つい先程までは、強烈な存在感を放つ夕陽が眩しいほど窓から差し込んでいたが。
 すべての景色を赤が支配したそんな時間が、まるでなかったかのように。
 今、林立するビルの隙間から見える空の主導権は、すっかり夜の闇へと移っていた。
 そんな空と同じ色を湛えた瞳を、智也は、珍しく感情が素直に顔に表れている連れへと向ける。
「……何だかものすごく楽しそうだな、涼介」
「ん? そう見えるかい?」
 ふふっと笑みを漏らし、涼介はわざとらしく小首を傾げてみせる。
「てか、全開でニヤニヤしててホッント気持ち悪い。不快極まりないんだけど?」
 可愛らしい作りの整った容姿に似つかわしくない、可愛気の欠片もない横柄な態度で、渚は眉間に皺を寄せたが。
 渚の毒舌にも構わない様子の涼介は、智也の指摘通り楽しそうに笑む。
 それからふと自分の斜め前の席に座っている少女を見つめた。
 そしてその少女・つばさに、こう訊いたのだった。
「で、つばさちゃん。今日は杜木様はいらっしゃらないんだろう?」
「え? ええ……いらっしゃらないわ」
 紅茶を飲もうとしていた手を止め、つばさは涼介の言葉に少し驚いた表情をみせたが。
 すぐに彼の問いに短く答えた。
 彼女から返ってきたその答えが当然であるかのように、涼介は満足そうに小さく頷く。
 だが逆に、智也は驚いたように瞳を見開き、声を上げた。
「えっ、そうなの!? てか、今日杜木様いらっしゃらないって……大丈夫なのかよ……」
 はあっと思わず大きな溜め息を吐いて不安そうに呟く智也に、渚はフンッと鼻で笑う。
「あ? あんな指令が出てるからこそ、今日杜木様はいらっしゃらないんだろ。何バカ言ってんの、おまえ」
「渚の言う通りだね。今日だからこそ、杜木様は敢えていらっしゃらないんだろう。そして……あの方のこういうところ、僕は最高に好きだよ」
 ますますご機嫌な様子で涼介は不敵に漆黒の瞳を細める。
 智也は再び嘆息した後、つばさへと視線を移した。
「今日杜木様がいらっしゃらないこと、先に教えておいて欲しかったよ。個人的な心の準備がさ……」
「ごめんなさい、智也。全員が揃ってから伝えても何ら支障は来さないと思ったから」
「いや、確かに先に知ってても、大して何も変わらないだろうしね。驚いたけど、つばさちゃんが謝るような大したことではないよ」
 申し訳なさそうに詫びるつばさをフォローするようにそう言った後、智也は前髪をかき上げる。
 だが、つばさには大したことはないとは言いつつも。
 智也は誰にも気付かれない程度に小さく嘆息する。
 そんな智也に、逆に今度は涼介が質問する。
「智也、君は何をそんなに不安に思っているんだい?」
 それから、ふっと闇のような漆黒の瞳を細めて。
 涼介はさらにこう続けたのだった。
「不安などころか、むしろ今日僕たちがやるべき事柄に関しては、僕はこれ以上ないくらいパーフェクトにこなせる自信があるよ? そして……そう思っているのは僕だけじゃない。違うかい? よって、君が何に関してそんなに不安に思っているのか、差し障りなければ聞きたいな」
 涼介の言葉に、智也はおもむろに表情を変えた。
 敵意や戦意の類の感情こそ含んではいないが。
 日常で彼から感じられる人懐っこさは消え、涼介を見つめるその視線は、心しか鋭さを帯びている。
 ふっと一息ついた後、智也は口を開いた。
「同じく、今日やるべきことに関しては、何も問題はないと思ってるよ。でもな、おまえのその異様に楽しそうな様子が心配なんだよ、俺は。内容が内容なだけに、今までおまえがやってきたこと考えると、不安に思わない方がおかしいだろ? この指令をいいことに、必要以上にやりすぎるんじゃないか、ってな。少しはな、フォローする俺の身にもなれ」
 杜木が不在で“邪者四天王”同士が集まる機会は、今まで何度もあった。
 だが……普段から決して仲が良いとは言い難いメンバーにとって、今日の会合は特に一波乱ありそうで。
 圧倒的なカリスマ性で抜群の統率力を誇る杜木がいない今。
 どう考えても、激突し合う同僚の仲介に入る役割は、自分以外に考えられない。
 ただ口で激しく言い合うという類の衝突であるならば、周囲の目は気になるとはいえ、何とか諌めることができるが。
