現在この付近に形成されている“結界”は、3つ。
 つばさは遠くを見遣るように漆黒の瞳を細め、そのうちのひとつ・綾乃の“結界”の内部から状況を把握する。
 そして現状に特に問題がないことを慎重に確認すると、改めて目の前の人物に視線を向けた。
 今この場にいるのは、自分を含めてごく僅かの人間だけ。
 “結界”の創造主である綾乃と自分。
 そして――嫉妬の対象以外の何物でもない、彼女。
 つばさは表情を険しくし、ぎゅっと唇を噛み締める。
 それから湧き上がる感情を必死に抑えつつも、今度はふと綾乃に瞳を移した。
 今回“邪者”に与えられた仕事は、杜木の“結界”に近づく“能力者”の動きを抑制すること。
 綾乃はこの“邪者”の仕事を果たすべく、杜木の“結界”の近くにいた“能力者”・沢村由梨奈の元へ出向いたのだが。
 その際綾乃は、つばさも一緒にどうかと声を掛けたのだった。
 由梨奈がつばさにとってどういう存在であるか、綾乃は当然知っている。
 そのため最初は彼女の誘いに驚いたつばさであった。
 だが、綾乃が何の思惑もなく自分にそう言ったわけではないだろうと。
 複雑な気持ちを抱えながらもつばさはそう思い、彼女の申し出に頷いたのだった。
 そして、綾乃が今から何をしようとしているのか。
 あくまで“邪者”の仕事として“能力者”である由梨奈の足止めをすることが一番の目的であることは間違いないが。
 どうやら、足止めとはいえ、派手にドンパチする気はないようである。
 その証拠に、戦意がないことを示すように、綾乃は腕組みをし壁に背を預けている。
 そして。
「ねーねー、杜木様ってさぁ、やっぱり高校時代とかもモッテモテだったんでしょ?」
 まるで放課後に友人と雑談をするようなノリで、綾乃は由梨奈にそう切り出した。
 ――お喋りのテーマは、杜木様。
 綾乃が先程言っていたその言葉を思い出し、つばさはもう一度瞳を細める。
 由梨奈のことは嫉妬の対象以外の何物でもないが。
 しかし、それ以上に。
 自分の知らない杜木のことを知りたいというのが本音である。
 つばさはひとつ息を吐き、何も言わずに綾乃と由梨奈を交互に見つめた。
 由梨奈は綾乃の問いにすぐさま普通に答える。
「それはもう。貴女たちの予想を裏切らない、相当のモテモテっぷりだったわよー」
「それはそうよねぇっ。顔だけでもあーんなに格好良いのに、杜木様って優しいし、強いし、頭もいいしさー、ホント何も言うことないもんねぇ」
 うんうんと納得するように大きく頷いた後、綾乃はおもむろに漆黒の瞳をふっと細めた。
 そして、意味あり気に笑み、言った。
「んで、そんな杜木様が。ナント、おねーさんの昔の恋人だったなんてねぇ」
「まーね、昔の話だけど。誰もが羨む、美男美女のカップルだったわよぉ」
 わざと煽るような大袈裟な口調の綾乃に、由梨奈も作り笑顔で言葉を返す。
 つばさは、表向き笑顔で会話を交わす綾乃と由梨奈の二人とは逆に、険しい表情を浮かべながらも口を噤んでいる。
 綾乃はそんなつばさをちらりと見た後、再び口を開いた。
「その誰もが羨むような美男美女カップルがさぁ、どうして別れちゃったのー? やっぱりそれって……」
 微かに漆黒の瞳の印象を変え、綾乃はそこまで言って間を取る。
 それから、ゆっくりと続けたのだった。
「その理由って、杜木様が、“能力者”だったのやめて“邪者”になっちゃったから?」
「…………」
 つばさは綾乃の言葉に、思わず顔を上げる。
 何故、“能力者”であった杜木が、“邪者”になったのか。
 その本当の理由は知らない。
 杜木自身、今までその件に関して語ることもなかったし、正直少し気にはなってはいたが、つばさも敢えて彼にそのことを訊くこともしなかったからである。
 だが……杜木の妹・杜木沙也加の存在。
 その存在を知り、彼女の存在こそが杜木が“邪者”になった大きな要因ではないかと。
 本人の口から聞いたわけではないため、あくまで想像にすぎないが、つばさはそう考えていたのである。
