窓の外には、まるで季節が夏に戻ったかのような雲ひとつない快晴が広がっている。
 そんな天気の良い休日。
 蒼井健人は、先程からずっと自分に向けられている視線にうんざりした様に大きく溜め息をつく。
 そして顔を上げ、抗議するように言った。
「おまえな……そんなにジロジロ見るな」
「何や、最初に出てきた言葉がそれか? ほかに言うことあるやろ、美少年」
 健人の言葉に苦笑しつつ、視線の主・祥太郎は調子良く続ける。
「オトメ心の分からんヤツやなー。自分の手料理を食べて貰った立場の人間はな、相手が感想言うまでのこの時間がドキドキなんやで?」
「オトメ心……おまえが言ったら気色悪いだけだ」
 冷たくそう言い放った後、健人は目の前にある祥太郎お手製のカレーライスをスプーンですくって口に運んだ。
「気色悪いって、将来のカリスマ料理人に何てこと言うんや。相変わらず冷たいわー、美少年は。ハンサムくん、これでも一生懸命作ったんやで? しくしく」
 ――学校も休みの土曜日。
 単身上京している祥太郎は、同じく一人暮らしをしている健人を昼食に誘っていた。
 いや、今日だけに限らず、最近料理に凝っている彼は作ったものを一人で食べるのも勿体無いと、よく健人にこうやって声を掛けていた。
 そして自炊している祥太郎と違い、食事は外食か購入したものが殆どである健人は、特にその誘いが嫌なわけでもないため、応じることが多いのだった。
「分かったからそんなにジッと見るな、食べにくい……カレーは美味いよ」
 ようやく祥太郎の求めている言葉をボソリと言ってから、健人は小さく嘆息する。
 祥太郎は一見お調子者にみえる外見とは裏腹に凝り性で器用で、料理も得意なのである。
 そのため、店に出るような料理と比べても遜色ない程に、彼の作る料理は大抵美味しいのだ。
 だが……。
 これが祥太郎のものではなく、想いを寄せる眞姫の手料理だったらどんなにいいかと。
 毎回、つくづく健人は思ってしまうのだった。
 そんな健人の様子を見た祥太郎は、つけているギャルソンエプロンを外す。
 そしてそれを椅子に引っ掛けてから、ハンサムな顔にニッと笑みを浮かべて言った。
「あ、もしかして今、これが姫の手料理やったらええなぁっとか思ったやろ、顔にしっかり書いてあるで? まぁな、俺も姫と手料理の作り合いっことかしたいわーとか思うしな。でもその前に、実験台……いや、一人暮らし同士、健人と仲良う食卓を囲もうやんか」
「ていうか、実験台かよ」
 抜かりなく短いツッコミを入れてから、健人は再び祥太郎のカレーを口に運んだ。
 祥太郎はそのツッコミに満足そうに笑った後、健人の正面の椅子に座り、ようやく自分も昼食を食べ始める。
 それからふっと息をついてこう呟いた。
「んーまぁ正直に言うとな。実は今日、姫と遊び行こうと思って電話したんやけど。もう先約があるって言われてな。健人にでも先越されたか? って思ったんやけど、違ったんやな」
「……姫に?」
 祥太郎の言葉にピクリと反応を示し、顔を上げた健人は思わず眉を顰めた。
 普段あまり自分の感情を表に出さない彼にしては珍しい、目に見て取れるほどの表情の変化。
 その理由はというと。
 健人は今までで一番大きくて深い溜め息をつき、こう言ったのだった。
「俺も今日、どこか行かないかって姫に電話したんだ」
「なんや、美少年もフラれとったんか。騎士の考えることは同じっちゅーことやな」
 健人の口から出た思わぬ言葉に少し驚いた様子の祥太郎だったが、すぐにハンサムな顔に小さく笑みを作った。
 そんな祥太郎にちらりとブルーアイを向けた後、健人はふっとひとつ息をつく。
 そして、ゆっくりと呟いたのだった。
「でも、何だか今日の姫……いつもと少し様子が違う感じがした」
「え?」
 今度は祥太郎が顔を上げ、瞳を見開いた。
