煌びやかなネオン輝く繁華街を走っているはずの真っ赤なフェラーリは、いつの間にかその進路を変えている。
 フェラーリが大通りから閑静な住宅街へと引き返し始めた理由は言うまでもなく。
 一瞬にして眞姫を取り込んだ“結界”の存在を、由梨奈が、はっきりと知覚したからである。
 そして彼女は、それがただ、眞姫を取り込むことだけを目的としていないように感じてならなかった。
 自分はここにいると、まるで誰かに呼びかけているかのように。
 強い“邪気”を帯びる“結界”は、己の存在を堂々と誇示している。
 だが……。
「!」
 真っ直ぐに“結界”の方向を見据えていた由梨奈は、ふと顔を上げる。
 そして表情を変え、おもむろに愛車を止めた。
 車外に出た彼女のウェーブの髪が夜風に煽られて揺れる。
 ……どうやら今回彼が呼んでいる人間は、自分ではないようだ。
 由梨奈は闇に視線を向けながらそう理解する。
 そして新たに周囲に形成された“邪気”の“結界”をぐるりと見回した。
「今日は何の御用かしら? お嬢さん方」
 わざとらしく大きく嘆息して由梨奈はそう口を開く。
 そんな由梨奈とは逆に人懐っこい笑みを宿し、“結界”を作り出した人物・綾乃は言った。
「こんばんはぁ、“能力者”のお姉サマ」
「…………」
 綾乃の隣には、複雑な表情をしたつばさの姿もある。
 やはり“彼”が呼んでいるのは、今回は自分ではないらしい。
 綾乃とつばさの出現に、由梨奈はそう確信する。
 何故彼女たちが自分の前に現れたのか、その理由は容易に想像できるからである。
 だが由梨奈は敢えてもう一度彼女らに問う。
「それで、お二人揃って、私に何の用かしら?」
「うーん、お姉サマに用っていうか、お仕事なんだけどね」
 綾乃はそう言って、ふっと一息置く。
 そして一瞬で印象を変えた漆黒の瞳を由梨奈に向けた。
「杜木様からの命令なんだよねー。杜木様の“結界”に近づく“能力者”の、足止め」
「“能力者”の足止め、ね……」
「そうそう。でもね、足止めって言っても、いつもドンパチばかりじゃ面白くないでしょ? ちょっと趣向を凝らして、お姉サマとお喋りするのも楽しいんじゃないかなぁって。んで、つばさちゃんも誘ったってわけ」
「お喋り?」
 つばさは綾乃の言葉に、微かに眉を顰める。
 その反応から、どうやらつばさも綾乃の考えをはじめて知ったらしい。
 由梨奈は自分の前に立ちはだかる二人の様子を伺いながらも少し考える仕草をする。
 眞姫のことは確かに心配ではある。
 だが、“彼”――杜木が、眞姫に危害を加えるとは思えない。
 それに眞姫自身は何も言ってはいなかったが。
 彼女の性格からして、杜木の過去を知った今、直接彼に訊きたいこともあるだろう。
 何より、自分が駆けつけなくても、彼女の元へと向かわんとしている“能力者”は少なくないはずだ。
 それならば、そんな“能力者”が足止めを食らわないよう、ここで逆に彼女らを引き止めておく方がいいだろう。
 由梨奈はそう考え、綾乃の提案に乗ることにした。
「じゃあ、何についてお喋りするのかしら?」
 由梨奈の問いに綾乃はふふっと悪戯っぽく笑む。
「それはもう決めてあるんだー。テーマはね……“杜木様”、なんてどう?」
「“杜木様”って……」
 その言葉に即座に反応を示したつばさは、驚いたように綾乃を見遣る。
 逆に由梨奈は表情を変えない。
「そのテーマで、貴方達と意味のある有意義なお喋りができるのかしら」
「意味? 意味があるかなんて問題じゃないよ、ただ綾乃ちゃんが興味あるから。てか、綾乃ちゃんは杜木様大好きな、杜木様親衛隊なんだけど。実際、詳しく杜木様のことを知っているわけじゃないんだよねー。でもお姉サマなら、私たちの知らない杜木様のこと、よく知ってるかなーって」
 意味深な笑みを含み、綾乃は再び漆黒の瞳を細めた。
 由梨奈はふうっとひとつ溜め息をついた後、風に揺れる長い髪をかき上げる。
 それから真っ直ぐに綾乃を見据えた。
「悪いけど、お嬢さんたちが知っている杜木様と、私が知っている慎ちゃんは違うわ」
