次の日の朝。
 眞姫は、その大きな瞳を眠そうに擦った。
 昨日の夜あった出来事を考えると、なかなか寝付けなかったのだ。
 自分の無力さを思い知らされ、眞姫は落ち込んでいた。
 自分の中の“浄化の巫女姫”の力は、はたしていつになったら覚醒するのだろうか。
 それ以前に、自分が本当に現代の“浄化の巫女姫”であるのだろうか。
 確かにこの世に存在しないもの、いわゆる“邪”の姿は、昔から見えていた。
 でも、自分の中に大きな力が眠っているということに、すっかり眞姫は自信がなくなっているのだ。
 大きく嘆息しながらも、眞姫は地下鉄の階段をゆっくりと降りる。
 いつものように改札に定期券を通し、いつも乗る車両の停車位置までホームを歩く。
 そして、いつも目にする後姿を見つけ、眞姫は声をかけた。
「健人、おはよう」
 その声に振り返った健人は、そんな眞姫にちらりと視線を向けて言った。
「……ああ」
 普段はそんなに感情を表情に出すことのない健人ではあるが、今日の彼の表情はいつもとは違うものであるというに気がつき、眞姫は首を傾げる。
 そんな健人に言葉をかけようとした時、ホームに電車が入ってきた。
「…………」
 眞姫は満員の電車の中で、健人に視線を向ける。
 健人は眞姫の隣で、無言のまま何かを考えているようである。
 いつもそんなに口数が多いわけではない健人だが、この沈黙は何だか、重い。
 そんな雰囲気に耐えかねて、眞姫は遠慮がちに健人に声をかけた。
「健人、どうしたの?」
「どうしたって、何がだ?」
 ふと自分に向けられた健人のブルーアイにドキッとしつつ、眞姫は言葉を続けた。
「いや、今日ずっと黙ってるから。どうしたのかなって」
「ああ。ちょっと、考え事」
 素っ気無くそれだけ答えて、健人は眞姫から視線を逸らした。
 何か健人を怒らせるようなことをしただろうか。
 全く思い当たる節のない眞姫であったが、見るからに不機嫌な健人を見て、今まで交わした彼との会話をできる限り思い出してみる。
 それでも何も、心当たりは見つからなかった。
 健人につられて眞姫も無言のまま、そばのてすりをぎゅっと握る。
 眞姫は、大きく溜め息をついて俯いた。
 自分が未だ能力に目覚めないことに、苛立っているのだろうか。
 大きな力があるのに、いつも役に立たない。
 完全に、映研のみんなのお荷物になっている。
 いつもは健人との楽しいこの時間が、今の眞姫には辛く、長いものになっていた。
 そしてようやく駅に到着し、同じ制服を来た生徒たちが一斉にホームに降りる。
 相変わらず何も言葉を発しない健人の数歩後に続き、眞姫は改札を出た。
 そして学校までの道のりをしばらく歩いた、その時。
 前を歩いていた健人が、ふと振り返る。
 眞姫はその視線に、思わず立ち止まってしまった。
 急にその足を止めた眞姫に、健人は首を傾げる。
「姫?」
「健人、ごめんね」
「え?」
 眞姫の言葉に、健人は驚いたような表情を浮かべた。
 そんな健人にその大きな瞳を向け、眞姫は言った。
「私、何か健人の気に障ることしたかな?」
「? 何言ってるんだ、おまえ?」
「健人、ずっと黙ったままだから」
 そう言って俯く眞姫を見て、健人は眞姫の目の前まで歩を進める。
 そして、言った。
「黙ったままって、まさかおまえ、自分が原因で俺が黙ってるとか思ってたのか?」
「え? 違うの?」
 きょとんとしている眞姫に、健人は首を横に振った。
「誤解だ、姫。俺が姫に何か怒ってるって思ってたのか? 全然違うよ、むしろ……」
 そこまで言って、健人はふとその言葉を切って俯く。
 眞姫は、そんな健人の様子に首を傾げた。
「健人?」
「ごめん、姫。俺が姫を誤解させるようなことしたから……ただ、俺がガキなだけなんだ」