 集団の性質上、下手をすれば周囲の破壊、さらに血をみるような事態にまで発展しかねない。
 そんな、ただでさえ穏やかに済みそうな見込みはない上に。
 状況を悪化させて楽しむような涼介の性格が、何より智也の一番の不安要素だったのである。
 はっきりと釘を刺すような口調で返ってきた智也の回答に、涼介はふっと笑った。
 そして、数度大きく頷く。
「なるほどね、君の不安はそういうことか。それなら納得だな。確かに一理ある」
「てか、自分で納得するなっての……」
 そんな様が余計に不安になるんだ、と呟き、智也はくしゃっと前髪をかき上げる。
 涼介の言葉に突っ込みどころは満載であるし、これからどうなるか不安は募るばかりではあるが。
 例え自分が何と言おうとも、この場にいる誰も聞く耳を持つとは到底思えない。
 それならばせめて、最悪な状況にならないよう、どうフォローするかを考えようと。
 そう割り切り、智也はもうそれ以上敢えて何も言わなかった。
「それより、綾乃は何してんだよ。こんなにこの僕を待たせるなんて、あいつ何様? いい加減早く終わらせて帰りたいんだけど」
 渚は苛立つように指でトントンと机を叩き、ますますふてぶてしい態度を取る。
 唯一、この場にまだ姿のない“邪者四天王”。
 今この場に集まっている彼らは、ほかでもない、遅刻常習犯であるその少女・綾乃待ちなのである。
「おまえだって時間より遅れてきたってのに、よく言うよ」
 律儀に渚にツッコミを入れてから、智也は時計を見た。
 綾乃に告げたはずの集合時間から、すでに三十分以上の時間が経過している。
 だが、時間に几帳面とは決して言い難い仲間達の遅刻常習ぶりには毎度慣れているため、この程度なら想定内……むしろ、全員が揃う頃合なのである。
 つばさは一度窓の外を見やり、両の瞳を細めた後、自分のことは全く棚に上げてまだブツブツと文句を言っている渚に言った。
「綾乃はもう、すぐ近くまで来ているわよ。貴方が帰る準備している間に到着するくらいにね、渚」
 つばさのその言葉に、渚はとりあえず席を立つことはやめたようだが。
 テーブルに頬杖をつき、ふと智也に目を向けてから、八つ当たりするかのようにこう言い放ったのだった。
「てか、智也。涼介なんかよりも、僕としては、おまえの方がよっぽど心配なんだけど? 普段通りしてれば何も問題はないんだ、くれぐれも余計なことするなよな。おまえの偽善っぷりはホント最強に迷惑だからな、いつも」
「分かってるって。下手な小細工をするつもりはないよ」
 渚の不躾な言動にも怒ることなく、子供染みた八つ当たりにも慣れているように、智也は軽く手を上げて大人な対応をみせた。
 ――その時だった。
「これでようやく、全員揃ったようね」
 ちらりと店の入り口付近に目をやったつばさは、ふっと息をついてからそう口を開く。
 それと同時に喫茶店のドアが開き、ひとりの少女が姿をみせたのだった。
 遅刻しているからといって、特に急ぐわけでも、悪怯れた様子すらも、現れた彼女にはないようで。
 まるで何事もないかのようにテーブルに到着し着席した後、暢気にメニューに手を伸ばす。
「てか、遅すぎ。この僕にな、おまえを待つような無駄な時間は一秒だってないんだよ」
 早速ウエイトレスを呼び止めて好みのパフェをオーダーするマイペースな綾乃に、渚は舌打ちして嫌味たっぷりに言った。
 だが、綾乃は全く相手にせずに、さらりとかわす。
「あんただって、どーせ時間通りに来なかったんでしょ。杜木様もまだいらっしゃってないし」
「綾乃、今日は杜木様はいらっしゃらないのよ」
 暢気な様子の綾乃に、つばさは小さく首を振って杜木の不在を伝える。
 それを聞いた綾乃は、意外そうに瞳をぱちくりとさせてから。
 ようやく、先程までの状況が自分待ちであったことに気がつき、申し訳なさそうにつばさに手を合わせた。
「えっ、そうなんだ。じゃあもしかして綾乃ちゃんが最後? ごめんね、つばさちゃん」
「てか、何でそいつに謝るんだよ。まずはこの僕に土下座して謝罪するのが先だろ? まぁ、謝ったくらいじゃ許さないけど」
「よく言うわよ。あんたには、その数百倍謝ってもらわないといけないコトあるんだけど?」
 悪態をつく渚にちらりと目を向け、綾乃はわざとらしく嘆息する。
