准たちと別れた眞姫は、足早に数学教室に向かっていた。
「何か何気に時間遅くなっちゃった。怒られないかなぁ」
 だんだん数学教室に近づくたびに、眞姫は妙に緊張してきた。
(「はぁっ、ちょっと一回深呼吸して落ち着こう……あれ?」)
 その時ふと、眞姫は耳を澄ます。
 目の前の音楽室から、ピアノの演奏が聞こえる。
 そのメロディーはとても優しくて、心地よい。
(「何の曲かはわからないけど、すごく素敵なピアノだなぁ。どんな人が弾いているのかな」)
 美しい旋律に誘われるかのように、眞姫は音楽室のドアをそっと開けた。
 音楽室の一番奥にある大きなピアノを弾いていたのは、ひとりの少年。
 肩くらいの長さのブラウンの髪をなびかせ、いかにも芸術家っぽい少年がその優しい旋律を奏でている。
 思わず惹きこまれてしまうような彼の美しいピアノの音色に、眞姫はすっかり聞き入っていた。
 と、その時。
 ふと、鍵盤を叩いていた彼の指が、ぴたりと止まる。
「そんなところにいないで、入っておいで?」
 透明感のある声で、少年はそう言った。
 その声に眞姫は、ハッと我に返る。
「あっ、演奏の邪魔してごめんなさい。あまりにも、綺麗で優しい演奏だったから」
 そう言って慌てる眞姫に、その少年はにっこりと微笑んだ。
「いいんだ。さっきの曲は君のために弾いていたんだからね、お姫様」
「え?」
 思いがけない少年の言葉に、眞姫はきょとんとした。
 驚いた眞姫の様子を気にすることなく、少年は座っていた椅子から立ち上がる。
「まだ見ぬ迷える姫を導くために、僕はこうやってずっと旋律を奏で続けていたんだよ。そしてやっと今、出会えたね」
「え? あの、あなたは?」
「僕? 姫を待ち続けていた、繊細で人の心を癒す旋律、とでも言っておこうかな」
「…………」
 何というか個性的すぎる少年の言葉に、すっかり眞姫は返す言葉を失っていた。
 でも少年の奏でるそのピアノの音は、その言葉どおりに繊細で優しくて。
 そして聞く人すべてが癒される、包み込むようなスケールの大きさを感じさせるものだった。
 まるで本当に眞姫が来るのを待っていたかのように、心に響いてくる。
「さっきの曲、なんていう曲なの?」
 眞姫は、恐る恐る少年に聞いた。
「さっきの曲? 題名はないよ。即興で、浮かんでくるままに弾いていたからね」
「即興で!? あの、素敵な曲を?」
「ピアノは、僕の心を写す鏡。僕は今、お姫様に会いたいという思いを一心にピアノに込めていた。だから、こうやって君がここに来たんだ」
「……あなたは、一体?」
 眞姫の言葉に、その少年はふっと微笑んだ。
「僕は1年Dクラスの梓詩音(あずさ しおん)だよ、お姫様」
 少年の言葉を聞いて、眞姫はさらに驚いた表情を浮かべる。
 あまりにも有名な名前だったからだ。
「えっ、梓詩音って、あの有名な天才高校生ピアニストの!?」
 はあっと溜め息をついて、眞姫は目の前の少年・詩音を改めて見た。
 確かにあれだけの美しい音色を即興で奏でることができるのは、うわさに聞いていた天才ピアニストの成せる技だといわれれば納得がいく。
 そして詩音は笑って、続けた。
「僕は繊細な旋律だけど、かといって近寄りがたい旋律ではなく、聞く人すべての心を癒す旋律だから。気さくに声をかけてくれていいよ、お姫様」
「あの……お姫様、じゃなくて、私1年Bクラスの清家眞姫っていうんだけど」
 詩音のペースにすっかりはまっている眞姫は、恐る恐るそう言うのがやっとだった。
 だが、相変わらずマイペースに、詩音はうっとりとした目で遠くを見ている。
「ああ、今の僕はお姫様と巡り逢えて、とても気分がいいよ。おっと、音楽の神様が舞い降りてきたようだ、行かないと」
 急にそれだけ言って、詩音は音楽室のドアを開ける。
 去り際に眞姫に視線を移し、そして透明感のある声で言った。
「それではごきげんよう、僕のお姫様。また迷いの森にうっかり足を踏み入れてしまったら、僕の旋律を思い出して。そうすればきっと、大丈夫だから」
「え? う、うん。また」
 髪が風に揺れている詩音の後姿を見送りながら、眞姫は呟いた。
「やっぱり特別な感性を持ってる人って、何だかすごいのね」
 果たしてさっきの会話は会話になっていたんだろうかと多少疑問を残しながらも、眞姫も音楽室をあとにして鳴海先生の待つ数学教室に向かう。
 そして、教室を出てどれくらいがたっただろうか。ようやく、目的の数学教室の前に眞姫はたどり着いた。
 すうっと息を吸って、眞姫はそのドアをノックしようと右手を握り締める。
 その時。
 突然数学教室のドアが、ガラッと勢いよく開いた。
 ノックをしようと意を決した矢先の思いがけない出来事に、眞姫は声をあげる。
「! きゃっ!」
「のあっ! びっくりしたわぁっ……おっ?」
 数学教室から出てきた少年は、驚いた表情で眞姫を見た。
 そして、その後ふっと人懐っこい笑顔を向ける。
「俺、1年Hクラスの瀬崎祥太郎(せざき しょうたろう)って言うんやけど、大阪から出てきたばかりやから、友達少ないんや。うさぎは寂しいと死んじゃうから、仲良うしてなっ、可愛いお嬢さん」
