長い式典と帰りのホームルームがようやく終わり、眞姫は憧れの聖煌学園の生徒になったことの喜びを改めて感じていた。
 叔母とも式典のあとに満開の桜の下で記念撮影もできたし、初日から友達もできた。
 多少の問題もあることはあったが、なかなか上々なスタートであったような気がして、眞姫は満足していた。
「眞姫、また明日ねーっ。数学教室、頑張ってねっ」
 屈託のない笑顔で、梨華がそう言って手を振る。
「う、うん、数学教室……コワいけど頑張るよ。また明日ね、梨華」
 数学教室、という言葉に苦笑しつつも、眞姫も微笑んで梨華に手を振った。
「じゃあ清家さん、また明日」
「うん、芝草くんもまたね」
 前の席の准にも手を振ってから、眞姫はちらっと時計を見る。
「やっぱり行かないといけないんだよね、数学教室」
 先生の切れ長の瞳を思い出し、眞姫は緊張の面持ちになる。
 鞄に荷物をまとめ終わってから、眞姫は意を決したかのように教室を出た。
 途中、運動場では先輩たちが部活動に精を出している姿が見える。
 そんな風景を見ながら、眞姫は一路数学教室に向かった。
「えっと、確か数学教室って1階だって先生言ってたよね」
 階段を下りて、眞姫はあたりをきょろきょろ見回してみる。
「……どこだろう、こっち行ってみようかな」




 同じ頃。
 眞姫と教室で別れた芝草准は下校する様子もなく、ひとりの少年と校内を歩いていた。
「あーあ、おまえと違うクラスだなんて残念だぜ、准」
「拓巳、どうせ僕のノートが目的なんだろう? その台詞」
 見るからに優等生タイプの准とは違い、拓巳と呼ばれた彼は体育会系の健康的な少年。
 拓巳は、准の言葉を気にかけずに笑う。
「ま、クラス違ってもノート借りれるしな。あ、教科書も忘れたら貸してくれよなっ」
「ていうか、もう教科書忘れる気でいるの?」
 はあっと溜め息をつく准に、拓巳は言った。
「そうカタイこと言うなよ、俺と准の仲じゃねーのっ」
「まぁ、いいんだけどね」
 ふっと笑って、准はしょうがないなと拓巳を見る。
 そんな准に、拓巳はポンッと手を打って思い出したかのように言った。
「あ、そういえばよ。おまえ、同じクラスなんだろ?」
「え?」
 唐突に聞かれ、何のことかわからずに准はきょとんとした。
 そんな准に、拓巳は言葉を続ける。
「例の“姫”だよ。何で准だけ同じクラスなんだよっ。しかも、オレと祥太郎は男子クラスだぜ? 絶対鳴海のヤローの陰謀に決まってるっ」
「それはやっぱり、日頃の行いなんじゃないの?」
 くすっと笑って、准は拓巳を見た。
 むっとした表情を浮かべて、拓巳は面白くなさそうに言った。
「なーんだよ、それ! 絶対おかしいしっ。第一、“姫”が鳴海のクラスだってこと自体陰謀に決まってるだろっ」
 そこまで言ってから、拓巳は一息置いて言葉を続ける。
「それはともかくよ、どうだったんだ?」
「どうだったって“姫”のこと? うん、すごく可愛い人だったよ」
 少し照れたように、准はそう言った。
 その言葉に、拓巳はパッと表情を輝かせる。
「マジで!? 早くオレも会いてーな……同じクラスになりたかったのによっ、ちくしょうっ」
「羨ましい? 僕、もう“姫”と会話したし」
「会話だってっ!? くっ、羨ましすぎだろっ。これも全部、あの鳴海のヤローのせいだっ」
 本当に悔しそうに、拓巳は拳を握り締めた。
 そんな拓巳を見て、准はくすっと笑う。
 ……と、その時。
「!」
「!?」
 准と拓巳は、同時に顔を上げた。
 ふっと険しい表情を浮かべ、拓巳が准に言った。
「……おい、これって」
「うん。中庭の方、かな」
 それだけ言って、ふたりは足早に外に出る。
「准、オレ“結界”張るの苦手なんだ。頼む」
 キッと一点を見据え、拓巳は短く准に言った。
「うん、わかってるよ」
 准はそう言って、すうっと瞳を閉じ、神経を集中させる。
 その瞬間……ふっと准のまわりに空気の渦ができ、その身体を眩い光が包む。
 そしてそれが弾けたと同時に、そこに光で包まれた別空間“結界”が出来上がった。
「さてと、悪いモンは掃除しねぇとな」
 コキコキッと指を鳴らして、拓巳がそう言った。
 そしてその視線の先には、朝眞姫を襲ったものと同じ、青白い光を放つ不気味な物体があった。
 邪悪の気を放つそれを見据え、拓巳はふっと構える。
 それと同時に、拓巳の右の手刀にカァッと光が宿る。
「ま、あんな相手じゃ、準備運動程度にもなりそうにないけどな」
 そう言って拓巳は、ニッとその顔に笑みを浮かべた。




 その頃。
「数学教室って、どこだろう……あれ?」
 数学教室の場所が分からずまだ校内を彷徨っていた眞姫は、違和感をおぼえてふと顔をあげる。
「え? 何? この……不思議な感じ」
 空気の流れが、変わった?
