忘れた頃に、決まって見る夢がある。
 それは――十余年前の、幼き日の記憶。


 瞼の裏に今でも残っているその色は、猛炎の紅蓮と。
 そして、迫り来る“邪”の漆黒。
 不思議と涙は出なかった。
 いや、恐怖を通り越し、声を上げることも、泣くという行為すらも忘れていたのである。
 そんなまだ無力な幼い少女だったが。
 ただじっとその場に立ち、凛とした輝きを秘めた瞳で真っ直ぐ前を見ていた。
 そして迫りくる人外の漆黒の存在が、まさに少女に触れんとしたその時。


 眩い輝きを放つ剣を携えて――“彼”は、現れたのだった。


 彼は少女の目の前に立って“邪”を見据え、剣を振り翳す。
 刹那、空気を割くような音が鳴り、眩い輝きが発生した。
 少女は発生した光の眩しさに大きな瞳を小さな手の平で覆う。
 それから再び目を開き、おそるおそる“邪”の在った上空に目をやった。
 だが……すでにその場からは、恐怖の対象だった黒の存在は消えていた。
 光を纏うその剣が、漆黒の存在を一瞬で薙ぎ払ったのだった。
 “彼”は光の剣を収めると、呆然としている少女に振り向いた。
 少女は突然自分を映した彼の瞳に、思わずビクリと身体を震わせる。
 そんな、小さな少女に。
 彼はあたたかい大きな手で、その頭を優しく撫でた。
 そして。
 もう大丈夫だ、行こう、と。
 彼はそう少女に語りかけ、彼女を炎獄から救うべく手を差し伸べた。
 目の前に差し出された彼の手。
 小さな少女は迷わずその手を取った。
 その瞬間、人間的な感覚が少女に戻ってくる。
 迫り来る炎の恐怖に途端に足が震え、瞳から大粒の涙が溢れ出す。
 彼はそんな彼女を背負うと、ゆっくりと炎の中を歩き出した。
 小さな少女を背負う彼の背中はとても広くて。
 そしてその背中は、何よりも……少女にとって、とても心地良かった。
 背中から感じる彼の“気”は力強く、眩しく、あたたかくて。
 先程まで恐怖に慄いていたことも忘れ、少女はそっと彼の背中に身体を預けた。
 それからゆらゆらと波のような程よい揺れを感じ、思わず瞳を閉じる。
 彼が、自分を怖い存在から助けてくれたのだと。
 幼いながらにそのことが少女には分かったのだった。
 少女は安心した表情を浮かべると、彼の背中で深い眠りに落ちた。
 そして……次に少女が目覚めたその時には。
 彼の姿は、少女の前から消えていたのだった。


 結局、あの時の“彼”が誰なのかは分からない。
 幼かったために顔すらもろくに覚えてはいないが。
 ただ……はっきりと印象に残っているのは。
 美しい輝きを放つ光の剣と。
 羽のエンブレムがあしらわれた、濃緑色のブレザー。
 そしてこの日の出来事は、忘れたくても完全に忘れることなどできないが。
 逆に、日が経つにつれて少しずつ色褪せ、ぼんやりと霞みかかってきていることも確かである。
 ――だが。
 成長した少女に、まるでこのことを思い出させるかのように。
 彼女は今でも、時々こうやって幼き日の夢を見るのだった。




      




 ついこの間まで、ジリジリと照りつける灼熱の太陽が青空を支配していたというのに。
 あっという間に季節は夏を過ぎ、秋へと変わっていた。
 爽やかな秋風が赤に染まった街路樹を揺らし、葉音がざわざわと音を鳴らしている。
 そんな過ごしやすくなってきた秋日の朝。
 その少女・清家眞姫は、同じ制服を着た生徒の波に逆らわず学校の校門をくぐった。
 いつも柔らかな笑顔を絶やさない彼女であるが。
 この日の表情はどこか普段のものとは違っていた。
 その理由は。
 また――あの日の夢を、見てしまった。
 忘れかけた頃に決まって見る夢、それは幼き日の記憶。
 自分の思っている以上に、あの時のことが自分の中でトラウマになっているのだろうか。
 眞姫は俯き、ふっと小さく嘆息する。
「どうしたんだ、姫?」
 隣にいた少年は、そんな彼女の様子を見逃さずにそう訊いた。
 眞姫はその声に顔を上げ、小さく笑みを作る。
「え? あ、ちょっと……夢を、見ちゃって」
「夢?」
 その少年・蒼井健人は綺麗なブルーアイを眞姫に向けた。
