3
……夢を、見た。
真っ暗で、あたりを見回しても誰もいない。
邪悪な空気が、あたり一面立ち込めている。
いくら歩いても、どれだけ走っても……暗黒の世界。
裸足の足の裏からは、血が滲みだしている。
よどんだ空気が肺に侵入してきて、ごほごほとむせ返る。
どこだろう、ここ?
しばらく歩いた挙句、ついに私は、その場に座り込んでしまった。
その時。
『こっちに、おいで』
地の底から、低い声が響き渡る。
その声は、とても不気味で。私の心の中に、無理矢理入ってこようとしている。
『おいで。私とひとつになれば、楽になれるから』
私は、ふと立ち上がった。
血の滲んだ足が、ズキッと痛む。
本当にあの声の言うとおりにすれば、楽になれるんだろうか?
私は最後の力を振り絞って、声のする方に歩き出そうとした。
この世界から、抜け出したい。
その一心で足を踏み出そうとした、その時。
「おい、待て!」
誰かに、ガッと腕をつかまれる。
そして耳元で、優しく包み込むような声がした。
「行くな、行っては駄目だ。そばにいろ、守ってやるから」
私は、後ろからギュッと……その人物に抱きしめられる。
あったかくて、心地よくて。
守ってやる、その言葉が心に響いて。
私はその温かさに、身を委ねた。
……すると、次の瞬間。
パアッと、視界がひらけた。
よどんでいた空気が吹き飛び、爽やかな風が顔をくすぐる。
血が滲んでいた両足の痛みは、跡形もなく消えていた。
そして私は、ふっと振り返る。
そこには……。
「……ん」
ジリリリッと、目覚ましの音がけたたましく鳴り響いていた。
「朝……?」
眞姫は身体を起こし、目をこする。
「誰、だったっけ……あれ」
私のことを守ってくれるって言ってくれ抱きしめてくれた、あの人。
知っている人、だったんだけどな。
肝心なところを忘れるなんてと、眞姫はうなだれる。
――4月9日・金曜日。
眞姫は学校へ行く支度をして、昨日と同じくらいの時間に家を出た。
今日も青空が広がっている、天気のいい日。
眞姫は、地下鉄の駅の階段を降りた。
一瞬、昨日の不気味な青白い物体・“邪”のことを思い出し、眞姫は苦笑する。
そして普段どおり賑わいを見せているホームの光景を目にして、ホッと安堵した。
その時。
「あ……」
眞姫は、ある人物の姿を見つけた。
「健人、おはようっ」
「あ、姫……おはよう」
眞姫の声に振り返ったのは、片目の青い少年・蒼井健人だった。
そして電車が入ってきて、ふたりは中に乗り込む。
「昨日も、この時間の電車だったよね」
眞姫は混雑している車内で、そう健人に言った。
健人は、相変わらず表情を変えずに答える。
「ああ、いつもテレビの、今日の占いカウントダウン見て家出るから」
「占い?」
健人の意外な言葉に、眞姫はちらりと視線を向ける。
「ん? どうした?」
その視線を感じて、健人は不思議そうに眞姫を見た。
「え? いや、ちょっと意外かなーって」
「そうか?」
いつも冷静に見える健人も、自分の星座が運勢最下位だったらやっぱりブルーになったりするのかな? などと考えると、何だか眞姫は可笑しくなった。
「……?」
笑いをかみ殺している眞姫に、健人は首をひねる。
……と。
「! きゃっ」
突然、ガタンッと車両が大きく揺れた。
「! おい、大丈夫か?」
「あ、ありがとう」
眞姫は、顔を赤らめて健人に言った。
倒れそうになった眞姫を、健人が間一髪で支えたのだ。
その腕の感触に、眞姫はドキドキする。
「……おまえさ」
「な、なに?」
ちらりと自分を見る健人に、眞姫は顔をあげる。
はあっと溜め息をついてから、健人は言った。
「おまえ今、俺の足、思いっきり踏んだ」
「え? そう?」
その言葉に、慌てて眞姫は健人から離れる。
「そう? じゃないだろ、ごめん、だろう?」
