地下鉄の駅から地上に出た祥太郎は、思わずその瞳を細めた。
 空を染める色はいつの間にか青から橙へと変わっており、雲に反射した夕陽が眩しい程の輝きを放っている。
 一日のうちでも僅かな時間しか見られない神々しい夕焼け空。
 それを何気なく見上げた後、下校途中の祥太郎は家へ向かってゆっくりと歩き出した。
 繁華街から数駅と近いこの駅も、駅前こそ賑やかではあるが。
 少し路地を入るだけで、人通りもぐんと減る。
 大通りから道を一本入り、住宅地へと様代わりするいつもの風景を歩きながら、祥太郎は秋風に揺れる髪をそっとかき上げる。
 それからふと、すでに子供たちの姿もない公園へと足を踏み入れた。
 この公園を通り抜ければ、彼の家への近道となるのだ。
 だが……この日の祥太郎は。
 近道をするために公園へと入ったわけではなかった。
 その理由は。
「どうやら今日は、スイーツなデートやないみたいやからな。ま、たまには公園デートっちゅーのもええかもな」
 公園の中心あたりで足を止め、祥太郎は背後を振り返った。
 そんな祥太郎の瞳に映るのは――ひとりの少女の姿。
 その少女はキイッとブランコを漕ぎながら、のんきに口を開く。
「へー、意外とうちと祥太郎くんちって近いのねぇ。って、祥太郎くんは梨華と同じ中学だから、当然か。綾乃ちゃんちは梨華んちのお向かいだからね。道隔てて学区が違うんだけど」
「まぁ同じ中学やけど、梨華っちの家とは学区の端と端やから、少し距離はあるけどな。てか、綾乃ちゃんちって梨華っちのうちの向かいなん? 何気に近いんや」
「そーそー。綾乃ちゃんちは、最寄は地下鉄じゃなくてJRの方なんだけどね」
 何気ない、友人同士の会話。
 ブランコに乗るその少女・綾乃の様子は、一見無邪気なものにみえる。
 ……だが。
 祥太郎は周囲をぐるりと見回した後、苦笑する。
 それから彼女に言ったのだった。
「てか、相変わらず立派な結界やな、綾乃ちゃん。ふたりっきりで公園デートするにはある意味最適やん、この状況」
 祥太郎のその言葉に、綾乃はブランコに乗ったまま、にっこりと微笑む。
「ふたりっきりになりたいなーって思ってたら、祥太郎くんがちゃんと空気読んで公園に入ってくれるんだもん。祥太郎くんのそーいうところ、綾乃ちゃんは好きよ」
 それから綾乃は、ようやくブランコからふわりと地に降りる。
 その軽やかな身のこなしは、卓越した運動神経だからこそ成せる業である。
 祥太郎から絶妙な距離に着地し、綾乃はスッと夕焼け色にほのかに染まった長い髪をかき上げた。
 そんな彼女を見つめていた祥太郎は、おもむろに表情を変える。
 ……地下鉄の駅を出た時から強く感じていたのだ。
 自分に向けられる、強大な“邪気”を。
 それが綾乃のものだということも、その“邪気”の威圧感から彼女がどういう立場で自分の前に現れたかも、祥太郎には分かっていた。
 そして、改めて思ったのである。
 自分と彼女の関係は、ただの仲の良い友達ではないということを。
 祥太郎はひとつ息をついた後、“結界”内を渦巻く強大な“邪気”を体中で感じながらも、おどけたように言った。
「やっぱ、ふたりで並んでブランコ漕ぎながらデートっちゅーわけにはいかんか?」
「ん? いいわよ、ふたりで並んでブランコ漕いでも。綾乃ちゃんブランコ好きだし。ただ……仕事もさせてもらうけどね」
 綾乃はくすっと笑いながらも、深い漆黒の瞳を祥太郎へと向ける。
 その瞳に漲るのは、普段の彼女から感じる無邪気さではなく。
 確固たる、“邪者”としての自信と誇り。
 綾乃は掲げた右手に“邪気”を宿し、ゆっくりと言葉を続けた。
「公園デートもいいけどね。今回の指令……祥太郎くんのことを殺すってお仕事も、ちゃんとさせてもらうから」
「……!」
