空を赤で支配していた夕陽も林立するビルの谷間へと消え、代わりに夜の闇が天を覆い始めていた。
 だが、これから活気づこうとしている繁華街は、空の夕陽に変わってネオンの鮮やかな光が周囲を明るく照らす。
 そして丁度夕食時ということもあり、繁華街の中心に位置する駅前のファーストフード店は大勢の人でごった返していた。
 いや、この混雑の原因は時間帯だけではない。
 期間限定で定番のハンバーガーが値引きされているために、普段以上にここぞとばかり人々が店を訪れているのだ。
 そんな人波の合間を慣れたようにすり抜けて、同じく値引きにあやかった彼らは逸早く店を出る。
「なんかまだ物足りねーな。やっぱもう1個食えばよかった」
 店を後にした少年のひとり・拓巳はそう言って名残惜しそうにファーストフード店を振り返る。
「おまえ、あれだけ食ってまだ食う気か?」
 あっという間に3個のハンバーガーと一番大きなサイズのポテトを食べていた拓巳に青い瞳を向け、隣を歩いている健人は呆れたように言葉を返した。
 この日学校が終わって帰る際、拓巳と健人はふたり駅で偶然一緒になった。
 そして成り行きで繁華街に来ていたのである。
 普段から仲の良い映研部員の少年たちであるが、拓巳と健人がふたりだけでいることは比較的珍しい。
 クラスも違う上に、ふたりともどちらかというと自分から誘うのではなく誘われたら応じるというようなタイプであるからである。
 少し俗世離れしている感のある詩音は別として、祥太郎や准が非常に面倒見の良い性格であるため、一層拓巳と健人のどちらかがお互いを誘うことが珍しいのだ。
 かといって、ふたりの仲が悪いというわけではない。
 むしろ気を使われたり使ったりするという行動が皆無に等しいふたりは、お互い遠慮することもなく気楽であった。
 それに共通の話題も思いのほか多いため、ふたりでいることは珍しくても、普通に友達なのである。
「そういやおまえって、今一人暮らしなんだろ? 飯とか家事とかいつもどうしてんだ?」
 拓巳はふと小さく首を傾げながら健人に訊いた。
 健人の両親はともに日本人であるが、彼の祖母はアメリカ人である。
 その関係上、健人の両親は今アメリカを拠点とした仕事に着手しており、日本にいない。
 そして高校受験の際にアメリカの学校を両親に勧められたが。
 当時すでに鳴海先生と出会い“能力者”であることを自覚していた彼は、日本に残って聖煌学園に通うと決めた。
 そのため必然的に両親と離れて暮らすことになったのだった。
 とはいえ、いつも仕事が忙しかった両親とは一緒に暮らしている時もあまり共通した時間は取れていなかった。
 だが、それに関して特に卑屈になることもなく当然になっていた健人にとっては、家でひとりでいることなど当に慣れっこになっていて。
 両親からの連絡も頻繁にあるし、むしろ自分のペースで生活していける現状を気楽に思えるようになったのだった。
 健人は相変わらず表情を変えず、拓巳の疑問に答える。
「食事はいつも外食だし、家事は必要に迫られたらやってる」
「おまえといい祥太郎といい、結構ひとり暮らしも大変なんだな」
 感心したようにそう呟く拓巳に健人は小さく首を振った。
「慣れればそうでもないし、俺は最低限しかやらないからな。祥太郎みたいに完璧にやってるわけじゃない。それに食事も、週一くらいあいつの家で食ってるし」
「あいつの家でって、祥太郎んちでか?」
「ああ。最近あいつ、料理に凝ってるらしくてな。呼び出されては手料理食わされるんだ」
「そういえば祥太郎のやつ、将来料理研究家になって何冊もレシピ本出して夢の印税生活するんやーとか何とかこの前言ってたな」