 由梨奈は綾乃の問いにも全く表情を変えず、相変わらずさらりと言った。
「うーん、それもないともいえないけど、直接の理由ではないわね。お互いに忙しくなって会う時間もなくなったし、まぁよくありがちな、自然消滅ってカンジかしら」
「自然消滅ねぇー……」
 綾乃は大袈裟に首を捻る仕草をし、漆黒の髪をそっとかき上げる。
 由梨奈はそんな綾乃の様子にも構わずにさらに続けた。
「確かにね、慎ちゃんほどいい男はいないわよ? でも私にとって慎ちゃんは、もうただの昔の男なワケよ。それにね……何度も言ってるけど」
 そこまで言って、由梨奈は言葉を切る。
 そしてひとつ息をつき、言った。
「私の知っている慎ちゃんと、貴女達の杜木様は違うわ。私にはあの人が今何を考えているか全くわからないもの。“浄化の巫女姫”に眠る“負の力”を引き出して、強大な“邪”を甦らせて……それから一体、何をしようとしているのかね」
 スッと表情を変え、由梨奈は綾乃を見つめる。
 綾乃はそんな由梨奈に真っ直ぐに視線を返すと、ふっと笑んだ。
「杜木様が、それから何をしようとしているのかって? さぁ、綾乃ちゃんも知らないわ」
 由梨奈の反応を窺うように一度綾乃は言葉を切る。
 だが綾乃の次の言葉を待っている様子の由梨奈を見て、再び話し始める。
「てか、私たち“邪者”はね、おねーさんたち“能力者”と、基本的な体質が全然違うの。“能力者”みたいに、みんなでひとつのことを一生懸命頑張りましょーってカンジじゃないんだよねー。だから、“能力者”みたいな仲間意識とか馴れ合いなんて全然ないし。私たちは、眞姫ちゃんの“負の力”で、強大な“邪”――私たちは分かりやすく“邪王”とか呼んでるんだけど、その存在を甦らせようっていう杜木様の考えに、単純に個々が賛同してるってだけ」
「確かに、貴女達“邪者”はあまり仲良しじゃなさそうだものね。それにしても、“邪者四天王”にも、慎ちゃんが何をしようとしてるのか聞かされてないのね……」
「もちろん、“邪者”の中でも仲良しな子はたくさんいるし、逆に殺したいほど嫌いなヤツもいるわ。杜木様のことはもちろん大好きだしね。それにね、杜木様にはいろいろとお考えがあるだろうけど、でもそれを敢えて深く追求することもしないし、私たち“邪者”それぞれが、どういう考えがあって杜木様の意思に賛同しててどう動くのか、それはひとりひとり違うの。ほかの“邪者”が何考えてるかなんて知らないし。でもそれが“邪者”のスタイルだし、不満も何もないわ」
 そこまで言って、綾乃は風に揺れる黒髪を撫でた。
 それからふうっと大きく溜め息をつき、微かに左右に首を振る。
「なんかさー“能力者”って仲間意識強くて、“運命”とか“使命”とか、そーいう言葉大好きって感じよねぇ。私たち“邪者”はね、もっと現実的で、そしてもっと物事に対して貪欲なの」
「確かにね、“能力者”って、こう在らないといけない、みたいな固定観念がないとは言えないし面倒なことだって多いわ。基本的にそういう体質なのに、それに加えて今の統率者があのお堅いなるちゃんですものね」
 由梨奈はそこまで言うと、美しい顔に小さく優しい笑みを宿す。
 そして、こう続けて言った。
「でもね、私はそんな“能力者”の体質が嫌いじゃないし、一生懸命に眞姫ちゃんの騎士をしているボーイズたちがとても好きよ。人ってね、大切なものを守るためならいくらでも強くなれるんだって、私は彼らを見てていつも思うの。それに悪いけど、今の慎ちゃんには全く魅力を感じないわ。顔も相変わらず綺麗だし、優しくて紳士な抜群のいい男で、一見何も昔と変わってないようにみえるけど。でもやっぱり私の知っている慎ちゃんと、貴女たちの知っている杜木様はどこか違うのよ。そういうことね」
 後半部分はつばさを見ながら、由梨奈ははっきりと言い放つ。
 今まで黙っていたつばさはそんな由梨奈に睨むような視線を投げ、ようやく噤んでいた口を開いた。