 渚は相変わらず人を小馬鹿にしたような態度と表情を浮かべ、フンッと鼻で笑う。
 そして、そんなやり取りを一通り黙って聞いていた涼介は。
 会話が途切れたことを確認すると、これでもかというほどの満面の笑顔で、綾乃に声を掛けたのだった。
「やあ、綾乃。ご機嫌いかがかな?」
 綾乃はその言葉に表情を変え、キッと睨むように視線を投げた。
 彼女の纏う空気の印象が途端に攻撃的なものへと変化する。
「いつも通り最悪よ。あんたの顔を見た瞬間から、どうしようもなく殺意が湧いてくるわ」
「それはそれは。僕も君に会えてとても嬉しいよ、綾乃」
 甘いマスクににっこりと笑みを宿す涼介の様子に顔を顰め、綾乃はあからさまに不愉快そうな顔をした。
 ……どうしていつもこうなんだ。
 一連のやり取りを見ながら、早速ピリピリとした緊張感が漂う雰囲気に、智也は密かに溜め息を漏らす。
 そしていつものように、全員を宥めるように口を開いた。
「杜木様がいらっしゃらないのなら、これで全員揃ったってことだろ? じゃ、会議始めようよ」
 智也はそう言って、つばさに視線を向けた。
「そうね。早速だけど、杜木様から伝言を預かっているわ」
 つばさは智也の提案に頷き、全員が一旦口を噤んだことを確認した後。
 ゆっくりと、話を進め始めたのだった。
「少し前から杜木様もおっしゃっていたけれど。浄化の巫女姫の能力覚醒が順調な今、次にすべきことは、巫女姫の周囲の“能力者”の排除だと。そしてそろそろ本腰を入れて、その件に取り掛かって欲しい、とおっしゃっていたわ」
「能力者の排除に本腰を入れて、か」
「何だよ、そんなの楽勝だっての。それともまさか、また以前みたいにルールとかあったりしないよな?」
「以前のあれは、杜木様の提案された“ゲーム”。今回は、杜木様からの“指令”よ。もちろん指令を遂行するにあたって、ルールなんてないわ。敢えて言うなら、巫女姫様には危害を加えないようにするくらいかしら」
 智也と渚を交互に見、つばさは杜木の意向をそう伝える。
「杜木様からの指令ね……」
 全員の反応を何気にチェックしてからそれだけ呟いた後、涼介はちらりと意味深に綾乃を見た。
 そんな彼の黒を帯びた瞳に気がついた綾乃は、鋭い視線を彼に返し、不快感を露にする。
 涼介は自分に向けられる敵意のプレッシャーに、むしろ満足そうな笑みさえ浮かべている。
 それから、こう彼女に言ったのだった。
「それで、綾乃はどうなんだい? この指令に関して」
「どうって、何がよ」
「君は、随分と“能力者”と仲良しだろう? 果たしてそんな君が、この指令をこなせるのかってことだよ」
「……何ですって?」
 ムッとした表情で涼介を睨む綾乃に、すかさず渚も問う。
「てかおまえ、言われても当然じゃね? 実際さ、仲良しごっこしてる瀬崎先輩を、“邪者”としてちゃんと殺せるワケ?」
「おい、おまえらな、もう少し言い方ないのかよ……それに今回の指令は“能力者”の排除、何も綾乃があの関西弁の“能力者”をわざわざ担当することはないだろ」
 さらに緊張感の増す場の雰囲気に、すかさず智也はそうフォローするが。
 渚は大きくかぶりを振り、皮肉っぽく笑った。
「あのさ、智也。おまえ何言ってんの? 杜木様からの指令は、“能力者”の排除。で、その指令を一番効率よく簡単にできるパターン、ない脳みそでよく考えてみろっての。いくら綾乃が“邪者”だからって、あの甘っちょろい瀬崎先輩が真っ向からこいつとドンパチすると思うか? その甘っちょろさにつけこめば、あの人殺るのなんてカンタンだろ」
「ただし……綾乃までもが妙な情に絆されて、止めを刺すことに躊躇しない限りね」
 絶妙なタイミングで渚の言葉に付け加え、涼介は綾乃の反応を窺うように見る。
 綾乃は長い髪を鬱陶しそうにかき上げた後、はあっとわざとらしく溜め息をついた。
「は? 誰が躊躇するってのよ。私は、“邪者”としての仕事は完璧にするわ」
「完璧にねぇ。じゃ、瀬崎先輩のこと、おまえが殺れよ」
「無理しなくていいよ、綾乃。代わりに、僕が彼を殺せばいい話なんだからね」
 さらに煽るように畳み掛ける涼介と渚に、綾乃は眉を顰める。
「あのね、ちゃんと聞いてた? 私は“邪者四天王”よ? “邪者”としてやる仕事に、躊躇なんてするわけないでしょ。それがたとえ、友人を手にかけることになってもね」
