――別荘での生活も残りあと2日となった、晴れた日の午前中。
柔らかな陽光が差し込める広い廊下を、詩音はトレーニングルームに向けて歩いていた。
「あ、詩音くん」
その時ふと背後から、彼を呼ぶ可愛らしい声が聞こえる。
その声に振り返り、詩音は普段通りの上品な微笑みを声の主に向けた。
そんな、彼の色素の薄い瞳に映っているのは。
「詩音くん、今からトレーニングルームに行くの?」
タタッと小走りで彼に近づき、その少女・眞姫はにっこりと笑顔で言った。
彼女の可愛らしい笑みに愛しそうに瞳を細め、詩音は小さく頷く。
「そうだよ、僕のお姫様。騎士たちはもう先にトレーニングルームにいるようだからね。王子も向かっているところだよ」
「そっか。今日で訓練も最後だもんね、頑張ってね」
明日の夕方には東京に戻るため、この日で少年たちの訓練は終了の予定である。
眞姫はそっと栗色の髪をかき上げた後、続けて彼に訊いた。
「そういえば詩音くん、迷子の妖精さんはみんな見つかったの?」
他の少年たちが、紳士の指示に従って“気”の訓練をしていた時。
“空間能力者”である詩音は、別メニューで課題を与えられていた。
内容的には、夢の国の森で迷子になった妖精100人を見つけ出すことという、何とも現実離れしたものだったが。
これも“空間能力”の使い手である詩音にとっては、感覚を養う有効な訓練なのである。
そんな彼の訓練を少しだけ手伝ったことのあった眞姫は、彼に楽しそうに目を向ける。
詩音はそんな眞姫に微笑み、優しく彼女の髪を撫でた。
「うん、昨日でようやく100人の迷子の妖精すべて見つけることができたよ。お姫様にも手伝ってもらったからね、ありがとう」
「妖精さんたち、みんな見つかったんだ。よかった」
傍から聞けば、これは不思議な会話以外の何物でもない。
だが感受性の強いピアニストの詩音と、意外と夢見がちなところもある眞姫にとっては、これはごく普通の日常会話なのである。
とはいえこのふたりのドリーミンな会話に、たまにほかの少年たちは首を傾げる事も少なくないのだったが。
「あ、じゃあ私、今から本を返しに書庫に行くから。訓練頑張ってね」
眞姫はトレーニングルームと書庫の分岐点でそう言って、詩音に手を振る。
詩音は彼女に優雅な笑顔を返して彼女の後姿を見送った後、再び歩き出した。
だが数歩進んですぐに再び立ち止まる。
それから、目の前に現れた人物の姿にブラウンの瞳を細めた。
「やあ、詩音くん。ご機嫌いかがかな? 騎士たちはもう、先にトレーニングルームにいるようだけど」
詩音と同じくトレーニングルームに向かっていた傘の紳士は、甥に優しく声を掛ける。
詩音はその言葉に、伯父とよく似た柔らかな声で笑った。
「こんにちは、伯父様。騎士たちは早めに集まって、作戦会議してるみたいだよ」
「作戦会議か、それは感心だね」
ふっと楽しそうに笑い、紳士は目の前のトレーニングルームのドアを開けて中に足を踏み入れる。
詩音も再び歩みを進め、それに続いた。
「ご機嫌いかがかな、騎士たち」
相変わらず柔らかな響きの声で紳士は口を開く。
それから近くの豪華な一人掛けの椅子に座り、言葉を続けた。
「今日で訓練は最終日だね。本当に君たちは、よく頑張ってるよ」
「いえ、そんな。おじ様に協力していただけて、僕たちの方こそ感謝しています」
紳士の言葉に小さく首を振って、准は部長らしくペコリと丁寧に頭を下げる。
紳士はそんな彼の様子に笑い、スッと伸びた足を優雅に組んだ。
「礼には及ばないよ。私も君たちと一緒に休暇が過ごせて、とても楽しかったからね」