「私は、貴女のいう昔の杜木様のことは知らないわ。それに杜木様は、今と昔では何かが変わったかもしれない。でも私は、そんな今の杜木様のことが誰よりも好きなの。杜木様のためなら、何だってできるわ」
「じゃあ、何も問題はないじゃない。私は貴女の好きな“杜木様”には魅力を感じないって言ってるんだから」
「……違うわ、そういう問題じゃない」
 つばさはそれだけ言うと、ぎゅっと口を結ぶ。
 そして次の言葉を発しようとした――その時。
「……!」
 つばさは由梨奈から視線を外して漆黒の両の目を見開く。
 それから何かを探るように遠くを見遣り、表情を変えた。
「お嬢さん方、どうやらお開きのようね」
 由梨奈はふっとひとつ息をついて、“結界”の創造主である綾乃を見る。
「んー、そうみたい。お仕事終わりってコトね」
 そう言うと、綾乃はスッと手を掲げ、周囲の“結界”を解除した。
 つばさは閉鎖的な空間から開放されても尚、遠くに視線を向けている。
 先程まで強く感じていた、杜木の“結界”。
 それが今、跡形なく消滅したのだった。
 そしてそのために、綾乃の今回の仕事――杜木の“結界”に近づく“能力者”の足止めをする必要がもうなくなったのである。
「つばさちゃん、行きましょうか。てか、たまにはドンパチじゃなくてこーいうのもアリでしょ? おねーさん。綾乃ちゃんも結構、楽しかったかも」
 綾乃はつばさの肩を軽くポンッと叩いた後、小さく首を傾けて笑う。
「楽しかったかはともかく、いろいろなことが再認識できてよかったわ」
 それだけ答えると、由梨奈はハイヒールを鳴らし、愛車に向かって歩き始めた。
 そんな彼女の後姿を見てクスッと笑い、綾乃はひらひらと手を振る。
「ていうか、綾乃……どうして私を誘ったの?」
 つばさはずっと疑問に思っていたことを綾乃に問うた。
「ん? さっき言ったように、たまにはこーいうのもアリかなぁって。んで、話題が話題だから、つばさちゃんも誘ってみたの」
「…………」
 つばさは先程までのやり取りを思い出しながら、そっと前髪をかき上げる。
 自分は、愛する彼のことをほとんど知らないのかもしれない。
 過去に何があったのかはもちろん、現在彼が何を考えているのか、それさえも。
 だが……これだけは紛れもない事実。
 今、自分の名前を優しく呼んでくれる杜木のことが、自分は好きで堪らないのだ。
 彼のためなら何でもできるという言葉に、嘘偽りは一切ない。
 愛しい彼の瞳のように深い黒を帯びる空を見つめ、遠くに彼の強い“邪気”を感じながら、つばさはグッと強く手の平を握り締めたのだった。




 カアッと光が弾け、耳を劈く轟音が周囲に響いた。
 健人の“気”と智也の“邪気”がぶつかり合って相殺され、力の大きさに空気が震う。
 智也は自分から攻めることはせずに慎重に相手の出方を探った。
 今回の彼の仕事は、あくまで“能力者”の足止め。
 智也は忠実に、その目的に相応しい戦い方をしていた。
 自分から打ち負かそうと動くことは全くせず、相手の攻撃を丁寧に往なすことに徹している。
 例え真っ向勝負でも、引けを取るとは決して思っていないが。
 相手の性格から考えても、今回はこれが最善の策だと智也は考えたのだった。
 案の定、智也のそんな戦い方に、健人は苛立ちを隠しきれない様子である。
「ていうか、何度やっても無駄だって」
 健人の掌に再び“気”が漲るのを感じた智也はわざと挑発するように笑った。
 そして迫り来るだろう衝撃に備え、強大な“邪気”をその身に宿す。
「…………」
 健人は青の瞳を細め、反動をつけるようにグッと“気”を纏った右手を引いた。
 次の瞬間、目を覆うほどの眩い光が発生し、“結界”を満たす。
 智也は健人の“気”が放たれたのを冷静に確認した後、“邪気”の防御壁を張ってそれに対抗した。
 性質の違うふたつの大きな力が激しくぶつかり合い、共に威力を失う。
 そして、地を揺るがすような轟音が響く中。
