視聴覚室に入ってきた鳴海先生を、映研メンバーの5人は思い思いの表情で見つめた。
「…………」
 そんな全員の顔を、表情も変えないまま鳴海先生は一通り見回す。
 眞姫が桑野先生に捕らわれたという緊急事態に、たまらず駆けつけた拓巳と祥太郎の姿もそこにはあった。
「状況が多少変わったが、問題はない。予定通り行動を起こす」
「問題はない、だと!? 姫がさらわれて、どこが問題ないんだよっ、ふざけんな!」
 鳴海先生の言葉に、拓巳はキッと鋭い視線を向ける。
 そんな拓巳にちらっと目を向けてから、鳴海先生は言った。
「予定通り、おまえと祥太郎はここで待機だ。詩音、清家が今どこにいるか分かるか?」
「何だと!? 人の話聞けっ……!!」
 その時、ガッと肩を掴まれて拓巳は振り返る。
 拓巳の肩を掴んだまま、健人は首を横に振った。
「今は鳴海先生と言い合ってる時じゃないだろう、拓巳」
「そうや、拓巳の気持ちは分かるけどな、今はそんな状況やない」
「……くっ」
 健人と祥太郎の言葉に、拓巳は納得いかないように唇を噛む。
 そして鳴海先生は、今度は視線を詩音に向けた。
 詩音はおもむろに、すうっとその両の瞳を閉じる。
 ぼうっと詩音の身体から光が立ちのぼるのが見え始めた。
 そして。
「お姫様はまだ学校内にはいるみたいだけど、桑野先生の邪気がその居場所を覆い隠しているから詳しい場所は分からないよ」
「そうか」
 詩音のその言葉を予想していたかのように、鳴海先生は小さく頷く。
 それからゆっくりと、言葉を続けた。
「遅かれ早かれ、桑野先生に必ず動きがあるはずだ。健人と准と詩音で清家を救い出し、そして“邪”を消滅させろ」





 同じ時。
 眞姫は、うっすらとその瞳を開いた。
 自分の状況が分からず、眞姫はあたりを見回す。
 そこは人の気配のない、体育館だった。
 そして入り口から一番遠い位置に座らせられ、両腕を後ろ手に縛られている。
「お目覚めかな、清家さん」
 眞姫ににっこりと微笑みを向けて、隣にいる桑野先生は言った。
 眞姫は、ハッと顔をあげる。
 それと同時に、ズキッと腹部に痛みがはしった。
 眞姫は、青白い物体に腕を掴まれ、そして腹部に衝撃をうけたことを思い出す。
 どうやらしばらく、その衝撃を受けて気を失っていたらしい。
 一体あれから、どのくらい時間が経ったのだろうか?
 そして映研のみんなは、無事なんだろうか?
 鳴海先生の言う“行動”は、実行に移されたのだろうか?
 眞姫は、視線をふと桑野先生に向ける。
 そんな眞姫に、桑野先生は煙草に火を点けてから笑った。
「ん? 何か質問でもあるのかな、清家さん」
「今から、何をするつもりですか!?」
「君を餌に厄介な“能力者”を誘き寄せて、始末する、と言えばいいかな」
 桑野先生の言葉に、眞姫は険しい表情を浮かべる。
「えっ!? ……!!」
 次の瞬間眞姫は、ぞくっと全身に寒気を感じた。
 あたりに邪気が立ち込め、そしてそこに“結界”が形成される。
 ガランと広い体育館が、より一層不気味な静けさを増す。
「ゲストをお招きするんだ、それなりに接待しないとね」
 ふっと不敵な笑みを浮かべてから、桑野先生は立ち上がった。
 眞姫は、邪気を帯びる桑野先生の姿に目を見張る。
 そして目の前に現れた光景に、ぞっとした。
 広い体育館を埋め尽くすような、無数の青白い物体。
 全部で何体いるのかも分からないその青白い物体を目の前にして、眞姫はもう一度全身に寒気がはしる。
「この“青の人形”は、僕が近くにいればいるほど力を発揮する。いくら消されても、数も無数に増えていくんだ。僕自体を倒さない限りね」
「…………」
 眞姫はもう一度、ぐるりと青の人形で埋め尽くされた体育館を見渡す。
