青かった空もすっかり夜の闇に包まれ、ネオンの灯った繁華街は活気に満ち始めていた。
 だがそんな賑わいなど、微塵も感じさせない場所。
 そこに一歩足を踏み入れると、外の雑踏が嘘のように静かな空間が広がっている。
 『ひなげし』という名のその店は、ひなげしの花言葉通り、心癒される雰囲気に包まれていた。
 鼻をくすぐる珈琲の良い香りと耳に優しいクラシックが流れる店内で、彼・鳴海将吾は濃い目の珈琲を口に運ぶ。
 それから大きく息を吐き、連れの彼女を切れ長の瞳で見た。
「大事な用があると言うから来てみたら……言っておくが、俺はおまえみたいに暇じゃないんだ」
「あら、大事な用よぉ。ここの珈琲がどーうしても飲みたかったんだもん。まさかなるちゃん、私にひとり寂しーくお茶しろって言うの? ウサギは寂しいと死んじゃうのよ?」
「本当はウサギは寂しくても死なない生き物だと知っているか? それ以前に、おまえはウサギじゃないだろう」
 きっちり真面目にツッこんだ鳴海先生に、その女性・沢村由梨奈はクスクス笑う。
 それと同時に彼女の綺麗なウェーブの髪がふわりと揺れた。
 そんな彼女からは、華やかで魅力的な女性の色香が漂っている。
 だが鳴海先生は、まだ楽しそうに笑っている由梨奈の様子に、呆れたように大きく嘆息した。
 それからようやく珈琲を艶やかな唇に運んでから、由梨奈はふと思い出したように口を開く。
「あ、そうそう。先週の私の誕生日パーティーに来てくれてありがとーっ」
 先週――9月3日は、由梨奈の誕生日であった。
 実は由梨奈は、海外事業を手掛け展開している大企業・サワムラカンパニーの社長夫人である。
 そんな彼女の誕生パーティーは、都内の高級ホテルで盛大に行われた。
 彼女の友人である鳴海先生も当然そのパーティーに出席したのである。
 由梨奈は先生にそう言った後、ふと口を噤む。
 そして何かを思い出すかのような表情を浮かべ、続けたのだった。
「私の誕生日から、今日で一週間ってことは……今日は、沙也香ちゃんの誕生日ね」
 鳴海先生はその言葉に、一瞬だけピタリと動きを止める。
 だがすぐに持っていたコーヒーカップを再び口に運んだ後、短く返した。
「……そうだったな」
 由梨奈はそんな彼の反応を見て、ふっとひとつ息をつく。
 それからポツリとこう言った。
「なるちゃんの言う通り、ウサギは寂しくても死なないかもしれないけど。人間は、寂しいと死んじゃう生き物だよね……」
「…………」
 鳴海先生はカチャリとカップをソーサーに置き、敢えて由梨奈の言葉に何も言わなかった。
 伏せ目がちなその切れ長の瞳は、微かに揺れる琥珀色の珈琲をじっと映している。
 いや、彼のブラウンの目が見ているものは……忘れられない、あの日の空の色。
 できることならば忘れたい、でも忘れてはならないもの。
 自分が決めた“能力者”としての運命を全うするためには、あの日の空の色は決して忘れてはならないのだ。
 鳴海先生は顔を上げ、自分を見守るように見ている由梨奈に視線を移す。
 それから何事もないかのように、普段と変わらず淡々と口を開いた。
「そろそろ出るぞ。何度も言うが、俺はおまえみたいに暇じゃない」
 席を立って伝票を手に取り会計を済ませる鳴海先生を見て、由梨奈は再び美しい顔に笑みを取り戻す。
 そしてジャケットを羽織って長い髪をかき上げ、ハイヒールを鳴らし、彼の隣に並んだのだった。




 夜になり一層活気づいている繁華街の様相も、その少女の目に入ってはいない。
 どこに行く目的もないまま、その少女・つばさはひとり街を彷徨っていた。
 邪者四天王と喫茶店で分かれた後。
 そのまま帰路に着く気にもなれず、繁華街に留まっていたのだった。
「…………」
 もう何度目か分からない溜め息をついて、つばさは漆黒の瞳を伏せる。
 杜木は今、どこで何をしているのだろう。
 そして――彼にとって、自分はどういう存在なのだろうか。
 気にしてない素振りをみせていたものの、内心つばさは喫茶店で交わされていた邪者四天王の会話を正直かなり気にしていた。
 自分の愛する杜木の“宝物”とは、一体何なのであろうか。
 その彼の“宝物”とやらに、自分が似ているというが……。
 つばさはもう一度嘆息して瞳と同じ黒の髪を撫でた。
 ……考えてもキリがない。
 そう頭の中では分かっていながらも。
 やはり、どうしても考えずにはいられない。