 急に手を握られてそう言われ、眞姫はどうしていいかわからないような表情を浮かべる。
「あ、私、1年Bクラスの清家眞姫っていうんだけど」
「おおっ、可愛い名前やなぁっ、マキちゃんってどんな字書くん?」
「え? 真実の真に、姫っていう字なんだけど」
「おっ、本当に“姫”なんやなっ、よろしくな、姫っ」
「ひ、姫? 私のこと?」
 何だか今日一日で何度も聞いた言葉を再び言われ、眞姫はきょとんとした。
 そして、その少年・祥太郎に視線を向ける。
 目の前の関西弁を喋るその少年はよくみるとなかなかの長身で、その上ハンサムな顔立ちをしている。
 気さくでお調子者な雰囲気は、女の子にモテそうな気がした。
「そない大きくてつぶらな瞳で見つめられたら照れるやん、姫っ。あ、そうや、今度デートしようやっ」
 にこにこと屈託のない笑顔でそう言う祥太郎から視線をそらして、眞姫は言った。
「え? あ、そういえば、数学教室に鳴海先生いる?」
 咄嗟に話題を変えられてガックリ肩を落としたあと、祥太郎は急に小声で言った。
「鳴海先生? ああ、あの目つきのコワい数学教師やろ? アイツはヤバイからな。姫はめっちゃ可愛いし、深く関わると薬飲まされてどこかに売り飛ばされかねんで?」
「そ、そうなの?」
 眞姫は、祥太郎の言葉にさらに目を大きく見開く。
 と、その時。
「……誰がヤバイんだ?」
 突然数学教室のドアが開き、威圧感のあるバリトンの声が聞こえてきた。
 その声に、祥太郎は驚いた顔をして呟く。
「げっ、なんちゅう地獄耳っ」
「地獄耳で悪かったな」
「わわっ! それでは先生、ごきげんよう、さいならっ。姫、今度デートしてなっ」
 それだけ言うと、祥太郎はバタバタとその場を去っていった。
 眞姫はその後姿を見送って、それから鳴海先生に視線を移す。
 相変わらず近寄りがたい雰囲気を醸し出す先生に、眞姫の緊張は高まった。
「まったく、騒々しいやつだ」
 ふうっとひとつ溜め息をついてから、先生は切れ長の瞳を眞姫に向ける。
「清家、では入りなさい」
「あ、は、はいっ」
 中に促され、眞姫は恐る恐る数学教室に入り、勧められた椅子に座った。
 それから先生は事務的に淡々と、学校行事のスケジュールや、今後のクラスの方針などを簡潔にまとめて眞姫に話した。
「学級委員に関して君に話すことは以上だが、何か質問はあるか?」
「え? あの……」
 眞姫は少し遠慮気味に、先生を見た。
 そんな眞姫に、先生はファイルを閉じて目を向ける。
「どうした? 質問は遠慮なく言いなさい」
「どうして、私が学級委員に」
「入試において、クラストップの成績だったからだ」
 冷静にそれだけ言い放たれ、眞姫は次に口に出す言葉を失った。
 そんな眞姫から視線を外さずに、先生は言葉を続ける。
「学級委員に関しての話は以上だ。それで清家。今日だが、予定は入っているか?」
「え? 予定、ですか? 別に、これと言ってないですけど」
 予想もしなかったことを言われ、眞姫はビックリしたように先生を見た。
 そんな眞姫の様子もおかまいなしで、先生は続ける。
「君には、私が顧問をする映画研究部に入ってもらおうと思う。どうだ?」
「映画研究部、ですか?」
 眞姫は、思わず先生に聞き返した。
「今から映画研究部の活動がある。もし時間があれば、君にも参加してもらいたい」
「私にも?」
「何も私は、無理にと言っているわけではない。いやであれば、それでもよろしい」
 言葉とは裏腹に、相変わらず有無を言わせぬようなその口調。
 切れ長の瞳で見つめられてそう言われては、断りようがない。
「わ、わかりました」
 別に映画は嫌いじゃないし、どこかの部活には所属しようとは眞姫も考えていたので、とりあえず先生の迫力に負けて頷いた。
 眞姫が頷いたのを見て、先生は満足そうに言った。
「そうか。では今から、視聴覚教室に移動しなさい」
「い、今から、ですか?」
「視聴覚教室は4階だ。君は先に行ってくれ、私は活動開始時間ちょうどに行く」
「はぁ……」
 急にそう言われてどうしていいか分からない様子の眞姫に、先生は切れ長の目を向ける。
「話は以上だ、清家。視聴覚室に移動しなさい」
「え? あ、は、はいっ。失礼します」
 眞姫は慌てて先生に一礼をし、数学教室を出る。
 そして、4階にあるらしい視聴覚室に向かって階段を駆け上った。
 途中の3階の踊り場で、眞姫は少し乱れた息を落ち着かせる。
「ていうか、やっぱり強引な先生」
 何でこんな状況になってるんだろうと、眞姫は改めて思った。
 今日は何だか朝からいろいろなことがありすぎて、本当にワケがわからない。
 はあっと溜め息をついてから、眞姫は再び階段を上がり始める。
 4階まで階段をのぼると、視聴覚教室はすぐ目の前にあった。
 すうっと息を整えて気持ちを落ち着かせ、眞姫は遠慮勝ちにノックしてみる。
 そして、ゆっくりとそのドアを開けた。
 そのドアの向こうにいたのは……。