 そして桑野先生が何故場所を体育館にしたか、その先生の言葉で眞姫には理解できた。
 広い体育館の空間は、青い人形を無数に作り出し“能力者”を足止めする上で都合が良いのだ。
 眞姫は、目の前に桑野先生に視線を向けた。
 その全身には邪気が漲り、顔には笑みを浮かべている。
 何とか、できないのだろうか……。
 縛られている手をどうにかして動かそうとしたが、縛っている紐が余計に手首に食い込み、その痛みに顔を歪めた。
 そんな眞姫の様子を見て、桑野先生はふっと笑う。
「大人しくしてなさい、清家さん。すぐに済むからね」
 そう、桑野先生が言った、その時。
 ピシッと空間が裂けるような音がした。
 ハッと眞姫は、その顔をあげる。
「お迎えが来たようだよ? ただ、無事に帰ることができるかはともかくね」
 不敵に笑みを浮かべてから、桑野先生は体育館の入り口に目を向けた。
「姫を、返してもらおうか」
 桑野先生の結界に入ってきた健人が、短くそう言った。
 健人だけでなく、准と詩音の姿も見える。
 その言葉に、桑野先生は首を横に振った。
「分かったよなんて、言うとでも思ってるのかい?」
 桑野先生がそう言った、その時。
 無数の青白い物体がゆっくりと、3人に向けて歩を進める。
 桑野先生の身体からは、今まで以上に邪気が立ちのぼっている。
 眞姫は、ザワッと鳥肌が立つのを感じた。
「いけ」
 ふっと表情を変え、桑野先生がそう言い放つ。
 すると、今までゆっくりと動いていた青の人形たちが、一斉に3人に襲い掛かってきたのだ。
「! くっ!!」
 准の右手が、急速に光を増す。
 刹那、バチバチッという音が耳に響き、准の張った“気”の防御壁に弾かれた数体の青の人形が消滅した。
「! えっ!?」
 そして次に起こった光景に、眞姫は、驚いたように顔をあげる。
 消滅した数の倍の“青の人形”が、ぼうっとその場に再び現れたからだ。
「言っただろう、清家さん。僕が倒れない限り、青の人形の数は無数に増えるとね」
 驚いた表情をする眞姫に、桑野先生はそう笑う。
「あの青い物体の数、厄介だね」
 准は、険しい表情で言った。
 そんな准の言葉に、詩音は顔をしかめる。
「僕の美学に反するよ、あんな生気のない物体の大群なんて」
「青白い物体は、桑野先生が作り出してるんだ。ヤツにダメージを与えれば、コイツらも消える」
 そう言って、健人はすうっと右手に力を込めた。
 カアッと、その右手に光が宿る。
 それを見て、桑野先生はニッと笑った。
「君たち、忘れていないかい? 僕の手の中には、君たちのお姫様がいることをね」
 そう言って、桑野先生は眞姫を盾に位置を取る。
「お姫様ごと“気”で消滅させてもいいのなら、それを放ってごらん」
「! 姫っ」
 健人はその言葉にぴくりと反応し、その右手をすうっと下ろした。
 眞姫はそんな健人の様子を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 私に力が使えたら、こんなことにはならなかったのに。
 桑野先生だって、助けてあげられるのに。
 健人が右手を下ろしたのを見て、桑野先生は再び邪気を漲らせる。
 そして、言った。
「いつまで体力が持つかな? いけ」
 グワッと、再び青白い無数の物体が3人に襲い掛かる。
「! くっ」
 咄嗟に准が防御壁を作り出し、そして健人が右手から“気”を放った。
 眩い光が無数に弾け、青い物体が数体消滅する。
 それと同時に、消滅した数以上の青の人形がかたちを成していく。
 これではキリがないと、眞姫は不安気に戦況を見守る。
 健人たちが青い物体を消すよりも、桑野先生がそれを作り出す方が早いのだ。
