞姫ちゃん、そんなコト言わないでさぁ、ね?」
 眞姫の言葉に、智也が何かを言いかけた、その時。
 眞姫は、ハッとその顔を上げた。
「!!」
 智也も振り返り、表情を瞬時に変える。
 次の瞬間。
 ドンッという衝撃音が、あたりに響いた。
 それと同時に強烈な“気”が解き放たれたのを、眞姫は感じた。
「くっ!!」
 歯をくいしばり跳躍して、智也は突然繰り出された無数の光を避ける。
 そんな智也を追従するように、眩い光が次々と彼に襲いかかっていくのが見える。
 眞姫は目の前の状況についていけず、その光の眩しさに瞳を覆った。
 大きな衝撃音が、再び耳に響き渡る。
 そして、ゆっくりと目を開いた眞姫が見たものは。
「!! 健人っ!」
 いつの間にか周囲には“結界”が張られ、眞姫の盾になるように健人が立っていたのだ。
「!」
 眞姫はそんな健人の顔を見て、驚いたように瞳を見開く。
 今まで見たことがない、その健人の表情。
 敵を見据える視線は、眞姫でもゾクッとするくらいに鋭く厳しい。
 そして眞姫は彼の右の瞳に、静かに燃え上がる蒼い炎のような激しいものを感じた。
「っと、あぶないなぁっ! いきなりそんなにキレなくてもっ」
 咄嗟に張った“気”の防御壁で健人の攻撃を何とか防いだ智也は、キッと健人を睨みつけて言った。
 そんな智也を見据えたまま、健人は無言でスッと右手を上げた。
 途端にその右手に、強大な“気”の力が漲る。
「ちっ、問答無用ってことか……くっ!!」
 カッと健人の右手から光が弾け、再び唸りをあげて智也に光が放たれる。
「ったく、“気”の力は使わないって言ったのに、仕方ないなぁっ!」
 健人の激しい攻撃をすべて防いでから、智也はその手に邪気を漲らせた。
 そして邪気を帯びた智也の手が素早く振り下ろされ、今度は健人目がけて、大きな気が襲いかかる。
 健人はその蒼の瞳をカッと見開き、気の塊を放って応戦した。
 両者の光がぶつかり合い、一段と大きな衝撃がビリビリと空気を振動させる。
 その余波で状況が把握できず、眞姫は大きな目を凝らす。
「完璧にキレてるし……なっ!?」
 智也は咄嗟に振り返り、その瞳を見開いた。
 しかし気がついたのも遅く、いつの間にかに背後に回っていた健人の右手から、大きな光が放たれた。
「この間合いじゃ防御壁は張れないかっ、くそっ!」
 ギリッと歯を食いしばり、智也は両腕で健人の放った大きな光を受け止める。
 その大きな衝撃に、智也の身体が数メートル後退する。
 健人の放った“気”を何とか消滅させて、智也は体勢を整えようとした。
 その時。
「さっき殴られた分の、礼だっ!」
「!! 何っ!」
 健人の右拳が唸りをたてて、智也の鳩尾を捉える。
 その攻撃をもらい前のめりになった智也の身体に再び拳を叩き込もうと、健人は拳を握る手に力を込めた。
「くっ! あんまり調子に乗るなよなっ!!」
 襲いかかる健人の拳を身を翻してかわし、智也はくっと唇を噛みしめる。
 そして鋭い視線を健人に向け、再びその手に強大な邪気を宿らせた、その時。
「お願い、もうやめて!!」
 今まで黙って見ていた眞姫が、たまらずにふたりに駆け寄ってきたのだ。
「姫っ!! 下がってろ!」
「健人、もうやめて!! もとはと言えば、私のことでこうなったんでしょ? だからやめてっ」
 眞姫の言葉に先に構えを解いたのは、智也だった。
「その能力者には頭にきたけど……眞姫ちゃんが言うなら、仕方ないなぁ」
 そう言ってから、智也は健人に目を向ける。
「そーいうわけで、今日は俺から退いてあげるから、早くこの“結界”を解いてくれない?」
「…………」
 ちらりと健人は眞姫に目を向けて、どうすべきか考える仕草をした。
 眞姫は、そんな健人をじっと見つめている。
 そしてキッと鋭い視線を智也に向けてから、健人は右手を掲げた。
 次の瞬間、周囲に張り巡らされた“結界”が解かれる。
 智也は眞姫に視線を向けて、にっこり微笑んだ。
「眞姫ちゃん、今度こそふたりでお茶しようね」
 そう言って手を振り、智也は歩き出す。
 その後姿を険しい表情で見送る健人に、眞姫は改めて目を向ける。