そしてそう言った後、紳士はさらにこう口を開く。
「では早速、今からすることを説明しようか。と言っても、もう分かっていると思うけどね。一日目と同様に、騎士たちには“空間”の中で幻影と手合わせをして貰うよ」
それから紳士は、ふと視線を詩音へと向けて続けた。
「一日目は“空間”の形成は私が行い、詩音くんにはそれを視覚的に具体化してもらったよね。でも今日は、詩音くんに“空間”の形成から具体化まですべて任せるから。あとのことは、一日目と同じだよ」
「一日目と同じっちゅーことは、また似非鳴海センセの登場か?」
「またあのムカつく鳴海の野郎の姿かよ、今度こそぶっ飛ばしてやるっ」
祥太郎と拓巳は同時にそう呟き、思い思いに表情を変える。
詩音は気合の入った少年たちを見つめ、にっこりとその顔に笑みを浮かべた。
そしておもむろに右手を掲げ、その手に淡い光を宿す。
――次の瞬間。
「!」
少年たちは揃って顔を上げ、周囲の空気の変化に反応を示す。
健人は瞬時に形成された詩音の“結界”をぐるりとブルーアイで見回した後、ふっと小さく溜め息をついた。
「景色まで変わってるぞ。随分と手が込んでる“空間”だな」
健人の言う通り、詩音の作り出した“結界”内に作り出された“空間”の景色はその様相を先程までと変えていた。
それは普段少年たちと鳴海先生が訓練を行っている、都内のトレーニングルームのものだった。
「ほう、さすが詩音くんだね。騎士たちだけを“空間能力”を使った“結界”内に閉じ込めただけでなく、その内部に容易く自分の“空間”作り出すことができるなんてね」
椅子に座ったまま状況を見つめていた紳士は、感心したようにそう口を開く。
訓練初日に紳士が行った通り、詩音は自分は“結界”の外にいながらも、少年たちだけを作り出した“結界”内に閉じ込めたのだった。
詩音は相変わらず笑みを絶やさず、伯父に訊いた。
「それで伯父様、幻影の設定は一日目と同じでいいんだよね?」
その言葉に、紳士は楽しそうにコクンと頷く。
詩音はそれを確認した後、再びその身体に淡い“気”を纏った。
その瞬間、形成された“空間”の雰囲気が微妙に変化する。
「おー、早速おいでなさったようやで?」
詩音の“結界”内にいる祥太郎はその変化を感じ取り、前髪をかき上げて苦笑する。
拓巳は顔を顰め、チッと舌打ちをした。
「今日こそ、あの憎々しい姿を消滅させてやるからなっ」
「気合だけいつも立派なのはいいけど、せっかく立てた作戦忘れないでよ、拓巳」
はあっと溜め息をつき、准はちらりと拓巳に目を向ける。
健人は青い瞳を正面に向け、突如として自分たちの前に現れた幻影・鳴海先生から目を逸らすことなく短く言った。
「来るぞ」
そして、その健人の言葉と同時だった。
「どうした、さっさと全員まとめてかかってこい」
いやと言うほど聞き慣れた威圧的な声が、ゆっくりと幻影の口から発せられる。
「あー、幻影って分かってても本当にムカつくなっ。ぶっ飛ばしてやるっ」
拓巳はグッと拳を握り締め、視線を幻影の鳴海先生へ投げた。
そしてその手に“気”の光を宿すと、ダッと地を蹴る。
「って、せっかちやなぁっ、たっくんはっ」
祥太郎は拓巳が動きを見せたのを確認すると、同じように掌に“気”を纏った。
そして遠距離から、幻影の先生目掛けて複数の衝撃を繰り出す。
それを切れ長の瞳で見据え、鳴海先生はふっと手を翳した。
同時に“結界”内に轟音が響き、祥太郎の放った衝撃は幻影の作り出した防御壁に阻まれる。
健人はブルーアイを細め、先生に僅かに生じた隙をつき、すかさず眩い光を放った。