 いつもの調子でおどけていた祥太郎の言葉を思い出し、拓巳は納得したように頷いた。
 そんな他愛のない会話を交わしながら、ふたりは人の流れに逆らわず駅のコンコースに差し掛かる。
 健人はそこでふと立ち止まり、拓巳に青を帯びる瞳を向けた。
「俺は今から本屋に寄って帰るよ」
「おう、そっか。んじゃ、またな」
 あっさりとふたりはそれだけ言って軽く片手を上げる。
 そして、それぞれ別の方向へと歩きだそうとした。
 ――その時だった。
「……なっ!?」
「!」
 拓巳と健人は同時に顔上げ、踏み出そうとしていた足を止めた。
 その表情は、一変して険しいものになっている。
 それもそのはず――賑やかな街の喧騒が一瞬で消え失せ、あたりはシンと静まり返っていたのである。
 拓巳は再び健人に向き直り、周囲をぐるりと見回して口を開いた。
「健人、これはあいつの……」
「……ああ」
 ふたりは周囲を満たす強い“邪気”を感知し、瞬時に張られた“結界”に眉を顰める。
 そしてそれを作り出した人物に目を移して軽く身構えた。
 そんな彼らの視線の先には。
「こんばんは。“能力者”の皆さん」
「今日は眞姫ちゃんは一緒じゃないんだな。うーん、残念」
 “結界”を張った張本人・涼介と、同じ“邪者四天王”である智也、それにつばさの姿もそこにはあった。
 話も終わり繁華街の外れにある喫茶店を後にした“邪者”3人は、偶然拓巳と健人のふたりを見つけた。
 そして涼介は“能力者”の彼らを自分の“結界”に閉じ込めたのだった。
「ここで会ったのも何かの縁だからね。せっかくだから“能力者”の君たちに声でも掛けておこうと」
「声を掛けるためだけにわざわざ“結界”張ったってのか? ほかに用があるんだろ」
 不敵に笑う涼介を見据え、拓巳はぐっと拳を握り締める。
 健人は無言で青い瞳を“邪者”に向け、彼らの動きを慎重に探っている。
 そんなふたりを交互に見てから涼介は煽るように口元に笑みを湛えて続けた。
「用という用ではないんだけど、脳も身体も動かしていないと鈍るからね。身体を動かす相手でもお願いしようかと思って」
「涼介、おまえって本当に気まぐれだよな……でもまぁ今回は面白そうだし、俺も付き合ってやるよ」
 ニッと笑ってそう言った後、智也は漆黒の瞳を“能力者”へと向ける。
「そういうことで、こっちはやる気満々なんだけど。そっちはどう?」
「こんな“結界”に閉じ込めておいて、何を今更。どうせ俺たちに選択の余地はないんだろう?」
「上等だっ。売られた喧嘩は買うに決まってんだろーがっ」
 “気”を漲らせ戦闘体勢に入る健人と拓巳の様子に満足そうに笑んで、涼介は漆黒の瞳を細めた。
 智也は背後にいるつばさを振り返り、彼女を気遣うように言葉を掛ける。
「危ないからもう少し下がってた方がいいよ、つばさちゃん」
「……そうね」
 つばさは大きく溜め息をつきながらも言われた通り数歩下がった。
 最初に繁華街に“能力者”の気配があることに気がついたのは“空間能力者”の彼女だった。
 そして何気なく涼介と智也にそのことを告げると思った以上に興味を示し、わざわざ“能力者”の彼らのところへと赴いて今に至っているのである。
 特に杜木から命令が出ているわけでもなければ、必要に迫られているわけでもない。
 なのにどうして戦おうとするのだろうか。
 “空間能力”には長けているが戦いは不得手なつばさは、そう疑問に思いながらも強大な“邪気”をその身に宿す彼らに目を向ける。
 彼らの漆黒の瞳は、まるで子供がゲームを始めるかのように楽しそうである。
