――数日後の、放課後。
 賑やかな生徒たちの雑踏の中、2年Bクラスの教室を訪れた健人は、ある人物の姿を探す。
 そして彼の青い瞳が彼女を見つけ出すのに、そう時間はかからなかった。
「……姫」
 健人は真っ直ぐに眞姫の元へと歩みを進め、声を掛ける。
 眞姫はその声に顔を上げて健人の姿を確認すると、にっこりと微笑んだ。
「あ、健人。どうしたの?」
「姫、今日何か用事あるか? 俺はこれから繁華街に用があるんだけど、時間も早いし、どこか一緒に寄って帰らないかと思ってな」
 幸い周囲に、ライバルである准や拓巳の姿はない。
 健人は邪魔が入らないうちにと、早速意中の眞姫を繁華街へと誘ったのだが。
「あ、ごめんね。今日は家の用事で直帰しないといけないんだ」
 眞姫は申し訳なさそうに彼の誘いにそう答えて小さく首を傾けた。
 だが、そんな彼女の返答にもめげず。
 健人はすかさず続けた。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろう。繁華街は帰る途中にあるからな」
「あ、うん、そうだね。今帰りの準備するから、ちょっと待っててね」
 彼女と繁華街でお茶をする目論見こそ叶わなかったが。
 なんとか一緒に下校することになり、健人は何気に嬉しそうに彼女の支度が整うのを待つ。
 そして程なくして、再び駆け寄って来た眞姫の大きな瞳が健人の姿を映す。
「お待たせ。じゃあ、帰ろっか」
「ああ」
 健人は優しく目を細め、彼女に歩調を合わせ並んで歩き出した。
 放課後を迎えたばかりの校内はまだ大勢の生徒で溢れている。
 そんな中、眞姫と健人はいつものように他愛のない会話を交わしながら、楽しそうに廊下を歩く。
 付き合っているのではないかと噂まである美男美女の二人のそんな様子に、振り返る生徒もいたが。
 そういう噂話に極端に疎い二人にとって、そんな他人の目など全く関係ない。
 廊下から階段と通り過ぎ、靴箱へと向かう。
 それから靴箱でお互い靴を履き替えた二人は、学校を出て駅へと進路を取った。
 目の前に広がる秋空の爽やかな青と、頬をさらりと優しく撫でる風。
 そして、自分の隣で屈託なく笑う彼女の笑顔。
 健人は今のこの幸せを、密かに心にかみ締めていた。
 だが、楽しい時間ほど早く過ぎるとはよく言ったもので。
 気がつけば地下鉄の駅に到着し、健人は眞姫とともに階段を下りた。
 眞姫は改札を通ってホームで電車を待ちながら、彼に改めて視線を向ける。
「そういえば健人。繁華街で用事って、何かお買い物?」
「腕時計が壊れたから、修理に出してたんだ。それを引き取りにいこうかと思ってな」
 健人がそう答えたと同時に、ホームに電車が入ってくる。
 それにより発生した風で揺れるブラウンの髪を、健人はそっとかき上げる。
 そんな彼の隣で、停車した電車のドアから降車する人を横に避けながらも。
 眞姫は健人を見上げながら言ったのだった。
「その腕時計って、健人にとって大切な時計なんだね」
「え?」
 降車する人が落ち着き、電車に乗り込みつつも、健人は彼女の言葉に不思議そうな顔をする。
 眞姫はそんな反応を見て、こう付け加えた。
「あ、壊れたからって買い換えないで修理に出すくらいだから、思い出のある時計なのかなって思ったの」
 健人は納得したように頷いた後、少し考えるような仕草をした。
 だがすぐに青い瞳を彼女に戻すと、ゆっくりと口を開く。
「そうだな……中学入学のお祝いに、父さんから貰った腕時計なんだ。父さんが使ってた腕時計で結構古いものだけど、そういえば買い換えるなんて思いもつかなかったな」
 特に強いこだわりがあるわけではないのだが。
 この腕時計が壊れた時、新調するという選択肢は全くなかった。
 自分はあまり普段から頻繁に物を買い換えるようなタイプではなく、物持ちはいい方だが。
 しかし、確かに眞姫の言うように。
 使い慣れたあの父の腕時計に、自分が思っているよりも、深い愛着があるのかもしれない。
 健人は逆にふとそれに気がつく。
 そして自然と柔らかな笑みをその綺麗な顔に湛えた。
「健人って、本当にいろいろなものに対して一途だよね」
 動き出した電車の中で、眞姫はそう言って小さく笑んだ。
 健人は不安定に揺れる車内で眞姫の身体をさり気なく支えながら、その言葉に大きく頷き、青の瞳を細める。
「そうだな。そうかもしれないな」