 だがすぐに気を取り直して前髪をそっとかき上げる。
 それから無意識に真剣な表情を宿し、健人にこう言葉を返したのだった。
「やっぱり、おまえもか? 俺も実はそう思ったんや。だから何かあったんやろうかって心配しとるんやけど、聞いてないか?」
「…………」
 健人はふと口を噤んで青の瞳を伏せる。
 実はこの日、眞姫にどこか行かないかと誘いの電話をした健人だったが。
 祥太郎と同じく、彼女からは先約があると言われたのだった。
 思い立って当日急に誘ったために、残念ではあるが眞姫に用事があることは別に仕方のないことだとは思ったが。
 気になったのは……電話の向こうの彼女の声。
 特に元気がなかったりだとか、落ち込んでいる様子であるとか、そういう感じでは決してなかった。
 だが何故だか、聞き慣れているその声に、いつもと違う響きがあることに気がついたのだった。
 それが具体的にどういうものかと言われると、何と言っていいのか分からないが。
 緊張しているような、どこかそわそわと落ち着きがないような。
 そして何かについて深く考え込んでいるような。
 聞こえてくる眞姫の声から健人はそういう印象を受けたのだった。
 しかしあくまでそれは、健人の勘である。
 もしかしたら思い違いかもしれない。
 そう思い、敢えてその時眞姫に何か言うことなどはしなかったのだが。
 祥太郎も自分と同じ印象を持ったという。
 それを聞いた健人は、その時すぐに彼女に何かあったか訊かなかったことを後悔した。
 そして、それと同時に。
“能力者”であり、何気に恋の好敵手でもある祥太郎と、行動だけでなく考えることや感じることまで同じということに、健人は何だか複雑な気持ちに陥ったのだった。
 いや、祥太郎だけではないだろう。
 きっとほかの仲間も、あの時の眞姫の声を聞けば同じように思ったに違いない。
 そんなことを考えつつ、健人は深い溜め息をついた。
 それから思い出したように再び目の前のカレーライスを口に運んだ。
 祥太郎は何かを考えるかのようにそんな健人の様子を黙って見ていたが。
 彼が食事を再開させてしばらくして、苦笑まじりに口を開いたのだった。
「姫は頑張りやさんやからな。運命から逃げるどころか、真っ向からそれを受け止めようとしとるもんな」
「そんな姫の気持ちも分かるよ。でも……もう少し、頼って欲しい」
 健人はそう呟いて顔を上げ、さらに続ける。
「姫が自分の使命を全うしようとしてるように、俺も姫のことを守ってやりたいんだ。姫は俺たちに気を使ってひとりで頑張ろうとすることも少なくないからな。どれだけ頼ってくれても、頼りすぎなことなんてないのに」
 伏せ目がちな健人の青い瞳に長い睫毛が重なる。
 祥太郎はそんな健人の言葉に頷きつつも、優しく瞳をふっと細めた。
「まぁな、確かに姫は遠慮しすぎやし、もっとドーンと俺らに頼ってくれてもええのになぁって思うわ。でも俺はな、そういうところも含めて、姫の全部が好きやからな」
「俺だってそうだ。でも、もっと頼って欲しい」
 まだ不服気な顔をしている健人に祥太郎は笑う。
「ていうか、ハンサムくんに言っても仕方ないやろ? あ、カレーのおかわりならあるからなー」
「…………」
 はあっと大きく嘆息した後、健人はミネラルウォーターを口に運んだ。
 それからちらりと祥太郎に目を向けて彼にこう訊いたのだった。
「そういえばおまえ、あの藤咲綾乃と仲いいだろう? あの“邪者”に聞いたことないのか? 杜木ってやつが何で“能力者”から“邪者”になったのか」
「んー、そういえば訊いたコトないな。てか、別に普通に友達付き合いしとる時にわざわざ“能力者”だの“邪者”だの、そーいう類の話はせんからなぁ」
「“能力者”から“邪者”になるなんて俺には全く理解できないし、どうしてだか理由も想像できない」
