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 まだ休日の感覚が完全に抜け切れていない月曜日は学校内の雰囲気もどことなく気怠い。
 だがそんな気怠さとは全く無縁の雰囲気を醸し出している彼は、昼休みで閑散としている特別教室棟の校舎内をカツカツと足早に歩いていた。
 彼――鳴海先生にとっては、普段と何ら変わりのない一日。
 特に問題もなく本日の今までの職務を終えているのだが……。
 鳴海先生は歩みを止めないまま、ふと微かに切れ長の瞳を細める。
 自分にしてみれば、別に何ということもない日常。
 しかし……今日の彼女は、明らかに普段とは様子が違っていた。
 必死に何事もなかったかのように装っているつもりのようだったが。
 元々そういうことが得意ではない彼女の様子が明らかにおかしいことは、誰から見ても一目瞭然で。
 本人も気がつかないうちに伏せがちになってしまっていると思われるその瞳は、心なしか潤んでいた。
「…………」
 先生はふっと息を吐き、小さく左右に首を振る。
 まるで涸れることを知らないかのように、大きな瞳から溢れ続けた涙。
 考えてみれば、はじめてかもしれない。
 あんな風に感情を抑えきれず、とめどなく泣いている彼女をみるのは。
 彼女が涙を見せる状況は過去に何度かあったが。
 今までのものはどれも、我慢していたものがつい零れてしまったというほんの僅かなものであった。
 だが先日のものは、それらとは明らかに違っていた。
 ……いや、分かっていたのだ。
 彼女が知りたいと望んでいた過去を自分が口にした時。
 きっと彼女にとってそれは想像以上に衝撃的で、ショックが大きいものだろうことが……。
 鳴海先生は微かに俯き加減だったその顔を上げる。
 そしてそっとブラウンの前髪をかき上げた後、ある特別教室の前で足を止めた。
 それから中にいる人物の気配を確認し、ドアを開ける。
 それと同時に窓から差し込める陽の眩しさに、鳴海先生は僅かに瞳を細めた。
「こんにちは。ご機嫌いかがかな、鳴海先生」
 窓際でにっこりと微笑む、ひとりの少年。
 独特の雰囲気を醸し出す美少年は珍しく普段の定位置であるピアノの前ではなく、開け放たれた窓辺に立っていた。
 昼休みの音楽教室にいたのは、梓詩音であった。
 詩音は先生から視線を窓の景色へと移し、ふと天を仰ぐ。
 色素の薄いサラサラなブラウンの髪が爽やかな秋の風にふわりと靡いた。
「ねえ、見て。今日は雲ひとつないいい天気だね」
 そう言ってから詩音は再び先生を見つめる。
 そして、こう続けたのだった。
「でも不思議だよね。こんなに何の穢れもないように澄みきった空なのに……何故だか見ていると胸が痛くなって、気を失いそうな感覚に陥るよ」
「…………」
 鳴海先生はふうっとひとつ溜め息をついた。
 それから敢えて詩音に何かを言うことはしなかったが。
 かわりに、刺すような鋭い視線を彼へと投げていた。
 だが普通の人ならば怖気づくような先生の様子にもお構いなしで、詩音は相変わらずマイペースに笑んでから。
 改めて、穏やかな口調で言った。
「先生。この僕に話って、一体何かな?」
 ――この日。
 詩音は鳴海先生に呼び出され、人の気配のない昼休みの音楽室へと来ていたのだった。
 先生はおもむろにツカツカと歩を進め、窓に手をかける。
 そしてピシャリとそれを閉めた。
 今まで自由に吹いていた風が行き場を失って消え、たなびいていたカーテンも途端に動きを止める。
 鳴海先生は窓越しに見える青の空に一瞬目を向けたが。
 すぐにシンと静寂が訪れた教室に目を戻して詩音に向き直り、端的に用件を述べた。
「清家に過去の事実を話した。杜木とのことも……“気”の剣の“能力者”のこともな」
「お姫様に、過去のことを?」
 普段通り柔らかな印象は変わらないが、詩音は珍しく少しだけ驚いたような表情を見せる。