 そんな感情はきっと、自分の強大な力に対する確固たる自信から来るものなのだろう。
 ビリビリと大気をも揺るがすほどの強い“邪気”を肌で感じながら、つばさは黙って戦況を見守ることにした。
 漆黒の“邪気”を宿らせながら、涼介はふっと笑う。
「じゃあ始めようか。せっかくだから智也、僕らも“邪者”同士タッグでも組んでみるかい?」
「おまえって信用ならないから、手ぇ組んでも簡単に裏切られそうだよな。ま、でも今回は“邪者”対“能力者”って図式が成り立ってるし、たまにはタッグマッチもいいかな」
 智也はちらりと涼介を見てそう言った後、同じく“邪気”をその身に宿した。
 そして目で軽く合図し合った涼介と智也の掌から、同時に漆黒の光が放たれた。
 空気を裂くように唸りを上げ、強大な光が“能力者”へと迫る。
 だが当たれば威力は大きいものだが、それらは意外にも何の捻りもない直線的な軌道を取ったのだった。
 慌てることもなく、拓巳と健人は漆黒の光を消滅させるべく“気”を繰り出し迎え撃つ。
 刹那、目を覆うほどの眩い光が発生し、同時に耳を劈く轟音が鳴る。
 双方の繰り出した衝撃は正面からぶつかり合って相殺され、そして消滅した。
 その後間を置かずに次の攻撃が放たれるだろうことを予測し、“能力者”のふたりは“邪者”の動きに意識を向ける。
 その時だった。
「!」
 拓巳は一瞬瞳を大きく見開いた後、素早く身を屈める。
 それに僅かに遅れ、拓巳の頭があった位置を、間合いをつめた涼介の鋭い手刀が空を切った。
 拓巳は涼介の攻撃をかわしてすぐに体勢を整え、今度は即座に背後に飛ぶ。
 同時にドンッと地響きが鳴り、えぐるような深い衝撃痕が地に刻まれた。
 涼介の攻撃を避けた拓巳を待ち構えていたかのように、智也から漆黒の光が放たれたのだった。
 涼介は口元に笑みを浮かべて再び手刀に黒を帯びる光を宿し、拓巳を追従する。
「くっ!!」
 ぎりっと歯をくいしばり、拓巳は同じく“気”を漲らせた手刀で涼介の攻撃を受け止めた。
 相反する性質の“気”と“邪気”が反発し合い、プラズマが発生してバチッと音を立てる。
 拓巳は受け止めた涼介の手刀を振り払うと、反撃とばかりに逆手を握り締めた。
 そして間髪いれずに“気”を纏った拳を繰り出した。
 涼介は唸りを上げて襲い掛かる拓巳の拳を身を反らして避ける。
 だがそんな彼の動きを読み、さらに攻撃の手を緩めず蹴りを放とうと構えた拓巳であったが。
「!」
 咄嗟に振り返ってその予備動作を解き、背後に視線を向けて両手に“気”を宿す。
 その瞬間、空気を震わせるほどの強大な光が彼に襲い掛かってきた。
 いつの間にか背後に回った智也から拓巳目掛けて漆黒の衝撃が放たれたのだった。
「……っ、くっ!」
 拓巳は“気”の漲った両手を翳し、目の前に形成した防御壁で何とかその衝撃を防ぐ。
 さすがの拓巳も相手が“邪者四天王”ふたりとなると、その攻撃をかわすだけで精一杯なのである。
 休みない“邪者”の猛攻に、拓巳の体勢が僅かに崩れる。
 そして不安定な体勢を立て直そうと地に足を踏みしめたが。
 そんな隙さえも与えようとせず、“邪者”のふたりは好機を見逃さずに一気に彼との距離を縮める。
「ちっ!」
 拓巳はふたり同時に繰り出されるだろう“邪気”をどうやり過ごそうかと考えながらも、必死に対抗すべく“気”を宿した。
 ――その時。
「!!」
「……!」
 拓巳に攻撃を仕掛けんとしていたふたりの視線が目標から逸れる。
 そして攻撃の体勢から一転、防御の構えを取った。
 そんな彼らに襲い掛かってきたのは。
 輝きを放った、“気”の閃光。
 少しの狂いもなく狙い定められた衝撃が唸りを上げ、“邪者”に迫る。