 話が見えず、眞姫はじっと健人を見つめる。
 健人は大きく溜め息をつき、言葉を続けた。
「昨日の夜のことは聞いたよ。だから、さっき駅で姫と会って無事な姿見て、ほっとしたんだ。でも昨日は、俺はおまえを助けに行ってやれなかった。そのこと考えると、すごく悔しい」
「健人……」
 くっと唇を結んで俯く健人の手を、眞姫は取る。
 その指の感触に、健人は驚いたように顔を上げた。
 そんな健人に、眞姫はにっこりと微笑む。
「ありがとう、健人。健人は、十分私のこと助けてくれてるよ」
「……姫」
「今日は実力テストよ。早く学校行って、最後の足掻きしなきゃね?」
 健人はその顔にふっと微笑みを浮かべてから眞姫の頭にポンッと手を乗せ、言った。
「ありがとな、姫」
「さぁ行こ、健人」
 ふたりは並んで、学校への道のりを再び歩き出した。
 その眞姫と健人の表情は先程とはうって変わり、晴れ晴れとしたものに変わっていた。
 そして学校に着いて健人と靴箱で別れ、眞姫は教室に向かう。
 廊下を歩いていた、その時。
「おっ、姫! 今日も相変わらずカワイイなぁっ」
「祥ちゃん、おはよう」
 背後から聞こえた声に振り返り、眞姫はハンサムな顔に笑顔を浮かべるその少年・瀬崎祥太郎を見た。
 そんな眞姫ににっこり微笑んで、慣れたように祥太郎は眞姫の腰に手を回す。
「今日は朝から姫に会えるなんて、ラッキーデーやなぁっ」
 その時。
「おい、姫にベタベタするな、祥太郎」
 眞姫の肩を抱こうとした祥太郎をぐいっと離して、いつの間にそこにいたのか、目の前に現れた拓巳は大きく溜め息をついた。
「あ、おはよう、拓巳」
「おう、おはよう、姫。昨日あれから、ちゃんと准に送ってもらったか?」
 照れたように髪をかきあげて、拓巳は笑う。
 一瞬、昨日拓巳に抱きしめられたことを思い出し俯いた眞姫だったが、こくんと頷いた。
「う、うん。昨日はありがとうね、拓巳」
「礼なんていいぜ、これからも姫は俺が守ってやるからな」
 そして3人が、教室に向かうために階段を上り始めた時。
「おっはよー、眞姫っ」
 ガバッと後ろから抱きつかれて、眞姫はふいを付かれたように驚いた表情を浮かべる。
 そして振り返った眞姫に、抱きついてきた梨華はにっこり笑う。
「おはよう、眞姫! 小椋くんもおはよーっ。あ、祥太郎、アンタもいたの?」
 わざとらしくちらりと自分を見る梨華に、祥太郎は言った。
「いたのって、ヒドイなぁ梨華っち。いいなぁ、俺も姫を後ろからぎゅーってしたいわぁ」
「朝っぱらからバカなこと言ってんじゃないわよ、祥太郎」
 べっと軽く舌を出して、梨華は祥太郎を見る。
 やれやれといった表情を浮かべて微笑み、祥太郎は髪をかきあげた。
「おーおー、朝っぱらから威勢だけはいいなぁ、梨華っち」
「何よ、どーいう意味よ、それ」
「言ったとおりの意味や? 貫禄あるなぁ、相変わらず」
「貫禄って、こーんなピチピチの女子高生に向かって、失礼ねぇっ」
「ソレって、ツッこまれるために言ってる台詞にしか思えんのやけど」
「はじまったぞ、いつもの夫婦漫才」
 言い合いをするふたりを見て、拓巳は笑った。
 眞姫も拓巳の言葉に、クスクスと笑う。
「漫才ってちょっと待ってや、この姉ちゃんはともかく、俺はお笑いってよりもハリウッドスターってキャラやん」
「はぁ? アンタこそ、わざと笑い取りたくて言ってるでしょ、その言葉」
 ふうっと嘆息してから、梨華は今度は眞姫に視線を向けた。
「あ、そうだ、今日のテストさ、眞姫はどこが出ると思う? 特に、あのたちの悪い数学よ、問題は」
 梨華の言葉に少し考えて、眞姫は言った。
「んー、178ページの照明問題、鳴海先生細かく解説してたから出そうだなぁって思うんだけど」
「おっ、なるほどなぁっ。姫が言うんや、最後の足掻きでチェックしとこ」