だが立て続けに襲い掛かる眩い光にも幻影は慌てることなく、大きく跳躍して健人の攻撃を避ける。
「逃がすかっ!」
あらかじめ間合いを縮めていた拓巳は跳躍した幻影を追従し、ビュッと思い切り手刀を振り下ろした。
幻影の先生は素早く掌に“気”を漲らせると、咄嗟にその手刀を受け止める。
それから間を取らず、逆手に集結させた“気”を近距離の拓巳目掛けて放った。
「く……っ!」
拓巳は歯をくいしばり、何とかその衝撃に耐えてやり過ごす。
鳴海先生はそんな拓巳にさらに容赦なく“気”の衝撃を繰り出した。
だが、その衝撃が拓巳に届くことはなかった。
咄嗟に准が作り出した強固な防御壁が、幻影の攻撃をすべて無効化したからである。
「まぁ、俺らの能力のコトをよう分かっとる本物のセンセもそうやけど……この幻影を作り出しとる王子様も、俺らの動きのパターンは把握しとるやろうからなぁ」
祥太郎はそう言って、ちらりと横目で准を見た。
准はその言葉に頷いた後、健人に視線を向ける。
「問題は、それをどうやって出し抜くかだよね」
「そうだな。いかにあの幻影の先生の……いや、“空間”のマスターである詩音の意表をつくかだな」
健人はそう呟き、拓巳にブルーアイを移した。
健人と目の合った拓巳は、何も言わずに小さくコクリと首を縦に振る。
そしてタイミングを合わせ、再びふたりは同時に動きをみせた。
手に眩い“気”を纏い、先生との距離を一気に詰める。
だが同時に襲い掛かってきた健人と拓巳の攻撃を幻惑の先生は冷静に捌く。
ふたりはそれでも攻撃の手を緩めず、接近戦に持ち込んだ。
間髪入れず放たれる拳や蹴りがビュッと空気を裂く。
先生は巧みに身を翻し、ふたりから少し距離を取った。
だが、その時。
「似非センセ、ハンサムくんも仲間に入れてやっ!」
いつの間にか間合いを詰めて幻影の頭上に跳躍していた祥太郎は、その掌に“気”を宿らせる。
そして眩い衝撃を先生目掛けて繰り出したのだった。
カアッと枝分かれした複数の光が、大きく弾ける。
そのすぐ後に、地をえぐるような轟音が鳴った。
拓巳は衝撃の余波の立ち込める中、キッと鳴海先生の幻影がいるだろう位置を見定める。
それから祥太郎の衝撃を咄嗟に防いでやり過ごしていた幻影に、再び攻撃を仕掛けた。
「くらいやがれっ!」
拓巳は掌に集結させた“気”の塊をすかさず幻影の先生に向かって放つ。
だが先生は切れ長の瞳をスッと細めた後、それに対抗すべく強大な“気”を素早く繰り出した。
「!」
ハッと表情を変えると、拓巳は漆黒の瞳を大きく見開く。
先生の放った光が、拓巳の衝撃を飲み込んだのだった。
そして威力を増し、唸りを上げて彼へと襲い掛かる。
だが――次の瞬間。
ドオンッという衝撃音が響き、拓巳に向けられた攻撃が阻まれる。
彼の前に、瞬時に“気”の防御壁が形成されたからである。
しかしそれは、いつものパターンとは少し違っていた。
「……!」
“結界”の外で“空間”を操っている詩音は、ふとその表情を変える。
拓巳の目の前に形成された防御壁は、いつも守りを任されている准のものではなく、健人の作り出したものだったからである。
そしてそれには、理由があった。
おもむろに幻影の先生はハッと顔を上げ、背後を振り返った。
だが……それも、一歩遅く。
「!」
一瞬の隙をついて幻影の背後に回った准が、その掌に漲らせた“気”を先生に向けて放ったのだった。
カアッと眩い光が周囲を包み、数秒後に耳を劈くような音が轟く。
そして――次に静寂の戻ってきたその場には。
元の別荘のトレーニングルームの景色が戻ってきていた。
詩音の作り出した“結界”と“空間”が、少年たちの攻撃によって破られたのである。