 瞬間、地を揺るがすような轟音と一瞬で視界を奪うほどの眩い光で“結界”内が満たされた。
 周囲には衝撃の大きさを物語るかのような余波が立ち込める。
 そして数秒後、その余波が次第に晴れていく中。
 衝撃を繰り出した掌を収め、健人は綺麗なブルーアイをふっと細めた。
「随分と器用なんだな。動き回ってる僕たち“邪者”だけに正確に狙いを定められるなんてね」
 健人から放たれた光を浄化させた涼介は少し感心したようにそう言って笑う。
 智也も一息つき、漆黒の前髪をかき上げて言った。
「接近戦でひとりを集中して一気に叩く作戦だったのにな。接近戦だとやすやす援護もできないだろって思ったけど、さすがにそう簡単にはいかないか」
 健人はそう口を開く“邪者”たちを見据え、身構えながらも溜息をつく。
「あれだけ集中する時間があればいくら動いている相手とはいえ、おまえらに照準を合わせることくらい容易い。それに万が一手元が狂って拓巳に当たったところで、全く問題はないからな」
「おい、全く問題なくねーだろっ。問題大アリだっ」
 瞳を大きく見開いてそう講義する拓巳に、健人は相変わらず表情を変えずにさらりと言った。
「おまえは丈夫だと誉めてるつもりだ、一応」
「……誉められてる気が全くしねーんだけど、まぁ当たんなかったからな」
 拓巳はまだ不服そうにブツブツと呟いたが、気を取り直すようにザッと前髪をかき上げる。
 そして表情を引き締め、“邪者”に視線を投げる。
 その視線を感じて涼介は再び口を開いた。
「実力が拮抗しているだけに、次にどう動くか難しいところだね。それを考えることが楽しいんだけど」
「おまえの場合どう動くかってより、いかに相手の弱みにつけこむか、だろ? 手段を選ばないからな、タチ悪いよ」
 はあっとわざとらしく嘆息して智也は涼介をちらりと見る。
「それに関して、否定はしないけどね。でも……」
 そこまで言って、涼介は少しの間を取った。
 それから不敵に笑みを浮かべると、こう続けたのだった。
「でも“能力者”の弱みを突こうと思っても、今日は生憎この場にお姫様はいないからね」
「……!」
「なっ、おまえっ!」
 涼介の言葉に反応し、健人と拓巳は鋭い視線を彼に投げる。
 智也も同様に険しい表情を宿すと、ふっと印象の変わった漆黒の瞳を細めて言った。
「ていうか涼介。そんなこと、まずこの俺がさせると思うか?」
 敵味方関係なく自分に向けられているいくつもの刺すような視線を感じながら、涼介はくすくすと笑う。
「ふふ、冗談だよ。いくら僕でも、これ以上この場で敵を増やすような無謀なことはしないよ」
「冗談ってな……言っていい冗談と悪い冗談ってのがあるだろ」
 わざと煽って周囲の反応を楽しんでいる様子の涼介に、智也は大きく溜め息をつく。
 ――その時だった。
「!」
 涼介はふと顔を上げ、瞬時に掌に“邪気”を漲らせた。
 刹那、空気を裂くような衝撃が放たれ、真っ直ぐに涼介目がけ襲い掛かる。
 涼介は咄嗟に防御壁を張り、突然繰り出されたその“気”の攻撃を防いだ。
 そして再び鳴る轟音を耳にしながら、衝撃を放った彼に目を向ける。
 そんな涼介の視線の先には――射抜くような鋭さを持つ、青の眼光。
 健人は静かな怒りの色をブルーアイに宿し、グッと拳を握り締めた。
「姫に危害を加えようとするやつは、この俺が許さない」
 健人のその言葉に、涼介は再び楽しそうに笑う。
「冗談だと言っただろう? 僕にとっても、お姫様は大事な存在だからね」
 それからニッと口元に笑みを宿し、さらにこう続けたのだった。
「お姫様の能力と“神聖なる血”は、大いに僕の研究興味をそそるよ」
