――夕方のオフィス街。
 空を赤に染め始めた夕陽を背に、カツカツとハイヒールを鳴らしながら颯爽と忙しい街を歩くひとりの女性。
 好んで着ている服装は派手なものであったが、彼女はそれに負けない華やかな容姿と色気を備えていた。
 そしてその女性・沢村由梨奈は、長いウェーブの髪をそっとかき上げてふと立ち止まった。
 急に歩みを止めた彼女を、足早にサラリーマンやOLが次々と追い抜いていく。
 だが由梨奈はそんな慌しい人の流れも気にせずに、目の前に現れた人物に真っ直ぐ視線を向けた。
「やあ、由梨奈」
 相変わらず耳に届く柔らかなその声は、昔から聞き慣れた心地の良い音色を奏でている。
 数年前はその声で何度名前を呼ばれたか、もう数え切れない。
 でも、今は……。
 由梨奈はふっと美人な顔に笑みを湛え、彼に言葉を返した。
「あら、慎ちゃん。こんばんは」
 彼女の前に現れたのは、杜木慎一郎だった。
 吸い込まれそうな神秘的な漆黒の瞳に、サラサラの同じ色をした髪。
 完璧と言うに相応しい美しい容姿に宿る、優しくて物腰柔らかな微笑み。
 そして見る者を惹きつけて止まない、生まれ持ったカリスマ性。
 彼女の愛した彼の姿が、そこにはあった。
 だが……自分が愛していた頃の彼と、大きく異なること。
 それは彼の身体から感じる、強大な“邪気”。
 彼本来の柔らかな印象と同時に、ゾクリと鳥肌が立つような見えない威圧感も感じるのだ。
 杜木はゆっくりと由梨奈に近付き、ふっと目を細めた。
 そして、こう口を開く。
「由梨奈。おまえとふたりきりで、話がしたかったよ」
 ――その瞬間。
「!」
 由梨奈はハッと顔を上げて僅かに表情を変える。
 だがすぐに、目の前の杜木に視線を戻した。
「“結界”を張るなんて強引ね、慎ちゃん。ふたりで話なら、その辺のお洒落なお店ででも出来るでしょ?」
 強大な“邪気”の充満する“結界”に怯む事もなく、由梨奈はそう彼に言葉を投げる。
 杜木は彼女らしいその言葉に笑って、そっと腕を伸ばした。
 そして、彼女の流れるようなウェーブの髪を愛おしそうに撫でる。
「おまえのそういうところがまた好きだよ、由梨奈」
「それで、話って何かしら?」
 小さく首を傾げて、由梨奈はわざとつれなく言った。
 由梨奈の問いに、杜木は彼女の髪から手を外す。
 それから、こう話を切り出したのだった。
「由梨奈。前にも言ったが、俺は今でもおまえのことを愛している。俺の元に戻って来て欲しい」
「……慎ちゃん」
 由梨奈は彼の言葉に、ふっと溜め息をつく。
 そして、大きく首を振ってはっきりと彼に告げた。
「私も言ったはずよ。私は“能力者”として生きていくと決めたの。だから“邪者”である慎ちゃんとは、もう同じ方向には歩いていけないって」
「どうして“邪者”と“能力者”は同じ方向に歩けない? 俺たち“邪者”は、何も“浄化の巫女姫”である彼女に危害を加えるつもりはない。むしろ、彼女の秘めたる能力の可能性を広げようとしているんだよ。それに“邪者”と“能力者”は敵同士だというそんな固定観念など、俺たちが壊していけばいい。それに囚われてばかりだと、何も進歩しない。違うかい?」
「違うわ。慎ちゃんも“能力者”だったんだから、分かるでしょう? “邪者”がやろうとしていることは、“能力者”にとっては阻止すべきことなのよ。なのに、どうして同じ方向に歩いていけるの? それに……」
 そこまで言って、由梨奈は一瞬言葉を切る。
 それからぎゅっと手の平を握り締め、続けた。
「それにこの5年間、私やなるちゃんがどんな気持ちだったか……慎ちゃんが“邪者”になったって聞いた時どう思ったか……慎ちゃん、分かってるの?」
「由梨奈」
 深い黒を帯びる両の目に由梨奈の姿だけを映し、杜木は短く彼女の名を呼ぶ。
 由梨奈は強い意思の宿る眼差しを真っ直ぐに彼に向けた。
「それにね、もう慎ちゃんは、私にとっては過去の男。確かに貴方は最高の男だし、慎ちゃんよりもいい男なんていないわ。でも、もう私と慎ちゃんの関係は終わってるのよ」
「終わっている? 俺はそうは思っていないよ。もし終わっていたとしても……また始めればいいだけの話だ」
 杜木はそう言って、スッと彼女の顎にしなやかな指を添える。