「いいの、いーの、難しく考えないでさー。雑談ってカンジでお喋りしましょーよ。私たちに共通するテーマなんて、ほかに楽しそうなのあまりないし。綾乃ちゃんは大好きな杜木様のことが聞ければ満足だから」
 綾乃はそう言ってから一呼吸置く。
 そして由梨奈に視線を返し、微妙に声のトーンを変化させて言ったのだった。
「それに……お姉サマも知りたいことあるんじゃない? 今の杜木様のこと」




 耳を劈く衝撃音と同時に、一瞬にして視界を奪うほどの強烈な光が発生する。
 衝撃の余波が漂う“結界”の中で健人はチッと舌打ちをした。
 そして余波が晴れ、鋭い青の眼光を自分に向ける健人に、智也はわざとらしく首を竦めるような仕草をする。
「そんなコワイ顔で睨まないでよ。俺だって仕事なんだしさ」
 ニッと余裕あり気な笑みを浮かべる智也の態度に、健人はさらに険しい表情をした。
 眞姫を取り込んだ杜木の“結界”をいち早く知覚した健人であったが。
 杜木の仕向けた“邪者四天王”・智也に行く手を阻まれ、先に進めずにいる現状。
 焦りというよりも、健人はかなり苛立っていた。
 彼の神経を逆撫でているのは、眞姫の元へと駆けつけられないことだけが原因ではなかったのである。
 健人は無言で智也に視線を投げたまま、再び掌に“気”を漲らせる。
 智也はそんな健人の様子に漆黒の瞳を細めてから彼の“気”に対抗すべく、“邪気”をその身に宿した。
 刹那、再び大きな光が弾け、轟音が“結界”内の大気を震わせる。
 健人の右手から放たれた“気”の衝撃と智也の形成した“邪気”の防御壁が正面からぶつかり合い、双方威力を失った。
「君もそうだろうけど、どうせ二人きりなら眞姫ちゃんとなりたいよ」
 はあっと溜め息をつく智也を睨み、眞姫のところへ行く邪魔をしているのは誰だと言いたかった健人であったが。
 相変わらず一言も言葉を発する気はない様子で身構える。
 健人を苛立たせている最大の要因。
 それは、智也の戦い方にあった。
 杜木の“結界”に近づく“能力者”の足止めが、今回の彼の仕事であるが。
 智也は自分に与えられたその仕事を忠実にこなしている。
 つまり、彼は文字通り、健人の足止めをすることに徹した戦い方をしているのだった。
 無理に反撃に出ることは決してせずに慎重に相手の出方を見極めて攻撃を往なしている。
 逆に言うと、相手を打ち負かそうという気が今の智也には全くないのだ。
 彼の目的は、あくまでも健人の足を止めることだからである。
 そして健人は、そんな智也の戦い方がかなり気に障っていた。
 なまじ実力が拮抗している分、智也に下手に守りに回られては、打ち負けることはないが、この状況を打破することもできない。
 眞姫の元へ向かえない歯痒さと、巧く智也に動きを抑制されている感が否めない現状に、健人は苛立っているのである。
「てか、“能力者”の足止めをすることが“邪者四天王”としての今回の俺の仕事ではあるんだけどさ。君は特に、個人的にも眞姫ちゃんのところなんか行かせたくないんだよね」
 智也はふうっと大きく息をつき、漆黒の前髪をかき上げて続ける。
「だって、ずるいよ。ただでさえ“能力者”って眞姫ちゃんの近くにいられるのに、君は彼女の元にすぐに駆けつけられるほどこんなに家まで近いし。その青い瞳とか、いかにもモテますって容姿も反則だよなー。んで、何かいつも眞姫ちゃんの近くにいる君を見てさ、最近は羨ましいを通り越してムカつく時あるんだよね」
「…………」
 何も言わず射抜くような目で自分を見据えている健人の様子に、智也は挑戦的にふっと笑う。
 そしてより強大な漆黒の輝きをその手に宿すと、煽るような自信満々な口調で言った。
「まぁ、顔はほんのちょこーっとだけ負けてるかもしれないけど。眞姫ちゃんを好きだっていう気持ちと腕っぷしは、俺の方が強いと思ってるから。だから絶対に君には眞姫ちゃんのところには行かせない。そういうことだよ」
「姫を好きな気持ちと腕っぷしは、だと?」
 キッと一層鋭い視線を投げ、健人は怒りに満ちた声でそれだけ口を開く。
 どんなに自分が彼女のことを想っているか。