 眞姫はコクンと頷いた後、無意識的に声を落として続ける。
「うん、小さい頃の夢。時々ね、夢に見るの」
「小さい頃の……」
 眞姫の言葉に、健人はふと表情を変えた。
 眞姫が夢に見る、幼き日の記憶。
 健人は前に彼女からその時のことを聞いていた。
 彼女の両親は、彼女が幼い頃に他界している。
 彼女の身体を狙った“邪”の引き起こした火事が原因だという。
 幼かった彼女にとって、その出来事は衝撃的で忘れられない傷になっているだろう。
「姫、大丈夫か?」
 健人は心配そうに彼女にそう声を掛けた。
 自分を気遣うようなその言葉に、眞姫は栗色の髪をそっとかき上げて微笑む。
「うん、大丈夫……ありがとう、健人」
 それから眞姫はこう続けたのだった。
「確かにあの日のことは怖かったし、すごく悲しくてショックな出来事だったけど。でもね、私を助けてくれた人の背中、繋いでくれた手……あったかくて大きくて、忘れられないんだ。どこの誰だか分からないけど、叶うならもう一度会ってお礼が言いたいの」
「助けてくれた人、か」
 その時眞姫を助けたのは、おそらく“能力者”であろう少年だという。
 眞姫の記憶によると、その少年は光輝く“気”の剣を持ち、そして聖煌学園の制服を着ていたという。
 少年と言っても、逆算すれば現在は鳴海先生と同じくらいの年齢であるが。
 いや、はじめ眞姫は、その少年はもしかしたら鳴海先生ではないかと。
 そうも思ったのであるが。
 健人はもちろん他の“能力者”たちも、今まで誰も鳴海先生が“気”の剣を使って戦うところなど見たことがなかった。
 もしも先生が“気”の剣を使えるのならば、とっくにそれを目にしているだろう。
 だが少年たちと先生が出会って数年、一度たりともそんな光景を目にしたことがないのだ。
 そう考えると、鳴海先生がその時の少年と同一人物であるという可能性は低いと言えよう。
 それに“能力者”だからと言って、必ずしも自分たちの知っている人物であるとは限らない。
 少年は聖煌学園の制服を着ていたというが、それも別の学校の似た制服かもしれない。
 あわよくばあの時助けてくれた少年に会いたいと、そう思っている眞姫だったが。
 同時に、随分と時が経っているだけに、そう簡単にはその時の少年は見つからないだろうと、分かってもいたのである。
「私は大丈夫だから。ね、健人」
 複雑な表情をしている健人の様子を見て、眞姫は普段通りの明るい声でそう彼に言った。
 健人はまだ何かを考えているようではあったが、敢えて何も言わず優しく彼女に視線を返す。
 それからふたりは、登校時間もピークを迎えた賑やかな学園の校舎へと足を踏み入れた。
 そしてふたりはクラスが違うため、靴箱で分かれた。
 何度か振り返り、愛らしい微笑みを健人に向けて手を振りながら、眞姫は歩き始める。
 健人はそんな彼女の背中を見送った後、自分の靴箱へと向かった。
「…………」
 金色に近いブラウンの髪をそっとかき上げ、健人は靴を履き替えながらもひとつ溜め息をつく。
 眞姫が過去の夢を見て、そしてその時のことを話すたびに。
 健人の心の中に複雑な気持ちが生まれるのだった。
 昔の辛い記憶を忘れられない彼女のことが心配だという気持ちも確かに強くあるが。
 それとは、また別の……。
「おっ、そこにおるのは親愛なる美少年やないか。おはようさんっ」
 その時だった。
 勢いよく肩を叩かれ、健人は我に返ったように顔を上げる。
 そして振り返り、声の主に青い瞳を向けた。
「何だ、祥太郎か」
「何だ、ってなぁ。相変わらず冷たいヤツやな。まぁそこがまた、本性知らん人から見たら、蒼井クンってクールでステキーってカンジか?」
「本性知らない人が見たらって、それどういう意味だ」
 健人はわざとらしくもう一度溜め息をつき、パタンと靴箱を閉じて教室へと歩き出す。
 声を掛けてきた少年・瀬崎祥太郎もそんな健人の様子に笑い、彼に並んだ。
 そして思い出したようにこう言ったのだった。
「あ、そうや。健人、今日暇か? うちで鍋パーティーやるんやけど」
「鍋パーティー?」