 そして瞳を伏せ、綺麗な顔を彼女にゆっくりと近づけた。
 だが――杜木の唇が由梨奈のものと重なる、その直前。
「……!」
 パシンッと短く音が鳴る。
 由梨奈の平手が、彼の頬を捉えたのだった。
 由梨奈は手を収めてから、杜木に視線を投げる。
「慎ちゃん、一度壊れた関係をそう簡単にまた始められたりなんてできない。それに、私たちが慎ちゃんから離れて行ったんじゃないわ。“邪者”になった時点で、慎ちゃんが私たちから背を向けて歩き出したのよ? なのに、また同じ道を歩こうだなんて……勝手よ」
「相変わらず頑固だな、おまえは」
 ふっと笑みを宿し、杜木はそっと漆黒の前髪をかき上げた。
 それから、髪と同じ色の目をおもむろに細める。
 ――その瞬間。
「!」
 由梨奈はハッと表情を変え、瞳を大きく見開いた。
 刹那、由梨奈の髪がふわりと揺れたかと思うと。
 唸りを上げた漆黒の光が、彼女の美しい顔すれすれの位置を通過したのだった。
 それと同時に、大きな衝撃音が響き渡る。
 そしていつの間にか杜木から放たれた“邪気”が、彼女の後方の景色をあっという間に吹き飛ばしていた。
「何度も言うが、俺はおまえを愛している。俺におまえを殺させるようなことはしないでくれ」
「本当に勝手なことばかり言うのね。それに慎ちゃんは、私のことを殺せやしないわ。愛している女に手を下せるような人じゃないもの」
 杜木の纏う“邪気”の大きさを全身で感じながらも、由梨奈は怖気づくこともなく凛とした態度で彼にそう言った。
 杜木はそんな彼女の様子に、左右に首を振る。
 それからふっと、彼女の細くて長い首に両手を掛けた。
「確かに、今の俺におまえを殺すなんてできない。だが……これから先、このままおまえが俺の元に戻って来ないというのなら、いっそこの手で殺してしまった方がいいと思うかもしれないよ。そうだろう?」
 力こそ入れてはいないが、杜木は由梨奈の首に掛けた両手で彼女の首を絞める仕草をする。
 由梨奈はそんな彼から目を逸らさず、口を開いた。
「どうであれ、私は“能力者”として自分の決めた道を真っ直ぐに歩いていくだけよ。それは、これから先もずっと変わらないわ」
 杜木はようやく由梨奈の首から手を外すと、彼女とは逆に綺麗な顔に微笑みを浮かべる。
「おまえのことはよく分かっているからな、そう簡単に俺の元へ戻って来るなんて思っていないよ。でも今日会って、おまえのことを諦めるどころか……ますます、好きになったよ」
「慎ちゃんほどのいい男にそう言ってもらえるのは光栄だけど、困ったわね。いい女ってのもツライわね」
 ふっと悪戯っぽく笑みを宿し、由梨奈はザッと長い髪をかき上げた。
 そんな彼女の様子に漆黒の瞳を細めた後、杜木はスッと“邪気”を纏った手を天に掲げる。
 それと同時に“結界”が解除され、慌しいオフィス街の喧騒が戻ってきた。
「由梨奈。今度は、お洒落な店でお茶でもしよう」
 杜木は優しく由梨奈の髪を撫でてから、軽く手を上げて歩き出す。
 そして一度だけ振り返り、こう続けたのだった。
「将吾にも、よろしく伝えておいてくれ」
 由梨奈は去っていく杜木の後姿を黙って見送る。
 それから彼の姿が人波に消えたのを確認して、背後に目をやった。
「聞いてたと思うけど。慎ちゃんがね、なるちゃんによろしくって」
「…………」
 由梨奈の言葉に、いつの間にかその場に現れた彼・鳴海先生は無言で俯く。
 そんな先生に笑顔を向け、由梨奈は瞳を細める。
「もしかして、私のこと心配して来てくれたの? なるちゃん」
「心配? 杜木の“結界”を感じたから、来ただけだ」
 相変わらず淡々とそれだけ言う鳴海先生に、由梨奈は笑う。
「じゃあせっかくだから、美味しいディナーでも一緒にどうかしら? こんな美人人妻と食事できるなんて、なるちゃんの幸せ者っ」
 無邪気にそう言う由梨奈を見て、先生はふうっと嘆息する。
 それから切れ長の瞳を彼女へ向け、言った。
「由梨奈、大丈夫か?」
「大丈夫って何が? この通り、何ともないわよ。さ、どこかに入りましょ」
「…………」
 由梨奈は大袈裟に首を傾げた後、先生を促すように彼の腕を引く。
 鳴海先生はそんな明るく振舞う彼女の様子を見つつも、敢えてそれ以上何も言わなかった。
