――次の日の夕方。
 学校も終わり、繁華街での待ち合わせの定番・駅前の噴水の前でつばさはふと顔を上げる。
 どうやら待ち人がやって来たらしい。
 まだその姿は目には見えないが、彼女特有の“空間能力”がその人物の到着を知覚したのだった。
 賑やかになり始めた繁華街の人波に漆黒の瞳を向け、つばさはそっと秋風に揺れる髪をかきあげる。
 そしてようやく視界に入るくらいの距離に辿り着いた待ち人に小さく微笑んだ。
「こんにちは。今日はごめんなさいね」
 約束していた時間ぴったりに現れた彼に、つばさはそう第一声を発する。
 そんな申し訳なさそうな響きを持った彼女の言葉に彼は首を振った。
「お待たせ、つばさちゃん。俺の方が普段からつばさちゃんには世話になってるからね、気にしないでよ」
 そう言ってその場に現れた彼・智也は彼女の隣に並ぶ。
 それから少しだけ表情を変え、こう訊いたのだった。
「それで、涼介と落合う場所はどこ?」
「…………」
 つばさはふと言葉を切って俯く。
 だがすぐに顔を上げて言った。
「繁華街の外れの喫茶店よ」
「繁華街の外れね……ていうかあいつ、一体何しようとしてるんだ? まぁとりあえず行こうか」
 智也は首を傾げつつもつばさを促す。
 そしてふたりは噴水に背を向け、繁華街を歩き始めた。
 ――涼介からつばさに電話があったのは、昨日の夜のことだった。
 突然の彼からの連絡に驚いたつばさであったが。
『君に是非話したいことがあるんだけど』
 明らかに楽し気な彼のその言葉が気になった。
 というよりも、涼介が自分に話したいこと。
 詳細は全く不明だが、粗方どういう件なのかつばさには容易に想像できたのである。
 それはきっと……自分の大切な、あの人のこと。
 涼介の性格やあの楽しそうな様子を考えても、自分が慕い想っている彼に関することに違いない。
 そう感づいたつばさは、ますますその内容が知りたかった。
 だが、何せ相手はあの涼介である。
 いくら同じ“邪者”とはいえ、ひとりで彼の誘いに応じるのはどうかと考えた。
 そこでつばさは涼介にこう返答したのだった。
『誰かほかの“邪者”も一緒にいいのなら、行くわ』
 涼介は少しだけつばさの提案に考えるような仕草をしたが、構わないと返してきた。
 涼介と対等以上の力を持つ“邪者”といえば、“邪者四天王”か杜木であるが。
 しかしながら杜木にはもちろん言えないし、相手が涼介ということで綾乃にも頼めない。
 渚は面倒臭がって首を縦に振らないに決まっている。
 そして考えた結果、つばさは智也に付き添って欲しいと頼んだのである。
 きっと涼介もつばさが智也に声を掛けることを予測したために条件を飲んだのだろう。
 事情を話したところ、智也も快諾してくれた。
 そういう経緯で今つばさは智也とともに涼介の指定してきた場所に向かっているのだ。
 つばさと智也は繁華街の中心に背を向け、他愛のない会話を交わしながら歩を進める。
 だが目的の場所に近づくにつれ、つばさの表情は緊張した面持ちに変化した。
 もう待ち合わせの喫茶店に涼介が来ていることが“空間能力”によって分かっていたからである。
 しばらく歩いた後、ふたりはこじんまりとした繁華街外れの喫茶店前に到着する。
 智也はつばさをさり気なく気遣いながら、まず先に店の中に足を踏み入れた。
 それに続き、つばさも店内に入る。
「やあ、こんにちは。待っていたよ」
 一番隅のテーブルで珈琲を口に運び、涼介はふっと甘いマスクに笑みを浮かべた。
「どうしたんだ、おまえ。いきなりつばさちゃんを呼び出したりして」
 智也はそう言って涼介の正面の席に座る。
 そんな智也の問いには答えず、涼介はふとつばさに目を向けた。
 そしてクスリと笑って言った。
「今日に限ったことじゃないとはいえ、本当に僕って信用ないんだね」
「…………」
