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図書館を一歩出た瞬間、開け放たれた窓から吹き込む秋風に栗色の髪が揺れる。
頬でその爽やかな風を感じながら眞姫はゆっくりと歩き始めた。
――ある秋晴れの日の昼休み。
借りていた本を返却してから、眞姫は教室へ戻るべく賑やかな廊下を通り過ぎた。
窓の外には真っ青な快晴が広がっているが、夏のものとは違いどこか爽やかな印象を受ける。
木々の葉も徐々に色づき始め、随分と過ごしやすい気候になっている。
眞姫はそんな秋色の景色に微笑みながらも歩を進めた。
そして丁度教室へ続く階段に差し掛かった、その時だった。
「これはこれは。ご機嫌麗しゅう、僕のお姫様」
物腰の柔らかな声が背後から聞こえ、眞姫はふと足を止める。
振り返って声の主を確認した彼女に笑顔が宿った。
「あ、詩音くん。こんにちは」
彼女の視線の先にいたのは、詩音であった。
詩音はにっこりと微笑みを浮かべると、スッと彼女の隣に並ぶ。
そしてまるでお姫様をエスコートする王子様のような身のこなしで眞姫の手を引いた。
細くてしなやかな、詩音の手の感触。
そのぬくもりに少し照れた様子でありながらも、彼のそういう振る舞いに慣れている眞姫は特に何も言うこともなく歩き始める。
いや、ほかに誰かいるのであれば、さすがに校舎内で手を引かれて歩かれるのは困るが。
幸い階段にはふたり以外に誰もいなかったのだった。
眞姫は秋風にサラリと靡く詩音の色素の薄いブラウンの髪を見つめる。
女の子なら誰でも羨むだろう、キューティクル艶々な見るからに手触りの良さそうな髪。
そんな美しい髪が、透き通るように白い肌と綺麗な二重の瞳にかかっている。
少し言動が変わっているところはあるが、彼の才能を考えるとそれも感受性の高さ所以なのだろう。
自称・王子なだけあり、隣の彼は誰もが認める才美あふれた美少年である。
もちろん、ピアニストとしての才能の高さもあるが。
彼の一族は鳴海先生や傘の紳士をはじめ“能力者”が多い。
特殊な“空間能力”だけでなく、詩音は普通の“気”も器用に扱える。
自分やほかの“能力者”の少年たちとは少し異なり、彼は生まれた時から“能力者”が周囲にいる環境だったのである。
眞姫はそんな詩音をじっと見つめ、何かを考えるように口を噤む。
もしかして彼なら、自分の知りたいあのことを何か知っているのかもしれない……。
そう、眞姫が思ったのと同時だった。
「おや、お姫様。何か王子に訊きたいことでもあるのかな?」
相変わらずな優しい印象の声で、詩音が先にそう口を開く。
「えっ?」
眞姫は思いがけない彼の言葉に驚いたように瞳をぱちくりさせた。
そんな彼女の様子にふふっと笑い、詩音はさらに続ける。
「僕が答えられることならば、何でもお答えしますよ? 愛しの姫君」
自分だけに向けられる彼の笑顔にドキッとしながらも、眞姫はふっと小さく深呼吸をする。
それから、ゆっくりとこう詩音に訊いたのだった。
「あのね、詩音くん。詩音くんの周りって、“能力者”な人多いでしょう? “能力者”で“気”の剣を作れるような人とか、知ってる? 年はたぶん鳴海先生と同じくらいだと思うんだけど。私ね、その人に小さい頃助けてもらって……できれば、改めて会ってお礼が言いたいんだ」
眞姫の言葉に、詩音はふっとブラウンの瞳を細める。
そして少し間を取り、彼女の問いに対して柔らかな笑みを絶やさず答えた。
「“気”の剣を生み出す“能力者”、か。僕はまだ見たことないな」
「そっか……」
眞姫は詩音の返答に微妙に俯き、小さく首を傾ける。
だがすぐに顔を上げると、気を取り直して呟いた。
「やっぱり、少し訊きにくいけど鳴海先生に訊いてみようかな。私のあやふやな記憶だけど、その人うちの学校の制服着てたし」
そこまで言って眞姫は一旦言葉を切った。
それから、ぽつりとこう付け加える。
