この日の天気予報は晴れであったはずなのに。
 空全体を覆う灰色の雲は厚く、近いうちに一雨きそうである。
 繁華街に程近い平日のオフィス街はスーツ姿のサラリーマンやOLが圧倒的に多く、誰もが他の者に干渉する暇無く忙しく歩いている。
 そしてそんなオフィス街では珍しい、派手な装いのひとりの女性。
 彼女の存在はその美貌も合わせてかなり目立っていた。
 いや、彼女の場合、華やかなのは服装だけではない。
 彼女自身の持つ雰囲気そのものが、人の目を惹きつけて止まない魅力を持っているのだった。
 ある人物との待ち合わせのために会社を出た彼女・沢村由梨奈は天を支配している雨雲にも見向きもせず、薄暗い空の下を早足で歩く。
 どこか気品の感じられる美しい容姿と抜群のスタイル、社交的で明るい雰囲気。
 そして何よりも、芯の通ったその気丈さ。
 誰もが彼女のことを強い女性だと言うだろう。
 確かにそれは間違っていない。
 決して間違ってはいないが……彼女の本質にあるものは、ただその強さだけではないのだ。
 ――その時。
「…………」
 カツカツとハイヒールを鳴らして颯爽と歩みを進めていた彼女の足が不意にその動きを止める。
 由梨奈は長い緩やかなウェーブのかかった髪をそっとかき上げた後、ふっとひとつ息をついた。
 それから視界に現れた人物に目を向け、口を開いたのだった。
「随分といい男がいると思ったら。久しぶりね」
 深い漆黒の瞳を細め、由梨奈が声を掛けたその人物・杜木慎一郎は整った顔に柔らかな笑みを宿す。
「やあ、由梨奈」
 そして甘く囁くような声で続けた。
「前におまえと約束していただろう? 今度はお洒落な店でお茶でもしようってね」
「あら、そうだったかしら」
 大抵の女性ならただ頷くしかできないような杜木の美しい容姿や声にも動じることなく、由梨奈は少し大袈裟に首を傾げてみる。
 そんな彼女の仕草に笑んでから、杜木はスッと由梨奈の隣に並ぶ。
 それからごく自然な動作でスマートに彼女を促す。
 だが由梨奈は彼の闇のような漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめてもう一度大きく溜め息をつくと、はっきりと言った。
「相変わらず強引ね。でも悪いんだけど、今から人と会う約束があるの。だから……この“結界”、解いてちょうだい」
 いつの間にか周囲からは忙しいオフィス街の喧騒が消え、由梨奈と杜木以外の人影は無くなっていた。
 そして、その代わりにあるのは。
 大気を震わせるほど強大な“邪気”の存在。
 杜木の作り出した“結界”がその場を支配していたのである。
 杜木は強気の姿勢を崩さない由梨奈の様子を黒の双眸に映す。
 そして身体から満ち溢れる強い“邪気”とは対称的な雰囲気の柔らかな表情を浮かべる。
「そんなに怖い顔をしていたらせっかくの美人が台無しだよ、由梨奈。それに恋は盲目とよく言うだろう? 愛する女性とふたりだけでいたいという感情は、この俺にとってもどうやら例外ではないようだね」
「恋は盲目、ね。ほのかな恋心ならまだ可愛いけど、“結界”に監禁は可愛くないんじゃない? 慎ちゃんのようないい男にそう言ってもらえるのは身に余る光栄だけど」
 目の前の杜木の雰囲気は、相変わらず穏やかで物腰柔らかであるが。
 “結界”内は彼の“邪気”の大きさに空気がビリビリと震え、感じる威圧感は半端ではない。
 それでも由梨奈は相手から決して視線を外さず、余裕な素振りさえ見せている。
 そんな彼女を愛しそうに見つめ、杜木はそっと腕を伸ばした。
 それから彼女の長い髪を撫でた後、その肩を優しく抱く。
「そう言うおまえは、いつだって可愛いな」
 ふわりと耳をくすぐる吐息と優しく響くバリトンの声。
 彼から受ける柔らかい印象や振る舞い、その声は何も昔と変わっていない。
 だが、時の流れは無情にも。
 ずっと変わらないと信じて疑っていなかった強い絆を断ち切った。
 手のひらから砂が落ちるように、サラサラといとも簡単に。
 かけがえのないものが零れて消え失せた。
 たったひとつの、あることがきっかけで。
 運命の歯車が大きく狂い始めたのだった。
 由梨奈はふっと息をついて綺麗に整った杜木の顔を見つめる。
 それからこう口を開いた。
「そういえば少し前に、慎ちゃんのそばによくいる“邪者”の子と会ったわよ。そして訊かれたわ」
 肩に置かれた彼の手をスルリと解き、由梨奈は長い髪をかき上げる。
 そして少し間を取り、ゆっくりと言葉を続けた。
「慎ちゃんの“宝物”が何か、知りたいってね」