 今までずっと杜木のそばにいたつもりだったのに。
 実は自分は彼のことを、そんなに知らないのかもしれない……。
 つばさは顔を上げ、愛しい人の気配が近くにないか懸命に探る。
 だが、つばさのよく知った彼の“邪気”は近くからは感じられなかった。
「…………」
 つばさは俯き、やり場のない思いにギュッと口を結ぶ。
 ――その時だった。
「!」
 ハッともう一度顔を上げて立ち止まり、つばさは遠くを見据える。
 ある知った気配が――すぐ近くから感じられたのだった。
 つばさは表情を変え、何かを考えるように瞳を閉じる。
 その気配は大好きな杜木のものではなかったが。
 いや、むしろ自分にとっては、決して好意的な人物のものではない。
 でも……。
 つばさは迷った挙句、くるりと方向転換をする。
 それから意を決したように、早足でその気配の元へ向かったのだった。




 ――同じ時、同じ繁華街で。
 鳴海先生と『ひなげし』で別れた由梨奈も、夜の街を歩いていた。
 繁華街を抜けたオフィス街にあるサワムラカンパニーに寄って帰るところであった。
 ちらりと腕時計で時間を確認し、賑やかな人の波を慣れたように颯爽と追い抜いていく。
 そんな由梨奈の健康的で魅惑的な美しい顔に浮かんでいたのは。
 少し寂し気な、憂いを帯びた色。
 カツカツとハイヒールを鳴らして歩きながらも、由梨奈は小さく息を漏らす。
 いつもすぐ近くで見ていた――鳴海先生と杜木の関係。
 杜木が“邪者”になる以前はふたりは親友だった。
 お互いがお互いを信頼し、共に助け合い、“能力者”としての使命を全うする。
 そしてその関係はずっと続くものだと、信じて疑ってなどいなかったのに。
 歯車が狂いだしたのは……数年前の、あの日から。
 あの出来事さえなければ、きっと今もあのふたりは……。
 ――その時だった。
「……!」
 敏感に周囲の変化に気がつき、由梨奈はピタリと立ち止まる。
 それから風に靡く長い髪をかき上げ、ふうっとひとつ溜め息をついた。
 ……今まであんなに人で溢れていた街並みが一変したのである。
 そして感じるのは、周囲を囲む“邪気”の空間。
「あら貴女、いつも慎ちゃんのそばにいる子ね」
 由梨奈はそんな状況にも動じることなく、目の前に現れた少女にそう言葉を投げた。
 余裕を見せる由梨奈とは逆に、その少女・つばさは、感情を露にした鋭い視線で相手を見据える。
 つばさはその“空間能力”で偶然近くにいた由梨奈の存在に気づいた。
 そして、彼女の元へとやって来たのだった。
 自分が愛して止まない杜木が愛しているという女性。
 その存在はつばさにとって強い嫉妬の対象以外の何物でもない。
 できるならば、今すぐにでも“邪気”を放ってその疎ましい存在を消したい。
 だが彼女は“空間能力”は使えても、“能力者”である由梨奈を殺せるほどの力はなかった。
 それに今回、つばさが天敵である由梨奈の前に現れたのには、ある理由があった。
 それは……。
「……貴女に、訊きたい事があるの」
 溢れる感情を抑えるような声で、つばさは口を開く。
「私に訊きたいこと?」
 意外なつばさの言葉に、由梨奈は小さく首を傾げる。
「…………」
 つばさは一瞬、どうすべきか迷うような仕草をしたが。
 ゆっくりと言った。
「杜木様の仰る“宝物”、それが何なのか……知りたいの」
「慎ちゃんの、“宝物” 」
 投げかけられた問いに、由梨奈は表情を少し変え呟く。
 だがすぐに綺麗な顔に微笑みを取り戻すと、わざとらしく答えた。
「何のことだか、私にはさっぱり分からないわ」
 それからふっと笑い、さらにこう続ける。
「それにたとえ何か知っていても、貴女に教えなきゃいけない義務はないもの」
「分からないですって? 嘘よっ、本当は知ってるんでしょう!?」
 キッと睨むように由梨奈に視線を向けるとつばさは思わず声を上げた。
 そんな感情的になった彼女を見て、由梨奈は煽る様に冷静に言葉を返す。
「じゃあ、本当は知ってるって言ったら、貴女はどうするの? 力づくで訊き出す?」
「……っ!」
 ギュッと唇を噛み、つばさは手の平を握り締める。
 それからついに溢れる嫉妬の感情に我慢できなくなり、その手に“邪気”を宿した。
 そしてそれを放とうとした――その時だった。
「おまえ、バッカじゃないの? 何その派手な“能力者”のオバサンの煽りに乗ってんだよ。自分が弱っちいこと自覚しろ、この僕に手間かけさせんな」