 健人は地を蹴って智也との間合いを一気に縮めた。
 智也はふっと身構え、健人の攻撃を迎え撃つ。
 襲いかかってきた右拳を往なし、すぐさま繰り出された回し蹴りを身を翻してかわす。
 健人は尚攻撃の手を緩めることなく智也を追従した。
 相変わらず反撃に出ることはせず、智也は丁寧に健人の攻撃を受け止めていく。
 確かに健人はよく訓練されている“能力者”であるが。
 守りに徹している“邪者四天王”の智也に攻撃を当てることは容易いことではない。
 しかも智也の戦い方に苛々している今の健人は、躍起になって攻撃しているように見受けられる。
 智也のとった戦法は、今回の任務を忠実に遂行するに最も適したものであり、杜木の張った“結界”に近づく“能力者”の足止めという目的を十分果たしているのだった。
 智也は放たれた健人の左の拳をしっかりと受け止めた後、ふと表情を変える。
 健人の逆手に強い“気”が宿るのを知覚したからである。
 とはいえ、少しも焦ることなく、智也は自分に放たれるであろう衝撃を想定してすかさず“邪気”を漲らせた。
 もちろんそれは、相手を打ち負かすための“邪気”ではなく、あくまで相手の攻撃を無効化させるための“邪気”。
 健人の蹴りを背後に飛んで避けて距離を取ってから、智也は“気”の攻撃を防ぐべく体勢をとった。
 だが――次の瞬間。
「……!」
 智也は健人から繰り出された“気”の行方に、大きく瞳を見開く。
 健人の掌に宿った“気”は、智也を打ち負かすためのものではなかったのである。
 智也は苦笑して漆黒の前髪をかき上げた。
 そして周囲をぐるりと見回し、口を開く。
「頭に血がのぼってて、もう俺をぶっ飛ばすことしか眼中にないかと思ってたけど……油断したよ」
「言ったはずだ。俺は、姫のところへ行くと」
 健人は智也にそう言った後、眞姫の気配を感じる杜木の“結界”の方角に視線を移す。
 先程放たれた健人の“気”は、智也を攻撃するものではなく。
 行く手を阻む智也の“結界”を破るためのものだったのである。
 “能力者”の足止めをすることが“邪者四天王”の目的であるように。
 “浄化の巫女姫”の元へ一刻も早く辿り着くこと。
 それが“能力者”として自分が今一番すべきことであると、冷静さを取り戻していたのだった。
 そしてまだ煽られてムキになっているように装い、智也の“結界”を砕く隙を窺っていたのである。
 周囲に張り巡らされていた“邪気”の“結界”を一掃することに成功した健人は、眞姫の元へと向かうべく一歩足を踏み出す。
 だが、その青い瞳を細め、表情を険しくした。
「まさか“結界”を破られるとは思っていなかったけど……俺も言ったよね? 君を眞姫ちゃんのところには行かせない、ってね」
 行く手を阻むように立ちはだかり、智也は健人を見据える。
 その漆黒の両の目は、普段の彼のものと印象を変えていた。
「“結界”を破ったくらいで調子に乗ってもらっては困るな。まだまだ、これからだよ」
「…………」
 あからさまに気に食わない顔をし、健人はグッと拳を握り締める。
 そして再び身構え、強大な“邪気”を纏う智也の次の動きを探った。
 ――その時だった。
「!」
「……!」
 健人と智也は同時に顔を上げて動きを止める。
 それから先に構えを解いた智也は、ふっと嘆息した。
「どうやら、これで俺の仕事は終わりみたいだね」
 彼等の視線の先には、つい数秒前まで、杜木の“結界”が張られていた。
 だが……今は、その“結界”が跡形もなく消滅している。
「姫……っ」
 健人は眞姫の元へ向かうべく駆け出す。
 智也は複雑な表情を浮かべながらも、そんな彼を止めることはしなかった。
 彼に与えられた仕事は、杜木の“結界”が消滅した時点で終わりだからである。
 もちろん個人的な感情としては眞姫に会いに行きたい智也だが。
 今更駆けつけたところで、自分の理想通り彼女とふたりになれるわけはない。
 むしろふたりになれるどころか、再び“能力者”とドンパチやる羽目になることは目に見えている。
