この日の昼休みもあと半分の時間を残すのみとなり、昼食を取り終わった生徒たちの声で、校内はますます賑わいをみせている。
 お互い職員室で用事を済ませた後、偶然鉢合わせた祥太郎と准は、何気ない会話を交わしながら一緒に教室へと戻っていた。
「せっかく部長と会ったことやし、Bクラスに愛しのお姫様の顔でも見に行くとするかなー」
 悪戯っぽく瞳を細めて笑み、祥太郎は隣を歩く准に視線を向ける。
 そんな祥太郎の様子に准は作り笑顔を返した。
「そんなことはいいから、早く教室に帰って午後の授業の準備しておいた方がいいんじゃない?」
 その口調は一見柔らかではあるが。
 すかさず返される言葉にはどこか刺があり、さり気なく恋のライバルを牽制している。
 だが、祥太郎は准の言動を全く気にすることなく笑った。
「大丈夫やで、うちのクラス、次の時間は自習らしいからなっ。というわけで、心置きなくお姫様と楽しい昼休みが過ごせるってわけや」
「いや、生憎だけど、うちのクラスは次の時間自習じゃないから」
 即効で的確な准のツッコミに、祥太郎は苦笑しつつも、やはりめげることない。
「相変わらずツッコミ早いなーっ。ま、Bクラスまでお供しまっせ、部長っ」
「……あくまでBクラスまで来る気なんだ」
 はあっとわざとらしく溜め息をついて准は祥太郎に聞こえる程度の声で呟くが。
 そんな准の声を敢えて聞き流してから、祥太郎は何かを思いついたようにぽんっと手を打った。
「おっ、そういや、Bクラスって今日の数学の授業もう終わったんやろ? 俺ら、6時間目が数学やから、ノート貸してくれへんか? ちょうど5時間目自習やから、張り切って写せるしなーっ」
 准はそんな調子のいい祥太郎の言葉を聞いて、ちらりと彼に目を向ける。
 そして、これでもかというほど作った笑みを宿し、言った。
「てか、いやだよ。丁重にお断りするよ」
「ぬおっ、そんな殺生なっ。てか、容赦なくズバッと切り捨てるなぁっ」
「当たり前だろ。大体ね、拓巳と祥太郎は僕のノートに頼りすぎなんだよ。鳴海先生に僕まで怒られるんだからね。あ、Aクラスに着いたよ? それじゃあ祥太郎、またね」
 先程とは逆に冷たい口調でそう言い放ち、祥太郎の所属するAクラスの教室の前に差し掛かった准は、スタスタと歩く速度を速める。
 祥太郎はつれない准の様子にも諦めずに彼の後に続く。
「ちょっ、部長っ。俺らの仲やーんっ。姫とノートのために、どこまでもお供するでーっ」
「俺らの仲って言いつつね、思いっきり下心が口から出てるし」
「まーまー。祥太郎くんってば正直者やからなー」
「……言い訳になってないんだけど、それ」
 いくら言ったところで、あくまでBクラスまでついてくる気であろう。
 祥太郎の性格をよく知ってる准はもう一度深く嘆息した後、Aクラスの教室の前を通り過ぎ、自分のBクラスの教室へと向かう。
 祥太郎もそんな准の隣に再び並ぶと、愛しのお姫様の姿を探すべく目前に見えるBクラスに視線をやった。
 ……だが、次の瞬間。
 祥太郎の視線に映ったのは。
 眞姫の姿ではなかったのだった。
 愛しのお姫様どころか、むしろ……歓迎できない、ある人物。
 そしてそれは祥太郎だけでなく、准にとっても同じで。
 表情は一見普段と変わらぬ笑顔であるが。
 見る人が見れば、明らかに不愉快極まりない様子で、准はその人物に声を掛ける。
「僕のクラスに何か用なのかな、相原くん」
「あ、芝草先輩と瀬崎先輩。てか、いつも言ってるでしょ? 先輩たちなんかに用はありませんってば」
 可愛らしい顔に似合わないふてぶてしい態度でそう言ってから、その人物・相原渚は大袈裟に首を振り、続ける。
「あーせっかく清家先輩に会いに来たのに、清家先輩は不在だし。おまけに会いたくもない先輩には会うし、僕って超可愛そう」
「おー相変わらずいい態度やなー。威勢がいいのは結構やけど、さっさと自分の教室に帰った方がええんやないか? もうすぐ午後の授業始まるしな」
「……祥太郎が言っても、それ、全然説得力ないんだけど」
 抜かりなく祥太郎にツッこんだ後、准は改めて渚に向き合う。
 そして微妙に声のトーンを変え、渚に言った。
「相原くん。この場は退いた方が君の身のためだよ? 僕たちだけじゃなく、教室には拓巳もいるしね」
 准のそんな言葉にも渚は全く怯むことなく、漆黒の瞳をふっと細める。
 それから首を大きく左右に振り、フンッと鼻で笑った。
