帰りのホームルームが終わると同時に、眞姫は愛用の手帳を握り締めて教室を出た。
 担任の鳴海先生は連絡事項を無駄なく端的に伝えるタイプであるため、2年Bクラスはほかのクラスよりもホームルームが早く終わる傾向がある。
 そのためか、放課後を迎えたばかりの廊下はまだ人の姿も疎らであった。
 眞姫は歩きながら手帳を開いてから、目当てのページを見つけてしおりを挟む。
 そして再び視線を前へと戻した。
 ――その時だった。
「姫……!」
 背後から自分を呼ぶ声が聞こえ、眞姫はふと振り返る。
 それから相手を確認して足を止めた。
「准くんと拓巳? どうしたの?」
 彼女を追いかけてきたのは、准と拓巳のふたりであった。
 確かふたりは今週掃除当番で、今は帰りの掃除の時間のはずである。
 時々さぼっては怒られている拓巳はともかく、真面目な准の姿もそこにあることを意外に思いながらも眞姫はふたりに目を向けた。
 そしてそんな小さく首を傾げる眞姫にふたりはこう言ったのだった。
「姫、ちょっといいか? 姫に話したいことがあるんだ」
「呼び止めてごめんね。急で悪いんだけど……今日、部室に来てくれないかな。みんなも集まるんだ」
 眞姫は数度瞳をぱちくりさせたが、素直にコクリと頷く。
「みんなも? うん、分かった。職員室で用事済ませてからでいい?」
 今日は部活の日ではないが。
 何かあれば緊急にミーティングを行うことも珍しくない。
 何故こんなに急に部室に呼ばれたか、その内容は分からなかったが。
 特に深く疑問に思うこともなく眞姫はすぐに返事を返したのだった。
 眞姫の返答を聞いて、准は優しく瞳を細める。
「うん、僕たちも掃除当番だし、ほかのクラスもまだホームルーム終わってないみたいだしね。いつも通り、17時頃に部室に来てもらえればいいから」
 そんな准の言葉に、拓巳は大きな瞳を見開いて呟いた。
「げっ、そういえば、今週俺らの班って掃除当番だったっけ」
「そういえばって……もしかしてまさか、また掃除サボる気だったとか? 拓巳」
 ちらりと拓巳を見遣り、准はわざとらしく首を傾ける。
 眞姫の手前、准の表情は一見すると笑顔であるが。
 もちろん拓巳を見るその目は笑っていない。
 そしてそんな准の様子に、拓巳は仕方なく言った。
「ていうか、さすがにこの状況でサボれないだろ」
 目の前に掃除に厳しい班長の准がいる状況では、さすがの拓巳も逃げられない。
 何よりも准を怒らせたら怖いことをよく知っているため、拓巳は面倒臭そうに前髪をかきあげながらも溜め息をつくだけだった。
 准は相変わらず柔らかに見える笑みをにっこりと宿しながらも言った。
「そうだね。サボれないっていうか、サボらせないから」
「だーからっ、掃除行くって言ってるだろーが。てか怖いぞ、その全然笑ってない目っ」
 眞姫は准と拓巳のそんなやり取りを見て表情を緩める。
「拓巳。サボったら、また准くんと梨華に怒られちゃうよ?」
 はあっと大きく嘆息し、拓巳はブツブツと呟いた。
「っとにツイてないってか、勝手に掃除の班分けした鳴海のヤローの陰謀だっ。よりによって准と立花と同じ班だなんてよ」
「掃除サボる拓巳が悪いんだろ、それに陰謀だなんて大袈裟だよ」
「大袈裟ってな、おまえらは何気に報復がえげつないからよ」
「だから、報復されるようなことするからだってば」
「てか、やっぱり報復かよっ」
 ふたりの相変わらずな会話に眞姫は自然とその顔に微笑みを見せる。
 そして思わず、くすくすと声を出して笑った。
 准と拓巳はようやく見ることのできた彼女の笑顔に少しホッとしたような表情をみせる。
 それから、もう一度眞姫に言ったのだった。
「そういうことで、忙しいのにごめんね。17時に部室で待ってるね」
「じゃあ姫、また後でな」
 軽く手をあげるふたりに眞姫は頷き、腕時計で時間を確認した後、再び小さく笑う。
「うん。時間までにはちゃんと行くから。拓巳、掃除サボっちゃダメよ?」
「……もう、どう足掻いてもサボれないだろ、この状況」
 横目でわざとらしく微笑む准をちらりと見ながら拓巳は嘆息した。
 眞姫はもう一度クスクスと笑い、そしてふたりに手を振りながら歩き出す。
 そんな彼女の後姿を見送りながら、准と拓巳は少し安心したように言った。