 智也の姿が見えなくなってから、健人はその瞳を眞姫に移した。
 眞姫に向けられたその蒼い瞳の色は、いつもの健人のものに戻っていた。
 健人は、眞姫から目を逸らさずに言った。
「俺は、誰にも姫は渡したくない。邪者はもちろん、それ以外の誰にもな」
「邪者以外の誰にも、って?」
 健人の言葉の意味が分からず、眞姫はきょとんとする。
 そんな眞姫の様子に溜め息をついてから、健人は歩き出す。
「本当に鈍いよな、姫って。ほら、家まで送ってやるよ。行くぞ」
「?」
 眞姫は首を傾げながらも、歩き出した健人のあとに続いたのだった。
 その頃。
「俺に何の用? つばさちゃん」
 ふと振り返って、智也はそう言った。
「あら、気がついていたのね」
「気がついてたのねって、気づくように尾行してただろ。よく言うよ」
 智也の言葉に、セーラー服姿のその少女・つばさは笑う。
「それにしても珍しいこともあるものだわ、智也が本気で女の子に惚れるなんて」
「まったく、見てたのなら助太刀してくれてもいいんじゃない? つばさちゃん」
「あら、私の能力は戦いには向いてないもの。それに、尾行なんて人聞きが悪いわ」
 くすくす笑うつばさに、智也はふと表情を変えて、言った。
「尾行じゃなかったら、じゃあ何?」
「私はただ、杜木様からの伝言を伝えに来ただけよ。杜木様が、貴方に会いたいそうよ」
「杜木様が?」
「ええ。それにしても、ちょっと驚いたわ。貴方が、杜木様のご命令もないのに能力者と戦うなんて」
 その言葉に、智也は苦笑する。
「俺も自分でビックリだよ。でも、泣いてたんだ」
「え?」
 智也の言葉に、つばさは首を傾げる。
 そんなつばさの様子を見てから、智也は続けた。
「眞姫ちゃんが、泣いてたんだよ。何か、その姿がすごく綺麗で可愛くて。本気になっちゃったみたい、俺」
「あら悲しいわ、もう智也の心は、つばさにはないのね」
 くすっと笑うつばさに、智也は舌を出す。
「何言ってるんだか。つばさちゃんは、最初から杜木様のことしか頭にないくせになぁ」
「一応、智也のことは応援してるつもりよ?」
「一応、つもり、ねぇ」
 ふっと笑ってから、智也は瞳にかかった黒髪をかきあげた。
「さ、じゃあこれからお茶でも飲もっか? つばさちゃん」
「“浄化の巫女姫”に断られたから、私で我慢しようかなってカンジかしら? 智也」
「とんでもない、つばさとスイートなひとときを過ごしたいんだよ、俺は」
「ケーキとパフェなら、私はケーキがいいわ、智也」
 にっこり笑うつばさに、智也は溜め息をつく。
「バッチリ会話も聞いてたんだね」
「ええ、もちろん」
 悪びれもなく微笑むつばさに、智也は苦笑しつつ歩き出したのだった。




「まったく、おまえというヤツは。本当に世話が焼ける」
 愛車のダークブルーのウインダムを運転しながら、鳴海先生は言った。
「あらぁ、そんなコト言うわけ? こんなか弱いレディーを、ひとりで帰らせる気?」
「か弱い……日本語は正しく使ってくれ、由梨奈」
 助手席の由梨奈に、鳴海先生は深く溜め息をつく。
 そんな鳴海先生の様子にお構いなく、由梨奈は楽しそうに笑った。
「あ、ねぇねぇ、せっかくだからドライブでもしない? 隣にこんな美女を乗せてドライブなんて、このなるちゃんの幸せ者っ」
「勝手に話を進めるな、俺はおまえと違って忙しいんだ」
「なによぉ、照れちゃって」
 ちらりとその切れ長の瞳を由梨奈に向け、鳴海先生は言った。
「ここで降ろすぞ、由梨奈」
「あら、できるものならやってみなさいよ、なるちゃん」
「…………」
 はあっと溜め息をついて、鳴海先生は諦めたように由梨奈から視線を逸らす。
 由梨奈は、そんな鳴海先生に言った。
「そう言えば、あのお方はお元気かしら?」
 由梨奈の言葉に、鳴海先生は再び由梨奈に目を向ける。
「まだ会っていないのか? 相変わらずだ、あの人は」
「だって、忙しそうですもん。お電話はいただいたんだけどね」
「あの人と言えば、そういえば清家が……」
 信号に引っかかりブレーキを踏んでから、鳴海先生はそう呟く。
 由梨奈は、その言葉に首を傾げる。
「? 眞姫ちゃんが、どうしたの?」