「なっ、おまえ……! 姫に少しでも何かしてみろ、ぶっ殺すぞっ」
 拓巳は手刀に“気”を漲らせ、涼介をキッと睨みつけた。
 素直な“能力者”の反応に満足そうな表情を浮かべながらも、涼介は再び始まるだろう攻防に備えて漆黒の“邪気”をその身に纏う。
 智也はちらりとそんな涼介を見て嘆息したが、すぐに“能力者”に向き合って臨戦態勢をとった。
 再びピリピリとした空気が“結界”内に漂う。
 そして両者が動きをみせようとした――まさにその時だった。
「……!?」
「!」
 攻撃を仕掛けようとした健人と拓巳は思わず動きを止める。
 戦闘とは無縁のある音が、“結界”内に響き渡ったからである。
 今にも攻防が再開されようとする緊張感に満ちた雰囲気をかき消したものは。
 涼介の携帯電話の、メール着信音だった。
 涼介は機械的な呼び出し音の鳴る携帯を手に取ると、周囲に構う様子もなくマイペースに届いたメールを確認する。
 それからふっと息をついた後、漆黒の前髪をかき上げた。
 そして。
「なっ!?」
「……!」
「!」
 涼介以外の3人は、それぞれ驚いたような表情を浮かべる。
 涼介の手に宿った漆黒の“邪気”が目を覆うほどの眩い光を放った次の瞬間。
 いつの間にか、周囲に賑やかな街の雑踏が戻ってきたのである。
 携帯電話をしまった涼介が、突然形成していた“結界”を解いたのだ。
「残念だな、これから面白くなりそうだったのに用事が入っちゃったよ。では、僕はこれで失礼するよ」
「あ!? ふざけんなっ、元はといえばおまえが売ってきた喧嘩だろーが」
 スタスタと歩き出した涼介に、尚も拓巳は食ってかかる。
「……拓巳」
 小さく首を振り、健人は再び“結界”を張ろうとする拓巳を諌めた。
 拓巳はチッと舌打ちをしつつも去っていく涼介の後姿を仕方なく見送る。
「まったく、マイペースなんだから。少しは振り回されてる俺らのことも考えろっての……んじゃ俺らも行こうか、つばさちゃん」
 智也は相変わらずな涼介の様子にボソリと呟いてから、戦況を見守っていたつばさを伴い歩き始める。
 つばさは大きく溜め息をついた後、黙って彼に続いた。
 そして、“邪者”たちの姿が人の波に消えた後。
「あーっ、何かアイツ相当ムカつくっ。ていうか少し動いたから、また腹減ったじゃねーかよ。健人、ハンバーガー食いに行こうぜ」
「腹減ったって……さっきたくさん食ったばかりだろ、おまえ。ていうか、またハンバーガーか?」
 回れ右をし先程までいたファーストフード店に戻ろうとする拓巳に健人は呆れたように言ったが。
 だがそれ以上は特に何も言わず、一度だけ“邪者”たちが消えた街の雑踏に青を帯びた目をやる。
 そしてそっと金色に近いブラウンの髪をかき上げ、拓巳に続いて賑やかな繁華街を歩き始めたのだった。
 
 
 
 
 ――その日の夜。
 眞姫は自室で、誰かと携帯電話で会話をしていた。
 その相手とは。
「えっと……あ、分かった。ここにこの公式を当てはめればいいんだね。ありがとう、准くん」
『ううん、僕で分かることなら何でも聞いてね、姫』
 眞姫は優しい響きを持つ准の声に微笑み、机の上に広げてあった数学の参考書を閉じる。
 課題を解いていて分からない部分があり、眞姫はその問題の解き方を数学の得意な准に電話で訊いていたのだった。
 最初は、明日にでも鳴海先生に質問に行こうかとも思ったのだが。
 分からない問題を明日までそのままにしておくのも何だか気になるし、勉強の息抜きに少し誰かと話をしたかったのだ。
 それに……鳴海先生には、もっとほかに訊きたいことがあるし。