「おや、どうやらゲームオーバーのようだね」
詩音は色素の薄い前髪をそっとかき上げ、戦況を見守っていた傘の紳士に向けた。
紳士は楽しそうに笑い、椅子から立ち上がる。
「いやいや、“結界”の外にいながらあれだけ“空間”を操れるなんて大したものだよ、詩音くん」
それから視線を移し、紳士は今度は少年たちに優しく微笑んだ。
「さっきの将吾の幻影は、一日目と同じ程度の強さに設定していたんだよ。初日は“空間”を破ることができなかったのに、この数日で君たちが頑張ったいい証拠だね。これで私との訓練は全過程終了だ、お疲れ様」
「はい。どうもありがとうございました、おじ様」
准は全員を代表してそう言った後、深々と頭を下げる。
それに合わせ、ほかの少年たちも続けてペコリと頭を下げた。
紳士はそんな少年たちの様子にふっと上品に笑い、楽しそうに続けた。
「そうそう。夏休みの終わりに、本物の将吾とのテストがあるんだろう? 本物の彼は幻影の何倍も強いからね、この調子で訓練を続けてテストも頑張って。では騎士たち、私は失礼するよ」
トレーニングルームを後にする傘の紳士に、少年たちは全員でもう一度礼を言う。
それから紳士がドアを閉めた後、トレーニングルームからワッと声が上がった。
そんな彼らの声を背中で聞きながら、紳士は満足そうに笑みを浮かべる。
そして優しくブラウンの瞳を細め、ゆっくりと廊下を歩き出したのだった。
――その日の午後。
眞姫は別荘の外で、何度も繰り返し“気”を集める練習をしていた。
少年たちが頑張って訓練をしている時に、自分だけ暢気になんてしていられない。
少しでも自分もスムーズに“気”を使えるようになろうと、彼女は彼女なりに練習を重ねていたのである。
その練習の合間に少し休憩を取ろうと、眞姫は飲み物を取りに別荘に戻って歩き始める。
そして、ちょうど別荘のドアに手を掛けようとした――その時だった。
「おっ、姫じゃねーか。何やってんだ?」
ガチャリとおもむろにドアが開き、偶然外に出てきた彼はその場にいた眞姫に視線を向ける。
そんな彼ににっこりと微笑んで、眞姫は答えた。
「あ、拓巳。外で“気”を集める練習してたんだけど、飲み物を取りに戻ってきたの」
「飲み物? スポーツドリンクでいいならあるけどよ、飲むか?」
拓巳はそう言って、持っていた自分のペットボトルを彼女に差し出す。
「うん。ありがとう、拓巳」
眞姫は小さく頷き、それを素直に受け取った。
それから栗色の髪をそっと耳に引っ掛け、スポーツドリンクを飲む。
そして丁寧にキュッとふたをし、彼に返した。
「ありがとう、拓巳。はい、これ」
「え? あ、もういいのか?」
拓巳は何故か少し顔を赤らめながらも、彼女からペットボトルを受け取る。
それからおもむろに、ぽつりと小声で呟いたのだった。
「てか、これってもしかして、何気に間接キスか……?」
「え? なに、拓巳?」
彼の呟きが聞こえなかった眞姫は、不思議そうに首を傾げる。
そんな彼女の問いに、拓巳は慌てたように瞳をぱちくりとさせた。
「えっ、いやっ。な、何でもないよ、姫」
それからコホンとひとつ咳払いをした後、誤魔化すようにこう言葉を続けたのだった。
「俺も午後の訓練まで少し時間あるからよ、一緒に少しその辺を散歩しないか?」
「散歩? うん、いいよ。私も少し、気分転換したかったんだ」
拓巳の誘いにすぐに頷き、眞姫は彼の隣に並ぶ。
そしてふたりは、別荘の周辺を一緒に散歩し始めたのである。
「おじ様との訓練は、今日の午前中までだったんだよね?」