 それからふっと笑い、小首を傾げた。
「お姫様に話したんだ。それにしても、意外だね」
「意外? 清家が過去を知りたいと望んだから話した。ただ、それだけだ」
「違うよ、先生。お姫様に過去を話したことが意外なんじゃなくて。姫に話したことを、先生がこの僕にわざわざ伝えるってことが意外」
 そして上品なその顔に笑みを宿し、詩音はさらにこう続けたのだった。
「そっか、過去を知ったお姫様が余程ショックな様子だったんだね? でも仕方ないかな……お姫様の心はとても真っ直ぐで、その手は穢れを知らない。そんなお姫様にとって過去の出来事は、ちょっと生と死の匂いが強すぎたんだろうね」
「…………」
 先生は表情こそ変えないが、それ以上何も語らず、口を噤んだ。
 そんな先生を見つめながら詩音はブラウンの髪をそっとかき上げた後、おもむろにぽつりと呟いた。
「過去の事実……過去という枷、か」
 彼の空気のように澄んでいる声が、静かな教室内に響いて広がる。
 そして――次の瞬間。
「!」
 鳴海先生はピクリと反応を示し、顔を上げる。
 それから大きく息を吐くと、詩音を睨みつけるような視線を投げた。
 ――その理由は。
 目の前に延々と広がる、花畑。
 学校の音楽教室の面影は一切失せ、かわりに、薄桃色の花が一面咲き誇っている。
 いつの間にか周囲を支配しているのは、詩音の作り出した美しい“空間”であった。
「鳴海先生。この花はね、僕の名前と同じ、紫苑の花だよ」
 詩音はそっとそばに咲いている花を手に取り、愛でるようにブラウンの瞳を細める。
 そして柔らかな声で続けたのだった。
「この紫苑の花言葉、知ってる? 紫苑の花言葉は……“君を忘れず”、っていうんだよ」
 鳴海先生は詩音のその言葉に、思わず眉を潜める。
 そして、より一層鋭い瞳を詩音に向けた、瞬間。
 カアッと目を覆うほどの眩い閃光がはしった。
 その強烈な光に弾かれるように、美しく咲き誇る紫苑の花畑が一気に吹き飛ぶ。
 ……先生が、詩音の作り出した“空間”を一瞬にして消滅させたのである。
 だが詩音は動じる様子もなく、元の風景を取り戻した音楽室のピアノの前に座る。
 それからピアノの蓋を開き、少しだけ今までと印象の違う笑みを先生に返した。
「ねえ、先生。もう少しボーイズたちのことも信用してあげたらどうかな? “能力者”としての彼らはもちろんだけど、それ以外のこともね。先生が心配しなくても、きっと大丈夫だよ」
「いつも言っているが、私はあいつらのことを過小評価しているわけでも、ましてや買い被っているわけでもない。それに、やたらむやみに学校で“空間能力”を使うな」
「過小評価も買い被りもしていない、ね。本当に先生って、不器用だよね」
「……おまえは私の話を真面目に聞いているのか?」
「もちろんだよ、先生。いつだって王子は真剣だよ? 分かってるよ、先生」
「分かったのなら、話は以上だ。もうすぐ午後の授業が始まる、教室に戻れ」
 くすくすと笑う詩音に半ば呆れた様に言い放ち、鳴海先生は彼に背を向ける。
 そして数歩進んで音楽教室のドアを開けた。
 詩音は特に先生を引き止めることもせず、鍵盤に指をかける。
 それからゆっくりと、優しく柔らかな旋律を奏で始めたのだった。
 詩音を残して音楽教室を出た鳴海先生は、歩を進めるたびに小さくなっていく美しいピアノの音を背に、廊下を進みながら。
 ちらりと、窓の外に広がる秋空を一瞬だけ仰ぎ、その色を切れ長の瞳に映した。
 だがすぐに視線を落として腕時計で時間を確認すると、足を止めることなく真っ直ぐ前を見据えた。
 そして鳴海先生は、昼休みの特別教室棟を後にしたのだった。




「……め、姫っ?」
 突然人の手の温もりを肩に感じ、眞姫は驚いたようにハッと顔を上げる。
 それから慌てて振り返って数度瞬きをした。
「え? あっ、准くん」
「姫、どうしたの? 何だか今日、元気がないみたいだけど……」