 つばさは神妙な顔をしつつ、智也の隣に着席する。
「つばさちゃんが警戒するのも当然だろ。自分のしてきたこと考えろよな、おまえ」
 つばさをフォローするように智也は嘆息して口を挟んだ。
 涼介はそんな彼の言葉に楽しそうに頷く。
「そうだね。僕がつばさの立場でもそうしただろうしね」
「自分で認めるなよ、おい」
 自覚あるなら何とかしてくれと呟き、智也はもう一度溜め息をついた。
「まぁ今回の話は、智也の耳にも入れていて欲しいことだから都合が良かったよ」
「それで、その話って何かしら?」
 相変わらず何だか楽しそうな涼介に、つばさはそう話を切り出す。
 涼介は漆黒の瞳を細めた後、一見穏やかな声で気持ちの逸る彼女を宥めた。
「その前に何か飲み物でも頼んだらどうだい? 勿論、今日は僕の奢りだから」
「…………」
 焦らされて少し気に食わない顔をしつつもつばさはメニューに目をやる。
 それから、とりあえず言われた通りに注文を済ませた。
 そして注文した飲み物がすべて運ばれてきて店員が去ったのを確認し、ようやく涼介は口を開く。
「それじゃあ本題に入ろうか。まずはこれを見てくれないかな」
 涼介はカバンからある資料を取り出し、智也とつばさに手渡した。
「ていうか……これって何の資料だ?」
 ざっと目を通しながら智也は不思議そうに訊く。
 それは、数年前の日付と人の名前が記載されているものだった。
 涼介はふっと意味深に笑って言った。
「よく見てごらん。きっと引っかかる人物の名前が見つかるから」
 何の資料か聞かされないまま、ふたりは視線を資料に落とす。
 そして、その数秒後。
「! あ……」
 先に声を上げたのはつばさだった。
 何かを見つけたその瞳を大きく見開き、顔を上げる。
 涼介はその反応を見て満足そうに口を開いた。
「見つけた? 3列目の最後の名前」
「なっ、これは……」
 智也も心当たりのある名前を見つけると、数度瞬きをする。
 その人物の名前とは。
「杜木沙也香……杜木って、もしかして」
「そうだよ。彼女は杜木様の妹だよ」
「杜木様の妹?」
 つばさはもう一度そこに記されてある、杜木沙也香という名前を目にする。
 智也は逆に涼介に視線を向けて首を傾げた。
「それで、杜木様の妹の名前についている日付は何だ? 大体、これって何の資料だよ」
 資料には人の名前ひとつひとつに日付がうってあった。
 杜木の妹という杜木沙也香の前にも、数年前の8月8日という日が記されている。
 涼介は相変わらず嬉しそうに話を続けた。
「これはね、数年前の行方不明者のリストだよ。日付は失踪届けのあった日だ」
「えっ!? 行方不明者のリスト?」
 つばさは驚いたように涼介を見る。
 ちらりとそんなつばさを気に掛けつつ、智也は再び訊いた。
「何でそんなものを。それに、杜木様の妹が行方不明者?」
「そうだよ。杜木様の妹は、数年前に行方不明になったと届けられている。そして今も見つかってはいないんだよ」
 涼介はニッと口元に笑みを浮かべ、さらに続ける。
「よく考えてごらん? ここに載っている人物の中で、“憑邪”として“能力者”に消滅させられた人間が何人いるんだろうね。先代の“浄化の巫女姫”亡き後、現代の“浄化の巫女姫”が“憑邪浄化”の能力を会得するまでの間、“能力者”が“邪”に身体を支配された“憑邪”を退治する術は、一片の肉片も残らずに憑依された人間の身体ごと消滅させる以外に方法はなかった。そう考えると、現代の“浄化の巫女姫”が幼子だったこの時期の行方不明者は特にそういう人間が多いだろうことが容易に想像つくだろう?」
「ちょっと待て。じゃあ、杜木様の妹は……」
「“能力者”に、滅されたってこと?」
 智也の言葉に続けて、信じられない表情でつばさはそう呟いた。
 涼介は涼しい顔で珈琲をひとくち飲み、頷く。