 そして由梨奈の言うままに、すっかり夜の様相に変わった賑やかなオフィス街を歩き出したのだった。
 ――同じ頃。
 由梨奈と分かれた杜木は、ふと立ち止まる。
 そんな彼の視線の先には。
「杜木様……」
 自分と由梨奈が一緒にいることを感じたのだろう。
 駆けつけたつばさの姿が、そこにはあった。
 そして彼女のそばには智也もいた。
 杜木は複雑な表情をしているつばさのそばに歩みを進め、宥めるように優しく彼女の頭を撫でた。
 つばさはその大きな手のぬくもりに嬉しそうに微笑みつつも、まだ少し不安気に彼の整った顔をじっと見つめている。
 智也は何も言わなかったが、彼女の想いを知っているだけに、心配そうにつばさの様子を見守っていた。
 杜木はつばさの腰をそっと抱いた後、智也に目を向ける。
 そして、普段通りの柔らかい声で言ったのだった。
「どこかでお茶でもしようか、ふたりとも」




 ――その日の夜。
 夕食の済んだ少年少女たちは、それぞれ宛がわれた自室へと戻っていた。
 眞姫は風呂上りの髪を丁寧に乾かして梳かした後、おもむろに月明かりの差し込める窓辺に立つ。
 それからふと大きなブラウンの瞳を閉じると、意識を集中させた。
 それと同時に、彼女の身体に淡い“気”の輝きが宿る。
 眞姫は胸の前に両手を翳し、その手の内に光の球体を作り出した。
 そして瞳を開き、満足そうに綺麗に弧を描く“気”に目をやった。
 この合宿に来ていろいろな文献を見たり、紳士たち“能力者”に指南を受けたりし、眞姫は以前よりも難なく“気”を集めることができるようになったのである。
 まだ少年たちのように自由自在に操ることはできないが、かなり“気”を扱うことに慣れてきたのは確かだ。
 眞姫は手助けをしてくれた紳士や少年たちに感謝しながらも、さらに頑張らないといけないと改めて感じる。
 それから作り出した“気”を消滅させた後、椅子に座って書庫から持ってきた本をパラパラとめくった。
 ――その時だった。
 トントン、とドアをノックする音が聞こえ、眞姫は再び立ち上がる。
 そして、ドアをゆっくりと開けた。
「あ、どうしたの?」
 相手を確認した眞姫はにっこりと微笑み、小さく首を傾げる。
「まだ寝るのには早い時間だし、一緒に少し外でも散歩しないかと思って」
「そうだね、今日は天気もいいし。行こうか」
 眞姫は自分の部屋を訪れてきた相手にそう答えて頷いた。
 そんな彼女に、その彼・健人は綺麗な顔に小さく笑みを宿す。
 健人の言うようにまだ就寝するにはかなり早い時間だったが、広い別荘の中はシンと静まり返っている。
 そんな長くて広い廊下を並んで歩き、ふたりは洋館の外へと足を向けた。
 外に出るやいなや、生ぬるい風が眞姫の栗色の髪を揺らす。
 その度に、風呂上りの彼女の髪からシャンプーのほのかな良い香りがした。
「雲ひとつない、いい天気だね。あんなにお月様も明るいよ」
 眞姫は夜空を見上げ、優しい輝きを放つ月を見つめた。
「ああ、そうだな」
 彼女の言葉に頷きつつも、健人は満足そうに青い瞳を細める。
 そんな健人のブルーアイは、満天の星月夜ではなく隣の眞姫の姿だけを映していた。
 何も遮るもののない月明かりが、彼女の全身をふわりと照らす。
 健人は彼女と歩調を合わせて歩きながら、ふたりだけのこの時間に微笑む。
「あっ、ねぇ、あそこにちょっと座ろうか」
 眞姫はそう言って、備え付けてある少しゴージャスなデザインのベンチを指差した。
「姫、寒くないか?」
 ベンチに座った後、健人は自分の着ている上着を脱いで彼女にそっと掛ける。
 季節は真夏とはいえ、別荘の佇む夜の森の中は涼しいくらいだった。
「ありがとう、健人」
 眞姫は彼の気遣いに笑顔を見せ、少し照れたように髪をかき上げる。
 肩に掛けられた上着から、じわりと彼のぬくもりが肌に伝わった。
 健人は彼女に笑みを返した後、まずは何気ない世間話から始める。
「姫、調子はどうだ? かなり“気”もスムーズに集められるようになったみたいだけど」
「うん、でもまだまだ勉強しなきゃいけないこともたくさんあるなって思ったよ。健人はどう? おじ様に見てもらってるんでしょ?」