「……!」
 突然聞こえてきたその声に、つばさは漆黒の光を纏った手を咄嗟に収める。
 その後、自分の“結界”に入ってきたその人物に目を向けた。
 由梨奈もつばさから彼に視線を移し、腕組みをして大きく溜め息をつく。
「オバサン? あのね、私みたいな綺麗なお姉さんのことをオトナの女性って言うのよ、坊や」
「あーはいはい。オバサンって人種ってさ、あーいえばこーいうんだから。ヤダヤダ」
「……渚」
 つばさの“結界”内に現れたのは、喫茶店で別れた“邪者四天王”のひとり・渚だった。
 渚はそのベビーフェイスに似合わぬ表情で、面白くなさそうに言った。
「放っとこうかと思ったけど、あとでピーピー言われる方が冗談じゃないからな。全力で感謝しろよ、おまえ。あーちょうどこの近くにいたなんて、本当ツいてない」
「あ、ウワサの口も態度も大きな“邪者四天王”ってボク? お子ちゃまはもう帰ってねんねの時間よ?」
 渚の毒舌に負けじと由梨奈も言葉を返す。
 だが当然全く怯むことなく、渚はフンッと鼻で笑った。
「どうせ、容姿端麗で頭脳明晰、何でも完璧な僕のことを妬んでる“能力者”の先輩たちから根も葉もないコト聞いたんでしょ? んで、これからどーすんの? あまり面倒臭いことはゴメンだよ」
「根も葉もないことって、よく言うわねー。現に今の坊や、ウワサ通り口も態度も十分デカイわよ?」
 由梨奈ははあっと呆れたように溜め息をついた後、今度はつばさを見る。
 それから小さく首を傾け、続けた。
「それにこれからどうするかは、そこのお嬢さん次第でしょ」
 渚はちらりとつばさに大きな漆黒の瞳を向けると、愛想のカケラもない声で言った。
「おい、さっさと“結界”解けよ。まさかまだバカなことやろうとしてんじゃないだろうな? 人の迷惑考えろ」
「…………」
 つばさは俯き、少しの間どうすべきか考える。
 そして無言のまま掌を掲げ、周囲に張った“結界”と作り出した“空間”を解いたのだった。
 由梨奈は普段の風景が戻ってきたことを確認して、それからこう口を開く。
「知りたい気持ちは分からなくないけど。世の中にはね、知らなくていいこともあるのよ?」
 それだけ言って、再び由梨奈は会社のあるオフィス街に向けて歩き始めた。
 つばさはそんな彼女を追いかけることはせず、ただグッと拳を握り締めることしかできずにいた。
 由梨奈がその場から去った後、渚は大袈裟に首を振る。
「あーもう、迷惑この上ないよ。自分の力くらいわきまえて行動しろ。弱いおまえが“能力者”に喧嘩売って勝てるわけないだろーが、バカ」
 ようやく顔を上げ、相変わらずな口調の渚をつばさは見た。
 普段ならば渚の毒舌にも構わず言い返すつばさであったが。
 渚は自分を映す彼女の漆黒の瞳を見て、一瞬驚いたように目を見開く。
 それから、バツが悪そうにボソリと言った。
「は? 何泣いてんだよ、ったく……その方が迷惑だっての」
「……っ」
 ポロポロと頬をつたう涙を懸命に拭いながら、つばさは悔しさに唇を噛む。
 自分は何て無力で、そして愛する人のことさえもこんなに何も知らないなんて、と。
「…………」
 渚は思わぬつばさの様子に、どうしていいか分からない表情をする。
 そして。
「おい、行くぞ」
「……え?」
 急にそう言ってスタスタ歩き出した渚につばさは首を傾げる。
 渚は歩みを止めないまま、振り返りつつ口を開いた。
「あのな、分かんないの? この状況じゃ、僕がおまえ泣かせたみたいだろ!? あと3秒で泣き止めよなっ。それに面倒かけたんだ、この僕に何か奢るとか、そーいう気ぃ利かないのか?」
 ザッと鬱陶しそうに前髪をかき上げ、渚は仕方なくその場で立ち止まる。
「渚……」
 つばさはもう一度瞳に溜まった涙を拭うと、自分を待っている渚の方へと歩みを進めた。
 そして彼に追いついて、ようやく普段の表情をその顔に宿す。
「よく言うわね。この何倍も迷惑被られてるのはこっちなんですけど?」
 それからつばさは小さく笑みを浮かべ、こう渚に言ったのだった。
「でも今回は仕方ないから、奢ってあげるわ」
「当たり前だろ。この僕の労力に見合う、高いもの奢れよ」
 いつもの調子に戻ったつばさを見て少しホッとした様子で、渚は再び繁華街を歩き出す。
 つばさはそんな彼に素直に続き、それからふとすっかり闇に覆われた空を見上げる。
 そして星も月も見えない漆黒の空の色に、愛しい人の深い瞳を重ね合わせたのだった。