「詩音、行けるか?」
 青白い物体に“気”を放ってそれを消滅させながら、健人は言った。
「まだかな、もう少し距離をつめないと」
 体育館の奥にいる桑野先生と眞姫を見つめて、詩音は距離を計るように目を細める。
「防御壁を強めるから、ふたりへの距離を少しずつ縮めよう」
 そう言って准は、右手を掲げる。
 ブンッと音を立てて、准の右手に宿った“気”が、より光を増した。
 その瞬間、強化された防御壁にぶつかった無数の青白い物体が、ドンッと吹き飛ばされる。
 じりじりと少しずつではあるが歩み寄ってくる3人に、桑野先生は笑った。
「そんなにハイペースに“気”を消費したら、あとが持たなくなるよ」
 少しずつ近づいているとはいえ、眞姫たちまでの距離はまだかなりある。
 そして眞姫たちと3人のその間には、無数の青白い物体。
 しかも、消されても消されても、その数は増える一方である。
 それを作り出している桑野先生自体は、全くの無傷なのだ。
 彼自身を攻撃しようとも眞姫を盾に取っているため、直接に攻撃もできない。
 目の前の光景を見ながら、眞姫は自分の無力さに唇を噛んだ。
 そして、隣で邪気を立ちのぼらせている桑野先生を、キッと睨みつける。
 そんな眞姫の視線に気がつき、桑野先生はにっこりと笑った。
「そんな顔をしないでくれよ。もうすぐ君の身体は、私と一体化するんだからね」
「そんなこと、させないっ」
「今の君に、何ができるっていうんだい? お姫様は大人しく見物していなさい」
 楽しそうにそう言ってから、桑野先生はすうっと右手を掲げる。
 すると青白い物体が、さらにその数を増した。
「くっ! 詩音、まだかっ?」
 大きな“気”をハイペースで放ちながら、健人は歯をくいしばる。
「あと5歩前進したら、圏内に入るよ。5歩動いたら、桑野先生の意識をお姫様から逸らせてくれないかな」
「分かった。あと5歩進んだら、“気”をヤツの右に放つ」
 こくんと頷き、健人は目の前の青白い物体を数体消滅させた。
 准も、手を緩めない青白い物体の攻撃を防御壁で防ぎながら、詩音に視線を向ける。
 眞姫はまだ遠くに見える3人を見据え、何も言えないでいた。
『今の君に、何ができるっていうんだい?』
 桑野先生の言葉が胸に突き刺さる。
 悔しいけど、その通りなのだ。
 自分には、力があるはずなのに。
 なのに、みんなの足を引っ張っているだけの現状。
 どうすればいいんだろうか。
 どうすれば……。
 そう眞姫が思った、その時だった。
「!!」
 隣の桑野先生が、はじめて表情を険しいものにする。
 眞姫も、それにつられるように顔を上げた。
 それと同時に大きな光が放たれ、目の前に迫ってくる。
 健人の放ったその大きな光は、青白い物体にではなく、桑野先生に向けて放たれたのだ。
 だがその大きな光はふたりには直撃することはなくその横を掠め、ドンッと壁に大きな穴をあける。
「ふっ、お姫様が気がかりで、しっかり狙いを定められないか……っ!?」
 その時。
 ハッと、桑野先生は顔をあげた。
 そして表情を変え、急いでバッと振り返る。
「! あっ」
 眞姫も同時に振り返り、その場にいた人物の姿を確認して驚いたように目を見開いた。
 それと同時に、カッと目の前に眩い光が広がる。
「残念だったね、僕のお姫様は返してもらうよ?」
「ぐっ!! 貴様っ、“空間能力者”かっ!?」
「し、詩音くん?」
 いつの間に桑野先生の背後に移動したのか、そこには詩音の姿があった。
 そして詩音の放った“気”を浴びて、桑野先生は身動きが取れないようだ。
 眞姫の手首を縛っていた紐をスルッと解き、詩音はふっと笑顔を向ける。
「大丈夫だった? お姫様」