「まぁ、あの悪魔にしごかれとる時は“能力者”なんてやめたるわーって何度思ったか分からんけど。でも“能力者”をやめるだけならまだしも、あの杜木ってヒト、何でわざわざ“邪者”にならなあかんかったんやろ? その心境の変化はさっぱり分からんけどな……」
 祥太郎はそこまで言って、一旦言葉を切る。
 それから間を十分間を取り、言った。
「あの杜木っちゅー“邪者”も、“能力者”の時は今の俺らみたいに思っとったんかもしれんで? 何せ、あの鳴海センセの親友で、ゆり姉の元彼やったってくらいやからな」
「だから、そんな“能力者”が、何で“邪者”になるんだって言ってるんだ」
「さぁな、それは知らんわ。でも俺らだって今は理解できんでも、もしかしたらふとしたキッカケであの杜木ってヒトと同じ道を歩むかもしれん可能性はないとは言えんのやないか? めっちゃ限りなく低い可能性やろうけどな。でもそう考えると、センセとの間で何かよほどのことがあったんやろうなぁとは思うわ」
「そんなことはない、何があっても“邪者”になるなんて有り得ない。俺は絶対にない」
 そうきっぱりと断言する健人に苦笑しながらも、祥太郎は座っていた椅子から立ち上がる。
「だから、可能性の話をしとるだけやんか。俺だって今はな、絶対何があってもそんなことないやろって自信もって言えるわ。ただ、人間何があるか分からん。そーいうことやないか? ……って、飲み物なんかいるか?」
 そう言ってから健人のグラスが空になっていることに気がつき、祥太郎は飲み物を取りにキッチンへと足を向けた。
 健人は青い瞳をおもむろに閉じ、やはり納得いかないように小さく左右に首を振る。
 過去に何があったかは知らないが。
 “能力者”である自分が“邪者”になるなんて考えられないし、やはりその行為が全く理解できない。
 どんなことがあっても自分は“能力者”で在り続けるだろうという自信もある。
 そんな自分が“能力者”でなくなる時。
 それはきっと――死ぬ時だろう。
 健人は金色に近い前髪をそっとかき上げてふっと小さく息をつく。
 そして窓の外に目を向け、怖いくらいに晴れている空をその美しい色の瞳に映したのだった。




 ――同じ頃。
 鼻をくすぐる珈琲の香りが包み込むその空間は、まるで時が止まっているかのように静かである。
 だが決して居心地が悪いということではない。
 店内を流れるクラシック音楽と珈琲を淹れる音が自然と耳に響き、心地良さまで感じる。
 ひなげしの花言葉は、心の平静・慰め。
 その花と同じ『ひなげし』の名を持つ喫茶店で。
 眞姫はほうっと思わず息を吐いた。
 それからひとくちマスターの淹れた珈琲を口に運び、視線を隣にいる人物へと向けたが。
 彼は相変わらず表情を変えることはなく、眞姫の言葉をただ待っているようである。
 彼――鳴海先生から誘いがあったのはつい昨日のことだった。
 いや、正確に言うと先生からの誘いというよりも、眞姫があることを訊きに彼の元へと出向いたのがきっかけで。
 先生は約束の午前11時ちょうどに駅まで眞姫を迎えに来た。
 それから彼女を愛車のダークブルーのウインダムに乗せ、いきつけの喫茶店『ひなげし』までやってきて、今に至っているのである。
 意を決して今まで疑問に思っていることを訊こうとした眞姫の様子を汲み取り、鳴海先生は誰にも邪魔されず話ができるよう場を設けてくれたのだ。
 だが店に入ってからも、特に先生から何かを言われることはなく。
 眞姫は何からどうやって訊こうかと、会話を始めるタイミングを掴めないでいたのだった。
 訊きたいことを頭の中で整理して来たはずなのに、いざ先生を目の前にすると何故か妙に緊張してしまってうまく言葉が出てこない。