 思わずゾクッと鳥肌が立つ程の、先程までとは比べ物にならない強い“邪気”を感じ、祥太郎は反射的に身構える。
 綾乃はそんな彼を見つめ、小さく首を傾けながら言った。
「お友達として、祥太郎くんにひとつ忠告ね。今回の綾乃ちゃん本気だから、少しでも気を抜いたらソッコーで殺られちゃうよ? そのつもりでね」
「そのようやな。でもこのハンサムくんもな、そう簡単には殺れんで? 結構こう見えてもしぶとくてしつこいタイプなんや、俺」
 彼の返しに、綾乃はふっと笑う。
 祥太郎は、“邪者”である自分にとっては、敵の“能力者”であるが。
 個人的に彼とは気が合うと思っているし、何よりもその思考や言動には遊び心がある。
 しかも見た目軽いように見えるが、実は人一倍慎重で真面目で、さらに抜け目もない。
 多少の打算はあるだろうが、他の“能力者”と違い、“邪者”であるというだけで相手を敵視するということもない。
 綾乃はそんな祥太郎のことが、友人としてとても気に入っている。
 ……だが。
 初めて会った時から、ふたりの関係はすでに“邪者”と“能力者”で。
 いつかは敵として相対することになるだろうことは容易に予想できたし、それも覚悟の上であった。
 “邪者”として、“能力者”を討つことに、何の躊躇いもない。
 綾乃は、スッと漆黒の光を帯びた右手を掲げた。
 その“邪気”の強さを物語るかのように大気が震え、彼女のしなやかな長い黒髪がふわりと揺れる。
 綾乃は照準を定めるかのようにふっと深い黒の瞳を細めた後、迷いなくその手を振り下ろした。
「……!」
 唸りを上げ、空気を裂くように、一筋の衝撃が祥太郎に襲い掛かる。
 祥太郎は迫りくる漆黒の光に対応すべく、素早く“気”を漲らせた。
 そして冷静に眩い光の衝撃を放った。
 真っ向から双方の繰り出した光がぶつかり合い、轟音が“結界”内に響く。
 一瞬眩い輝きを放った後、お互いの衝撃の威力は相殺され、跡形もなく消滅する。
 だが、次の瞬間。
「く……っ!」
 祥太郎はハッと顔を上げると、咄嗟に“気”の防御壁を張った。
 同時に、耳を劈く複数の激しい衝撃音と、視界を完全に奪うほどの余波が周囲に立ち込める。
 第一波の威力が相殺されてすぐに。
 綾乃の手から、間髪入れずに無数の漆黒の衝撃が放たれたのだった。
 何とか防御壁でそれらを防ぐことに成功した祥太郎だったが。
 その破壊力は凄まじく、公園の風景は呆気なく吹き飛び、地面にはいくつもの大きな衝撃痕が刻まれている。
「!」
 周囲の激しい変わり様も気に留めず、祥太郎はまだ余波の晴れない中、ふっと目を見開く。
 そしておもむろに表情を変え、本能的に身を屈めた。
 刹那、いつの間にか間合いを詰めた綾乃の手刀が、視界を遮る余波を真っ二つにするかのように、祥太郎目掛けて放たれたのだった。
 ひゅっと空気が鳴り、的確に彼の首があった位置を彼女の右手が空を切る。
 綾乃は祥太郎を捉えられなかった手刀を素早く引くと、今度は心臓を狙いすまし鋭い突きを繰り出す。
 それを身を翻してかわした祥太郎であったが、綾乃は彼を追従し、強烈な蹴りを見舞った。
 両腕でその攻撃を何とかガードしたため、大したダメージこそ受けなかったが。
 祥太郎は思いのほか重い衝撃に、僅かに体勢を崩してしまう。
 その隙を見逃さず、綾乃は瞬時に漲らせた“邪気”を至近距離から祥太郎へと放つ。
 だがすかさず大きく背後へ飛んで一旦綾乃との距離を取り、祥太郎はさらに繰り出される漆黒の追撃を何とかやり過ごしたのだった。
 祥太郎はふっと息をつき、前髪をかき上げる。
 今まで彼女とは、何度か相対したことはあったが。
 いずれもお互い様子見であったりと、本気ではなかった。
 だが……今までの綾乃の攻撃を見ると。
 今回の彼女の仕事が自分を殺すことであることは、どうやら冗談ではないようだ。