 杜木は微かに瞳を細めたが、特に表情を変えず小さく首を傾ける。
「それでおまえは、つばさに何と答えた?」
「何のことだかさっぱり分からないわって言ったわ。あと、世の中には知らなくていいこともある、ってね。彼女は当然納得していなかったけど、“邪者四天王”の生意気な坊やも乱入してきたからそこでお開きよ」
「渚が、か。それに由梨奈、おまえがたとえつばさにその時何て答えていようとも俺には関係ないよ。事実はたったひとつ、決して変わりはしないからね」
 杜木は目を閉じてそっと首を左右に振る。
 それから声のトーンを変え、呟いたのだった。
「僕の“宝物”が一瞬にして消えてしまった事実は、変わらない」
「慎ちゃん……」
 由梨奈は複雑な表情を浮かべて思わず言葉を切る。
 杜木はそんな彼女に視線を向け、普段通りの笑みを取り戻す。
 そして風に揺れる漆黒の前髪を気にもせずに言った。
「由梨奈。俺はあの時のことで誰かを恨んだりはしていないよ。おまえはもちろん、将吾のこともね。それに“邪者”と“能力者”で進む方向はそれぞれ違っても、俺はおまえたちのことを大切な存在だと今でも思っているし、いずれ同じ方向に進むようになるとも思っているよ」
 そう言った彼に、由梨奈は大きくかぶりを振る。
「いずれ同じ方向に、ですって? “能力者”だった慎ちゃんなら分かってるはずよ。大切な存在であると言ってる私たちに背を向けて歩き始めたのは、誰でもない貴方なのよ? 慎ちゃんが“邪者”で在る限り、“能力者”である私たちとは一生同じ方向に歩けないわ」
「どうしてそう決め付ける? お互いの立場などの固定観念に縛られず、俺たちが“邪者”と“能力者”の関係を変えていけばいい。“浄化の巫女姫”の秘めたる力にしてもそうだ、何故大きな力が眠っているのにそれを蘇らせようとしない? 彼女の可能性を広げるいい機会だろう? だから由梨奈、立場は昔と違えど、もう一度同じ志を持って同じ道を歩いて行こう。俺たちにならできるよ」
 杜木はそこまで言って一瞬間を取る。
 それから、こう続けたのだった。
「それにもし“邪者”になっていなかったとしても……俺はもう、“能力者”で在ることはできないだろう?」
「…………」
 由梨奈は彼を見つめたまま、その顔に何とも言えない色を浮かべている。
 だがすぐにぐっと顔を上げて、現実と向かい合うべく今の杜木の姿を真っ直ぐにその瞳に映した。
 そして再び口を開こうとした――その時。
「……!」
 由梨奈は言葉を発するのをやめ、ハッと背後を振り返った。
 それと同時に、強大な“邪気”で満たされていた“結界”内の空気がガラリと一変する。
 杜木はそんな様子に動じることもなく、ふと顔を上げた。
 それから、自分の“結界”に干渉してきたある人物に向けて言ったのだった。
「貴方に会えるとは思っていませんでしたよ。お久しぶりです……おじ様」
「待ち合わせをしている麗しの貴婦人をお迎えに上がったんだ。久しぶりだね、杜木くん」
 にっこりと優雅な微笑みで彼に言葉を返したのは、“能力者”であり鳴海先生の父である傘の紳士だった。
 杜木は紳士にふっと笑んで漆黒の前髪をかき上げる。
「そうか。由梨奈の待ち合わせの相手は、貴方だったんですね」
 そう言ってから、杜木はスッと両手を天に掲げた。
 刹那、カアッと眩い黒を帯びた光が迸ったと思った瞬間、周囲に忙しい街の喧騒が戻ってくる。
 自ら張った“結界”をあっさりと解除した杜木は掲げていた手を収めると、由梨奈に目を受けた。
 そして美形というに相応しい綺麗な顔に笑みを湛えて言った。
「今度こそお洒落な店でお茶でもしよう、由梨奈。次は会う予約を事前にしておくべきかな」
 杜木はふっと瞳を細めて今度は傘の紳士へと視線を移す。
 それから軽く会釈をし、紳士と由梨奈に背を向けて歩き始めたのだった。
 紳士は小さくなっていく杜木の背中を見送った後、由梨奈に優しく声を掛ける。
「来るのが遅くなってすまなかったね」
「いいえ、とんでもない。わざわざ迎えに来てくださるなんて、お礼を言うのは私の方よ、おじ様」
 由梨奈はにっこりと紳士に笑顔を返し、カツカツとハイヒールを鳴らして彼の方へと歩み寄った。
 そんな彼女の様子は普段と何ら変わらないように見えるが。
「どうぞ、麗しの貴婦人」
 紳士はそばに停めてあった愛車の助手席のドアを自然な動作で開け、彼女を中へと促した。
 由梨奈は再び笑んで、紳士の愛車であるシルバーのベンツへと乗り込む。
 助手席のドアを優しく閉めてから、紳士はふと杜木の去った方向に一瞬目をやった。