「言っておきますけどね、先輩たち“能力者”が何人いようが、この僕にとって全然全く問題じゃありませんよ。ま、清家先輩がいないなら、こんなところに用はないんですけど」
 可愛げのない表情でそう言った後。
 渚は、ふっと祥太郎に目を向ける。
 そして、ニッと意味深に笑んだ。
 その深い漆黒の瞳は、幼い彼の容姿に似合わないほどに、不敵な色を帯びている。
 渚は前髪をザッとかき上げてから、小さく首を傾けて続ける。
「それに……先輩の相手は、この僕じゃないしね。んじゃ、これ以上先輩たちと話す無駄な時間は僕にはないので、失礼しまーすっ」
 ヒラヒラと小馬鹿にしたように手を振りながら、渚はふたりに背を向けて歩き出す。
 去っていく彼の後姿を見つめ、祥太郎は溜め息をついた。
「相変わらず口の減らんガキやなぁっ。てか、お姫様は教室におらんのか?」
 お目当ての眞姫がいないことに一瞬ガクリと肩を落としたが、祥太郎はとりあえず教室を覗き込んでみる。
 だがやはりBクラスの教室に眞姫の姿がないことを確認し、残念そうに前髪をかき上げた。
「…………」
 そんなきょろきょろとBクラスを覗く祥太郎と、小さくなる渚の背中を交互に見ながら。
 准は、何かを考えるように口を噤む。
 それから顔を上げると、もう一度だけ自分の教室へと戻る渚を振り返り、ふうっと息をついたのだった。




 ――その、同じ頃。
 鳴海先生は数学教室から職員室へと戻るべく、足早に階段を下っていた。
 まだ十分に昼休みは残ってはいるのだが、歩く速度が早いのは彼の性分の所以である。
 だが、ちょうど踊り場に差し掛かった、その時だった。
 鳴海先生は何かに気がついたようにふと顔を上げて足を止める。
 そして切れ長の瞳を背後へと向けた。
 程なくして、そんな彼の両の目に飛び込んできたのは。
「あっ、鳴海先生っ」
 鳴海先生の姿を見つけたその少女は、急ぎ足で彼の元へと駆け寄ってくる。
 そして揺れる栗色の髪をそっと耳に引っ掛けた後、ふっと笑顔を宿した。
「よかった、数学の質問があって、先生のこと探していたんです。今、大丈夫ですか?」
「構わない。質問箇所を見せなさい」
 短く言い放つような物言いは冷たいもののように聞こえるが。
 彼にとっては、これが至って普通である。
 そのことが分かっている眞姫は、質問を承諾してくれた先生ににっこりと微笑み、持っている参考書をパラパラと開く。
「この問題なんですけど。どうしてこの式をここに当てはめたら、こうなるのかなって」
 眞姫の示す問題を無言で確認してから、先生はスッと胸ポケットからシャープペンシルを取り出す。
 そして、淡々と問題の解説を始めた。
 真剣な表情を宿し、眞姫は先生の滑舌の良いバリトンの声に耳を傾けている。
 そんな先生の解説は端的で分かりやすく無駄がない。
 逆にそれが他の生徒にとって、鳴海先生の厳しい印象に拍車をかけているのであるが。
 眞姫は、一般的に彼が持たれるようなイメージを、鳴海先生に対して抱いてはいなかった。
 多少はやはり近寄り難い雰囲気はあるとは思ってはいるが。
 決して……彼が冷たい人間だとは、微塵も思っていないのだった。
 確かに鳴海先生は、授業に取り組む姿勢も、“能力者”の少年たちに行う指導も厳しい。
 だが先生は、それ以上に、自分に厳しい人で。
 そして極端に真面目で、ちょっぴり不器用なだけで。
 本当はさり気に優しく、意外と世話好きであるなと。
 彼女が他の生徒よりも彼や彼の周辺の人物と深く係わり合いのある位置にいるということもあるが。
 眞姫は鳴海先生に、そんな印象を持っていたのだった。
「……以上だ。ほかに質問はあるか?」
 一通り解説を終え、鳴海先生はブラウンの瞳を、参考書から眞姫へと映す。
「いえ、今の先生の解説で十分よく分かりました。ありがとうございます」
 眞姫は深々と頭を下げて先生にお礼を言った。
 そんな問題を理解した様子の彼女を見てから、先生は再びシャープペンシルを胸ポケットにしまった。
 だが眞姫は、まだ何か言いた気に、遠慮気味に彼を見つめる。
 そして少し考える仕草をした後、ゆっくりと言ったのだった。
「あの、鳴海先生。数学の質問はないんですけど……もうひとつ、質問してもいいですか?」
 先生は無言で再びその瞳に眞姫を映した。
 切れ長の瞳が自分に向けられ、一瞬ドキッとした眞姫だったが。
 特に質問することを拒否されてはいない。
 なので、意を決して、彼にこう訊いたのだった。