 智也はちらりと眞姫のいる方角に視線を向けた後、大きく溜め息をつく。
 今の彼の漆黒の瞳には、愛しのお姫様ではなく、お姫様の元へと向かう青い瞳の騎士の後姿だけが映っていた。
「まぁ、“能力者”の足止めっていう任務は果たせたけど……青い瞳の“能力者”は、やっぱりムカつくなぁ」
 智也はそう呟くと、後ろ髪を引かれつつも、ゆっくりと健人が向かったのとは別の方向に歩き出したのだった。




 彼の物腰柔らかな雰囲気からは想像もつかない程に。
 周囲を支配する“邪気”は強大で、威圧感さえ覚える。
 だが眞姫は、そんな彼に、真っ直ぐな視線を向けて外さない。
 むしろ彼の発した言葉の真意を知りたいと、彼に数歩近づいた。
『数年前……初めて君を見た時は、まだあんなに小さい少女だったのにね』
 先程杜木は眞姫にこう言ったが。
 眞姫の認識では、彼に最初に会ったのは高校入学後である。
 だが……ひとつだけ、彼の言葉に思い当たることがあったのだった。
 眞姫がずっと会いたいと思っていた、ある人物。
 名前はもちろん、顔さえも覚えてはいない。
 それ故にもしかしたら思い違いかもしれないが。
 彼の言うように、自分は数年前、彼に会っているのかもしれない。
 数年前の――あの日に。
 眞姫は意を決し、口を開く。
「数年前って……貴方は、もしかして」
 ――その時だった。
「!」
 眞姫は言葉を切り、驚いたように顔を上げた後。
 一瞬にして表情を変えた風景をぐるりと見回した。
 周囲に張り巡らされていた強い“結界”が、跡形もなく消え失せたからである。
 そして、その強大な“結界”を破ったのは。
「やあ、待っていたよ」
 杜木は深い黒を帯びた瞳を現れた彼へと向けた。
 杜木の視線を追った眞姫は、あっと声を上げて目を見開く。
 そんな彼女に、現れた彼・鳴海先生は短く言った。
「清家、帰るぞ」
 つかつかと眞姫へと歩を進め、先生は驚いた表情を浮かべたままの彼女を促す。
「将吾。まだ俺とお姫様との話は終わっていなくてね。何なら、おまえも交えて話の続きをしようか?」
「…………」
 ふっと笑んでそう言う杜木に、先生は無言で視線を投げる。
 だがすぐに彼から目を外し、もう一度眞姫に言った。
「帰るぞ、清家」
「相変わらず冷たいな。そんなに急いでお姫様を連れていかなくてもいいだろう? ただ俺たちは、話をしているだけなのだからね」
「鳴海先生……」
 眞姫は先生に訴えるような目を向けた。
 確かに、目の前にいる杜木は、その身に強い“邪者”を纏っている。
 だが眞姫は、彼との話をもう少し続けたかったのである。
 自分の知りたいことを、もしかしたら杜木は知っているかもしれないから。
 だが。
「清家、聞こえなかったか? 帰ると言っているんだ」
 眞姫の気持ちを知ってか知らずか、先生ははっきりとそう言い放つ。
 そして杜木には何も言わず背を向け、歩き始めた。
「先生……」
 眞姫は後ろ髪を引かれるような思いに駆られながらも鳴海先生の後に続いた。
 杜木はそんなふたりを引きとめようとはせず、漆黒の瞳をふっと細める。
 その表情は何故か少し楽しそうで、黒の両の目は意味深な色を湛えていた。
 それから杜木は、歩きながらも自分を振り返る眞姫に軽く手を上げたのだった。
「あの、鳴海先生」
「…………」
 早足で前を歩く先生に並び、眞姫は彼を見上げる。
 眞姫を一瞥しただけで鳴海先生は何も言わなかったが。
 眞姫は一生懸命に言葉を続けた。
「さっき、あの杜木っていう人が言っていました。私と初めて会ったのは数年前で、私はその時小さな少女だったと。それって……」
「清家」
 眞姫の言葉を遮るように急に口を開き、先生はふと足を止める。
 そしてこう言ったのだった。
「おまえが考えていると思われることは、見当違いだ。それにその件に関しては、以前私が答えたはずだ」
「……え?」
 眞姫は先生の言葉に面食らったように数度瞬きをする。