「それに先生とあの杜木って人がどうして敵同士になったのか、何があったのか……そのことも気になるし」
詩音はその整った顔に笑みを宿したまま、何も言わずに彼女を見つめている。
そんな視線にも気がつかず、眞姫はうーんとひとり首を傾げた。
鳴海先生に詩音に訊いたものと同じ質問をしたところで、答えてもらえるか分からない。
命の恩人である“能力者”のことは、もしかしたら先生も知らないかもしれないし。
その人が聖煌学園の制服を着ていたということも、幼い自分の記憶違いだという可能性も大きい。
それに先生は今まで、杜木とのことをあまり多く語ろうとしなかった。
鳴海先生の性格を考えても必要以上のことは話してくれそうもないし、実際何があったか訊きづらいということもある。
だが、それでも眞姫は知りたかったのである。
親友を敵に回してまでも杜木が“邪者”になった理由を。
“浄化の巫女姫”として、杜木をはじめとした“邪者”から“邪”を取り込んでみないかと言われている身として、過去に何があったか。
あまり人の辛い過去を聞きだすなんてことはしたくはない。
だがどうしても眞姫は、そのことが自分に無関係であるとは思えなかった。
決して興味本位などではなく、過去の出来事を自分は知っておかなければならないと。
何故かそう、眞姫は感じていたのだった。
「…………」
じっと真剣に考え込む眞姫に、詩音はふっと穏やかな笑みを向ける。
敢えて何も言うことをしない彼の綺麗な両の瞳は、ただ眞姫だけを見守っている。
そして詩音は眞姫と歩調を合わせてゆっくりと歩きながらも、風に小さく靡くブラウンの髪をそっとかき上げたのだった。
――同じ頃。
生徒の声が満ち溢れている賑やかな2年Bクラスで、立花梨華はわざとらしく溜め息をつく。
「何も、そんな大人数でお姫様のこと待ち構えなくてもいいんじゃない? 騎士たち」
「ちょっと待って、立花さん。待ち構えるも何も、僕は自分のクラスにいるだけだし」
梨華にすかさずそう言葉を返し、准はちらりと同じ場所にいるほかの少年たちを見た。
拓巳も首を傾げつつ、それに続けて口を開く。
「おまえら用事は済んだんだろ? さっさとAクラス戻らないと、もうすぐ午後の授業始まるんじゃねーか?」
「何や、せっかくBクラスに来たんやから、麗しのお姫様を一目見て帰ろうっちゅーのが騎士の当然の感情やろ? な、美少年っ」
「…………」
わははっと楽しそうに笑う祥太郎をちらりと横目で見た後、健人は眞姫が入ってくるだろう教室のドアに再び青い瞳を向けた。
Bクラスに用事のあった祥太郎がAクラスを出る際、健人にも声を掛けたのである。
そして普段はあまり馴れ合ったりする性格ではない健人だが、眞姫のいるBクラスに誘われて断るわけがなかった。
だがいざBクラスに来てみると、眞姫は不在であった。
そのため、今お姫様待ち状態なのである。
「まぁ、いいんじゃない? もうすぐあの子も戻ってくるだろうしね」
何気に想いを寄せる祥太郎がBクラスにいることが嬉しい梨華は、そんな彼らを追い払うこともせず満更でもない表情を浮かべている。
そんなささやかな幸せを感じている梨華に目を向け、准は言った。
「あ、そういえば立花さん、今日日直だよね?」
「え? あっ、そうだ。前の授業の黒板消さなきゃ」
梨華は准の言葉に、慌てて黒板へと向かう。
そんな彼女の後姿を見送った後、拓巳は思い出したように口を開いた。
「そうそう、この間の鍋、美味かったな。また鍋パーティーしようぜ」
「この間は“秋の味覚鍋セット”やったけどな、それとは別に“特選牛しゃぶセット”の懸賞にも応募しとるんや。それが当たるよう祈っといてや」
「一体いくつ懸賞に応募してるんだ? おまえ」
几帳面でマメで妙に所帯じみた祥太郎に、感心しているような呆れているようなどちらとも取れるような声色で健人は呟いた。
そんな彼らを見回し、准はふと真剣な面持ちになる。
そしてこう言ったのだった。
「そういえばさ、鍋の時に話したよね。姫の命の恩人の“能力者”のこと」