 とはいえ、このまま黙っているばかりでは何も始まらない。
 とりあえずはまず自分の今の気持ちを彼に伝えようと。
 眞姫はそう意を決して、鳴海先生に切り出したのだった。
「あの、鳴海先生。今日はお時間作っていただいてありがとうございます。でも……何だかうまく質問がまとまらなくて……すみません」
 鳴海先生は切れ長の瞳を眞姫に向ける。
 それから相変わらず淡々とではあるが、こう彼女に言ったのだった。
「謝る必要はない。おまえが訊きたい時に訊きたいことを質問すればいい。そして私はその事柄に対して、答えられることを答えるだけだ」
「訊きたい時に、訊きたいことを……」
 一見冷たいように聞こえる先生の口調だが。
 自分に向けられたその言葉は、彼なりに気を使っているものであることが分かった眞姫は、恐縮しつつも少しだけ気が楽になった気がした。
 そして眞姫は、彼にまずこう訊いたのだった。
「先生。先生は『ひなげし』で珈琲を飲む時、いつもそのカップですよね。どうしてそのカップなんですか?」
 この店では、店内に所狭しと並べてあるマスターのコレクションカップから好きなものを選び、そのカップで珈琲を淹れてもらえる。
 もう何度もこの店を訪れている眞姫は、マスターの淹れる極上の珈琲を味わうのはもちろんのこと、毎回このカップ選びも楽しみにしているのだが。
 しかし鳴海先生は、いつも毎回同じカップで珈琲を飲んでいる。
 そして華やかなカップが目を惹く中、先生の選ぶカップはとても落ち着いた色をしたシンプルなもので。
 何気にどうしてそのカップなのか、眞姫はいつも密かに気になっていたのだ。
 鳴海先生は思わぬ眞姫の質問に最初少し意外な表情を浮かべたが。
 表立って驚いた素振りをみせるわけでもなく、普通に答える。
「特に理由はない。最初にこの店を訪れた時、このカップが目についた。だからそれ以来これを選んでいるというだけの話だ」
「先生が最初に『ひなげし』に来たのは、いつだったんですか?」
「私が今の君くらいの年齢の時だったか。この店のマスターと父が古い友人だからな」
「えっ!? じゃあ先生は今まで10年以上、そのカップだけを選んでるんですか?」
 選べる魅力的なカップは何百種類にも及び、自分など毎回どれにしようか悩んでしまうくらいなのに。
 眞姫は驚いたように目をぱちくりとさせ、思わず先生とカップを交互に見てしまった。
 逆に先生はそんな眞姫の様子に小さく首を傾ける。
「そうだ。そんなに驚くことか?」
「はい、すごいです。でも先生らしいというか……高校生の時から、先生って今と変わらずそんな感じだったんですね」
「そんな感じというのがどんな感じなのか、私にはよく分からないが。高校時代の友人からは、今も全く変わっていないとはよく言われるな」
「やっぱり。昔から先生って、変わってなさそう……」
 そう呟き、ようやく眞姫は表情を和らげる。
 それからさらに会話を続ける。
「先生は高校時代、どんな学校生活を送っていましたか? 先生もうちの学校を卒業されてますけど、やっぱりその頃と今だと、学校の雰囲気も少し変わったりしてますか?」
「時代の違いは多少はあるが、私は卒業後も聖煌学園を職場としている。よって長年身をおいているため、私自身の印象としては学園の大きな変化はそう感じられない」
 鳴海先生は先にそう答えてから、ひとくち珈琲を口に運ぶ。
 それからちらりと眞姫に目を向け、ふっと微かに瞳を細めた。
 別に意識しているわけではないのだが。
 何故か自分は他人が話しかけにくい雰囲気を持っているらしい。
 だが目の前の眞姫は、比較的よくそんな自分に話しかけてくる。
 教師と生徒という関係上か、たまに緊張していたり遠慮している部分はあるが。
 基本的に眞姫は見た目と違い、あまり物怖じする性格ではないようだ。