 その証拠に、少しでも隙が生じると、綾乃は容赦なく急所を狙った攻撃を仕掛けてくる。
「正直キッツイなぁ。身軽なのに一撃一撃が重たいわ、ヤバイ攻撃が次々と飛んでくるわで、気ぃ抜けんし。やっぱ強いわぁ」
 素直に祥太郎はそう言って苦笑し、来るべき攻撃に備えて身構えた。
 綾乃は強大な“邪気”をその身に宿したまま、ふっと余裕のある笑みを浮かべる。
「そういう祥太郎くんこそさすがねぇっ。今までの綾乃ちゃんの攻撃でほぼ無傷だなんて、やっぱそう簡単には殺らせてはもらえないってワケね」
「言ったやろ、俺は結構しぶといって。それに、まだ殺られるわけにはいかんからな」
「てか、綾乃ちゃんも相当しつこいわよ? お仕事終わるまでガンガンいくからねーっ。そういうことで祥太郎くん、覚悟してねっ」
「軽い口調で、何気にコワイこと言うなぁ……」
 ビリビリと空気が震えるほどの“邪気”のプレッシャーを全身で感じながら、祥太郎も負けじと“気”を漲らせた。
 そして今度は四方から襲い掛かる漆黒の光に、強固な防御壁を張って対抗する。
 ドオンッと派手な音が“結界”内を揺るがし、目を覆うほどの輝きが散って消えた。
 だが攻撃の手を全く緩めず、綾乃は“邪気”を集結させて成した光の塊を、ブンッと放った。
 祥太郎は地を思い切り蹴り、素早く跳躍してそれを避けたが。
 そんな彼の行動を読んでいた綾乃は、彼との距離を一気に縮める。
 そして黒の光を宿した拳を握り締め、接近戦へと持ち込む。
「うわっ、ととっ!」
 繰り出した右拳を避けた祥太郎目がけ、綾乃は間を取らずに蹴りを放った。
 祥太郎はそれをいなし受け流したが、さらに彼女の容赦ない拳が飛んでくる。
 その無駄のない華麗な動きに、彼女の黒髪も流れるように宙を舞っている。
 祥太郎は咄嗟に掌で、立派な凶器と化している綾乃の拳を受け止めた。
 大きな彼の手にしびれるような重い衝撃が伝わる。
 だが、しっかりと彼女の拳を逃がさず包み込み、祥太郎はふっと悪戯っぽく笑んだ。
「こんな強烈な拳叩き込まれたら、ハンサムくんの顔も一撃で台無しやわ」
「んーそっかぁ、せっかくのイケメンだし勿体無いねぇ。じゃ、顔はやめとこうかな」
 綾乃は小さく首を傾け、にっこりと彼に笑みを返す。
 そして。
「!! く……はっ」
 ふっと綾乃が動いたかと思うと、祥太郎の身体に重い衝撃が走った。
 ドスッと鈍い音がし、祥太郎は思わず表情を歪める。
 綾乃の鋭い膝が腹部に容赦なく突き上げられ、彼の動きが一瞬止まった。
 受け止められていた拳を取り返した綾乃は、上体が僅かに傾いた祥太郎の顎を狙い澄まし、再び拳を放つ。
 かろうじてそれを避けた祥太郎は崩れた体勢を立て直そうとしたが。
 だが綾乃はそれを許さず、瞬時に宿した“邪気”を祥太郎目掛けて繰り出した。
「……っ!」
 ギリッと歯をくいしばり、十字に組んだ両腕で祥太郎は衝撃をガードする。
 しかし、不安定な体勢と不十分な間合いであったため、その圧倒的な威力に押される。
 祥太郎は受けたダメージに顔を顰めたが、すぐに視線を上げた。
 瞬間、漆黒の光が再び容赦なく彼を襲う。
 祥太郎は素早く掌を掲げ、唸りを上げる黒の衝撃に、瞬時に作り出した“気”の塊をぶつけた。
 その数秒後、大きな衝撃音が響き渡り、目を覆うほどの光が発生する。
 そしてふたつの異なる輝きを持った光は、お互い相殺されて威力を失った。
 だが……次の瞬間。
「!!」
 射抜くように鋭い、深い漆黒の視線。
 自分を捉える両の瞳がすぐ近くにあることに気がつき、祥太郎はハッと顔を上げる。
 それから身を翻し、繰り出された蹴りを紙一重でかわしたが。
 綾乃は狙い澄ましたように地を蹴り、漆黒の光の宿る手刀を再び彼目がけて放たんと、その腕を引いた。
 そして祥太郎に生じた一瞬の隙をつき、標的を仕留めるべく、鋭く大気を切り裂く手刀を放った。