 眞姫は栗色の横髪をそっと耳にかけた後、ふと俯く。
 それから、ふと准に訊いたのだった。
「ねぇ、准くん。“能力者”だった人が“邪者”になる理由って、何だと思う?」
『“能力者”が“邪者”にって……あの杜木っていう人のことだね』
 眞姫の問いに、准は声の印象を変えてそう呟く。
 眞姫はコクンと小さく頷いて続けた。
「うん。私は“気”を使えるようになってみんなよりも日が浅いし、理由を私なりに考えてみたけど思いつかなくて……“能力者”の准くんはどう思うかなって思って」
 准は少しだけ考えるように間を取り、そして彼女の質問に答える。
『確かに僕は“能力者”だけど、“能力者”をやめて“邪者”になる心境は分からないよ。どんなことがあっても僕は“能力者”で在るという自信もあるし、自分が“能力者”だということに誇りを持っているから』
「准くん……」
 普段通りのソフトな口調ではあるが、その言葉から彼の中にある意思の強さを感じる。
 眞姫は彼らしい返答にブラウンの瞳を細めた。
 そんな彼女に、准は優しい声で言った。
『今まで辛かったり大変だったこともあったけど。でも僕はね、“浄化の巫女姫”を守る“能力者”でよかったと今すごく思ってるよ、姫』
「“浄化の巫女姫”を……うん、ありがとう准くん」
 眞姫は耳をくすぐる准の穏やかな印象の声に嬉しそうな笑顔を宿す。
 高校に入ってずっと同じクラスである准は、自分のすぐ近くにいてくれて。
 さり気なくであるがいつも細やかな気配りをしてくれている。
 趣味も気も合うし、知識豊富な彼とは、話していても話題に事欠かない。
 そんな准といると、眞姫はとても居心地が良い感覚を覚えるのだった。
「私もね、“浄化の巫女姫”でよかったよ。准くんたち“能力者”のみんなや、鳴海先生や由梨奈さんや傘のおじさまや、みんなによくしてもらえて。私も頑張らないとって思ってるよ」
『そうだね。ていうか……本当にいつも言うことが姫らしいよね』
「私らしいって?」
 准の呟きの意味がいまいち分からず、眞姫は小さく首を傾げる。
 そんな眞姫に、准は何気なく話題を変えるようにこう訊いた。
『それよりも姫、明日の放課後って暇?』
「明日は特に何もないよ。どうして?」
『明日の放課後、一緒にお茶して帰らないかなって。そういえばふたりだけでゆっくり話をするのも久しぶりだしね』
 1年の頃は“能力者”の中で唯一同じクラスであったため、眞姫とふたりでいることが比較的多かった准だが。
 最近は誰かしらほかの少年が誰か一緒にいて、彼女とふたりきりになることも少なくなった。
 確かに気の置けない仲間とワイワイ賑やかに過ごす時間も楽しいが。
 だが眞姫に想いを寄せる准としては、たまに彼女とふたりになりたいのも事実で。
 この機会を逃すまいと、ここぞとばかりに抜かりなく彼女を誘ったのだった。
「ふたりでお茶? うん、いいよ」
『姫の好きなマロンパフェ食べに行こうか。この間駅ビルの喫茶店通った時、美味しそうだなって思ってたんだ』
「あ、もう今年もマロンフェアが始まる時期か。駅ビルのお店のパフェ美味しいし、楽しみね」
 彼女の性格をよく分かっている准の誘いに、眞姫は何の躊躇もなく頷く。
 そしてそんな返ってきたいい返事を聞き、准は電話の向こうで嬉しそうに微笑んだ。
『うん、楽しみだね。じゃあ姫、また明日学校でね』
「あ、数学教えてくれてありがとう。それじゃあ、おやすみなさい」
 准との会話を終えた眞姫は携帯電話の通話終了ボタンを押した。
 それからちらりと時計を見て時間を確認した後。
 机の上にある数学の問題集とノートを揃え、スクールバッグに入れたのだった。