「あの紳士、ホント鳴海の父親とは思えないよ。性格や雰囲気もだけど、訓練の仕方もあの鳴海とは全然違う感じだったな。まぁ午後からは俺たちだけで合宿の仕上げして、鳴海のテスト対策を立てる予定だよ。見てろ、絶対に今度こそ鳴海の野郎を見返してやるからなっ」
気合を入れるようにそう呟き、拓巳はグッと拳を握る。
眞姫は栗色の瞳を細め、コクンと頷いた。
「みんな合宿頑張ってたもんね。鳴海先生のテストも頑張ってね、拓巳」
「おう、ありがとな。でも姫も、ひとりですごく頑張ってたじゃねーか。かなり“気”を集めるのも慣れたんじゃないか? まぁ今日の午後で訓練も終わるしな。明日は帰るまで時間あるしパーッと遊ぼうぜ」
「明日も晴れたらいいよね、ピクニックみんなで行く予定だもんね。それに詩音くんのお母様に、いろいろお料理も教えて貰ったんだ。明日はお弁当頑張って作るから、楽しみにしててね」
眞姫は楽しそうにそう言って拓巳に笑顔を向ける。
そんな彼女に嬉しそうな笑みを返し、拓巳ははしゃいだように言った。
「おっ、弁当作ってくれるのか? 姫は料理上手いからな、楽しみにしてるよ」
それから拓巳はふと視線を遠くに向け、何かに気がついたように急に立ち止まった。
そして漆黒の瞳を眞姫に向けると、こう言葉を続けたのだった。
「おい姫、あそこ見てみろ。湖にボートあるけどよ、乗らないか?」
「ボート? あ、本当だね。行ってみようか」
拓巳の指差した方向に目をやり、眞姫はパッと表情を変える。
彼の言ったように、別荘のそばにある湖に一艘の手漕ぎボートがあるのが見えたのである。
ふたりはそのボートがある位置まで歩み寄った。
拓巳はボートにひょいっと乗り込んだ後、眞姫に手を差し出す。
「ほら姫、手ぇ貸してやるよ。大丈夫か?」
「ありがとう、拓巳」
眞姫は彼の手に掴まり、湖に浮かぶボートに乗った。
拓巳は彼女が座ったのを確認してから、ボートを繋いでいるロープをスルスルと外す。
それからオールを手にし、ニッと笑った。
「よーし、ビュンビュン漕いでやるからな。しっかり掴まってろよっ」
「ふふっ。うん、期待してるから頑張って、拓巳」
眞姫はやる気を出す拓巳の様子に笑い、ゆっくりと動き出した景色を見る。
そして、思い出したように言った。
「そういえば拓巳とボートに乗るのって、これで2回目だよね」
「そうだな。高1の時に一緒にボート乗ったよな」
拓巳は次第に漕ぐ速度を上げながらも、彼女の言葉に頷く。
以前拓巳は、眞姫とこうやってふたりでボートに乗ったことがあった。
だがその時は、人も多い休日の森林公園だった。
でも、今は……自分たちしかいない、静かな森の湖畔。
微かにする水音だけが、耳に聞こえている。
急に眞姫と今ふたりきりだと意識した拓巳は、周囲の景色に目を向けている彼女の横顔をじっと見つめた。
夏の陽光に照らされた彼女の肌は健康的で、透き通るように白い。
唇はほのかなピンク色をしており、瑞々しく潤っている。
ふわりと揺れる髪と景色を映す大きな瞳は、綺麗な栗色を帯びていた。
拓巳は思わず漕ぐ手を止め、目の前の彼女に見惚れてしまう。
「拓巳?」
急に動きの鈍くなったボートの様子に気がつき、眞姫は小首を傾げてふと彼に視線を向けた。
突然大きな瞳が自分に向けられ、拓巳は思わずドキッとしてしまう。
彼が漕ぐことを止めたため、ふたりの乗ったボートはちょうど湖の真ん中あたりの場所でその動きを止める。
シンとした静寂が、一瞬ふたりの間に生まれた。
拓巳はひとつ小さく深呼吸をし、改めて真っ直ぐに彼女を見つめる。
それから、意を決したように口を開き始めた。
「姫、あのな。俺は、高校入ってからずっと……」