 眞姫を見つめる、彼の綺麗なブルーアイ。
 深い青に宿る強い想いは、確かに一途で揺ぎ無く、真っ直ぐである。
 ただ……その気持ちに、当の彼女が全く気がついていないのだが。
 恋愛沙汰に対する眞姫の鈍さに、健人だけでなく他の少年たちも今のところ報われていない。
 だが、眞姫のことを本気で好きな彼らにとって。
 彼女の性格と現状を考えると、それもまだ仕方がないと理解していた。
 眞姫は今、“浄化の巫女姫”としての自分の運命と向き合うことに必死で。
 健気なくらいその過酷な運命を受け入れようとしている。
 それを近くで見ている彼らは、眞姫に恋愛をする余裕ができるまで、決して急かさずゆっくりと待とうと。
 そしてそんな彼女を、誰でもない自分が守りたいと。
 そう思っているのだった。
 もちろん、まだ報われないと分かっていても。
 ライバルに負けじと、彼女に対するアピールは怠らずに。
 健人は屈託なく笑う眞姫を見つめながら、この日の残り僅かなふたりの時間を、眞姫との会話で楽しんだ。
 それから、数駅が過ぎた時。
「あ、繁華街に着いちゃったね。じゃあ、また明日ね」
「ああ。また明日な、姫」
 電車が繁華街の駅へと到着し、大勢の人が開いたドアへと一気に押し寄せる。
 健人は少し名残惜しそうに眞姫を見つめ、手を振る彼女に微笑んで電車を降りる。
 眞姫は無邪気に健人が見えなくなるまでずっと手を振っていた。
 それから眞姫を乗せた電車が去るのを見送った後、健人は、人の波に逆らわずに改札を出た。
 地下鉄の駅の階段を上がった繁華街の景色は、いつの間にか夕焼け色に染まっている。
 思わず目に飛び込んできた夕日の赤の眩しさに、健人は微かに青の瞳を細めた。
 夕方の繁華街はまだピークには早い時間ではあるが、それなりに混雑している。
 眞姫と一緒なわけでもなく、人混みも好きではない健人は、この時、腕時計を受け取る用事を済ませて早く帰宅したいという考えであった。
 夕食はどこかあまり混雑していない家の近所で済ますか、それとも何か買って帰ろうか。
 そんなことを思いながら、早足で歩いていた健人であったが。
 ――その時だった。
「……!」
 急に顔を上げた健人は、険しい表情を浮かべ、立ち止まる。
 そして今までとは印象の変わった鋭い視線を、前方にいたある人物へと投げた。
 それから軽く身構え、ゆっくりと言った。
「……今度は、おまえが俺を殺しに来たのか?」
 その人物は健人の言葉に、大きく首を振る。
「それは違うよ。偶然プライベートでここを通りかかっただけで、僕も君に会うなんて思っていなかったよ」
 そしてその人物・鮫島涼介は、ニッと不敵に笑んで続けた。
「まぁ、杜木様からは“能力者”を排除するように指令は出ているけどね」
「俺たちがおまえら“邪者”なんかに、そう簡単に殺られるとでも思っているのか?」
 戦意漲る健人を見て漆黒の瞳を細め、涼介はわざとらしく首を傾ける。
 そして強大な“邪気”を掌に宿し、天に掲げた。
「どうだろうね。じゃあ、試してみようか?」
「!」
 涼介のその言葉と同時に。
 周囲に“結界”が張られ、賑やかな繁華街の様相が一変する。
「あの関西弁の彼は綾乃が殺ってくれるみたいだし、彼には手を出さない約束をしてるから……とりあえず僕は、青い瞳の騎士でも殺しておこうかな」
「…………」
 楽しそうな涼介とは対照的に、健人は複雑な表情を浮かべる。
 綾乃が祥太郎を殺そうと出向いたことは、その時その場に居合わせた准に聞いていた。
 とはいえ、祥太郎とクラスが同じであり毎日顔を合わせている健人だが、彼と直接そのことに触れる会話をすることはなかった。
 それは、祥太郎自身がこの件に関して他の“能力者”の干渉を望んでおらず、自分で対処しようと思っていることが分かったからである。
 だが、綾乃と何度か交戦になったことがある健人には彼女の実力が分かっていたし、祥太郎の性格もよく知っているため、かなり気がかりではあった。
 それと同時に、彼女との関係がいまいち煮え切らない祥太郎に対し、不満に思ってもいたのである。
 涼介は健人の反応を窺いつつも、その掌に漆黒の光を宿した。
 同時に“結界”内の空気がビリビリと震える。
 健人は強大な“邪気”を怯むことなく見据え、対抗すべく“気”を漲らせる。
 そして互いの手から眩い衝撃が放たれた。
 ふたつの性質の異なる光は、両者のちょうど中間で激しくぶつかり合う。