その准の言葉に、少年たちはふと思い思いの表情を浮かべる。
准は一息ついてから話を続けた。
「鍋の時、もしその時の“能力者”が姫の記憶通りうちの学校の出身者だったら、鳴海先生が僕たちに何か話してるだろうって言ったけど……でもよく考えたら、あの先生だから分からないなって思い直したんだ」
少年たちはそれに同意するように頷き、各々呟く。
「そうやなぁ。センセってば、そういや必要最低限のコトしか話さんからな、何でも」
「詩音やあの傘の紳士との関係も、結局先生の口からは聞いていないしな」
「ていうかよ、むしろ鳴海のヤツ、今まで必要最低限なことさえも俺たちに話してなくないか!? あー何かムカつくなっ」
准は小さく嘆息してから、昼休みの残り時間を確認するように一度時計を見た。
そんな准に、祥太郎はふと首を捻りながら訊く。
「じゃあ、その“気”の剣を作れるっちゅー“能力者”のことをセンセは知っとるのに、俺らに黙っとるってコトか?」
「分からないけど……でももしもその“能力者”が姫の言う通りうちの学校の出身者ならば、そういうことになるよね。先生自体もうちの学校出身だし、何よりも傘のおじ様が理事長なんだから」
「剣を作れるなんて、余程大きな“気”を持ってる“能力者”だしな。うちの学校の出身者なら、先生やおじ様が知らないはずないってことか」
「でもよ、“能力者”の使命は“浄化の巫女姫”を守ることだろ? そんな大きな“気”を持つ“能力者”なら、尚更“浄化の巫女姫”である姫の近くにいるはずだ。でも俺たちはおろか、姫もそいつのこと知らないなんて変じゃないか?」
そう言ってそれぞれ考え込むように、少年たちは一斉に口を噤んだ。
准はそんな仲間たちを見てから、再び最初に言葉を発する。
「制服のことは姫の記憶違いなのかもしれないし、本当に先生たちもその“能力者”のことを知らないのかもしれない。それに知っていても話さない理由があるのかもしれないし、話す必要性がないと判断されているのかもしれない。僕らがいくら考えても想像の域を超えることはないから、キリがないんだけどね」
「どうせあのセンセのことや、何か知っとったとしても訊いたところで素直に教えてくれるとは思えんしな」
あの鳴海先生の切れ長の瞳を思い出しながら、祥太郎は苦笑した。
「とにかく、鳴海はムカつくってことだよ」
拓巳は何気に黒板を消し終わった梨華に気がつき、それだけポツリと呟く。
「それよりも姫、遅いな……」
青い瞳を細め、まだBクラスの教室に姿をみせない眞姫に、健人はふうっと溜め息をついた。
日直の仕事を終えて少年たちのところへと戻ってきた梨華は、健人と祥太郎を交互に見る。
「もう予鈴鳴るんじゃない? うちのクラス、次の時間鳴海の数学だし」
「げっ、次って鳴海の数学かよっ」
「拓巳、次の時間割くらい知っとこうよ。あの鳴海先生のことだから、開始のチャイムと同時に来るだろうしね」
呆れたように拓巳に言って、准は午後の始業5分前になろうかとしている時計をもう一度見た。
「お姫様に会いたかったんやけどなぁ、しゃーないわ。教室戻るか、美少年」
「…………」
祥太郎の言葉に、仕方なく健人は従う。
Bクラスの教室を出て行くふたりを見送り、梨華は拓巳に訊いた。
「眞姫、まだ戻ってこないわねぇ。ていうか、騎士たち真剣に何話してたの?」
「え? な、何ってよ……」
「鳴海先生のこと話してたんだよ、立花さん」
いきなり訊かれてどう答えようかと言葉を詰まらせた拓巳をフォローするかのように、すかさず准は笑顔で梨華に言った。
梨華は准の返答に納得したように頷き、首をすくめる。
「あー鳴海のコトね。もう昼休み明けの一番眠い時間に数学なんて、最悪よねぇっ」
「ホント最悪だよな、ただでさえ数学なんて眠くなるってのによ」
「ていうか、あの鳴海先生の授業で居眠りできる拓巳って、ある意味すごいよね」
わざとらしく嘆息し、准はそれから教室の入り口に目をやった。