――その時だった。
バシャッとボートのすぐ近くで、突然大きな水音がした。
「! きゃっ!」
眞姫はその水音に驚きの声を上げ、ビクッと身体を奮わせる。
それと同時に、不安定な水の上にあるボートが左右に大きく揺れた。
「姫っ」
拓巳は腕を伸ばし、咄嗟に彼女の身体を自分の胸に引き寄せる。
そしてそのまま、ボートが安定を取り戻すのを待った。
それは時間にして、数分もなかったのだが。
眞姫にとってその時間は何故か異様に長く感じられ、胸がドキドキと鼓動を早めていた。
「びっくりしたな、急に魚が跳ねるんだからよ。姫、大丈夫か?」
「え? あ、う、うん。ちょっとびっくりしたけど、大丈夫」
照れたように俯きつつ、眞姫は慌てたように首を縦に振る。
それから顔を赤くしながらも、申し訳なさそうに彼から離れようとした。
……だが。
拓巳はぐいっとさらに強く彼女を引き寄せ、その小さな身体を離さなかった。
眞姫は思いがけない彼の行動に驚き、思わず固まってしまう。
そんな彼女の耳元で、拓巳は再びゆっくりと言ったのだった。
「俺はな、姫。高校入ってから、ずっと……」
耳をくすぐる彼の声に、眞姫は再び胸の鼓動を早める。
――その時だった。
「!」
「……!?」
ふたりは同時にお互いから離れ、瞳を見開く。
拓巳は数度瞬きをした後、ポケットで着信を知らせてブルブルと震えだした携帯電話を取り出した。
それからはあっと大きく嘆息し、受話ボタンをピッと押す。
「な、何だよ。ど、どうしたんだよ?」
『どうしたんだよじゃないよ。昨日の夜、僕の携帯の充電器勝手に使っただろう? その後どこに置いたの? 見当たらなくて困ってるんだけど』
「あ、ああ。充電器なら、俺の部屋にあると思うぜ?」
電話の相手は、別荘にいる准だった。
拓巳は動揺を必死に隠しつつも、そう准の言葉に答える。
だが准はそんな拓巳の様子に目ざとく気がつき、怪訝気に彼に訊いた。
『そう。ていうかさ、拓巳……今、どこにいるの?』
「えっ? い、今か? ちょっと、気分転換に外にいるんだけどよ」
『外? もうすぐ午後の訓練始まるんだから、遅れないようにさっさと帰ってきてよね。じゃあ、そういうことだから』
冷たくそれだけ言い放つと、准は携帯電話を切った。
拓巳は漆黒の前髪をザッとかき上げてから、携帯電話を閉じる。
それから目の前で小首を傾げている眞姫を見て、仕方なく言った。
「姫、そろそろ別荘に戻るか」
「あ、うん。そうだね」
拓巳の言葉に頷き、眞姫は腕時計を見る。
拓巳は再びオールを手にし、もう一度大きく溜め息をついた。
自分の気持ちを彼女に伝える、絶好の機会だったというのに。
思わぬ邪魔が入り、拓巳はそっと肩を落とした。
だがまた彼女とふたりきりになれる機会もきっとあるだろうと、拓巳は自分に言い聞かせる。
それから気を取り直したように顔を上げると、半ばヤケになったように言ったのだった。
「よーし、こうなったら、岸まで目いっぱいビュンビュン漕いでやるからなっ」
「えっ? ……きゃっ」
眞姫は突然動き出したボートに、一瞬瞳を見開いた。
だがすぐに、スピードを上げて動き始めた景色を楽しそうにその目に映す。
力を込めてボート漕ぎながら、拓巳はそんな無邪気な彼女の様子を見つめた。
好きな人と――こうやって、ふたりだけでいられる時間がある。
そして眞姫が、自分と一緒の時に笑ってくれる。
それだけでも、心が満たされることは確かである。
拓巳はふっと満足そうに笑い、漆黒の瞳を嬉しそうに細めた。
それからニッとその顔に笑みを宿すと、ボートを漕ぐ手に一層力を入れたのだった。