 鳴海先生はこれ以上何も言うことはないと言わんばかりに彼女から視線を外し、再び歩き出した。
 先生は、自分が訊くだろうことを想定して先にその答えを口にしたのだと。
 驚きながらもそう気がついた眞姫はそれ以上何も先生に訊けなかった。
 そして今までのことを思い返しながら、おもむろに瞳を伏せる。
 知りたいと思った過去の真実が、見えてきたようで、やはり見えてこない。
 そのもどかしさを強く感じ、眞姫は俯く。
 ――その時だった。
 鳴海先生が、再びピタリとその足を止めた。
 少し遅れてそれに気付き、眞姫は小首を傾げながらも先生と同様に歩みを止める。
 それと同時に、彼女の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできたのだった。
「……姫!」
 眞姫は顔を上げ、声のする方向に向きを変えると、目の前に現れた人物を確認して名を呼んだ。
「あっ、健人?」
「姫、大丈夫だったか?」
 鳴海先生をちらりと見た後、現れた少年・健人は眞姫にそう訊く。
 そして眞姫の頭をそっと撫で、彼女の無事にホッとした表情を浮かべた。
「健人。清家を家まで送ってやれ」
 鳴海先生はそれだけ言うと、再び歩みを進め始めた。
「…………」
 眞姫は小さくなっていく先生の背中を複雑な表情で見送る。
 そんな彼女に、健人は声を掛けた。
「どうした、姫? 俺が家まで送ってやるよ」
「あ、うん。ありがとう、健人」
 ふと我に返ったように顔を上げてから、眞姫はようやく歩き始めた。
 そんな彼女と歩調を合わせながら、健人は青い瞳で優しく眞姫を見つめる。
 眞姫は彼のそんな視線に気づかずに、栗色の髪をそっとかき上げてひとつ息を吐いた。
 それから、ぽつりと言った。
「数年前……やっぱり、あの日のことだよね……」
「姫?」
 不思議そうな顔をする健人に、眞姫は苦笑して小さく首を傾ける。
「過去に何があったのか、何が真実なのか……見えてきたと思ったんだけど、また分からなくなってきたわ。それとも、過去を知りたいと思うことは、私のエゴなのかな……」
「過去に何があったのか、何が真実なのか。それは確かに気になるし、姫が知りたいと思う気持ちはエゴなんかじゃないと思う」
 健人はそこまで言って、ふっとその表情を和らげる。
 そして再び彼女の頭にぽんっと手を添え、続けた。
「ただ、過去は過去だ。俺は過去よりも、姫と一緒にいる今、そして未来が大事だよ」
「過去よりも、今や未来……そうだね、振り返ってばかりいたら、これから進むべき道も見失っちゃうかもしれないもんね」
「ああ。過去は、未来への道標にするならいいと思う。でも振り返ってばかりだと一向に前に進めない。俺は少しずつでもいいから、姫と手を取り合って一緒に歩いていきたいと思ってるよ」
 健人は眞姫に微笑んで彼女の手をそっと取る。
 包み込むような彼の手の温もりを感じ、眞姫も少し照れたように笑んだ。
「ありがとう。私はひとりじゃないもんね、少しずつでも前に進まないとね」
 眞姫はそう言ってすうっとひとつ深呼吸をし、すっかり闇が支配した漆黒の空を見上げた。
 やはり過去の出来事は気になるし、知ることができるならば知りたいという気持ちは変わらないが。
 健人の言う通り、それだけに囚われていても何も始まらない。
 過去の事件の当事者である鳴海先生や由梨奈も、過去を振り返らずにしっかりと今を歩んでいる。
 それに自分には、一緒に道を歩んでくれる大切な仲間がいる。
 そんな仲間のためにも、改めて自分が今何をすべきなのか、これから何をしていくべきか、再認識する必要があると。
 眞姫はこの時、複雑な思いを抱えながらもそう思ったのである。
 そして自分の運命を受け入れ、真っ直ぐに前を向いて歩いていく決意をしたのだった。






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