 ……その時だった。
「!」
 綾乃は目を見開き、表情を変える。
 祥太郎を捉えんと繰り出されたその手刀は。
 いつの間にかふたりの間に割って入った第三者の手で、しっかりと受け止められていたのだった。
 その人物は、ふっと逆手に“気”を漲らせる。
 そして綾乃目がけて衝撃を放った。
 綾乃は跳躍してそれを避け、対抗するように無数の光を繰り出す。
 だが慌てることなく、すぐさま強固な“気”の防御壁を形成し、彼は綾乃の繰り出したすべての漆黒の光を無効化したのだった。
 祥太郎はよく見知った意外な彼の姿に、驚いたように声を掛ける。
「准!? てか、何で……」
 祥太郎の元に駆けつけたのは、准であった。
 だが、彼の家とこの場所は少し離れており、いくら綾乃の“結界”が強大であっても、普通の“能力者”がこの状況を知覚できる距離ではないはずなのである。
 准は祥太郎の思っていることを察し、口を開く。
「あの相原くんが、意味深なことを言っていただろう? それが気になって、詩音に祥太郎の周囲を気にかけててもらったんだ。それで彼から連絡もらって、ここに駆けつけたんだよ」
「……渚が?」
 准の言葉に反応を示したのは、綾乃であった。
『先輩の相手は、この僕じゃないしね』
 渚が祥太郎に言った、この発言。
 准はこれを聞いて、近いうちに何かがあるのではないかと、祥太郎の周囲を気にしていたのだ。
 そして案の定、“邪者”である綾乃が、彼の前に現れたのである。
 怪訝気な綾乃とは違い、当の祥太郎は暢気にうーんと首を傾げる。
「渚クン、何か言うとったっけ? あの生意気クンの言うこととか全く気にしとらんから、軽く流しとったわ」
 准はそんな祥太郎に特に何か言うことはしなかったが。
 綾乃の“結界”から感じる“邪気”の強さと、先程までの戦況を目の当たりにし、自分の予感は正しかったと思ったのだった。
 准はふと綾乃に視線を向け、彼女の次の出方を待つ。
 綾乃は長い髪をかき上げてから、ふうっと大きく嘆息した。
「あーあ、邪魔が入っちゃった。残念だけど、また出直すことにするわ」
 綾乃は“邪気”を宿した手を掲げて、周囲の“結界”を解除する。
 そして祥太郎に普段と同じ人懐っこい笑顔を向けて手を振り、夕焼けの赤橙もすっかり消えて暗くなった空の下を歩き出した。
「じゃあまたねー、祥太郎くん。続きは、残念だけどまた今度っ」
「何か複雑やなぁ、それ」
 祥太郎はそう呟きながらも、彼女の背中を素直に見送る。
 それから、准へと視線を移した。
「正直、かなり助かったわ。さすがに綾乃ちゃん相手やとしんどいわ」
「……祥太郎」
 准はわざとらしく大きく溜め息をつき、祥太郎に向かって何か言おうとした。
 だが、彼の顔を見た准は、小さく首を振って言葉を切った。
 ――今、自分が言わんとしたこと。
 それを敢えて口に出して言わなくても、祥太郎自身よく分かっているようであったからである。
 祥太郎は准のそんな様子に、ふっとひとつ息をついて苦笑する。
 それから、こう言ったのだった。
「このことは、姫には内緒にしといてくれんか? 綾乃ちゃんのお仕事の内容は、特にな」
「そうだね。姫には言わない方がいいね」
 祥太郎の意見に、准は首を縦に振る。
 眞姫は、綾乃とも仲の良い友人である。
 もしもこのことを知れば、きっと彼女の性格からして放っておけず、何とかしようとするに違いない。
 いくら友人だと言っても、強大な力を持つ“邪者四天王”の綾乃に、なるべく彼女を関わらせたくない。
 准はそういう思いから、祥太郎の言葉に同意したのだった。
 祥太郎は准の返答を聞いてひとつ小さく頷く。
 そして、先程までの激しい戦闘の痕が跡形もなくなっている公園の風景を見回し、複雑な表情を浮かべたのだった。