「これはあくまで想像だけど。その可能性が高い、ということだね」
「そんなこと……」
 頼んだ紅茶に一度も口をつけることなく、つばさはもう一度行方不明者リストを見つめた。
 杜木に妹がいたなど、初耳だ。
 それにその妹が行方不明だなんて。
 困惑した様子のつばさに、涼介はこう付け加える。
「その、杜木様の妹が行方不明になった日付。よく見ると、杜木様が“邪者”になったと思われる頃と一致しているだろう? ね、つばさ」
「…………」
 杜木はあまり自分の過去のことを話さない。
 ただ、5・6年ほど前に“邪者”になったとは小耳に挟んだことがある。
 そして杜木沙也香が行方不明になったとされる年は、今から6年前であった。
 涼介の言う通り、杜木の妹はもしかしたら“能力者”に滅されたのかもしれない。
 だから杜木は“能力者”であったにもかかわらず、“邪者”に……。
 思わぬ展開に言葉を失っているつばさに智也は目を向けた。
 それから涼介に視線を移す。
「それで、何でわざわざこのことをつばさちゃんに?」
 智也の問いに涼介は今までで一番楽しそうな表情を浮かべる。
 そして漆黒の瞳を細めるとこう答えたのだった。
「何でって、つばさは杜木様のすべてを知りたいんだろう? 親切心だよ」
「…………」
 ニッと笑う涼介に智也は微かに眉を顰める。
 だが特に何も言うことはせず、心配そうにつばさの様子を見つめた。
 つばさは何かを考えるように俯いたまま、しばらくただじっと杜木の妹の名前をその漆黒の瞳に映していたのだった。




 ――その頃。
 この日の業務をすべて終え、鳴海先生は愛車のダークブルーのウィンダムを走らせていた。
 だがその車が向かうのは彼の自宅とは違う方向であった。
 信号が赤に変わり、先生は愛車のブレーキを踏む。
 信号待ちの合間に時計で現在時刻を確認した後、そのブラウンの瞳をふっと細めた。
 目的地までこのまま行けば予定時間ちょうどに到着できるだろう。
 それにしても、いつもながらに急すぎる。
 もう少しこちらの都合というものを考えて行動して欲しいものだと。
 鳴海先生は深く溜め息をつき、信号が青に変わったために再び車を走らせる。
 しばらく車は賑やかな街の中を走った後、閑静な高級住宅街へと差し掛かった。
 そして小高い丘に建つ豪邸の駐車場に入り、車を止めた。
 先生は車から降り、慣れたように豪邸のエントランスへと足を運ぶ。
 その時だった。
「やあ、将吾。よく来てくれたね」
 タイミングを見計らったかのように玄関が開き、豪邸の主・傘の紳士こと鳴海秀秋は息子を迎え入れる。
 鳴海先生は実家に一歩足を踏み入れ、すでにお決まりになっている言葉を発した。
「何度も言いますが、急に呼び出すのはやめていただけませんか? 私にも都合があるのですから」
「今日は美味しいジャスミンティーを淹れたんだ。たまには実家で寛ぐのもいいだろう?」
 言っても無駄だと分かっていながらも、やはり相変わらずな父に先生は溜め息をつく。
 それから切れ長の瞳をリビングに向けると、こう紳士に言ったのだった。
「前もって私を呼び出す気だったのならば、先に私にも言ってください。どうやら今日は先客がいるようですし」
「今日のジャスミンティーは彼が持ってきてくれたんだよ。まぁそんな怖い顔しないでどうぞ」
 カチャリとリビングに続くドアを開け、紳士はにっこりと微笑む。
 先生は室内に響くCDのクラシック音楽を耳にしながらも、先に来ていた客人に目をやった。
 傘の紳士とよく似た優雅な雰囲気を持ったその客人は、そんな先生に視線を返して笑う。
「こんばんは、鳴海先生。どうぞ王子お気に入りのジャスミンティーでも飲んで寛いで」
「…………」
 鳴海先生はその客人・詩音の言葉に何も言わず、いつも座るソファーに腰を下ろした。
 紳士は先生の分のジャスミンティーを淹れながら嬉しそうな表情を浮かべる。