「あ、ごめん、ごめん」
「……姫、本当にすまないと思ってるのか?それ」
もういい、と、健人はもう一度嘆息する。
そして、再び眞姫に目を向けてから、言った。
「そういえば姫、昨日の歓迎会でお菓子食いまくりだったよな。どうりで」
「……どうりで、何?」
ムッとした表情で、眞姫は健人に目を向ける。
そんな眞姫に、健人は笑った。
「本当に姫って、反応が単純だな」
「た、単純ってっ。どうせなら、素直って言ってよねっ」
からかわれたと気がつき、眞姫は顔を真っ赤にした。
そして、抗議の目で健人を見る。
と、その時。
「あ……」
眞姫は、目を見張った。
目の前にいる健人が、ふっと浮かべた笑顔。
はじめてみるその美少年の笑顔に、眞姫は目を奪われる。
「? どうした?」
自分をじっと見ている眞姫に、健人はもとのクールな表情で首を傾げた。
「え、いや……」
まさか、綺麗な顔に見惚れていた、と言えるはずもなく、眞姫は真っ赤になって俯く。
胸が鼓動を早め、その音が健人に聞こえそうで。
何故か気まずくなって、眞姫は目を伏せる。
「おい、姫」
「……な、なに?」
急に声をかけられて、眞姫は驚いたように顔をあげた。
「なに、じゃないだろう、降りないのか?」
「え? あっ!」
いつの間にか下車する駅についており、眞姫は慌てて電車を降りた。
そんな眞姫に、健人は不思議そうに言った。
「大丈夫か、おまえ。熱でもあるんじゃないか? 顔、赤いぞ」
「えっ? 電車の中が暑かったから、かな?」
「冷房ガンガンで、寒いくらいじゃなかったか? 電車」
「……そうだっけ」
はあっと溜め息をついてから、眞姫は健人をもう一度見た。
それから学校まで、楽しく健人と登校をし、クラスが別のため靴箱で彼と別れた。
何だか朝からちょっと嬉しい気分になりつつ、眞姫は上靴に履き替える。
「眞姫ちゃ〜ん、おはよーっ」
ぽんっと背中を叩かれ、眞姫は振り返った。
そこには、相変わらず明るい印象の元気な少女・クラスメートの立花梨華が立っている。
「あ、おはよう、梨華」
そんな眞姫に梨華は、意味あり気に笑った。
「ねーねーねー、あの一緒に登校してたモデルみたいなかっこいい人って、眞姫の彼氏?」
一瞬、何を言われたか、眞姫は分からなかった。
そして。
「ええっ!? ち、違うよっ」
「違うの? 何か仲良さ気だったから、そーなのかなーって思ったんだけどなー」
「違う違うっ、同じ……部活の人」
どう言っていいか少し迷いながら、眞姫はそう言った。
眞姫の言葉に、梨華は不思議そうな顔をする。
「え? 部活? もう部活に入ったの?」
「あ、うん。実は」
眞姫は昨日鳴海先生に、強引に映研に入部させられた話を梨華にした。
もちろん、話せる範囲で、なのだが。
「何、それっ!? 眞姫、あの数学教師に気に入られちゃったんじゃないの?」
「え? それは絶対ないよ、めっちゃ冷たくて怖かったもん」
「だって学級委員に指名して、数学教室に呼び出しして、その上自分の顧問の部活にも入部させるなんてヤバイって」
「そ、そんなことないってっ……それはともかく、梨華は彼氏いるの?」
話を変えたくて、眞姫は咄嗟に聞いた。
梨華はその言葉に、はあっと溜め息をつく。
「んー、彼氏はいないのよねー。好きな人はいるんだけど」
「好きな人? そうなんだ、どんな人?」
眞姫は梨華と、教室に向かって階段を上り始めた。
梨華はちょっと照れくさそうに、言った。
「すごくお調子者ですぐ軽口叩くヤツなんだけどさ、実は根は真面目なのよね、そいつ。でもすごくモテるし……何考えてるんだか、イマイチ分からないのよね」
「ふーん、そっか」
梨華の顔を見て、彼女が本当にその人のことが好きなんだなぁというのが、眞姫には分かった。
元気で明るい梨華が頬を赤らめ、途端に女の子らしい表情に変わっているからだ。