「よかった。さっきよりも少し、姫の気持ちも落ち着いてるみたいだから」
「そうだな。本当に今日の姫って様子おかしかったし、表情も硬かったけどよ……笑ってくれて安心したぜ」
 そして小さくなっていく眞姫の姿をもう一度見た後。
 ふたりは彼女に背を向けると、掃除2年Bクラスの教室に戻り始めたのだった。
 ふたりと分かれた眞姫は階段に差し掛かり、タッタッと心持ち早足で一段ずつ階段を下り始める。
 その振動で微かに揺れる栗色の髪をそっとかき上げ、ふっとひとつ深呼吸をする。
 それから階段を下り切ったところにある事務室の前で足を止めた。
 まだ他のクラスは帰りのホームルーム中であるために、職員室の隣にある事務室の前は人の姿がほとんどない。
 たまに、担任クラスを持っていない教師が通りかかる程度である。
 眞姫は財布を取り出して開くと、しばらくの間あるものを捜す。
 そしてようやくお目当てのものを見つけると、事務室の前に密かに置いてある公衆電話の受話器を取った。
 それから先程財布から取り出した、いつから使っていないかすら分からないテレホンカードを差し込む。
 眞姫の通う聖煌学園は、携帯電話の持ち込み自体は規制されてはいないが、校内で使用するのは禁止である。
 中には教師に見つからないようにこっそりと校内で隠れて使用している生徒もいるが、眞姫はそういうタイプではない。
 それに学校を出てしまえば、自由に所持している自分の携帯電話を使えるのであるが。
 どうしても一刻も早く。
 眞姫は、ある人物と連絡が取りたかったのである。
 そのために事務室に設置してある公衆電話まで足を運び、今では使う機会もほとんどなくなったテレホンカードを使うことになったのだった。
 手帳を開いて間違いないように慎重に相手の番号を押し、眞姫は大きく深呼吸をする。
 呼び出し音が耳に響く度にドキドキと緊張したように胸が鼓動を早めた。
 そして……相手の聞き慣れた声が受話器から聞こえてくるのに、そう時間はかからなかった。
「あ、こんにちは、眞姫です。今、大丈夫ですか?」
 その問いに、電話の相手は快く応じる。
 眞姫はそんな相手の様子に少しホッとしたように表情を緩めた。
 それから気を取り直し、無意識のうちに受話器を強く握り締めながら、こう言ったのだった。
「近いうちに、お時間いただけませんか? 聞きたいことがあるんです」




「なんかよ、妙に緊張するな」
 ちらちらと時計を見ながら、拓巳は視聴覚教室を意味もなくウロウロとしている。
「もうすぐ姫も来る頃なんだから、少しは落ち着いたら?」
 准ははあっと嘆息して拓巳に目を向けた。
 祥太郎はハンサムな顔に笑みを宿し、前髪をかき上げる。
「あー早よ、お姫様の見目麗しいお姿を拝みたいわ」
「姫のことだ、時間より早く来るんじゃないか?」
 同じくお姫様の到着を待ち侘びている健人は、“空間能力者”である詩音に青い瞳を向ける。
 詩音は健人の言葉に何も言いはしなかったが、いつも通りの優雅な微笑みを彼に返した。
 この日――少年たちは眞姫よりも一足早く、いつも部活を行っている視聴覚教室に集まっていた。
 最近の眞姫は何かをひとりで抱え込み、思い悩んでいるようだと。
 その様子に気がついてはいたものの。
 今までは、そんな彼女を心配することしかできなかった少年たちだったが。
 大丈夫――そう言って無理に笑う彼女を、もうこれ以上見ていられなくなったのだ。
 そして少年たちは話し合い、眞姫を呼び出すことにしたのである。
 もちろん“能力者”として“浄化の巫女姫”を守りたいと常日頃から強く思っている彼らであるが。
 それだけではない。
 大切な仲間であり最愛の人である彼女のことを支えてあげたい。
 誰でもない自分が、彼女の力になってあげたい。
 そしてその気持ちが、少しでも今の彼女に伝わればと。
 そう思い、少年たちは眞姫と向き合って話をするべきだと決意したのだった。
 ――その時。
 詩音はふと顔を上げ、視線を入り口の方に向ける。
 そんな彼の様子に気がついた少年たちは続いて詩音と同じ場所に目を遣った。
 それと同時だった。
「あ、みんな早かったんだね。お待たせ」
 教室のドアが開き、眞姫が姿をみせる。
 彼女の出現とともに少年たちの表情も自然と柔らかいものになる。