 それから助手席の由梨奈に視線を移して運転席へと戻る。
 助手席の由梨奈は何ら先程の杜木とのやり取りを気にしている様子は見られないが。
 彼女の本質は強い反面、とても繊細で傷つきやすく純粋でもあることを紳士は知っていた。
 人の心を思いやる気持ちが大きい故に、何事もなかったかのように振舞う。
 昔から彼女はそうやって生きてきたのだ。
 そしてそんな彼女を支えているのは、彼女の中にある強い意思と。
 彼女の本質を知る、数少ない理解者の存在なのだった。
 紳士は敢えて先程のことには触れず、優雅な微笑みを上品な顔に宿す。
 それから運転席のドアを閉め、隣にいる彼女に言った。
「今日も一段と綺麗だね、君は。こんなに美しい奥方とデートできるなんて幸せだな、私は」
「あら、ありがとう、おじ様。私もおじ様とデートできて光栄よ」
 由梨奈はふっと笑い、そう紳士に言葉を返す。
 紳士はそんな彼女の様子に、ブラウンの瞳を優しく細めた後。
 ゆっくりと車を発進させたのだった。




 同じ日の夕方。
 ポツポツと雨が降り出したにも関わらず、放課後を迎えた聖煌学園の校舎内はいつもと変わらず生徒たちの賑やかな声で溢れていた。
 そんな中、職員室を出た眞姫はすれ違ったクラスメイトと軽く挨拶を交わしながらもふっと小さく一息つく。
 職員室に、彼女の探している人物の姿はなかった。
 だが眞姫は気を取り直し、ふと立ち止まって周囲を見回した後、廊下を歩き始める。
 それから特別教室棟へと続く階段へと足を向けたのだった。
 以前から眞姫は“浄化の巫女姫”として、自分がこれからすべきことをずっと考えていた。
 自分にできることは何か、自分の気持ちに正直に向き合いこれからどうしたいのか。
 そのためには、まず最初に何をしなければならないかを。
 今までは目まぐるしく変化する状況を懸命に理解しついていくだけで精一杯だったが。
 “能力者”の仲間や、それに“邪者”とも頻繁に接するようになって、双方の立場や考え方、体質などを眞姫は目の当たりにしてきた。
 そしてこれからは自分自身でいろいろなことを確かめ、進んでいかなくてはならないと。
 そう思い、彼女はある決意をしたのだった。
 放課後の特別教室棟は職員室のある本校舎とはうって変わり、シンと静かで。
 タンタンタン、と一歩ずつ階段を上る眞姫の靴音だけが小さく響いている。
 だが――しばらくして。
 その足音が、ふいにふたつになった。
 眞姫は頭上から聞こえる微かな足音に気がついて踊り場で歩みを止めた。
 そしてそれが誰のものであるか確認した後、口を開いたのだった。
「あっ、鳴海先生……」
 その足音は、鳴海先生のものであった。
 ちょうど彼を探して特別教室棟に赴いていた眞姫は栗色の大きな瞳を細める。
 鳴海先生は相変わらず表情を変えずにちらりと彼女に目を向け、眞姫のいる踊り場まで階段を下りてくる。
 そんな先生に眞姫は視線を向けた。
 そして真っ直ぐに彼を見つめたまま、話を切り出したのだった。
「あの、鳴海先生。先生のこと探してたんです。先生にお聞きしたいことがたくさんあって」
「…………」
 鳴海先生は眞姫の言葉を聞いてから、一瞬だけ間を置いた。
 それから、逆にこう彼女に問うたのだった。
「清家。その質問の内容は、今ここで答えられるものか?」
「え?」
 眞姫は少し驚いたような表情をしつつも、小さく首を振った。
「いえ……できれば、少しお時間をいただきたいことなんですけど……」
 遠慮気味に返って来た彼女のこたえに、先生は切れ長の瞳をスッと細める。
 そして簡潔に眞姫にこう言った。
「では、明日土曜の午前11時。駅のロータリーまで迎えに行く」
「えっ、明日ですか? あっ、はい……分かりました」
 いきなり告げられた意外な言葉にきょとんとしつつも、眞姫はコクンと頷く。
 そんな彼女の様子を確認した先生は再び階段を下り始めた。
 眞姫は慌ててそんな鳴海先生にお辞儀をした後、はあっと息を吐く。
 まず最初に、何をしなければならないか。
 眞姫は“浄化の巫女姫”として、過去に何があったのかを知りたいと思ったのだった。
 そしてそれを訊く為に鳴海先生を探していたのだが。
 先生は質問の内容を彼女の様子から察して、改めて話ができるよう場を設けたのだ。
 確かに学校で話すような内容ではないし、それに訊きたいこともたくさんある。
 眞姫は彼の配慮に感謝しつつも、何だか妙に緊張した面持ちになる。
 それからドキドキと早くなる鼓動を宥めるように胸に手を添えながらも、決意をあらたにするように小さく深呼吸をしたのだった。