 相手の威力を無効にしようと双方の光はどちらも引くことなくくすぶったが。
 どちらも相手を打ち負かすことはかなわずに相殺され、消滅する。
 間髪いれずにすかさず健人は青を帯びる瞳で涼介を見据え、第二波を繰り出した。
 涼介はふっと地を蹴って大きく跳躍しそれを避けると、漆黒の光を宿した手刀を上空から勢いよく振り下ろす。
 鋭い衝撃波が空気を真っ二つに引き裂き、耳に響く轟音とともに健人に襲い掛かる。
 だが全く慌てることなく瞬時に“気”の防御壁を形成させ、健人はそれを難無く防いだ。
 涼介は着地して体勢を整えてから、漆黒の前髪をかき上げる。
 そして、楽しそうに口を開いた。 
「君も何度か綾乃と戦ったことがあるから知っているだろうけど、彼女は本当に強いよ。この僕ですら、本気でやりあっても殺せなかったくらいだからね。そんな綾乃に遠慮なんかしていたら、殺されるのも時間の問題だよ? まぁ君も、あの関西弁のお友達のことを心配してはいるみたいだけど」
 再びその手に“邪気”を集結させながら、涼介は不敵に笑んだ。
 健人はグッと“気”を漲らせた拳を握り締め、青の眼光鋭く涼介を睨み付ける。
 それから小さく首を振り、はっきりと言った。
「確かに、あのムカつく藤咲綾乃が強いのは認めるし、あいつへの祥太郎の対応も俺は納得がいかない。でも俺は、祥太郎のことは信じている。それにさっきも言ったように、“能力者”はそう簡単におまえらなんかに殺られない」
 健人はそれだけ言って地を蹴り、素早く涼介との間合いを詰めた。
 距離を縮め接近戦へと持ち込んだ健人の拳が、涼介目掛けて繰り出される。
 涼介は漆黒の光を宿す掌でその打撃を受け止め、逆手で拳を返す。
 そして身を翻し攻撃をかわした健人に、今度は膝を飛ばした。
 だが、素早く反応してその攻撃を避けた健人は、反撃とばかりに“気”を放った。
 涼介は“邪気”を漲らせた両の掌で“気”の衝撃を受け止めると、瞬時にその威力を浄化させる。
 それにより生じた隙をつき、背後へ回った健人は、再び拳を涼介へ向けた。
 咄嗟に身を屈めて攻撃を逃れようとした涼介を捉えられはしなかったが。
 相手を逃がすまいと、健人は鋭い蹴りを繰り出し、さらに彼を追従した。
 涼介はその猛攻をバックステップでかわし、一旦健人と距離を取る。
 そしておもむろに、強大な“邪気”を纏う右手を天に掲げた。
 ――次の瞬間。
「何……!?」
 次の攻撃に備え身構えた健人は、涼介の意外な行動に青の瞳を見開く。
 今まで、その場を取り囲んでいた強力な“結界”が。
 何故か突然解除され、繁華街の雑踏が再び戻ってきたのである。
 いまだ警戒を解かず鋭い視線を投げる健人に、涼介は右手を収めた。
「気が変わったよ。やっぱり今日は止めておこう」
 そして漆黒の瞳を細め、不敵に笑んで言った。
「君は綾乃と犬猿の仲みたいだし。もう少し生かしていた方が、何かと面白そうだからね。そういうことで、ではまた」
「…………」
 険しい表情の健人とは対照的に、涼介は子供のように楽しそうな表情をしている。
 そして健人に背を向け、軽く手を上げた涼介は。
 去り際に振り返り、こう言葉を残したのだった。
「今度会う時は、どういう状況になっているか……楽しみだね」
 先程よりもさらに増えてきた人の中に紛れ、涼介の姿は消えていく。
 健人は彼が完全に見えなくなるまで、気を抜かずに涼介を見据えていたが。
 気配が感じられないほど相手が離れたことを確認し、ブラウンの髪をざっと掻き上げた。
 そして健人は今までの涼介とのやり取りを思い出しながら、おもむろに唇をクッと結んだ。
 彼の心の中に込み上げてくるのは、すっきりとしない苛立ちのような感情。
 だが今は、その感情が消化できる状況ではない。
 健人は大きく首を振って息をついてから、気を取り直して賑やかな繁華街を歩き始めた。
 それにしても、眞姫が一緒でなかったことが、今回は幸いした。
 綾乃と祥太郎の件をまだ彼女には知られたくはなかったし。
 相手があの涼介であったため、眞姫の身にも危険が及んだかもしれない。
 いや、たとえ眞姫が一緒であっても、自分が隣にいれば、彼女に指一本たりとも敵に触れさせはしないのだが。
 そう思いつつ、健人はようやく少しだけ表情を緩めた。
 そして修理に出している腕時計を引き取りに。
 足早に、店へと進路を取ったのだった。