「おっ、姫。待ってたぜ」
「ご機嫌麗しゅう、お姫様っ。待ってたで、今日も可愛いなぁ」
「姫……」
「こんにちは、僕の愛しのお姫様」
「ごめんね姫、急に呼び出して。こんなところで立ち話もなんだから、移動しようか」
 声を掛けてくれる少年各々に笑顔を返し、眞姫は促されるまま、いつも会議の時に使用している視聴覚準備室へと移動した。
 それから全員が決められた席へと着いたのを確認し、部長である准がまず口火を切る。
「姫、今日この場に来てもらったのはね、僕たちの考えていることを姫に聞いてもらいたかったからなんだ」
「え?」
 眞姫はそんな准の言葉に瞳をぱちくりとさせた。
 突然の呼び出しも、いつものような部活の延長の臨時ミーティングかと思っていたからである。
 拓巳は驚いた様子の眞姫を見つめ、少し照れたように言った。
「姫、最近なんかいつもと様子が違ったからよ。すごく俺、心配してたんだぞ」
「お姫様は頑張り屋やからな。でもな、ひとりで何でも溜め込むのはあかんで?」
 優しい視線を眞姫に向けて祥太郎もそう続けた。
 健人もじっと眞姫の姿をブルーアイに映し、彼女に言葉を投げる。
「姫。もっと俺たちを信じて、頼ってくれ。どんなに頼ってくれても頼りすぎなんてことはないんだぞ」
「僕のお姫様はね、みんなに愛されてるんだよ。騎士たちはもちろん、いろんな人にね」
 詩音も優雅な微笑みを湛え、ブラウンの瞳を優しく細めた。
 准は改めて眞姫の様子を見てから、さらに続ける。
「みんなの言う通り、僕も最近姫の様子がおかしいなって思ってて。でも何があったかを聞くことで余計に姫に気を使わせるかもしれないし、聞かれることが嫌なことかもしれない。でもね、やっぱり僕は姫のことが心配だし、力になりたい。話したくないことを話せっていうことじゃなくて、何か姫の負担が減るような、そんな手伝いをしたいんだ」
 准の言葉に頷き、ほかの少年たちも各々言葉を口にする。
「前に言っただろ? 姫の背負ってるもの、俺も持ってやる。不安があればぶつけてこい、泣きたい時は我慢しなくていいんだぞ、ってな」
「そうや、たっくんの言う通りや。何でもドーンと受け止めたるからな、遠慮なくこのハンサムくんの広い胸に飛び込んできてくれてええんやで?」
「“能力者”だとか“浄化の巫女姫”だとか、そういうことは関係ない。姫は、俺が守ってやる」
「王子や騎士たちはね、いつもお姫様からいろいろなものを貰ってるんだ。だから同じようにお姫様にいろんなものをお返ししたいし、それ以上のことをしてあげたいと思っているんだよ」
 眞姫はそんな少年ひとりひとりの言葉を噛み締めるように聞いている。
 鳴海先生から聞かされた事実は、確かに衝撃的でショックも大きかった。
 だが、“浄化の巫女姫”として運命を受け入れると決めたからには、自分ひとりで気持ちの整理をつけ、これからどうすべきかを考えなければならないと。
 これ以上皆の足手まといにならないよう、心配させないように、自分自身で何とかすべきことなのだと。
 そうガチガチに決め込んでしまっていたが。
 だが、いつもそばにいてくれる仲間たちには分かっていたのだ。
 自分が思い悩み、次の一歩を踏み出せずにいたことを。
 そして今、そんな自分の手を取って一緒に歩いてくれようとしている。
「ありがとう、みんな。すごく嬉しいよ、本当に……ありがとう」
 眞姫は涙の溜まった瞳を拭い、少年たちに笑顔をみせる。
 それから顔を上げて全員を見回し、そっと栗色の髪をかき上げて言った。
「私ね、みんなの言う通り、ここ数日いろいろ考え込んでたんだ。でもね、決めたの。ちゃんと事実を知って、それと向き合おうって。それにこれからは、もうひとりで考え込んだりして心配かけたりしないよ。みんなにも自分の気持ち、ちゃんと話すから。だから……真実を確かめてくるから、もう少しだけ待って」
 眞姫の瞳に輝きが戻ってきたことを感じ取った少年たちは、彼女の言葉に全員が頷く。
 それから立ち上がって彼女の元に駆け寄り、思い思いに声を掛けた。
「おうよ、姫がそういうんなら待つぜ、俺は」
「お姫様専用に、いつでもこのハンサムくんの胸は開けとくからな」
「何かあったらすぐに俺に言え、姫」