そして、ぽつりと呟いた。
「それにしても本当に姫、遅いな……」
――その頃。
結局お姫様に会えずじまいだった祥太郎と健人は、仕方なく自分たちの教室に戻っている途中だった。
「……姫がいないのなら、Bクラスに行った意味なかった」
不服そうにそう言った健人の肩をポンポンと叩き、祥太郎は苦笑する。
「まーそう言うなや。残念なのはこのハンサムくんも同じなんやから……おっ?」
祥太郎はふと何かに気がついたように視線を前方に向ける。
同時に健人も顔を上げ、青い瞳を微かに見開いた。
そんな彼らの目に映っているのは。
「あ、健人に祥ちゃん?」
「姫……」
もうすぐ午後の授業が始まるためか、急ぎ足で廊下を歩く眞姫の姿がそこにはあったのだった。
祥太郎はどさくさに紛れてちゃっかり眞姫の手を握り、調子の良い口調で笑う。
「今までBクラスで姫のこと待っとったんやけどな。よかったわぁ、一目でもお姫様の可愛い姿が拝めて」
「ごめんね、図書館の帰りに詩音くんと会って、話し込んでたら遅くなっちゃった」
「詩音と?」
眞姫にくっついている祥太郎を何気に引き離した後、健人は一瞬怪訝な顔をした。
だがすぐに整った綺麗な顔にふっと笑顔を宿す。
とりあえず、眞姫の姿を見ることができてよかったと。
耳に響く授業の予鈴を聞きながら、健人はささやかながら幸せを感じたのだった。
――その日の夕方。
大量の文献や資料が所狭しと置かれている窮屈な部屋。
だがこの部屋の主にとっては、ここが何処よりも居心地の良い場所であった。
いや、ここよりも広い部屋はほかにあるのだが。
手を伸ばせばすぐに欲しい情報が手に入る。
それがこの部屋が心地良い最大の理由。
今の彼にとっては、一分一秒の時間も惜しいのだ。
薄暗い部屋の中で電気をつけることすら忘れ、その部屋の主・鮫島涼介は目の前のパソコンをカチカチと弄っている。
マッドサイエンティストな彼であるが、機械類を扱うことも実は得意であり、欲しい情報を入手する手段としてパソコンを使うことも少なくはない。
涼介は一心不乱にキーボードを叩き、ネットワーク上に布かれたセキュリティを難なく突破していく。
そしてカチリとエンターキーを押して手を止め、食い入る様に画面を見つめた。
「! これは……」
しばらく画面を見ていた涼介はあるものを見つけ、作業の時にだけかけている眼鏡を外す。
それから興奮したように漆黒の瞳を見開き、再びパソコンに視線を戻した。
「なるほどね、そういうことだったのか。だからか……」
ひとり呟きつつふっと笑んで、涼介は映し出された画面をプリントアウトする。
プリンターの機械的な音が響く中、涼介は少し何かを考える仕草をした。
以前から気になっていたことがあり、そのことについて調べていたのだが。
予想以上に面白いことが分かった。
涼介は満足気な表情を浮かべておもむろに携帯電話を手にし、ある人物へと電話をかけ始める。
「このこと、早くあの人に教えてあげなきゃね」
くすくすと楽しそうに笑い、涼介は耳に響く電話のコールをじれったそうに聞いている。
そして何度かコールが鳴った後、ようやく相手が電話に出た。
「もしもし、こんばんは。君に是非話したいことがあるんだけど、明日時間の都合つくかい?」
涼介の突然の誘いに対して、電話の相手は少し戸惑っているようであった。
だが少し考えた後、相手はある条件をつけて彼の誘いを承諾する。
その条件に涼介は一瞬だけ瞳を細めたが。
小さく頷き、一見穏やかに聞こえる声で言った。
「ああ、それは構わないよ。君のお好きなように。では、明日の夕方にまた連絡するよ」
それだけ言って、涼介は通話終了ボタンを押す。
携帯電話を無造作に置いた後、涼介はプリントされた資料に目を落とした。
その顔は何ともいえない満足そうな色を湛えている。
それから漆黒の瞳にかかる前髪をスッとかきあげ、涼介は心から楽しそうに言ったのだった。
「いろいろと面白いことになりそうだな、これから」