 眞姫は何故だかそう感じて、廊下から窓の外を覗いてみた。
 しかし目の前に広がるのは、何の変哲もないどこの学校にもありそうな中庭の風景。
 そんな普通の学校の風景に、眞姫は妙にひっかかるものを感じていた。
 誰もいない、静かな中庭。
 でも、誰かがいるような気がしてならない。
 むしろ……違和感を感じるくらい、静か過ぎるのだ。
 眞姫は注意深く中庭に出て歩を進めながら、無意識にスッとその場に手を翳してみた。
 ……見えない“壁”みたいなものが、この先にはある。
 何故かそう感じ取り、眞姫はふと瞳を閉じる。
 その瞬間、翳した右手が急速に熱を帯びはじめたような感覚に陥る。
 そしてその“壁”の中に、身体がスウッと吸い込まれていくような感じがした。
 数秒続いた“壁”をすり抜けるような感覚の後、さっきまで感じていた右手の熱が今度は急速に冷めていく。
 眞姫は、閉じていた瞳を開いた。
 そこには。
「!! えっ!? 清家さんっ!?」
 聞き覚えのあるその声に、眞姫は驚いた表情を浮かべた。
「あっ、芝草くん!?」
 誰もいなかったはずのそこには、先程教室で別れたばかりの同じクラスの芝草准の姿があった。
 そして、もうひとり。
「なっ、ちゃんと“結界”張ってたはずだぞ!? なのに、何で人が中に!?」
 もうひとりの知らない少年が、驚いた表情で眞姫を見ている。
「“結界”? 芝草くん、これってどういう……あっ!」
 眞姫はその時、背中にぞくっと悪寒を感じ、顔を上げた。
 ふたりの少年の、その奥にいるのは。
 朝、自分を襲ったのと同じ――生気のない青白い人型の物体。
「! なんで、あの青白いお化けがまた!?」
「えっ、コイツが見えるのか!?」
 朝も聞いたような同じ台詞を見知らぬ少年に言われて、眞姫は目を丸くする。
「見えるのか、って?」
「清家さん、危ないから僕の後ろにいて。あいつの始末は拓巳、頼んだよ」
 教室での優しい印象は変わらないが、その上品な顔に険しい表情を浮かべて、准は眞姫の盾になるように位置を取った。
 相変わらず不気味な動きをしながら、その青白い物体は眞姫たちに近づいてくる。
 その無機質な表情に、眞姫は朝の出来事を思い出して全身に寒気がはしった。
「おう、任せろっ。とりあえず、コイツの始末が先だな」
 改めて身構えて、拓巳は意識を右手に集中させる。
「!!」
 眞姫は、目の前の光景に表情を変えた。
 朝、助けてもらった少年・健人が使っていたものと同じ……眩い光が、拓巳の右の掌に宿ったからだ。
 今まで生気の感じられなかったその物体が、ぴくりとその光に反応するかのごとく立ち止まった。
 そして、みるみる邪悪な気配を漲らせる。
『ぐ、ぐるるっ!』
 獣のように低いうなり声をあげ、その物体がグラリと動いた。
 物体が拓巳に襲いかからんと邪悪な気を放とうとした、それよりも早く。
 眩い光とともに、ビュッと空気が裂けるような音があたりに響いた。
 気合一閃。拓巳の右の手刀が、その物体を切り裂いたのだ。
 声を上げる暇も与えられず、それはその場に倒れ、そしてあっけなく消滅した。
「ていうか、手ごたえのないヤツだな、コイツ」
「大したヤツじゃなくてよかったじゃない、拓巳」
 にっこり拓巳に微笑んでから、准は眞姫に視線を移す。
「大丈夫? 清家さん」