 見返りを求めているわけでは決してないが、どれだけ自分が彼女のために尽力してきたか。
 何も知りもしない上に、ましてや彼女の身体に負担のかかる“負の力”を蘇らせようと目論んでいる“邪者”に、そんなことを言われる筋合いはない。
 それにもちろん、自分は“能力者”として、決して“邪者”などに力で劣りはしない。
 特に眞姫に公私ともにちょっかいを出している智也には、絶対に負けられないと。
 健人も強くそう思っているだけに、智也の発言は聞き捨てならないものであった。
 “能力者”である以上、“浄化の巫女姫”を守ることが自分の使命。
 だが、それだけではない。
 “能力者”だとか“浄化の巫女姫”だとか、そんなことは関係ないのだ。
 誰でもない自分が、眞姫を守りたい。
 この気持ちだけは、誰にも負けない自信がある。
 そして、彼女を守る――そのために、自分は強くなろうと決意したのだ。
「姫を守りたい、気持ち……」
 健人はふとそう呟き、青を帯びる瞳をおもむろに閉じる。
 “邪者”として“能力者”を足止めすることが、今の智也の仕事ならば。
 それに対して自分がすべきことは何なのか。
 いや、相手が“邪者”であろうと誰であろうと、状況がどうだろうと、実際は何も関係はないのである。
 自分がすべきことは……いつも、たったひとつなのだから。
 健人はふっと両の目を開き、目の前の智也に再び視線を向ける。
 その青い瞳に宿っている光は先程までのものと少し印象が変わっていた。
 そしてふっとひとつ息を吐いた後、健人は智也に言ったのだった。
「俺もおまえの言動にかなりムカついている。それに俺は、絶対に姫のところに行く。そういうことだ」
 智也は首を左右に振って瞳を細めた。
 それから漆黒の光を全身に漲らせ、改めて身構える。
「だから俺は、行かせないって何度も言ってるだろう? 力づくで突破しようとしても無駄だよ」
「俺も何度も言っているはずだ。姫のところへ行く、と」
 健人はそう言った後、眩い光を宿した掌をグッと後方へ引く。
 そして反動をつけ、再び智也目掛けて“気”の衝撃を放ったのだった。




 闇のような神秘的な彼の黒の瞳は、今、彼女の姿だけを映している。
「私と話したいこととは何かな、お姫様」
 優しくて柔らかな、耳障りの良い声。
 だが、そんな彼の身を包んでいるのは。
 思わず圧倒されてしまうほど強大な、“邪”の力である。
 いや、彼の身だけではない。
 周囲には、彼によって形成された、強固な“結界”が張り巡らされている。
 普通の人間ならばその力の強大さに臆し恐怖すら覚えるだろう。
 だが眞姫は、彼の瞳を真っ直ぐに見つめながら、はっきりとした口調で言った。
「鳴海先生と由梨奈さんに聞きました。貴方の、妹さんのことです」
「妹……沙也香のことを?」
 物腰柔らかな印象は変わりはしなかったが、少し意外そうに杜木は漆黒の瞳を細めた。
 微かに髪を揺らし、こくんと眞姫は頷く。
「はい」
「そうか、聞いたんだね。それを聞いて君はどう思ったのか……聞かせてもらえるかな?」
「……え?」
 杜木の問いに、眞姫は思わず顔を上げた。
 杜木にとって妹・沙也香の話は、内容からしても、辛く深い傷であるはずなのに。
 彼は今までと何ら表情を変えることもなく、すんなりとこの話題を口にしているように見受けられるのだ。
 眞姫は彼の質問に答えることも一瞬忘れ、予想外の雰囲気に少し戸惑う。
 杜木はそんな眞姫の様子に微笑んだ。
 それから、静かに言った。
「過去の話を聞いて、私に同情したかい? “能力者”で在ることを捨てて“邪者”になった思考が理解できない? いや、それとも、“能力者”である将吾や由梨奈を裏切って“邪者”になった私を、酷い人間だと思ったかな」
 杜木の言葉に、眞姫は大きく首を振る。
「いいえ、そんなことは思いませんでした。ただ……」
 眞姫は杜木を見つめたまま、一息置く。
 そして再びゆっくりとこう口を開いたのだった。
「ただ、あの時あった事は……とても、悲しい出来事だと思いました」
 眞姫はいつの間にか涙で潤んだ大きな瞳を杜木に向けた。