 唐突に言われて小さく首を傾げる健人に、祥太郎は頷く。
「ああ。前に送っといた懸賞が当たってな、昨日“秋の味覚鍋セット”が届いたんや。でも、ひとりで鍋っちゅーのも寂しいやろ」
「懸賞って……本当におまえって、そういうのにマメだな」
「マメって、俺がか? そうでもないで? 主婦しとると、食品についてる応募券やら何やらがいろいろ自然に貯まるからな。貯まったら送らな損やろ?」
 健人の言葉に謙遜するかのように、祥太郎は首を左右に振る。
 そんな祥太郎を見てから、健人は興味なさそうに言った。
「ていうかまず、そんな応募券とかが何のどこについてるのかさえよく分からないし。見ないで捨てるからな」
「捨てる!? 何て勿体無いことしとるんや、おまえ。よし、分かったっ。このハンサムくんが主婦の心得を伝授したるわ」
「いや、全然余計なお世話だし。それ以前に主婦じゃないだろ、おまえ」
 すかさずそう冷たく言ってから、健人はスタスタと目の前の階段を上り始めた。
 そんな健人とは逆に、祥太郎は妙に楽しそうに笑う。
「おおっ、素早いツッコミやな、美少年っ」
 ……どうして朝からこんなにテンション高いんだ。
 そう心の中で思いつつも、健人は祥太郎をちらりと見た。
 祥太郎は何気に教室に向かって歩きながらも、律儀にすれ違う知り合いひとりひとりに調子良く朝の挨拶をしている。
 到底自分には真似できない芸当であるし、本人は否定していたものの、祥太郎はやはりああ見えてマメで几帳面な性格だと。
 面倒だったために口には出さなかったが、健人は隣を歩く友人を見て改めてそう思った。
 それから前髪をかき上げ、もう一度そっと溜め息をついたのだった。




 ――その日の夕方。
 いつもの繁華街の喫茶店に、彼らは集まっていた。
 その集団の中で、いかにも気に食わないといった表情を浮かべているのは。
「ていうか、何で月一でコイツの顔なんて見なきゃなんないのよ」
 その少女・藤咲綾乃はわざとらしく息を吐き、目の前の青年を睨んだ。
 だが綾乃の言葉を聞いて、青年・鮫島涼介はふっと甘いマスクに笑みを宿す。
「そんなに照れなくてもいいよ、綾乃。僕は君に月一で会えて嬉しいよ」
「は? どの口がそんなコト言ってるワケ? よくそんなことが平気で言えるわねっ」
「ぶっちゃけどーでもいいけど、面倒なことにこの僕だけは巻き込むなよな」
 相変わらず生意気な態度で会話に割り込み、言動に似合わぬベビーフェイスの少年・相原渚は、綾乃と涼介を交互に見た。
「まぁ落ち着けよ、綾乃。てか、間に入る俺の身にもなれっての」
 キッと涼介に鋭い視線を向ける綾乃を宥めてから、同じくその場にいた高山智也ははあっと嘆息する。
 そんな彼に同情するように、状況を見守っていたつばさは言った。
「いつも大変ね、智也。癖の強い仲間を持つと」
「まぁ、もう慣れてるけどね。とはいえ、早く杜木様が来て欲しいよ……」
 智也は苦笑してそう漏らした。
 ――今日は、“邪者四天王”が月に一度集まる定例会議の日。
 相変わらず馴れ合う気など全くない仲間たちに、智也は溜め息を漏らす。
 つばさは智也をちらりと見てから、少し気の毒そうに口を開いた。
「あら、言ってなかったかしら? 今日は杜木様、お見えにならないわよ」
 つばさのその言葉に、各々が驚いたように声を上げる。
「えっ!? 杜木様、いらっしゃらないのか?」
「うそぉっ、聞いてないよ、つばさちゃん。杜木様、今日来ないの?」
「は? 杜木様がいらっしゃらないって分かってたら、わざわざこんなトコ来なかったっての。てか、今更遅すぎ。僕の貴重な時間が無駄になったじゃないかよ」
「そうか……杜木様は、今日はいらっしゃらないんだな」
 つばさは口々に言葉を発する四天王たちをぐるりと見回した。
 そして、こう続ける。
「杜木様がおっしゃっていたわ。今日は用があるからここには来ないけど、自分がいなくても各々の近状報告や情報提供をお互いきちんとしておくように、って」
「きちんと、なぁ……」
 智也はそう呟き、再び嘆息する。
 どう考えても杜木がいないこの状況で、話が平和に進むわけがない。