「えっ!? どうして、ここに!?」
「僕の“空間能力”で、お姫様を救いに、ふたりの距離を飛び越えて来たんだよ」
「え? “空間能力”?」
 眞姫は、ぽつんとそう呟いた。
 さっきまで健人と准と同じく数メートル先にいたはずの詩音が、今まさに、自分の目の前にいる。
 空間を飛び越えて、いわゆる瞬間移動してきたというのだ。
 そして、桑野先生の動きを封じる“気”を詩音は放ったのだ。
 相変わらずの姿勢を変えず、詩音は眞姫から今度は桑野先生に視線を移した。
「さっき僕の放った“気”で、貴方の空間の動きは封じさせてもらったよ」
「くそっ、ぐっ! 封じられた空間の磁場さえ抜ければっ!」
「無駄だよ、貴方がその磁場を抜けられるより早く、貴方を退治するからね」
「くっ!」
 桑野先生は、グワッと身体中に邪気を漲らせる。
 だが、そう簡単に封じられた身体を動かすことができない。
 桑野先生が詩音の“気”を解除すべく力を注いでいるためか、無数の青白い物体は、跡形なく消えていた。
 眞姫の前に、健人と准も駆けつける。
「姫、大丈夫だったか?」
「うん、大丈夫」
「もう大丈夫だからね、姫」
 准は、眞姫に手を差し出した。
 その手に掴まって、眞姫はゆっくりと立ち上がる。
 そんな眞姫の様子を見てから、健人は右手に力を込めた。
「! くっ、“邪”を消滅させるということは、私を殺すことになるんだぞ!?」
「ふたりの人間を手にかけておいて、何を今更言ってる。“邪”を、消滅させる」
 ボウッと、健人の右手に大きな光が宿る。
 そしてその右手を健人が今にも振り下ろそうとした、その時だった。
「!! 待って、健人!」
「姫っ!?」
 健人は驚いたような表情を浮かべて、その動きを止める。
 眞姫が咄嗟に、身動きの取れない桑野先生の前に立ちふさがったのだ。
「! 姫、あぶないから下がって、健人に任せてっ」
 准は、ハッと表情を変えてそう叫ぶ。
 眞姫は准の言葉に、大きく首を振った。
「駄目よ、いくらふたりの人間を手にかけたとはいえ、殺すなんてできないっ」
「……お姫様」
 眞姫の行動に、3人はそれぞれ複雑な表情を浮かべている。
 その時。
「あっ! きゃっ!?」
「!! 姫っ!」
 ガッと突然すごい力で肩を掴まれ、眞姫は後ろに引っぱられる。
 何とか右腕の自由だけ取り戻した桑野先生が、眞姫の身体を力ずくで自分に引き寄せたのだ。
 素早く反応を示した3人に、桑野先生は鋭い視線を向けた。
「動くなっ!! 僕がこの空間の磁場を抜けて身体の自由がきくようになるまで、少しでも動いたら、右腕で清家の首の骨を折ってやるからなっ!」
 その言葉に、3人は動きを止める。
 桑野先生の腕の中で、眞姫はグッと目を瞑った。
 自分が余計なことをしなければ、“邪”を消滅させられたのに。
 でもあのまま、桑野先生を見殺しにはできなかった。
 そう、桑野先生は、どうしても助け出したい。
 桑野先生を助けられるのは、自分だけなのだ。
 自分の中にあるという、大きな力さえあれば。
 そう眞姫が思った、次の瞬間。
「!!」
 刹那、眞姫の瞼の裏に、ある映像が浮かんできたのだ。


 ――そこに見えるのは、ふたりの男女。
『君が高校を卒業したら、結婚しよう。残りあと、1年もないんだ』
『1年も私、あの学校にいられない』
 泣き出す女の子を、男性はそっと優しく抱きしめる。
 その指先には、剃刀で切ったような生々しい傷跡。
『僕と一緒に、頑張ろう。愛してるよ』
 ……ジジッと、眞姫の脳裏で映像が乱れる。
 そして数秒後、再び映像が現れ、今度は男性の姿だけが見える。
 時間が変わったようだ。
『嘘だ、彼女が自殺なんてっ!』