 感心したように頷く祥太郎の隣で、拓巳は大きく溜め息をつく。
「数学って言葉だけでも頭痛いのによ、極めつけ鳴海だもんな、吐き気がするぜっ」
「あーもう本当っ、期待を裏切らずいやらしい問題出すに決まってるよ、あーやだやだっ」
 苦笑する梨華と拓巳の方に視線を移した眞姫は、あっと短く叫んだ。
 そんな眞姫の様子に、拓巳と梨華は振り返る。
「随分と楽しそうだな、おまえたち」
「げっ、鳴海っ!」
「あっ、な、鳴海先生っ!」
 切れ長の瞳をじろっと拓巳に向けてから、その場に現れた鳴海先生はわざとらしく溜め息をついた。
「くだらないことを言っている暇があったらさっさと自分の教室に戻って、公式のひとつでも覚えたらどうだ?」
「うるせぇなっ、おまえこそわざと気配消して近づくなよなっ、悪趣味っ」
 キッと反抗的な視線を向ける拓巳から、鳴海先生は今度は眞姫に目を移す。
 急にその瞳を向けられ、眞姫はドキッとする。
 そんな眞姫に、鳴海先生は言った。
「清家、今日の部活動に行く前に、数学準備室まで来るように。話がある」
「え? あ、はい」
 それだけ言うと、鳴海先生は眞姫たちに背を向けて歩き出す。
 眞姫はどうして自分が数学教室に呼ばれたのか、容易に想像することができた。
 きっと、昨日の夜“邪者”に襲われたからであろう。
 そして眞姫は、小さくなっていく鳴海先生の後姿を見て、ある決意をしたのだった。






 その日の放課後。
「ヤバイって。何、アレ!?」
 ホームルームも終わった放課後の教室で、梨華はがっくりとうなだれる。
「すごく難しかったね、数学の問題」
「やっぱり、鳴海って鬼よねぇっ! もーう、全然ダメだったしっ」
 ぶんぶんっと頭を振って、梨華は溜め息をついた。
 眞姫は、そんな梨華を慰めるかのように笑いかける。
「まぁまぁ、あんなに難しかったら、きっとみんな点取れてないって」
「あーもう、数学なんて忘れようっと! じゃあ眞姫、また明日ねぇ」
 そう言って鞄を持って、梨華は手を振って教室から出て行った。
 梨華に手を振り返してから、眞姫も教科書を鞄にしまう。
「あ、姫。今から部活に行くよね?」
 前の席から振り返った准が、椅子から立ち上がって言った。
「私、部活の前に鳴海先生に呼ばれてて。今日は先に行ってて、准くん」
「鳴海先生に? そっか、じゃあ先に行ってるから」
 眞姫の言葉に少し怪訝な表情をした准だったが、すぐに眞姫に笑顔を向ける。
「うん、あとから私も行く」
 そう言って准を見送ったあと、眞姫も数学準備室に向かうために教室を出た。
 放課後の廊下は、生徒たちで賑わっている。
 そして階段を降りながら、眞姫は窓の外に目を移す。
 運動場では、野球部が部活を始める前の準備体操をしていた。
 そんなごく普通の学校の風景を見ながら、眞姫は数学準備室の前に来た。
 もう数度もここには来ているが……いつも、何故か妙に緊張する。
 ふうっと一度深呼吸をして、眞姫はそのドアをノックした。
「失礼します」
 ガラッと遠慮気味にそのドアを開けて、眞姫は室内に視線を移す。
 鳴海先生はいつものように、デスクに座っていた。
「そこに座りなさい、清家」
 ちらっと眞姫にその瞳を向けて、鳴海先生はそう言った。
 眞姫は言われたままに、勧められた椅子に座る。
 今日の実力テストらしきものを採点していた手を止め、鳴海先生は眞姫に向き合った。
 そして赤のペンを胸のポケットにしまうと、口を開いた。
「では今日は、少し趣向を変えよう。まず君からの質問を受け付ける」
「え?」
 鳴海先生の言葉に、眞姫はきょとんとする。
 質問と言われても……昨日の夜の出来事についてでいいのだろうか。
 事情をすべて理解できていない眞姫は、一体何から聞けばいいのか少し悩んだ。