「清家が、あの傘を持っていたんだ。すみれ色の……」
「え? あの傘を?」
 信号が青に変わり、鳴海先生は再び車を発進させる。
 真っ直ぐに道を見据え、鳴海先生は呟いた。
「いかにもあの人が、やりそうなことだ」
「なるちゃん……」
 由梨奈は複雑な表情で、鳴海先生を見つめる。
 鳴海先生は流れ行く景色に見向きもせず、何かを考えるように車を走らせたのだった。




 その頃。
「もう、この辺で大丈夫よ。ありがとう」
「ああ。またな、姫」
 家の近くまで健人に送ってもらった眞姫は、彼の後姿に手を振る。
 そして健人の姿が角を曲がり見えなくなって、再び歩き出した。
 すっかり陽も落ち、あたりは暗くなっている。
 雲ひとつない空には、綺麗な円を描く美しい月と輝く星が見える。
 眞姫はふと立ち止まり、その月をじっと見つめた。
 キラキラと自分を照らす月は、優しく微笑みかけているかのように眞姫には見えた。
 身体の中に、不思議な何かが漲ってくるような。
 月の光を浴びるたび、そんな気持ちになるのだ。
 眞姫が月に思いを馳せていた、その時。
 眞姫はふと月から瞳を離し、目の前に視線を移した。
 そこには、見たことのある立派な外車が止まっている。
 そして、中から出てきたのは。
「美しい星月夜だね。こんばんは、お姫様」
「あっ! あの時の」
 眞姫は、その人物を見て驚いた表情を浮かべる。
 その人物・眞姫に傘をくれた紳士は、にっこりと微笑んだ。
 眞姫は慌てて、その紳士に言った。
「あ、あの! この間は、傘ありがとうございました。それで、あの傘やっぱりお返ししようと……あっ、家この近くだから取ってきますっ」
「おや、待ってごらん、お姫様」
 急いで家に傘を取りに行こうとした眞姫を紳士は制止する。
 そして、言った。
「あの傘は、君にあげたものだよ。貰ってくれないかな」
「でもあんな綺麗な傘、頂けないです。それに、大切な人のものなんでしょう?」
「大切な人のものだからこそ、君に使って欲しいんだよ」
 紳士の優しい瞳に見つめられ、眞姫はこれ以上断ることもできず、どうしたらいいのか分からない表情をする。
 そんな眞姫に、紳士は笑った。
「では、君さえよければこうしよう。傘は君にプレゼントするよ。その代わりと言っては何だが、私と今からドライブしてくれないかね?」
「えっ?」
 紳士の言葉に、眞姫は顔をあげる。
 そして、こくんと頷いた。
「はい、私でよければ」
 眞姫の言葉に、紳士は嬉しそうに笑った。
 そして眞姫の手を取り、車までエスコートする。
 助手席のドアをスマートな身のこなしで開けて、紳士はその整った顔に優雅な微笑みを浮かべる。
「どうぞ、お姫様」
「あ、ありがとうございます」
 少し恐縮した様子で、眞姫は紳士の車に乗り込んだ。
 優しく助手席のドアを閉め、紳士も運転席へと戻る。
「シートベルトは締めたかな? 発進するよ」
「あ、はい。大丈夫です」
 紳士はアクセルを踏み、車を走らせた。
 窓の外の景色が、ゆっくりと動き出す。
 眞姫は、不思議と落ち着いていた。
 普通なら、知らない人の車になど乗らないのだが。
 この紳士の優しい瞳を見ていると、不思議とそんな不安は消えてしまう。
 その瞳の奥に宿る光が、懐かしいような誰かのものと似ているような、そんな気がしてならないのだ。
 眞姫は隣で運転をする紳士の顔を、じっと見つめた。
 紳士のその顔はとても整っていて品があり、ブラウンの澄んだ瞳を持っている。
「つぶらな瞳でそんなに見つめられると、照れてしまうよ。どうしたのかな?」
「えっ? いえ、でも、どうして私にあの傘を?」
「私の思い出話を、少ししてもいいかな」
 眞姫の言葉に、紳士は瞳を細めてそう言った。
 そして頷いた眞姫を見て、おもむろに一枚のCDをかける。
 スピーカーから聞こえてきたのは、クラシック。
 眞姫の知らない曲であったが、その音楽は不思議と眞姫の心の中に自然と溶け込んでいくような、とても不思議で美しい旋律である。
「綺麗で不思議な曲ですね。何ていう曲なんですか?」
「“The holy woman of moonlight〜月照の聖女”という曲だよ」