「おい綾乃、少し落ち着けって。こいつらに煽られて向きになるなよ。“能力者”は何も、ひとりじゃないんだし」
 智也はもう何度目になるか分からない溜め息をつくと、綾乃を宥めるように肩に手を添える。
 だが、綾乃は振り払うかのように、智也の手を自分の肩から退かした。
 そして真っ直ぐに、深い闇のような黒の瞳を彼へと向けた。
「向きになんてなってないわよ。そういう智也こそ、私が祥太郎くんのこと殺せると思っていないからそんなこと言うんでしょ? それって何気に、私に失礼じゃない?」
 イライラした様子で思いがけず非難の目を向けられた智也は、複雑な表情を浮かべる。
 それから仕方なく、自分が思っていることを彼女に伝えたのだった。
「もしおまえが本気であの“能力者”の排除に取りかかれば、十分こなせるだろうな。そういう実力の面で言えば、十分殺せると思ってるよ。でもな……正直、精神的な面に関しては、あの関西弁の“能力者”の排除はおまえにはキツいだろ。そう、俺は思ってるよ」
 そんな智也の言葉に反応を示したのは、綾乃ではなく渚であった。
「はあぁっ? 何ソレ、意味わかんなすぎ。てか、仲良しこよしなのもいい加減にしろよな。殺すのが精神的にキツいって……お互いの立場、分かってんの? むしろそんなんで“邪者四天王”を名乗るなんて、図々しくて笑っちゃうね」
「あのね、渚。私は平気だって言ってるでしょ? 智也も、そんな余計な心配無用よ。向きになってなんかないし、無理もしていないわ」
 綾乃は大きく首を振ってからきっぱりとそう言い切る。
「素晴らしいね、僕は君のその言葉に期待してるよ。綾乃が殺ると決めたんだったら、僕は今回、彼には一切手を出さないことを約束しよう」
 パチパチと大袈裟に手を叩く仕草をし、涼介はご機嫌な様子でそう口を開く。
 逆に綾乃は殺気さえも感じる射抜くような視線を投げ、涼介に言った。
「どの口がそんなコト言ってるワケ? あんたのことなんか微塵も信用してないから、私。この件に関して少しでも妙なことしたら、その時は容赦しないわよ」
「綾乃……本当に大丈夫なのか? おまえが本気なら、俺はもう何も言わないけど」
 言わないというか、もう言っても無駄であるのだが……。
 心の中でそう思いながらも、智也は言い出したら聞かない彼女の頑固さに苦笑する。
 いや、最初から分かっていたし、これでいいのだ。
 この結果は、単なる会話による流動的なものでは決してなく。
 なるべくしてなる……必然的な結果なのだから。
 だが、そう分かってはいるものの。
 綾乃のことが心配なのは、智也の本心でもあった。
「あーもうなんか面倒だし、とりあえず決まりでいいんじゃね? そういうことでちゃんと殺れよな、綾乃。んで、あとの先輩は、この僕がちょいちょいっとまとめて絞めてやるよ」
「ちょいちょいとねぇ……ある意味、おまえのことも俺は心配だぞ、渚」
 自信たっぷりの渚に、智也は抜かりなくツッこむことを忘れない。
 そんな“邪者四天王”同士の会話をしばらく黙って聞いていたつばさは、ふっと息をつく。
 それから綾乃を見つめ、改めて彼女に問うたのだった。
「綾乃。杜木様に、本当にそうご報告してもいいのね?」
「もちろんよ。すべて杜木様の意に添うように、完璧に指令をこなしてみせますから、ってね」
 一瞬の迷いもみせることなく綾乃は即答した。
「杜木様の意に完璧に添うように、ね……」
 涼介はぼそりと小さな声で呟き、意味深に笑む。
 それから綾乃は、自分が注文したパフェを持ってウエイトレスが近づいてくることに気がつき、険しかった表情をおもむろに緩めた。
 同時に、見るからに甘そうな大きなパフェがテーブルに運ばれてくる。
「んじゃ、いただきまーす」
 スプーンを握り締めたまま手を合わせるその様は、どこにでもいる普通の少女の姿のものである。
 だが、今無邪気にパフェを食べようとしているこの少女が。
 先程までどんな話をし、これからどのようなことをしようとしているのか。
 事情を知らない人間からは、全く想像もできないことであろう。
 そして、美味しそうにパフェを口に運んでいく綾乃に。
 他の“邪者”は思い思いの考えを巡らせ、各人各様の表情で彼女を見つめていたのであった。