 そして、遠慮がちに言った。
「あの、昨日の夜に会った“邪者”なんですけど、彼らは一体? それに、映研のみんなの“気”とも、この前浄化した“憑邪”の“気”とも、その雰囲気が違うような気がしたんですけど」
「昨夜君の前に現れた“邪者”は、君の言うように、映研部員である“能力者”とも、精神体が人間の身体に憑依した“憑邪”とも別の存在だ。“憑邪”は人間に甘い誘惑を囁き“契約”を交わさせて身体を乗っ取るものであるが、“邪者”は作為的に人間が“邪”の力を利用しているのだ」
「“邪”の力を、利用する?」
 眞姫は鳴海先生の言葉に、表情を変える。
 そんな眞姫を見ながら、鳴海先生は続けた。
「“憑邪”は“邪”がその主導権を握っているが、“邪者”は人間が主導権を握る。“邪者”として力を得ることのできる人間は限られている上、その力を得るためにはそれなりの危険が伴うようだが、成功して“邪”の力を得た人間は“能力者”と似た力を使える」
「でも“邪者”は、そんな力を得て何をしようとしてるんですか?」
「詳しいことはまだ分からない。ただ彼らは“邪”にとって脅威である力を持つ君の、そして“邪”を退治する“能力者”の敵であることは確かだ」
 鳴海先生の言葉に、眞姫は顔をあげる。
 鳴海先生の言うように、確かにあの“邪者”である智也は、拓巳と同じように“気”を使って攻撃をしていた。
 あれが“邪”を取り込んだ“邪者”の力であり、そして彼らは“能力者”の敵であるという。
 眞姫は昨日の拓巳と智也の戦いのことを思い出しながら、考える仕草をする。
 それからそんな眞姫に、鳴海先生はゆっくりと言った。
「そんな“憑邪”と“邪者”の最大の違い、それは“浄化の巫女姫”の能力の効き目が違うことにある」
「え?」
“浄化の巫女姫”という言葉に、眞姫は反応を示す。
 鳴海先生は、一息おいてから再び話を続けた。
「先日君は“憑邪浄化”の能力を使い、人間に憑依した“邪”だけをその身体から追い出すことができた。だが、人が主導権を握る“邪者”によって取り込まれた“邪”は、そこから引き離すことができない」
「じゃあ、私の能力は、“邪者”には効かないということですか?」
「そうではない。君の能力は“邪”の力すべてに非常に有効にはたらく。取り込まれた“邪”を浄化することはできなくても、十分に“邪者”の能力を封じる力はあると言える」
「…………」
 眞姫は、ふと俯く。
 どちらにしても、その“浄化の巫女姫”としての力が使えない自分にとっては、まだまだ実感の湧く話ではないのである。
 そんな眞姫の心情を察してか、鳴海先生はそこで言葉を切った。
 そして、その切れ長の瞳を眞姫に向ける。
「君は、今はなるべく単独行動を控えろ。それに、焦っても力が蘇るわけではない。覚醒すべき時に開花するものだ」
「鳴海先生、でも私、守ってもらうばかりじゃダメだと思うんです」
 眞姫はぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げた。
 鳴海先生は、眞姫の言葉をじっと聞いている。
「焦っても力は蘇らないかもしれません。でも、何もしないで、みんなに頼ってばかりでもダメだと思うんです。だから、私っ」
「清家、私は君を危険な目にさらすような真似はしたくない。とにかく、君は狙われている立場だということを忘れるな」
 眞姫の言葉を遮るようにそう言って、鳴海先生は時計を見た。
「もうすぐ部活開始の時間だ。先に視聴覚室へ向かいなさい」
「…………」
 眞姫は鳴海先生のいう通りに椅子から立ち上がり、数学準備室のドアを開ける。
 そして数学準備室を出ていく、その直前。
 もう一度眞姫は、ふっと鳴海先生に目を向ける。