「え? う、うん。ちょっとビックリしてるけど」
 目の前の出来事に、眞姫はそう言うので精一杯だった。
「准の作った“結界”の中に入ってこれるなんて……おまえ、何者だ?」
 険しい表情のままで、拓巳は眞姫に目を向ける。
「“結界”って? さっきの壁みたいなもののこと? 気がついたら中に吸い込まれる感じがして、そしたら芝草くんたちがいて」
 拓巳の質問にどう答えていいのか分からず、眞姫は困った顔をした。
 そんな眞姫に助けを出すように、准は拓巳に言った。
「彼女は、僕と同じクラスの清家眞姫さんだよ。例の……」
「例の?」
 准の言葉に眞姫は、不思議そうな表情を浮かべる。
 そして准の言葉を聞いた途端、拓巳はパッと表情を変えた。
「例のって! ま、まさかっ、“姫”!?」
「“姫”? ていうか、これって……」
 何が何だかよく分からない状況に、眞姫は混乱していた。
 とりあえず、今見たことを自分なりに一生懸命整理しようと、眞姫は頭を抱える。
 朝、自分を襲った物体がまた現れて、それを同じクラスの芝草くんとそのお友達が退治したみたいで。
 それに中庭に作られていた“壁”は芝草くんが作ったもので、芝草くんのお友達からは、朝自分を助けてくれた彼と同じ、綺麗な光が見えて。
「……え??」
 ますます混乱してしまった様子の眞姫に、准は優しく微笑んだ。
「たぶん今の状況が整理できないと思うけど、近いうちに全部説明してもらえるから」
「近いうちに、全部?」
 うーん、と考え込む眞姫に、拓巳は興奮した面持ちで言った。
「あっ! オレ、1年Hクラスの小椋拓巳(おぐら たくみ)って言うんだ、よろしくなっ」
「私、芝草くんと同じBクラスの清家眞姫って言うの」
「芝草くんと同じクラスの、かよ……くそっ、鳴海のヤロー」
 ぼそっと呟いた拓巳の言葉に、ハッと眞姫は顔をあげた。
「あ! そういえば、鳴海先生に呼ばれてたんだった」
「じゃあ待って、とりあえず“結界”を解くから」
 そういうなり、准はふっと瞳を閉じる。
 彼の身体から眩い光が立ち上り、そして空間がぐにゃりと曲がったような気がした。
 准は、閉じていた瞳をゆっくりと開く。
「“結界”を解くって、これは」
 眞姫は今まさに目の前で起きた現象に、言葉を失う。
 朝と、まったく同じだったからだ。
 さっきまで眞姫と准と拓巳しかいなかった中庭には、いつのまにか数人の人がいる。
 朝――閑散としていたはずのホームに、一瞬で大勢の人が現れたように。
 驚きを隠せない眞姫に、優しく准は言った。
「信じにくい話だけど……さっき僕たちは、僕の作った別空間・“結界”の中にいたんだ」
「“結界”張らねーと、力使った時にまわりに被害が及ぶかもしれないからな」
「“結界”? 力?」
 まだ状況が飲み込めない様子の眞姫に、准は笑った。
「清家さん、そういえば鳴海先生に呼ばれてるんでしょう? 数学教室は、この廊下をまっすぐ行ったところにあるみたいだよ」
「え? あっ、そうだったっ。ありがとうっ」
 准の言葉で数学教室に呼ばれていたことを思い出し、眞姫はそう言ってバタバタと早足でその場を立ち去った。
 眞姫が中庭を去ったあと、拓巳は溜め息をはあっとひとつつく。
「あいつが、“姫”か」
「よかったね、拓巳。念願の“姫”に会えて」
 まだ夢心地な拓巳を見てから、准は楽しそうに微笑んだ。