「“月照の聖女”……」
 眞姫は窓の外に目を向け、悠然と美しい光を放つ月を見上げた。
 淡い月の光の中に漲る、優しさと強さ。
 そんな大きな力を眞姫は感じた。
 そして旋律と月光が溶け合って、キラキラと共鳴しているような感覚さえおぼえる。
 月を見上げて旋律に酔っている眞姫の姿を、紳士は優しい眼差しでじっと見つめていた。
「?」
 眞姫は、ふと紳士の眼差しに気がつき、不思議そうな表情を浮かべる。
 そんな眞姫に、紳士は言った。
「私の大切な人も今の君のように、この曲を聴きながら月を見上げていたよ」
「大切な、人」
 眞姫にはそれが、あの傘の本来の持ち主と同じ人物であることが分かった。
 紳士は、ひとつひとつ思い出を噛み締めるかのように、ゆっくりと話始める。
「彼女は、大きな使命を抱えて生きてきた強い女性だった。凛としていて、いつも冷静で。彼女は特別な大きな力を持っていたが、その反面、身体が幼い頃から丈夫ではなかった。使命を全うするために、精神的に強い人間を演じる。そうやって、彼女は生きてきた」
「特別な力、って」
 紳士の言葉に、眞姫は反応を示す。
 そんな眞姫に微笑んでから、紳士は話を続けた。
「でも、私だけは知っていたんだ、彼女の繊細さを。彼女は人前で弱さを見せない女性だったが、月明かりの下でこの曲を聴いている時、涙を流したんだ。私はその姿を見て、彼女こそが“月照の聖女”だと、いつも思っていたよ」
「おじさまはその人のこと、本当に愛しているんですね」
 眞姫は、率直に感じたことを口にした。
 彼の瞳を見れば、その“月照の聖女”に対する深い想いが、よく伝わってくる。
 そして、その“月照の聖女”も、きっと紳士のことを愛していたのだろう。
 眞姫は、そう思ったのだった。
「愛しているよ。目でその姿を見ることはできなくなっても、私の心の中で彼女は今でも輝いているからね」
 そう言って紳士は、少し寂し気な表情を浮かべる。
「目で姿を見ることができないって」
「彼女は15年前に、病気で他界したんだ」
「…………」
 眞姫は、言葉を失って俯いた。
 紳士の心が切ない旋律とシンクロして、胸が痛かった。
「確かに寂しいことだけど、私は平気だから。そんな顔をしないで、お姫様」
 眞姫の表情を見て、紳士はあたたかい微笑みを向ける。
「彼女は、たくさんのかけがえないものを残してくれた。そして私は、彼女の意思を受け継いでいく決心をしたんだよ」
「彼女の、意思?」
 紳士の瞳を真っ直ぐに見つめてから、眞姫は呟いた。
 車が信号に引っかかり、紳士は車を止める。
 そして眞姫の姿をその優しい瞳に映して、言った。
「最初に話したよね、彼女には、特別な大きな力があるって」
「! それって!?」
 ハッと顔を上げ、眞姫はじっと紳士の次の言葉を待つ。
 紳士は車を発進させ、瞳を細めた。
 それから車は大通りから右折し、細い横道に入る。
 そしてちょうど、CDの演奏が終わった、その時。
「さぁ、お姫様。到着ですよ」
 横道に車を止め、紳士は眞姫に笑顔を見せる。
 気がつくと、いつの間にかそこは、眞姫の家のすぐ目の前であった。
「どうして私の家を知ってるんですか? それに、おじさまは一体」
「そう言えばまだ名乗っていなかったね、失礼。そうだね、“傘の紳士”とでも言っておきましょうか、お姫様」
「…………」
 眞姫は紳士のその言葉に、きょとんとする。
 そんな眞姫の様子に笑って、紳士は車から出た。
 そして、助手席のドアを開ける。
 眞姫はゆっくりと車を降り、その紳士の上品な顔を見つめた。
「今日は楽しい時間をありがとう、お姫様」
「いえ、私の方こそ、楽しかったです」
 眞姫の言葉に微笑みを返してから、紳士は再び車に乗り込む。
「またきっと会えるよ。現代の“月照の聖女”のお姫様」
「え?」
 走り去る車の後姿を呆然と見つめながら、眞姫はその場にしばらく立ち尽くしていた。
『彼女は、特別な力を持っていたんだよ』
 紳士の持つあたたかい瞳と“月照の聖女”のメロディーが、眞姫の脳裏に焼きついている。
 そして歩き出した眞姫は、ふと呟いた。
「結局あの傘のおじさま、一体誰なんだろ?」