 心配そうな表情を浮かべ、彼女に声をかけた准は小さく首を傾けた。
「あ……ごめんね。大丈夫」
 眞姫は小さく笑顔を作り、頬にかかった髪をそっと耳に引っ掛ける。
 そんな眞姫の様子に苦笑しつつも、准はそれ以上何も彼女に言えずにいた。
 確かに、2年Bクラスの教室は昼休みということもあって、人の声で賑やかではあったが。
 それでも何度名を呼んでも気がつかない彼女の様子は、明らかにおかしい。
 眞姫本人は頑張って何事もないかように装っているつもりのようだが。
 普段から彼女のことを見ている准にとっては、それは不自然以外の何物でもなく。
 眞姫が周りに心配をかけまいとしている振る舞いだということがすぐに分かった。
 そして、そんな行動をさせるような何かが彼女の身にあったのだろうということも、とっくに気がついていた。
 だが、肝心の何があったかということは、分からない。
 朝からさり気なく彼女のことを心配をして声をかけている准であったが。
 何を聞いても、眞姫からの返事は同じで。
 ――ごめんね、大丈夫。
 そう言われるたびに、余計に准の心配は募るのだった。
「眞姫、鳴海に数学のプリント出してきた? もうすぐ昼休み終わっちゃうよ?」
 教室の時計を見ながら、眞姫の隣にいる梨華がそう彼女に声をかける。
 眞姫はその言葉を聞いてガタッと立ち上がり、カバンから1枚のプリントを取り出した。
「あっ、忘れてた……! ありがとう、梨華っ。今から行ってくるね」
 眞姫は慌てたようにそう言うと、准と梨華に手を振って教室を出た。
 その後姿を見送りながら、准はぽつりと呟く。
「姫がプリントの提出を忘れるなんて、珍しいよね……」
「芝草くんも気がついてるみたいだけど、今日の眞姫ちょっとおかしいよ。何か心配だから、私も行ってくるね」
「そうだね。お願いしてもいいかな?」
 ふうっと息をついて席を立つ梨華に、准は再び苦笑する。
 そして眞姫を追いかけて教室を出て行く梨華の姿を見て溜め息をついた。
 本当は、誰でもない自分が彼女を追いかけたいところであるが。
 眞姫に何があったのか今の段階では全く予想できないため、ここは同性同士で親友である梨華に任せた方が良さそうだと判断したのだった。
「あれ? 姫はどっか行ったのか?」
 ふと背後からした声に振り返り、准は小さく首を振る。
「姫は今、数学のプリントを提出しに行ってるよ。拓巳は提出してきたの? 忘れると、また先生に怒られるよ」
「ちゃんと出してきたってのっ。てか姫、今頃か? 提出期限ギリギリなんて珍しいな」
「拓巳が忘れてるのならともかく、姫がギリギリなんて、どうしたんだろうね」
「俺ならともかくって……悪かったな、おい」
 ムッとしたようにそう呟きながらも、拓巳は准の隣の椅子に座る。
 そして、こう続けたのだった。
「てかよ、何か今日の姫、変じゃねーか? ボーッとしてるっていうか、心ここにあらずっていうかよ」
「だよね……僕も、心配してるんだ」
 やはり、彼女の近くにいる誰もが感じているのだ。
 彼女の心が、不安定で揺らいでいることを。
 准はもう一度大きく息をついて口を開く。
「何があったか心配だけど……でも、大丈夫って言われたら、それ以上何も聞けないよね」
「姫は人に気ぃ使いすぎなところあるからよ。もっと俺たちに、思ってることぶつけてきていいのにな」
 うーんと考えるように腕組みをし、拓巳は首を傾けた。
 眞姫は大人しそうな見た目と違って、普段は明るく前向きで。
 強い責任感と高い向上心を持っているために意外と行動的であるが。
 今日の彼女は、俯いてばかりいて。
 その両の目もどこか遠くを見ているような印象を受ける。
 明らかに何かを悩んでいる彼女を助けてあげたい。
 そう強く思っている少年たちであったが。
 大丈夫という言葉しか返ってこないため、どうしようもなかった。
 しつこく探りを入れることをすれば、尚更彼女の気持ちを踏みにじることになるかもしれない。