「将吾が実家に来るのも久しぶりだろう? 詩音くんもうちに来てくれたことだしね」
 目の前に出されたジャスミンティーには手をつけずに先生は詩音をもう一度見た。
 そして、彼にこう言ったのだった。
「用件は何だ。楽しくお茶をするためにここに来たわけではないのだろう?」
「せっかちだね、先生は。それに僕は、みんなで楽しくお茶もしたいなと思ってるよ」
「優雅にお茶をしたいのなら、人選を誤っている。私は、用件は何だと言ってるんだ」
 威圧的に言い放つ鳴海先生にも表情を変えることなく、詩音はひとくちジャスミンティーを飲んだ。
 それから先生にブラウンの瞳を向けて口を開く。
「つい先日、祥太郎の家で鍋パーティーが催されたんだけど、僕も招待を受けて行って来たんだ。それでその時、騎士たちの間である話題が出たんだよ」
 詩音はそこまで言って一呼吸置いた。
 耳には広いリビングに流れるクラシック音楽だけが聞こえる。
 先生は敢えて何も言わずに詩音の次の言葉を待った。
 美しい旋律に瞳を細め、スッとブラウンの前髪をかき上げてから、ようやく詩音はこう続ける。
「幼いお姫様を助けた、“気”の剣を持つ“能力者”のことだよ、先生。それに僕も、その“能力者”のことを知らないかとお姫様から訊かれたしね。それにお姫様はこうも言っていたよ、先生とあの杜木っていう人の過去に何があったのか知りたいから今度先生に訊いてみようかなってね。先生はそうお姫様に訊かれたらどう答えるのかな?」
「清家にその“能力者”のことを訊かれて、おまえは何と言った?」
 鳴海先生は詩音の言うことに答えず、逆に威圧的にそう訊き返す。
 だがその言葉にも微笑みを絶やすことはなく詩音は言った。
「正直に答えたよ。僕はまだ見たことはない、ってね」
「…………」
 先生はふっと息をつき、小さく首を振る。
 それからはっきりとこう言い放ったのだった。
「清家が訊いてこようとも映研部員の“能力者”が訊いてこようとも、事実は何も変わらない。“気”の剣を持つ“能力者”は……もう、この世にはいないという事実はな。よって、その“能力者”のことを改めて口に出す必要性もない」
「将吾……」
 今まで黙って話を聞いていた紳士は、目の前の息子と同じブラウンの瞳に複雑な色を浮かべる。
 そういう返答が返ってくると予想していた詩音は特に表情を変えず、首を小さく傾けた。
「必要性がないって、たとえお姫様が知りたいと思っても? じゃあ、あの杜木っていう人と過去に何があったのか、それも話さない気なのかな」
「“気”の剣を持つ“能力者”については先程も言ったように話す必要はない。たとえ清家が知りたいと思っていてもだ。杜木との過去の出来事は、私が話すべきだと思った時がもしも来たのならば話すだろうし、やはり必要ないと思ったら話すことはない。これで満足か?」
 詩音は刺すような視線を向けている先生ににっこりと優雅な笑みを返す。
 それからカップに残っているジャスミンティーを飲み干して呟いた。
「なるほどね、いかにも先生らしい答えだね」
「将吾は本当に頑固なんだから。そこがまぁ、君の可愛いところなんだがね」
 紳士はそうからかう様に言って優しく瞳を細める。
 その言葉に眉を顰め、先生は大きく嘆息した。
「頑固? 私はただこうすべきだと物事を考え、それを実行しているまでです」
「まぁまぁ、そう怖い顔しないで。冷めないうちに美味しいジャスミンティーでもどうぞ」
 紳士はまだ手のつけられていないティーカップを見て先生にお茶を勧める。
「伯父様の言う通り、王子の美味しいジャスミンティーを召し上がって。鳴海先生」
 詩音も紳士の言葉にそう続けた。
 先生は仕方ないと言った表情を浮かべた後、無言でティーカップを手にする。
 そして父の淹れた少し冷めたジャスミンティーをようやく口に運んだのだった。