「げっ、マジかよ……」
今日はなんてついていない一日だろうか。
雨粒を落とすどんよりとした空を恨めしそうに見上げ、拓巳はザッと漆黒の前髪をかき上げる。
それからキョロキョロと周囲を見回してみるが。
すでに放課後を迎えてしばらく時間が経過しているため、拓巳以外、その場に誰の姿もない。
こんな時間に下校する羽目になったのも、あいつのせいだ。
拓巳はそうブツブツ呟きながら天敵の顔を思い出し、眉を顰める。
放課後――拓巳は鳴海先生から呼び出しを食らい、いつもの如く反抗的な態度をとったため、説教を浴びせられ、結局力でねじ伏せられたのであった。
そして、やっとのことで鳴海先生の小言から解放されたと思ったら……今度は、予想外の雨。
いや、今朝の天気予報は雨の可能性を高く伝えていたのだが。
拓巳の性格的に天気予報などをチェックしているわけはなく。
当然、今の彼の手に、雨を凌ぐ傘の姿はない。
しかも鳴海先生から呼び出されていたため、傘に入れてもらえそうな友人はおろか、すでに大多数の生徒は下校した後である。
空一面を覆う雨雲を見る限り、止みそうな気配どころか、これからさらに雨脚は強くなりそうな様相をみせている。
置き傘をするような性分でもない拓巳は、仕方ないようにひとつ溜め息をつく。
それから気持ち程度に鞄を頭の上に掲げると、意を決して外へと飛び出し、雨の降る中を駆け出したのだった。
本当に今日は冴えない一日だ、と。
水溜りをひょいっと器用に避けつつも、靴に雨がじわりと滲みるような嫌な感覚に、拓巳は眉間にしわを寄せる。
校門を通り抜けた拓巳は速度を緩めることなく、駅へと続く道を曲がった。
――その時である。
角を折れて視界の開けた彼の瞳に、あるものが飛び込んできたのだった。
雨に濡れるのも忘れ、拓巳は思わず立ち止まり目を凝らした。
そんな彼の漆黒の瞳に映っているのは。
雨に咲く花のように開かれた――淡く美しい、すみれ色をした傘。
少し、まだ距離はあるが……見間違えるはずはない。
拓巳はその綺麗な色をした傘の持ち主が誰か、よく知っているのだった。
今日はてっきり、ついていないとばかり思っていたが。
一転、こんなについていることはないかもしれない。
拓巳は今までとは違い、軽い足取りで再び雨の中を走り出す。
そしてすみれ色の傘にあっという間に追いつくと、持ち主の名を呼んだ。
「おっ、姫! やっぱ姫か」
「あ、拓巳!? どうしたの、早く傘に入って」
すみれ色の傘の持ち主・眞姫は驚いたように、雨の中傘を持たない拓巳を見る。
それから自分の傘を慌てて彼の頭上にも掲げた。
「まさか雨が降るなんて思ってなくてよ、傘持ってきてなかったんだ」
「天気予報で夕方から大雨だって言ってたよ。雨に降られて風邪ひいちゃったら大変だよ、そんなに大きな傘じゃないけどよかったら入って」
「ありがとな。あ、傘、俺が持った方がいいな。てか、学校からダッシュできたから思ったより濡れてないし、このくらいで風邪引くような弱っちい身体してねーよ」
なんて幸運なんだ。
思いを寄せる眞姫と偶然出遭えた上に、傘まで入れてもらえるなんて。
むしろ大きなものでなく、小振りな傘で大歓迎である。
そして、彼女から傘を受け取りながら、天気予報なんて見なくて本当によかったと拓巳は心から思ったのだった。
「それにしても姫、こんな遅い時間まで学校にいたのか?」
「うん、図書館で本を読んでてね。面白くてつい読み耽っちゃって遅くなっちゃったの。拓巳は?」
「俺? ああ、鳴海のやつに呼び出されてよ。説教された上に“気”まで放たれて、散々だったぜ」
逆に聴き返され、拓巳は嫌なことを思い出して思わず苦笑した。
普段の拓巳と鳴海先生の様子を見ている眞姫は、彼の返答に納得したように頷く。
「説教された上に“気”までって、相変わらずね」
くすくすと笑う彼女の笑顔に密かに胸の鼓動を早めつつも、拓巳は大きく嘆息した。
「笑い事じゃねーよ。学校ではむやみに“気”を使うなとか人には言ってるくせに、自分は容赦なく生徒に暴力だからな、あいつ」
制服についている雨粒を大雑把に叩き落としながらも拓巳は眉を顰めたが。
すぐに気を取り直し、ちらりと眞姫へ視線を向ける。
そして、少し緊張しつつもこう言ったのだった。
「そうだ、こんな天気だけどよ……腹も減ったし、何か繁華街で食って帰らないか?」
「いいね、私も甘いものとか食べたいな。今日は家族の帰りも遅いし、いいよ」
「本当か!? よしっ、決まりだなっ」