 でも……。
「拓巳。姫がいくら“大丈夫”って言っても、やっぱり僕は姫のこと放っておけないよ」
 准ははっきりとそう自分の気持ちを正直に口にする。
 そしてすぐにそれに同意するように、拓巳も黒を帯びる前髪をかき上げて言った。
「当たり前だ、もちろん俺も姫のこと放っておけねーよ。じゃあ……そういうことで、どうするか決まりだな」
「うん、そうだね」
 准と拓巳は顔を見合わせて同時に大きく頷いた。
 それからふたりは揃って、2年Bクラスの教室を出て行ったのだった。




 ――その、同じ頃。
 一足先に教室を出た眞姫は、職員室へ続く廊下を俯き加減で歩いていた。
 先日聞いた、鳴海先生の過去の話。
 そして、自分を助けてくれた“能力者”のこと。
 もちろん先生に過去の話を聞くと決めた時、覚悟はしていたつもりだった。
 “能力者”として鳴海先生が杜木の妹を滅したことも。
 人間に害を及ぼす“憑邪”を野放しにしておけないためだと分かっているし。
 そして“能力者”である者が、常に危険と隣合わせだということも。
 実際に幾度も“邪”を目の当たりにし、眞姫自身もその恐ろしさを身をもって体験している。
 でも、それでも……あまりにも、聞いた事実は悲しいことばかりで。
 誰が正義で誰が悪だとか、そういう次元の問題ではないのだ。
 それに頭では分かっていても、まだ眞姫には、シビアな現実を割り切る経験も思考もない。
 なのに、今まで漠然と頭だけで理解していたことが、鳴海先生と杜木という彼女が知り得る人物の間で起こったという事実が生々しくて。
 彼女にとって、かなり衝撃的だったのである。
 眞姫はほうっとひとつ溜め息をついて顔を上げた。
 そして――次の瞬間。
 思わず立ち止まり、大きな瞳を一層見開く。
 そんな、彼女の視線の先に飛び込んできたのは。
「…………」
 相手も眞姫の姿に気がつき、僅かに歩調を緩めてちらりと彼女に視線を送る。
 眞姫は妙に緊張して早まる鼓動を必死に抑えようと、ひとつ深呼吸をした。
 それから再び歩を進めて遠慮気味に口を開いたのだった。
「あ……あの、鳴海先生。数学のプリントを、提出しにきたんですけど……」
 おそるおそるそう声をかけてプリントを差し出す眞姫に、先生は普段と何ら変わりのない様子でそれを受け取る。
 鳴海先生に聞きたいことは、たくさんあるはずなのに。
 それを口にできるほど今の彼女に気持ちの余裕はなかった。
 逆に鳴海先生は、眞姫の様子を見ながらも、いつも通りの淡々とした口調で言った。
「もうすぐ午後の授業が始まる。教室に戻りなさい」
「え? あ……は、はい」
 眞姫は慌てて大きくお辞儀をして回れ右をする。
 そして鳴海先生を背に、2年Bクラスの教室へと戻り始めたのだった。
 開けられた廊下の窓から吹き込む風に栗色の髪が大きく揺れていることも気がつかず、眞姫は深い溜め息をつく。
 気持ちの整理がつくまで、しばらく時間がかかるかもしれない。
 鳴海先生を目の前にしてろくに何も言えなかった自分に、眞姫はそう感じた。
 自分は“浄化の巫女姫”としての運命を受け入れる決心をし、覚悟を決めたはずなのに。
 それなのにこんな調子では、鳴海先生や“能力者”のみんなの足手まといになるだけではないか。
 何とか自分で早いところ気持ちを整理し、誰にも迷惑をかけないようにしなくては……。
 そんなことを考えながら、眞姫はふっと再び息を吐いた。
 ――その時。
「あ、いたいた。眞姫ーっ」
「梨華? どうしたの?」
 名前を呼ばれて顔を上げた眞姫は、教室にいるはずの梨華の姿に気がついて小さく首を傾げる。
 梨華は眞姫の隣に並んで歩調を合わせると、元来た教室へと進路を変えた。
 そして、ずばりストレートに話を切り出したのだった。
「ねぇ、眞姫。何かあったでしょ? 今日の眞姫、明らかにおかしいもん」
「え?」
 今日一日、なるべく動揺した気持ちを態度に出さないように心がけていた眞姫は、梨華の言葉に驚いたように顔を上げる。