「私の“浄化の巫女姫”の能力が第三段階まで覚醒してから、もう半年ほどです。次の覚醒はいつなのか……それに、“浄化の巫女姫”の第四段階に目覚める能力は、どんな力なんでしょうか?」
「…………」
 自分を真っ直ぐと見つめる、彼女の瞳。
 普段はおっとりとしていて、穏やかな雰囲気を醸し出す彼女であるが。
 不思議とそのつぶらな両の目に宿る光は。
 自分のよく知る、あの人のものと同じ。
 慈愛に満ちた柔らかな輝きと、唯一無二の強大な力の共存。
 目の前の少女は……最期まで自分の意志を貫いた、母と同じ瞳をしていると。
 鳴海先生はふっとひとつ息をつき、苦笑する。
 それから彼女の問いに答えるべく、口を開いた。
「“浄化の巫女姫”の覚醒は、その能力が必要な時に自ずと蘇るものだ。その時期がいつなのか、それは誰にも分からない。それに……これから覚醒する能力に関しては、私が教えることではない」
「私はまだ、自分の意思で自分の力を使うことはできません。でも、“浄化の巫女姫”の能力で誰かを助けることができるなら、早く使いこなせるようになりたいんです。普通の人でも“能力者”でも“邪者”でも、私の力でひとりでも多くの人を助けられるのなら」
「先程も言ったが、能力覚醒は必要な時に起こるもの。それに“浄化の巫女姫”であるおまえがその能力をどう使おうと……それは、自由だ」
 眞姫は先生の返答を受け、何かを考えるように一瞬俯いたが。
 だが、すぐに顔を上げてから、もう一度ぺこりと頭を下げた。
「そうですね、先生。必要な時に、蘇るもの……私、その時のために、みんなの足手まといにならないようもっと頑張りますから」
 そう言って眞姫は、柔らかな笑みをその可愛らしい顔に宿す。
 それから再度お辞儀をし、教室に戻るべく階段を下りていったのだった。
「…………」
 そんな彼女の後姿を立ち止まったまま見送った後。
 先生は、ふっと再び息をつく。
 そしておもむろに、その切れ長の瞳を別の場所へと移したのだった。
 それと同時に踊り場に響くのは。
 まるで歌っているかのような、神秘的な少年の声。
「あのお姫様の性格、僕には愛おしくて仕方がないけれど。でもそれが思いのほか、能力覚醒に大きく影響しているみたいだね、先生」
 いつの間に現れたのか、ゆっくりと階段を下りながら、その少年・梓詩音は上品な顔に微笑みを宿した。
 そして優雅な身のこなしで先生のいる踊り場までやってきて、こう続けたのだった。
「僕からも質問していいかな? 先生。お姫様の能力が第四段階まで覚醒したら……先生はその後、どうするつもりなの?」
「どう、とは?」
 鋭い視線を詩音に投げ、逆に先生は問うた。
 詩音はサラサラの髪をすっと撫でてから、小さく首を傾ける。
「先生がどういう決断をしても、僕は約束通りその指示に従うよ。ただ、お姫様やボーイズたちのことも、もう少し信用してあげてもいいんじゃないかってね」
「言っている意味が分からんな。何度も言うが、私は清家や“能力者”のあいつらのことを、買かぶりもしないが過小評価もしない。何事も、最善だと判断したやり方でやるだけだ」
 先生は大きく首を振り、はっきりとした口調でそう言い放つ。
 だが詩音は逆に柔らかな表情を浮かべ、笑った。
「ボーイズたち、いつも言ってるよ? 先生は自分たちに、必要最低限のことすら言ってくれない、って」
「心配しなくても、今後必要なことはおまえに伝える。それにもちろん、あいつらにも……必要であることならば、な」
「必要であるならば、ね。先生のそれが心配だって、伯父様もおっしゃってたよ? それに……」
 詩音はそこまで言って、一瞬間を取る。
 そして改めて先生に視線を向けると。
 ゆっくりと、こう続けたのだった。
「それにさ、先生は思ってるんだろう? できることならば、晶伯母様と同じ運命をお姫様には背負わせたくない、って。でもあのお姫様の性格を考えたら、それって難しいよね」
 その言葉を聞き、先生はブラウンの瞳をスッと細める。
 それから有無を言わせぬ強い口調で詩音に言った。
「もうおまえとこの場で話すことは何もない。余計なことを言っている暇があったら、早く教室に戻れ」
 そう言うなりスタスタと階段を下り出した鳴海先生を、詩音は敢えて無言で見つめる。
 そして完全に視界から彼の姿が消えて。
 詩音は微笑みこそ絶やさないが、空気に溶けこむかのような澄んだ声で、ぽつりと呟いたのだった。
「今はまだ比較的緩やかな流れだけど……これから劇的に変化する運命の大河に誰も飲み込まれないことを、王子は祈るよ」