他のボーイズが知ったら、きっと袋叩きに遭ってもおかしくないが。
快い彼女の返事に拓巳はパッと表情を明るくする。
やはり、今日は最高についている、と。
心の中でガッツポーズをし、拓巳は天から降る雨に本当に感謝する。
そんな彼の心情など知らない眞姫だが。
ふと拓巳を見つめ、こう言った。
「あ、拓巳、遠慮しないでもう少し傘に入って。肩が傘から出ちゃってるよ」
「え? あ、悪いな、姫」
そう言って、肩が出ない程度に傘に入った拓巳だったが。
結果、思いのほか眞姫と接近している現状に、ようやくこの時になって気がつく。
ていうか、これって……俗にいう、相合傘というやつではないか。
そう意識し始めた途端。
拓巳は妙に照れくさくなって、彼女の顔をまともに見れなくなってしまうが。
微妙にぎこちない拓巳の隣で、眞姫は他愛のない会話を無邪気に続けている。
楽しそうに笑っている屈託のない彼女の様子は本当に可愛らしくて。
拓巳はいつの間にか、思わずつられて自然と頬を緩めていた。
まだ胸は異様なくらいにドキドキと鳴っているけれども。
そんな心の高揚は、不思議と心地良い。
眞姫と一緒にいられる幸せ。
そして、いつまでも彼女が自分の隣でこうやって笑顔でいられるように。
眞姫のことを、全身全霊を懸けて守ろうと。
拓巳はそう改めて密かに心に誓ったのだった。
先程よりも雨は激しさを増し、傘に落ちる雨粒の音も大きくなる。
そんな雨の中、ふたりは並んでゆっくりと歩みを進めた。
弾んだ会話を交わしているうちに、いつの間にか地下鉄の入り口に辿り着く。
拓巳はすみれ色の傘をたたみ、丁寧に雨露を払った。
地下鉄の入り口は屋根があるとはいえ、雨で階段は濡れている。
「姫、階段が濡れてるから気をつけろ……っ!」
拓巳がそう言った、矢先だった。
「きゃっ!」
眞姫は濡れた階段に足を滑らせ、声を上げる。
「! 姫っ」
咄嗟に拓巳は腕を伸ばし、ガクンと揺れる彼女の身体を支えた。
「おっ、ととっ」
高い運動能力を持つ拓巳は、眞姫の身体だけでなく、地に落ちそうになった彼女の鞄も難なく逆手でキャッチする。
転びそうになったことに対する恥ずかしい気持ちと、逞しい拓巳の腕の感触に、眞姫はカアッと顔を赤らめた。
「ったく、どんだけお約束なんだよ、濡れた階段でコケそうになるなんてよ」
「お、お約束って……もうっ」
からかうように拓巳は眞姫の頭を軽く小突き、クックッと笑う。
眞姫は耳まで真っ赤にさせて恥ずかしそうに俯いたが。
頭に、ぽんっと大きな手の感触を感じ、再び拓巳に目を向けた。
「でも笑い事じゃねーよな、危なかったよ。怪我でもしたら大変だ。足元気をつけろよ」
「あ……う、うん。ありがとう、拓巳」
優しく自分を見つめる、拓巳の漆黒の瞳。
じわりと抱き留められた腕から伝わるのは、ふたりの体温が混ざり合う感覚。
包まれるような、居心地のよい彼の“気”の温かさ。
眞姫は目を何度もぱちくりとさせながらも、火照った頬に手を添える。
それからまだ拓巳の腕の中に身を委ねている状況に気がつき、慌てて身を立て直した。
「あっ、鞄もありがとうっ。下に落ちたら汚れちゃってたところだったよ」
「まぁ俺にとってはこんなの楽勝だけどよ。姫も鞄も、ナイスキャッチだったろ?」
ニッと笑みを浮かべ、拓巳は眞姫に鞄を返す。
眞姫はそんな無邪気な表情の拓巳を見て、ふっと笑顔を宿した。
「うん、本当にナイスキャッチだったね」
「おうよっ。もっと褒めてくれよ、姫」
「すごい、すごいっ。さすが拓巳」
パチパチと少し大げさに手を叩き、眞姫はクスクスと笑う。
彼と一緒にいるといつもとても楽しくて。
自然と笑顔になることに、眞姫は昔から気がついていた。
そして、彼だけでなく。
大切な存在である彼らは、いつも決まって自分にこう言葉を掛けてくれるのだ。
「でも、姫を守るのは当然だからな。これからも姫のこと、俺がちゃんと守ってやるぜ」
「うん。ありがとう、拓巳。頼もしいよ」
眞姫はぎゅっと拓巳の手を取ると、にっこりと微笑んだ。
眞姫に不意に手を握られた拓巳は瞳を見開く。
そして照れたように数度瞬きをした後、嬉しそうに言ったのだった。
「ああ、任せとけ。んじゃ、甘いもんでも食いに行くかっ」
……すみれ色の傘に落ちる雨音も、僅かに傘から出た肩を濡らす雨粒も、鳴海先生に呼び出しを食らったことさえも。
最早、拓巳にとってはもうどうでもいいことになっていた。
今はただ……隣にいる眞姫の笑顔を見られるだけで。
それだけで、今日というこの日が、最高に幸せな日に変わるのである。