 それに自分は口数が多いタイプではないため、長年付き合いのある友以外でこういった雑談をするのは、考えたら彼女くらいかもしれない。
 そんなことを思いながら、鳴海先生は一息置く。
 そしてこう続けたのだった。
「私の高校時代は、毎日が忙しく充実した3年間だった。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。今思い返すとあっという間だったが、非常に内容の濃い学園生活だったと思っている」
 眞姫はブラウンの瞳をそんな鳴海先生にじっと向け、ふと複雑な表情をする。
 先生の高校時代といえば……あの杜木とともに過ごした時間でもあるからである。
 実際に見たわけでも、先生本人から話を聞いたわけでもないが。
 きっと先生の高校時代も今の映研部員の少年たちのように、仲間と切磋琢磨し合いながら絆を深め、幾多の困難を乗り越えてきたのだろう。
 だが……時の流れはとても残酷で。
 志を同じくしていたはずの先生と杜木のふたりは、今、敵同士なのである。
 眞姫はそんな悲しい現実に思わず俯いてしまったが。
 すぐに顔を上げ、心を決めたように表情を引き締める。
 そして、ずっと訊きたかったあのことを、ようやく口にしたのだった。
「鳴海先生。どうしてあの杜木っていう人は“能力者”から“邪者”になったんですか? 昔、一体何があったんですか? 教えてください」
 話が本題へと入り、鳴海先生は少し表情を変えたが。
 ゆっくりと再びその口を開く。
「杜木が何故“邪者”になったのか、その真意は私にも分からない。ただ、あいつにそのきっかけを与えたのは……誰でもない、私だろう」
 先生はそこまで言って一瞬口を噤み、ふと真っ直ぐ眞姫に視線を向けた。
 その眼差しは普段通り彼の意思の強さを感じるものであるが。
 同時に憂い気な色も見え隠れしているような気がする。
 眞姫は彼の瞳の色にそんな印象を抱きながらも黙って次の言葉を待った。
 そして鳴海先生はおもむろに持っていたカップをソーサーに置くと、こう続けたのだった。
「数年前――杜木の大切な妹を殺したのは、この私なのだからな」
「え……?」
 眞姫は大きく瞳を見開いて思わず言葉を失ってしまった。
 彼の口から出た事実が、眞姫にとってあまりにも想像していなかったことだったからである。
 鳴海先生は動揺している様子がうかがえる彼女から、敢えて視線を外さない。
 それからもう一度、はっきりと言った。
「数年前、“邪”に憑依されたあいつの妹を、私はこの手で殺した。躊躇も後悔もせずに……杜木の見ている目の前でな」
「“邪”に憑依されたって……杜木っていう人に妹が? それに、先生が……」
 眞姫は衝撃的な事実に、ただぽつりとそう呟くことしかできなかった。
 親友の目の前でその妹を殺したなんて。
 “能力者”として“憑邪”を滅することは、仕方のないことかもしれないけれど。
 大切な妹を失った、杜木の気持ち。
 そしてそれを実行せざるを得なかった、先生の気持ち。
 眞姫は胸が締め付けられるような感覚に陥る。
 鳴海先生はもうそれ以上は何も語らず、言葉を切った。
 ふたりの間にシンとした空気が流れて沈黙が訪れる。
 だが眞姫の頭の中では様々な思いが駆け巡っていた。
 “能力者”の使命は、“邪”を滅すること。
 先生は、躊躇も後悔もしていないと言うが。
 親友の妹を殺すことが平気なわけはない。
 しかもその親友が“邪者”となり、自分の敵になって現れるなんて。
 眞姫は小さく左右に首を振り、じわりと滲んできた涙をその大きな瞳に湛える。
 鳴海先生はそんな眞姫の様子を見ておもむろに立ち上がった。
 そして伝票を手に取り、上着を羽織りはじめる。
 どうやら店を出るらしい。
「行くぞ」