「僕の愛しのお姫様。王子はいつでもお姫様の心を癒す旋律を奏でてあげるよ」
「姫、くれぐれも無理はしないでね。何でも僕たちに言ってくれていいんだからね」
 ぽんぽんと肩を叩かれ、少し乱暴にくしゃっと頭を撫でられ、優しく手を握られて。
 それぞれの少年たちの優しさやその手のぬくもりに触れた眞姫は、思わず大きな瞳からポロポロと涙を零す。
 少年たちの心遣いに対する感謝の気持ちと、今まで溜め込んでいた感情が入り混じり、一気に溢れ出したのだ。
 そして、眞姫本人も驚くほどに。
 今の彼女は、素直に思いのまま涙を流していた。
 少年たちはそんな眞姫に思い思いのあたたかい言葉を投げかける。
 眞姫はまだ当分止まりそうにない涙を零しながらもその顔に微笑みを宿す。
 それから、改めて再確認したのだった。
 自分の運命を受け入れるために、そして少年たちをはじめ自分のことを大切に考えてくれる人たちのために、改めて今何をすべきなのかを。




 ――その日の夕方。
 すでに太陽も西の空に沈みかけており、周囲は今にも夜の闇で覆い尽されんとしていた。
 だがそれに反して繁華街はネオンの光で輝きを増し、活気に溢れている。
 眞姫は窓の外に流れる景色を見てから隣にいる人物に目を向けた。
 過去の出来事を痛いほどよく知っている、眞姫がどうしても話を聞きたかった人。
「すみません、突然連絡して」
 眞姫は車を運転している相手にぺこりと頭を下げる。
 そんな彼女の様子に、その人物・沢村由梨奈はいつものように美しい顔に微笑みを宿した。
「眞姫ちゃんから連絡もらえるなんて、お姉さん嬉しいわ」
 この日の放課後、眞姫は学校から由梨奈に電話していた。
 由梨奈の都合がつく日時で構わないから、会って話をしたい、と。
 眞姫の性格上、頼み方は遠慮気味ではあったが。
 彼女が自分とできるだけ早く話をしたがっていると察した由梨奈は、今日の仕事が終わってすぐに会うことを承知したのだった。
「ボーイズたちは元気? みんな、少しはいい男に磨きをかけたかしらね」
「はい。みんな元気です」
 自分を励ましてくれた少年たちの姿を思い出し、再び胸が熱くなるのを感じながらも眞姫は笑顔で答えた。
「久しぶりにボーイズにも会いたいわぁ、またいきなり学校にでも押しかけようかしら」
 ふふっと隣で悪戯っぽく笑う由梨奈の瞳はとても優しい色を湛えている。
 その華やかな外見から、一見派手で豪華に見えるが。
 本当はとても繊細で、心のあたたかい優しい人であると。
 眞姫は姉のように慕っている彼女を見ていてそう感じるのであった。
 そして――少しだけ、まだ迷っていた。
 今回眞姫が、由梨奈と連絡を取った理由。
 鳴海先生と杜木との間を別つきっかけとなったあの日のことを、詳しく聞きたい。
 鳴海先生から大まかなことは聞いたが、あの時はあまりにも衝撃的で詳しく訊けなかった。
 もう一度先生に訊いても、先生の性格的に詳しく話してもらえるか定かではないし、当事者である先生にこれ以上深く訊く事に躊躇してしまっていた。
 そこで、この時のことを詳しく知っているだろう由梨奈に、思い切って連絡を取った眞姫だったが。
 いつも自分によくしてくれる由梨奈に。
 過去の悲しい出来事を語らせるのは、残酷ではないかと。
 由梨奈と杜木は、元は恋人同士であった。
 そんなふたりの関係を大きく変えたのもこの出来事が発端であるだろうのに。
 辛い過去を思い出させるようなことを、訊いてもいいだろうか。
 由梨奈の優しい瞳を目の前にして、そう眞姫は少し戸惑っていた。
 久しぶりに顔を合わせた由梨奈は、相変わらず美しく明るく気さくで。
 そして彼女なりの心遣いで、敢えて自分から眞姫に何かを訊いてくるようなことはない。
 眞姫の心の整理ができるのを待ってくれているのだ。
 だがきっと、察しはついているのだろう。
 眞姫が、自分に何を訊きたいのかを。
 確かに訊き辛いことではあるし、話を切り出すタイミングも難しいが。
 ……ここで立ち止まるわけにはいかない。
 眞姫はグッと掌を握り締めて顔を上げる。
 それから視線を真っ直ぐに由梨奈に向け、こう言ったのだった。
「由梨奈さん、教えてください。あの杜木っていう人のこと、そして……鳴海先生とのことを。過去に何があったのか、知りたいです」