 ガチャンッと乱暴に電話の受話器を置き、男性は嗚咽を漏らしている。
 泣いているのか怒りを感じているのか分からない状態のまま、その男性はブルブルと身体を震わせている。
 感情のコントロールがすでに出来なくなっているその男性は、バンッと近くのテーブルを力いっぱい叩いた。
 そして、気が狂ったかのようにニイと笑みを浮かべて、呟いた。
『僕はもう、生きる希望を失った……殺してやるっ、殺してやるっ!』


 ……カッと、頭の中にフラッシュが光った。
 見えていた映像が消え、体育館の光景が眞姫の目の前に戻ってくる。
「桑野先生……」
 今見た男性は、目の前の桑野先生その人だった。
 彼の悲痛な思いが、眞姫の胸を締め付ける。
 愛する人を失って、自我をなくし“邪”と“契約”を交わした。
 そしてふたりの人間を手にかけた。
 でも、だからと言って、見殺しにすることはできない。
「復讐をたとえ果たしても、彼女は喜ばないと思います」
 眞姫は、桑野先生の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 眞姫の言葉に、桑野先生は表情を変える。
「なっ!? 君に、何が分かるというんだ!?」
「先生の心に触れて、その悲しみや憎しみが痛いほど感じました」
「!? 姫!?」
 健人たちは、驚いた表情で眞姫を見ている。
 さっきまであれほど不安で恐怖を感じていたのに、今の眞姫の心は、不思議と落ち着いていた。
 そして、身体の奥底が熱くなる様な感覚をおぼえる。
 急に桑野先生は、苦しそうに声を出した。
「ぐっ、やめろっ!! 僕の心に、入ってくるなっ!!」
「えっ!?」
 健人たちは、目の前の光景を信じられない面持ちで見つめる。
 じわじわと眞姫の中の光が、桑野先生の心の中に入り込んでいっていた。
 そして、眞姫の身体の奥にある何かが、カッと弾けた。
「!!」
 眩しい光があたりを包み込み、健人たちはたまらず手で瞳を覆う。
『何っ、“憑邪浄化”だと!?』
 ドサッと音がし、桑野先生の身体が崩れるように床に倒れる。
 だが健人たちの見据えている視線の先は、黒い霧のような“邪”の実態。
「おまえが、桑野先生に憑依していた“邪”か」
 健人は、静かにそう言った。
 その物体は邪悪な気を漲らせ、クッと唇を噛む。
『くそっ! もう少しで“契約”が成立したものをっ!! こうなったら、“浄化の巫女姫”の身体にこのまま憑依するまでだっ!!』
「!!」
 その黒い“邪”の実態が今にも眞姫に襲い掛からんとした、その前に。
 健人の右手から、強烈な光が放たれる。
 その大きな光が、その物体に、ドンッと直撃した。
 そして光が直撃した“邪”は、この世のものとは思えない断末魔の悲鳴をあげる。
 “邪”は……跡形もなく、消滅した。
 ふっと目の前に広がっていた風景も“結界”から解き放たれ、いつもの表情に戻る。
 眞姫はぺたんと力が抜けたように、その場に座り込んだ。
 そんな眞姫の頭を優しく数度撫で、詩音は微笑む。
「大したものだね、僕のお姫様は。“憑邪浄化”か」
「姫、大丈夫?」
 自分の力では立てなくなっている眞姫に肩を貸し、准は心配そうな表情を浮かべた。
「え? 何が起こったの? 桑野先生は……」
「大丈夫だよ。姫のおかげで、桑野先生に憑依していた“邪”だけを消滅させたから」
「時間が経てば、桑野先生の意識も戻るだろ」
 准と反対側の肩を抱き、健人も眞姫に言った。
「助かった? 私も、桑野先生も……みんな?」
「! おい、姫っ!!」
 最後に健人の声が聞こえたかと思った瞬間、眞姫の意識は、そこでフッと途切れたのだった。


      ★


 同じ時、聖煌学園の校門前。