 短く声を掛けられた眞姫はハッと顔を上げて慌ててそっと瞳を拭うと、自分も身支度を始めた。
 これ以上この場にいたら、きっと涙が零れていただろう……。
 そして、特に何も言いはしなかったが。
 店を出るのも、鳴海先生なりの配慮なのであろう。
 まだ訊きたいことはたくさんあるが、この店でなくても話はできるし。
 先に会計を済ませるためにレジへ向かった先生を目で追いながら、眞姫はひとつ大きく息を吐く。
 それから深呼吸して少し落ち着いた後、鳴海先生に続いて『ひなげし』をあとにした。
 店の外は雲ひとつない青空が広がっている。
 そして……先生の愛車に向かう途中。
 太陽の眩しさに瞳を細めながらも、眞姫はもうひとつ、鳴海先生に訊きたいと思っていたことを思い切って訊いてみたのだった。
「先生、もうひとつ質問があるんですけど」
 そんな眞姫に先生は言葉こそ投げなかったが。
 しかし、質問することを駄目だとも言われていない。
 眞姫は少し前を歩く彼の様子をうかがいながらもこう続けた。
「“能力者”で“気”の剣を作れるような人って、鳴海先生ご存知ですか? 小さい頃その人に助けてもらったことがあって。一度でいいから会ってお礼が言いたいなって思ってるんです」
「…………」
 眞姫のその問いを聞いた鳴海先生は一瞬ピタリと立ち止まって振り返る。
 だがすぐに前を向き、再び歩みを進めながらこう言い放ったのだった。
「その“能力者”は、もうこの世には存在しない。そしてこれ以上この件に関して何も言うことはない。その“能力者”のことは……忘れろ」
「え? この世に存在しないって……それに、忘れろって」
「清家。これ以上何も言うことはないと言ったのが、聞こえなかったか?」
 返ってきた答えに驚く眞姫の言葉を遮り、先生は一方的に会話を終わらせる。
 そして愛車の助手席のドアを開けて彼女を中へと促した。
 眞姫は促されるまま先生の車に乗り込んでから、頭の中を一生懸命整理しようとする。
 だが、思うようにまとまらない。
 自分を助けてくれた人はもうこの世に存在しないという、鳴海先生のその言葉。
 おそらく、それは……。
 眞姫は大きく首を振り、手の平をぎゅっと握り締める。
 もうかなり昔のことであるために、そう簡単にその“能力者”を見つけられないことは分かってはいたけれども。
 先生と杜木のことにしても、自分を助けてくれた“能力者”のことにしても。
 現実とは、時の流れとは――本当に、どうしてこんなにも非情なものなのだろうか。
 眞姫は必死に溜まった涙が落ちないように堪えようとさらに強く拳を握り締める。
 だが彼女の思いとは裏腹に、大きな瞳からはいつの間にか涙がポロポロと溢れ出していた。
「…………」
 鳴海先生は敢えてそんな眞姫に何も言わず、車のエンジンをかけた。
 それから車を発進させる前に、ふと天を仰ぐ。
 そんな彼の瞳に映るのは――まるで数年前のあの時と同じような、怖いくらいに澄んだ空の青。
 躊躇も後悔もしてはいない。
 そう自分に言い聞かせた、あの時。
 忘れたい、忘れられない、忌まわしい記憶。
 だが、自分が“能力者”として前に進むためには。
 あの日の空の色は、決して忘れてはいけないものなのだ。
 こんなに純粋で澄み切っているのに、何故だか狂気さえ感じる青。
 そんな眩暈を覚えるような色を見るたびに思い出すのだ。
 強く揺ぎ無いと思っていた絆がいとも簡単に千切れ、この手をスルリと離れていった瞬間を。
 人を殺めた手の感触、ドクンと異様なほど脈を打つ全身の鼓動、そしてその時の親友の顔を……。
 鳴海先生はふっとその切れ長の瞳を閉じる。
 だがすぐに目を開けて前を見据えてから、さり気なくハンカチを取り出して眞姫へと差し出した。
 そしてゆっくりとアクセルを踏み、愛車のウインダムを走らせ始めたのだった。