「ああ。あの紳士の訓練は鳴海先生のものと随分違うから、何だか新鮮だよ」
「それにしてもおじ様と先生って一見雰囲気違うから、親子って信じられないよね」
 楽しそうに笑って、眞姫は小さく首を傾ける。
 健人は彼女の言葉に頷き、そして彼女に訊いた。
「そういえば、姫は前からあの紳士と知り合いなんだろう?」
「初めておじ様に会ったのは、高校入ってすぐくらいだったかな? でも最初はおじ様が、あの鳴海先生のお父さんだって知らなくて。それに詩音くんと先生が従兄弟だって聞いた時は、本当に驚いちゃった」
「あの紳士と詩音は似てるけど、先生は対極なタイプだからな」
 そう言った後、健人はちらりと眞姫の様子を窺う。
 彼女は普段通り、屈託ない笑顔で楽しそうに話をしている。
 健人は小さくひとつ息をつき、それからゆっくりと彼女にこう訊いたのだった。
「姫はまだ、好きなヤツっていないのか?」
「え?」
 思わぬ健人の問いに、眞姫は瞳をぱちくりとさせる。
 そして少し考える仕草をし、答えた。
「特定の人は、まだいないかな……やっぱり今はまだ、自分のことで精一杯だから」
 そう言った後、眞姫は少し寂しそうに続ける。
「でも梨華とか見てたらね、好きな人がいるっていいなってすごく羨ましくは思うんだ。恋する女の子ってキラキラしてて、可愛いし」
 元々眞姫は、それほど器用なタイプではなさそうである。
 今“浄化の巫女姫”としての運命を受け入れようと一生懸命な彼女に、恋をする余裕がないことは健人にもよく分かっていた。
 だが……。
 健人は優しく眞姫に笑みを向け、それからこう彼女に言った。
「自分から見つけることも、ひとつの方法だけど……与えられる想いを受け入れてみるのも、ひとつの恋の始まりとしてはあるんじゃないか?」
「健人……」
 眞姫はその言葉を聞いて、ふと健人に視線を向ける。
 それと同時に、思わずドキッとしてしまった。
 彼の綺麗な両の目が、真っ直ぐに自分だけを見つめていたからである。
 健人は風に揺れる彼女の髪をそっと耳にかけた後、再び口を開いた。
「姫、俺は……」
 風が止み、彼の声だけが眞姫の耳に響く。
 ――その時だった。
「!」
「あ……」
 眞姫はビクッと驚いたように身体を震わせ、慌ててスカートのポケットを探る。
 そして突然鳴り出した携帯電話を取り出すと、申し訳なさそうに健人を見た。
 健人はそんな彼女の様子に、コクンと頷いて作った笑みを向ける。
 眞姫は軽く手を合わせてから、電話に出た。
「もしもし? ……あ、うん、元気に楽しくやってるよ。明々後日に帰るから」
 どうやら、眞姫の家族からの電話のようである。
 健人は仕方ないように金色に近い色をした髪をかき上げ、大きく嘆息する。
 だが気を取り直し、電話で会話をする彼女を見つめた。
「ごめんね、健人」
「別に気にしてないよ。そろそろ戻るか?」
 電話が終わった彼女に、健人はそう言葉を掛ける。
 眞姫は彼の心境も知らず、無邪気な笑顔で頷いた。
 それから別荘に戻りながら、健人に言った。
「それにしても健人って、見かけによらずすごくロマンティストよね。見つける恋だけじゃなくて、与えられて受け入れる恋……それも何だか、小説みたいで素敵ね」
 まさか自分に対して言われていたこととは思ってもいない眞姫は、ほうっと夢見心地に呟く。
 健人は毎度のことながらも、そんな彼女の様子にそっと嘆息した。
 鈍いところも、彼女らしいといえば彼女らしいのであるが。
 これで気がつかないなんて、天然小悪魔もいいところだ。
 そう思いつつも、健人はふっとその顔に小さな笑みを取り戻す。
 今はまだ、自分の想いを伝えるには早いのかもしれない。
 健人はポンッと眞姫の頭に手を添えると、少し乱暴に彼女の頭を撫でる。
「あっもう、健人ってばっ」
「ほら、ボーッとしてないで戻るぞ」
 少し乱れた髪を慌てて手櫛で整える眞姫に、健人は青を帯びる瞳を細めた。
 自分の隣で、彼女が笑っている。
 今はそれだけでも、十分幸せなのだから。
 それからふたりは、仲良く並んで別荘に戻り始める。
 そして淡い輝きを放つ月に見守られている、真夏の夜。
 ふたりの楽しそうな声だけが、美しい星月夜に響いていたのだった。