 現に渚と綾乃は、今にも帰らんとする勢いである。
 そしてつばさは、きっとわざと杜木がこの日ここに来ないことを今まで言わなかったのだろう。
 杜木がいないと分かっていたら、涼介を気に食わない綾乃と面倒臭がり屋な渚が、わざわざここに来るわけがないからである。
 立場的に自分が何とか間に入って、上手く宥めないといけないことは分かっている智也だが。
 この難癖ありすぎるメンバーをまとめられる自信が、当然あるわけはなかった。
 どうしてこういう役回りなんだ。
 そうつくづく思いながらも、仕方なく智也は微妙な空気の流れるその場をどうにかしようと話を切り出す。
「ほら綾乃、渚も座れ。それでみんな、最近どういう感じだ?」
「どうもこうもないっての。いつも通り何でも完璧だよ、僕は。そんな僕が羨ましいだろうけど、そんな当たり前のこと聞くな。はい、んじゃ終ー了ーっ」
「そうか、いつも通り完璧か。って、本気でぶっ飛ばしていいか? 渚」
 智也は口の減らない渚に苦笑しつつも、今度は何だか上機嫌な様子の涼介を見た。
 涼介はそんな智也の視線に気がつき、ふふっと楽しそうに笑う。
 それから、こう言ったのだった。
「僕はもうすぐ長年研究していた薬が完成しそうでね、ワクワクしているよ」
「……また何か、良からぬこと企んでるんじゃないでしょうね」
 涼介の言葉を聞いた綾乃は露骨に嫌な顔をする。
 そんな彼女にふっと意味あり気な笑みを向け、涼介は独り言のように呟く。
「あと少し……あと少し必要な材料さえ手に入れば、ついに完成だからね」
「ホントおまえって、相当胡散臭いよな。頼むから、僕とは関係ないトコでやれよ」
 ふうっと大きく嘆息し、渚はテーブルに頬杖をついた。
 智也も複雑な表情を浮かべると、声のトーンを落として口を開いた。
「涼介、何度も言うようだけど」
「分かっているよ、智也。君の大切な“浄化の巫女姫”に危害を加えるようなことはしないから」
 くすっと笑ってそう言い、涼介は漆黒の瞳を細める。
「……なら、いいけど」
 涼介の性格をよく知っている智也はまだその不安気な表情を消せずにいたが、それ以上は敢えて何も言わなかった。
 ――その時だった。
「あ……」
 今まで黙って全員の話を聞いていたつばさは、着信を知らせて震え始めた携帯電話をカバンから取り出す。
 そして着信者を確認すると、その顔に嬉しそうな微笑みを宿した。
 そんな彼女の様子を見て、その場にいる全員が、それが誰からの着信か分かったのだった。
 つばさは逸る気持ちを抑えきれない様子で通話ボタンを押し、声を弾ませる。
「はい、もしもし?」
『やあ、つばさ。今大丈夫かい?』
 彼女の耳に聞こえてきたのは、物腰柔らかで穏やかな声。
 つばさは耳をくすぐる愛しい人の声に、思わず頬を緩めた。
「杜木様……ええ、大丈夫です。どうさないました?」
 電話の相手・杜木慎一郎は、つばさの問いに優しく笑う。
 それから、囁くようにこう言ったのだった。
『おまえの声が聞きたくなってね。四天王の様子はどうだい?』
「えっ……」
 思わぬ杜木の言葉に、つばさは顔を真っ赤にさせる。
 それから満面の笑顔を浮かべて席を立ち、彼と会話を続けるべく喫茶店の外に足を向けたのだった。
 そして、つばさが店の外に出たのを見届けて。
 綾乃は言った。
「杜木様からみたいね、電話。つばさちゃん、嬉しそう」
 だがそんな綾乃の言葉を聞いて、渚は小さく首を傾げる。
「ていうかさ、杜木様とつばさの関係って、ぶっちゃけ何? つばさのヤツは杜木様のこと命がけで好きってカンジだけど、杜木様はあの沢村由梨奈っていう能力者が好きなんだろう? 結局杜木様にとって、つばさはせいぜい愛人止まりってカンジ?」
「おい、そんなこと、つばさちゃんの前では絶対言うなよ……」
 智也は心配そうにそう渚に釘を刺し、息をつく。
 綾乃は少し考えた後、それから思い出したように口を開いた。
「そういえば前、杜木様言ってた……自分のかけがえのない“宝物”に、つばさちゃんが似ているとか」
「かけがえのない“宝物”?」