 杜木は自分を映し出す両の目を見つめ返しながら、優しい表情で彼女の紡ぎだす言葉を待っている。
 涙が零れないよう無意識的に微かに視線を落とした後、眞姫は素直に感じた気持ちを口にした。
「鳴海先生や由梨奈さん、それに貴方も妹さんも、誰も悪くなんてないのに。過去の出来事は、失ったものがあまりにも大きくて多すぎて……だから、とても悲しかったです」
「誰も悪くなんてない、か。確かにそうだね。将吾は、私があの出来事で自分のことを恨んでいると思っているようだが……君の言う通り、あの出来事は誰も悪くなんてない。私も“能力者”だったから、彼のあの時の行動も理解できるし、仕方がないと思っているよ」
 ふっと小さく笑み、杜木は瞳と同じ漆黒の前髪をそっとかき上げる。
 だがその笑みにはどこかもの寂しげな色が見えるように眞姫は感じていた。
 眞姫は首を小さく傾げながらも彼に問う。
「じゃあ、何故貴方は“邪者”に?」
「君はさっき、あの出来事は失うものが大きくて多すぎたと言ったね。だが、失ったものばかりではなかったんだよ。あの出来事があったからこそ、私は真に自分が在るべき姿、成すべき事を見つけた。それができるのが、“邪者”という場所だったんだよ」
「親友と敵になってまでも“邪者”で在る理由って、一体何なんですか?」
「将吾もこのあたりを誤解しているようだが……私はね、親友と敵になるために“邪者”になったのではないよ。だから決して、将吾を恨んでいるから“邪者”になったわけでもない。“邪者”が“能力者”にとって、敵という存在だったというだけなんだ」
「でも結果的には“能力者”と敵対する立場になったわけですよね。貴方も“能力者”であったなら、“邪者”が“能力者”にとって敵という存在であることも分かっていたんでしょう? なのに……」
「“能力者”が“邪者”のことを敵だと思っていることはもちろん分かっているよ。だが私は、“能力者”だからイコール敵だとは考えていない。むしろ、そんな“能力者”の考え方を変えようと思っているんだよ」
 杜木はそこまで言って、過去を語っていた先程までと違う表情を浮かべた。
 彼の漆黒の瞳には、今度は微かな思惑の色が生まれている。
 杜木は吸い込まれそうに神秘的な黒の瞳で眞姫の姿を捉えながら、相変わらず物腰柔らかな声で話を続けた。
「例えばね、君の力だ。どうして“能力者”は、“浄化の巫女姫”の秘めたる力を蘇らせようとしない? 浄化の巫女姫”の能力の可能性が広がれば、今よりもさらに多くの人々を救う力を得ることができるかもしれないというのに……。それに将吾や由梨奈とは、お互い分かり合えた間柄だ。だからこそ、今までの“能力者”と“邪者”、その双方の関係を変えることができると私は思っている。将吾と由梨奈にも、きっとそのうち私の考えを理解してもらえると信じているよ」
 そんな杜木の言葉をじっと黙って聞いていた眞姫だったが。
 小さく左右に首を振り、ゆっくりと口を開いた。
「私にはまだ、自分の中に眠っている“負の力”のことも分からないし、それを蘇らせるべきかどうかも分かりません。ただ分かるのは……先生も由梨奈さんも、それに貴方も、お互いがお互いのことを話す時、何だかとても寂しそうだということです」
「君は優しい子だね、お姫様。それに優しいだけでなく、自分の気持ちを素直に言葉にできる芯の強さも持っている」
 それから杜木は、漆黒の瞳を優しく細め、こう続けたのだった。
「数年前……初めて君を見た時は、まだあんなに小さい少女だったのにね」
「え?」
 眞姫は驚いたように顔を上げてじっと彼の整った顔を見つめる。
 自分が杜木と初めて会ったと認識しているのは、高校に入学した後であるのに。
 彼の言葉は、それ以前にも会っている口ぶりである。
 だが、自分の認識よりも前に彼に会っているとしたら。
 それは一体、いつ、どこでなのだろうか。
 記憶の糸を辿りながら思いを巡らせつつも、眞姫は何故かそれを巧く言葉にできず、ただ彼に視線を向けるだけであった。
 そしてそんな彼女に敢えて何も言うことはせず、杜木はもう一度優しく笑んだのだった。