 一台の車が、そこには止まっている。
 車内には、男がふたり。
 ひとりは端整な黒のスーツを纏う青年、ひとりは高校生くらいの少年である。
「なるほど、“憑邪浄化”か」
 腕組みをして何かを考え込むその青年に、隣の少年は笑った。
「でも、まだ“浄化の巫女姫”の能力は完全に蘇ってはないようですね」
「とはいえ、すでに“能力者”も数人“浄化の巫女姫”を守護しているようだからな」
「“能力者”、ですか」
 険しい表情をする少年に、その青年は微笑む。
「心配はない。おまえたちの力を持ってすれば、問題はないだろう?」
「今度は“憑邪”なんかじゃなく、俺に行かせてくださいよ」
 その言葉に、少年の肩をその人物は数度叩く。
「今回はあの“憑邪”をけしかけて、得るものは大きかったな」
「“憑邪”は、単細胞ですから。“浄化の巫女姫”の居場所を教えたら、まんまと襲いに行くし」
「少なくとも、“浄化の巫女姫”のまわりには、数名の“能力者”がいる。こちらも、ある程度慎重に動かなくてはいけないな」
 そこまで言って、その青年は乗っている車のエンジンをかけた。
 そして、アクセルをまさに踏む直前に言った。
「だが今度は、本格的に行動に移すつもりだよ」


      ★    ★


 次の日―――4月16日。
「さっきの桑野先生の授業さ、あとでノート写させて、眞姫っ」
「うん、いいよ。ていうか梨華、さっきの授業一生懸命何してたの?」
 廊下を歩きながら、眞姫は梨華に言った。
 そんな眞姫に、梨華は屈託なく笑う。
「何って? 決まってるじゃん、さっき眞姫に借りた鳴海の授業のノート、写してたんじゃなーい」
「まさか、また次の授業でこのノートも写すの?」
「うん、もちろん。だって次って化学でしょ? 内職し放題だし」
「梨華、そういう問題じゃない気が」
 その時、眞姫は、ふっと顔を上げた。
 そこには、数人の女生徒から質問を受けている、桑野先生の姿。
 あれからどれくらい先生が気を失っていたかは分からないが、意識を取り戻した時、桑野先生の記憶から“憑邪”に憑依されていた時のものは消えていたという。
 ふたりの人間に手をかけたことも、眞姫をさらったことも、何も覚えていないのだ。
 “邪”を呼び寄せたのは、桑野先生の抱いた憎しみや復讐心だ。
 そして先生の心に触れ、その悲しみも、痛いほど感じた。
 桑野先生のやったことは許されないことだが、“邪”の仕業である行動のため、法的に罪にとうことはできない。
 だからせめて手にかけた二人の人間、そして自殺した彼女のためにも、これからの人生を精一杯生きていくことが、桑野先生にとっての罪の償いではないかと。
 眞姫は、そう思ったのだった。
「あ、そういえば! Aクラスの美奈子ちゃんに、国語のテキスト借りっぱなしだったっ。眞姫、先に教室戻っててー!」
 思い出したかのように、梨華は眞姫に手を振って廊下を走り出す。
 いつも元気だなぁと、遠ざかる梨華の背中を眞姫は見つめた。
 そして、再び教室に向かって歩き始める。
 ふと、その時。
 眞姫は、ふと視線を上げた。
 そこには、職員室に戻ろうと廊下を歩いていた、鳴海先生の姿があった。
 切れ長の鳴海先生の瞳が、眞姫の姿を映す。
 眞姫はぺこりと頭を下げ、再び歩き出す。
 そしてふたりがすれ違う、その直前。
「清家」
 ふと名前を呼ばれて、眞姫は立ち止まった。
 そんな眞姫の頭にポンッと右手を軽く乗せて、鳴海先生は言った。
「今回、おまえはよくやった」
 それだけ言って、鳴海先生は再び歩き出す。
 そんな鳴海先生の後姿を驚いたような表情で見ていた眞姫だったが、嬉しそうに微笑んで、教室に向かって歩き出したのだった。


第1話 Fin