 鳴海先生は、その切れ長の瞳でじっと眞姫の方を見ていた。
 そんな鳴海先生に、眞姫は意を決して口を開く。
「鳴海先生、お願いがあるんですけど」
 その頃、視聴覚準備室では。
「姫、遅くねぇか?」
 落ち着かない様子で、拓巳はそう言った。
「拓巳、さっきから何度目? その台詞」
 呆れたように笑って、准は拓巳を見る。
「…………」
 健人も黙ってはいるが、その様子は落ち着かない。
「何や、ある意味“邪”よりもタチ悪いからなぁ、あの悪魔」
 祥太郎もその前髪をかきあげてから、ふうっと嘆息した。
 そんなみんなの顔を見回して、梓詩音は言った。
「そんなに心配しなくても、あと1分54秒後にお姫様は王子のもとにやってくるよ」
「そうか、もうすぐ来るんだな、姫は。鳴海のヤツはどうだ?」
 拓巳はそう言って、詩音の言葉に時計をちらりと見る。
 詩音はその拓巳の言葉に、笑った。
「拓巳、僕の能力を使わなくても、あの悪魔が来る時間は分かるだろう?」
「時間ぴったり、か」
 そう呟き、健人も時計を見る。
 祥太郎は近くのテーブルに頬杖をついて言った。
「時間に遅れようもんなら、容赦なく叩きのめされるからなぁ。姫の前ではそれ見せんのが、またいやらしいしな、アイツ」
「そうだよ、姫の前では猫かぶりまくりやがってよっ」
 ちっと舌打ちして、拓巳は面白くなさそうな顔をする。
 その時。
 ドアのノックする音がし、それが遠慮がちに開いた。
「遅くなっちゃった、こんにちは、みんな」
 視聴覚教室に入ってきた眞姫に、5人は一斉に目を向ける。
「おっ! 姫、待ってたぜっ」
「姫、いつ見ても可愛いなぁっ。なぁなぁっ、今度ふたりでデートせぇへん?」
「ご機嫌麗しゅう、僕のお姫様」
「……姫」
「まだ部活開始の時間じゃないから、そんなに急がなくても大丈夫だったよ、姫」
 思い思いに自分に言葉をかける5人を見て微笑んでから、眞姫は上靴を脱いで、視聴覚室へと上がる。
 その時、時計の針がぴったり17時をさした。
 それと同時に、がちゃっと再び視聴覚室のドアが開く。
「全員揃っているな」
 いつものように時間ぴったりに現れた鳴海先生は、それだけ言うと隣の視聴覚準備室へと向かった。
 5人の少年と眞姫は、それに続いて準備室へと歩を進める。
 いつもの席に部員それぞれが座るのを確認すると、鳴海先生は言った。
「今日は、1本の映画を観てもらう。そして3日以内に私に作品を観た感想をレポートで提出すること」
「え?」
 鳴海の言葉に、その場にいる全員がきょとんとする。
 当然、昨日の夜の出来事・“邪者”についての話をするのだろうと、誰もが思っていたからだ。
 そんな部員たちの様子を気にすることもなく、鳴海先生は続ける。
「今日観てもらう作品は、歴史的にも偉大なる功績を残すある人物の生涯を描いた作品だ」
「おいおい、ちょっと待てよ。今は映画観るよりも大事なコトがあるだろ?」
 拓巳は机に頬杖をついて、鳴海先生の言葉を遮るように言った。
「今は部活動の時間だ。言っただろう、映研の活動もきちんとするとな」
「映研の活動って、“邪者”のことはいいのか?」
 健人のその言葉に、鳴海先生はちらりと眞姫を見てから答える。
「その話は、もうすでに清家には話した。おまえたちにも、それぞれ指示を与えている。それ以上何を話すことがある?」
「それなら、話題作みたいな全米ナンバーワン系のアクション映画とか観たいわ。偉人系の話はただの子守唄やし。何より、レポートって何やねん」
 ぼそっとそう呟く祥太郎に嘆息してから、鳴海先生は立ち上がった。
「つべこべ言うな。上映時間は2時間半だ。さっさと視聴覚教室へ移動しろ」
「そんなに長いんか!? 確実に寝るな、こりゃ」
 はあっと頭を抱える祥太郎の隣で、拓巳は声を上げる。