と、その時。
「おっ、姫っ!」
バカでかい声が、廊下に響き渡る。
その声に振り返ると、そこには。
「おはようさんっ、姫っ! いやぁ、朝から姫に会えるなんて、運命感じるわぁ」
「あ、祥ちゃん。おはよう」
にこにこと笑いながら近寄ってきたのは、関西弁の少年・瀬崎祥太郎だった。
「あっ、祥太郎!?」
突然、隣にいた梨華が祥太郎の姿を見て驚いたように声をあげた。
「おっと、梨華っち? 梨華っちやないかい」
「梨華っちやないかい、じゃないわよ、何やってるのよ」
はあっと溜め息をつく梨華に、祥太郎は相変わらず調子のいい口調で言った。
「何って、姫君に朝の挨拶やないか。姫、この姉ちゃんに丸めこまれたらあかんでっ?」
「誰がっ、姉ちゃんって? 眞姫、こんな男に騙されたらダメよっ」
「こんな男? 誰のこと……」
「あんたよ、あんたっ」
二人の漫才のような会話に、眞姫は梨華と祥太郎を交互に見る。
「ふたりは、知り合い?」
おそるおそる、眞姫はふたりに声をかけてみた。
「ん? 中学が一緒やったんや。とはいっても俺、中3の時に大阪からこっち引っ越してきたんやけどな」
「眞姫もこいつと、知り合いだったの?」
少し気にかけている様子の梨華に、眞姫は言った。
「うん。さっきも話した……部活で一緒なの」
「そっか、そうなんだ」
そう呟いて、梨華は何かを考える仕草をする。
祥太郎は、その人懐っこい笑顔を梨華と眞姫を交互に向けた。
「じゃあ、名残惜しいけど、うさぎはそろそろ月に帰るとするわ。ほな、またなっ」
にっこり笑ってから、そう言って祥太郎は自分の教室に戻って行った。
眞姫は、祥太郎の後姿を見送る梨華に視線を移す。
もしかして、梨華の好きな人って……。
そう、眞姫が思った時。
「あ、そういえばさぁ、昨日のドラマって、眞姫見てる?」
「え? うん、見てるよ。あのキャストがすごくいいよね」
何事もなかったかのように、梨華は昨日見たテレビの話や、雑誌の話、流行の店の話などをしだした。
眞姫は、さっきの祥太郎に向けられていた梨華の視線が気になりながらも、彼女と一緒に教室に入った。
「おはよう、姫」
「あ、准くん。おはよう」
眞姫が自分の席につくと、前の席の芝草准が振り返って言った。
「昨日遅くなっちゃったけど、大丈夫だった?」
准は、眞姫を気遣いながらそう聞いた。
「うん、平気だったよ。昨日はすごく楽しかったし」
「そうだね、楽しかったよね」
「あ、芝草くんももしかして、鳴海先生に映画研究部に入れられたとか?」
眞姫の隣の席で、梨華が准を見る。
「え? う、うん。でも、映画も好きだし」
少しどもりながら、准は梨華に言った。
梨華は、う〜んと考え込む仕草をしながら呟く。
「やっぱり優等生タイプがあの先生好きみたいねー。なのに何で祥太郎が?」
「? どうしたの、梨華?」
ぶつぶつ何かを呟く梨華に、眞姫は首を傾げる。
「あっ、いや独り言っ」
ハハハッと笑って、梨華は手を振った。
そして眞姫が何かを言おうとした、その時。
おもむろにチャイムが鳴り出し、それと同時に鳴海先生が教室に入ってくる。
相変わらず厳しい雰囲気の先生を見ながら、眞姫は溜め息をついた。
気に入られているとは、到底思えないんだけどなぁ。
そう眞姫が思った、次の瞬間。
「……学級委員、号令はどうした? 清家」
「眞姫、眞姫っ」
隣の梨華に肘でつつかれて、眞姫はハッと我に返る。
先生の切れ長の瞳が自分に向いていることに気がつき、眞姫は慌てて顔をあげた。
「あっ」
学級委員の仕事を、忘れていた。
慌てて眞姫は、ホームルーム開始の号令をかける。
「き、起立……礼っ……着席っ」
そして号令のあと、自分を見ていた切れ長の瞳がフッと逸れ、眞姫はホッと胸を撫で下ろして席に座ったのだった。