 自分が実際にそんなことを器用にできるタイプではないことを、本人が知らないだけなのだが。
 梨華は驚いた表情を浮かべる眞姫の肩をポンポンッと軽く叩いてこう続ける。
「ていうかね、眞姫の親友としてはっきり言うよ。眞姫はさ、周りに迷惑かけたくないって思って、今悩んでたりしてることを無理にひとりで処理しちゃおうとしてるでしょ。でもそれって、逆に周囲の人間は余計心配しちゃうんだよ? 現に芝草くんたち、眞姫のことすごく心配してたし。それにね、友達なのに何で頼ってくれないんだろうって、ちょっと寂しいよ」
「梨華……」
 複雑な表情を浮かべ、眞姫は申し訳なさそうにぽつりと親友の名を口にした。
 梨華はそんな眞姫に今度は優しく笑顔を向ける。
「でもね、誰にも言いたくないことだってあると思うの。何もそんなことまでを根掘り葉掘り言ってってわけじゃなくて、変に周囲に遠慮して自分の気持ちを抑え込むようなことはして欲しくないってこと。別に悩み相談じゃなくても、気分転換に付き合ったりとかでもいいし。私たちにできること、何かないかな」
 親友のかけてくれる言葉ひとつひとつが、とてもあたたかくて。
 眞姫は、ガチガチに固まっていた心が優しく解れていくような感覚を覚える。
「ごめんね、梨華……私……」
「違う、違う。ごめんじゃないよ、眞姫。何も謝ることなんてしてないでしょーが」
「うん……そうだね、ありがとう」
 いつの間にか瞳に溜まった涙を照れくさそうに拭い、眞姫はようやくその顔に笑顔を宿した。
 そして自分のことで精一杯で周囲が全く見えていなかったことを、深く反省する。
「梨華」
 眞姫は顔を上げ、真っ直ぐにかけがえのない親友を見つめた。
 そんな彼女の表情は、先ほどのものとは全く印象が変わっていた。
 いや、表情だけではない。
 瞳には強い輝きが再び宿り、声にも張りが戻ってきている。
 眞姫は自分のことを思ってくれている友人たちに感謝しながら、今の気持ちをこう梨華に伝えたのだった。
「もう、いろいろ頭の中だけでグルグル考えるのは止めるよ。無理して抑え込むことはもうしない。私はひとりじゃないんだもんね、みんなと一緒に手を取り合って、一歩ずつ前に進もうと思う。だから……そのためにまずは、もう一度ちゃんと現実と向き合おうと思ってるよ」
「うん。私も近くにいるからさ、無理しないで一緒にゆっくり歩こうよ。眞姫は真面目で頑張り屋だから、たまには騎士たちに頼ってもいいんじゃない? むしろ喜ぶわよー、彼ら」
 そう言って笑う梨華にもう一度にっこりと笑顔を向け、眞姫はコクリと頷く。
 先生の語ってくれた過去は、聞くだけでも胸が締め付けられてしまうほど悲しいものであるが。
 それが紛れもない現実で、いくら憂いても塗り替えられるものではない。
 ならば今自分はどうするべきか。
 ひとりで立ち止まって俯いていても何もならない。
 少しずつでもいいから前に進めるように、まず一歩を踏み出してみよう。
 たとえ、ひとりで前に進むのが辛くても。
 自分には、隣を一緒に歩いてくれるかけがえのない友達がたくさんいる。
 だから自分自身でもしっかりと歩けるように、強い気持ちで過去と向き合えるように。
 もう一度、きちんと詳しい事実を知る必要があると。
 そしてそれを知るためには、どうすればいいか……。
 眞姫はふと考えるように小さく首を傾けたが、すぐに顔を上げた。
 同時に午後の始業5分前を告げるチャイムが鳴り始め、校内が一層慌しく動き出す。
 眞姫はそんな予鈴を耳にし、少しだけ歩く速度を上げながら、よく知ったある人物の顔を思い出していた。
 きっとあの人ならば、自分の知りたいと思っていることを話してくれるだろう。
 眞姫はそう確信して大きく頷く。
 そして、そんな彼女の顔は。
 まるで窓の外に広がる、雲ひとつない青い空のように。
 一点の迷いも消えてなくなっていたのだった。