「2時間半!? うそだろ!? 今日、楽しみにしていたサッカー中継があるのによっ」
「サッカーは諦めるしかないよ、拓巳。あの人が、ああ言ってるんだからね」
 准は諦めたように、鳴海に続いて準備室を出る。
「仕方ないね、オペラやミュージカル鑑賞の方が僕には似合ってるんだけどね」
 詩音もそう言って嘆息して、准に続く。
 憂鬱な表情をする祥太郎の肩をぽんっと叩いて、健人は言った。
「あいつの選んだ映画の途中で寝たら、その方が地獄を見るかもな、祥太郎」
「げっ、寝たら死ぬぞーっちゅうヤツか? これって」
 眞姫は、落ち込んでいる拓巳に声をかける。
「拓巳、一緒に映画観よっか、ね?」
「姫、ずっと楽しみにしてたんだよ、今日のサッカー。なのに、鳴海の野郎っ! どこまでオレに嫌がらせすれば気が済むんだ、あいつはっ」
「きっとスポーツニュースで結果もやるよ、拓巳」
「ああっ、リアルタイムで観るのがスポーツ観戦の醍醐味なのによっ」
 がっくりとうなだれて、納得いかない表情のまま拓巳もしぶしぶ準備室を出る。
 眞姫は最後に準備室を出てドアを閉め、そして嘆息したのだった。




 2時間半のためになる映画を観終わって、眞姫はすっかり薄暗くなった帰り道を歩いていた。
 帰り道が同じ方向の健人と駅で別れて、眞姫は地下鉄の階段を上った。
 その時。
「あっ、雨?」
 眞姫は地上に出てから、困ったように空を見上げる。
 さっきまでは降っていなかった雨が、地面を濡らしている。
 小降りならば走って帰ればいいのだが、本降りである。
 とりあえず近くのコンビニまでダッシュして、傘を買おうか。
 なかなかやみそうにない雨を見て眞姫が溜め息をついた、その時だった。
 目の前に、高級そうな立派な外車が止まった。
 そして運転席から出てきたのは、上品そうな中年の紳士。
 その整った顔に微笑みを浮かべ、その男は眞姫に言った。
「お困りですか、お姫様。急に降り出したからね」
「え? あ、はい」
 突然話しかけられ、眞姫は驚いた表情を浮かべてその紳士を見る。
 そんな眞姫に優しく笑顔を向け、紳士は一本の傘を差し出した。
「よかったら、これを使ってくれないかな」
「え?」
 眞姫は、差し出された傘を思わず手に取る。
 見るからに高そうな、薄いスミレ色のレースがついている傘。
 この紳士のものだろうか。
 それにしては、明らかに女性向けのものである。
 受け取ったはいいものの、どうしていいか分からない様子の眞姫に、紳士は言った。
「これは、私の大切な人が使っていたものなんだ。でも、女性もののデザインで私はさすがに使えないから、君に使って欲しいな」
「え? そんな大切な人の傘、私なんかに?」
「いいんだ、お姫様に使って欲しいんだよ。君の清楚な雰囲気に、この傘はよくお似合いだよ」
 それだけ言って、紳士は自分の車に乗り込んだ。
 そして、きょとんとする眞姫に、にっこりと微笑む。
「またどこかで出会えるかな、お姫様」
「え? あ、ありがとうございます」
 まだ状況がよく理解できていなかった眞姫だが、慌ててお礼を言った。
 そんな眞姫に軽く手を上げ、その紳士は車を走らせて去っていく。
 しばらく呆然とその車の後姿を見ていた眞姫だったが、ハッと我に返った。
 そして、その受け取った傘を開く。
 その綺麗なスミレ色の傘は、光の加減で微妙に色合いが変わる。
「こんな綺麗な色の傘、いいのかな」
 眞姫は、その傘をさして歩き出した。
 やはりあの紳士的な人に、この傘は返すべきではないだろうか。
 大切な人のものだと彼自身も言っていたし。
「でも誰なんだろう、あの人」
 連絡先すら聞けなかった自分に気がつき、眞姫は困った表情を浮かべつつも。
 その綺麗な傘に落ちる雨音を聞きながら、家路についたのだった。