 少し関心を持ったように呟いて涼介は何かを考える仕草をする。
 智也も興味を示しながらも、フォローするように言った。
「つばさちゃんに似ているってことは、その“宝物”も人ってことだよな。とにかく、杜木様はつばさちゃんのことを大切にしているのは確かだろ」
 だが智也のその言葉に、渚は鼻で笑う。
「あのな、何言ってんの? 今の話聞いたら、杜木様が大切に思ってるのはつばさじゃなくて、その“宝物”ってやつのことじゃん。その“宝物”が人なのか、はたまた猫か犬か何なのかはともかくさ、結論言うとそーいうことだろ。ま、所詮はつばさの一方通行ってコト……」
「! 渚っ」
 ハッと顔を上げ、智也は渚の言葉を遮るように短く叫んだ。
 ……だが、そんな彼の配慮も虚しく。
「あっ、つばさちゃんっ」
 綾乃は、杜木との電話を終えて席のすぐ近くまで戻ってきているつばさの存在に声を上げる。
 先に彼女が戻ってきていることに気がついていた智也は、苦笑しつつ嘆息した。
 普段から杜木が自分のことを一体どう思っているか、つばさは気にしている。
 そんなつばさに、先程の渚の言葉をモロに聞かれてしまったのだった。
「何だよ、本当のことだろ」
 当の渚は可愛気のない声でそう続けた。
 涼介は特に我関せずと言ったように状況を見守っている。
「おい、渚。おまえはちょっと黙ってろ」
「つばさちゃん、渚なんかの言うこと気にしちゃダメよぉっ。ねっ」
 つばさはちらりと渚に目を向けた後、大きく溜め息をつく。
 そして自分を気遣うような様子の智也と綾乃に視線を移し、言った。
「渚の言うことなんて、最初から気にしてないわ」
 それから何事もなかったかのように元の席に座り、すっかり冷めてしまった紅茶を口に運ぶ。
 一瞬、シンとした気まずい静寂が、周囲を包んだ。
 智也は何とか少しでも雰囲気を良くしようと、話題を変える。
「そうだ、綾乃は最近どうしてるんだ? まだあの関西弁の能力者と仲良くやってるのか?」
「え? あ、祥太郎くんと? まぁたまーに遊んでるって感じかな。そういう智也こそ、相変わらず眞姫ちゃんラブなんでしょ?」
 綾乃も智也の調子に合わせ、努めて明るい声で言った。
 つばさはそんなふたりの様子にも表情を変えず、漆黒の前髪をそっとかき上げる。
 そしてもう一度紅茶を口にした。
 そんな、一見何も気にしていないような素振りのつばさだが。
「…………」
 口を噤んで無意識的に俯き、ふっと小さく息を吐く。
 先程かかってきた愛しの杜木から電話が、つばさは本当に嬉しかった。
 彼は電話でもとても優しく、自分のことを本当に大切に考えてくれていることも分かる。
 だが自分は、彼の中で一体どういう存在なのだろうか。
 つばさは楽しく杜木と話をしている最中でさえ、そう不安に思うことがあった。
 決して彼のことを信じていないわけではない。
 信じていないわけではないけれど……。
 つばさは漆黒の瞳を閉じ、瞼の裏に彼の姿を思い浮かべる。
 そしてまだ手に持ったままだった携帯電話を、ギュッと握り締めたのだった。




 ――同じ頃。
 つばさとの電話を終えた杜木は、繁華街から遠く離れた人気のない場所を歩いていた。
 そして彼の腕の中で小さく揺れているのは――大輪のカサブランカの花束。
 杜木は深い漆黒の瞳を美しく咲く純白の花へと向ける。
 ……透明感の高い高貴なこの花が、自分の“宝物”はとても好きだった。
 だから年に一度の大切なこの日には、この花を持って行く。
 このカサブランカの花を見たら、きっと“宝物”も喜んでくれるだろうから……。
 杜木はその整った美形の顔にふっと笑みを宿す。
 そんな彼の微笑みは。
 誰に見せるものよりも優し気で柔らかく、そして深い憂愁の色を帯びていた。
 ゆっくりと歩みを進めながら、おもむろに杜木は漆黒の瞳を細めた。
 先程まで青かった空も、すっかり今は夕陽で真っ赤に彩られている。
 杜木は薄っすら赤に染まった美しい漆黒の前髪をかき上げた後、ふと天を仰ぐ。
 それから、ポツリとこう呟いたのだった。
「誕生日おめでとう、沙也香(さやか)……今、会いに行くよ」