――次の日。
 前日と同じように、午前中の自主訓練を終えて午後トレーニングルームに集められた少年たちは、自分たちを呼んだ紳士の到着を待っていた。
「今日はどんな魔法使って訓練するんやろーな、あの上品なオジサマ」
 祥太郎は時計をちらりと見て、すでに指定の時間を過ぎたのを確認しつつ口を開く。
 拓巳はそんな祥太郎の言葉に頷いた後、漆黒の前髪をザッとかき上げた。
「あーでもよ、昨日は相当悔しかったなっ、くそっ」
 結局昨日の訓練で、少年たちは幻影の鳴海先生を消滅させることができなかったのである。
 なかなか善戦はしたものの、紳士の“空間”を力で破るには至らなかった。
 “空間”が一定制限時間を超え、そこで幻影との手合わせは終了したのだった。
 悔しそうに呟く拓巳に、准はふっと嘆息する。
「でもあのおじ様、鳴海先生の父親なだけあってすごい人だよね。雰囲気は先生と全く違うけど」
「あの幻惑の先生の動き、まるで本物みたいだった。ていうか、先生と似てないっていうよりも詩音に似てるよ、あの人」
 健人はそう言って、ブルーアイを詩音に向けた。
 詩音は相変わらず穏やかな笑みを絶やさず、健人ににっこりと笑顔を返す。
「そうかい? あの伯父様に似ているなんて光栄だな、王子は」
「本当に今回は詩音に感謝しているよ。場所も提供してもらえて、あのおじ様にも偶然協力してもらえるような機会も作ってくれて」
 改めて准は詩音に礼を言うと、小さく微笑む。
 そんな准の言葉に、詩音はふっと笑った。
「偶然、ね……そうだね、喜んでいただけて王子も嬉しいよ、騎士」
 ――その時だった。
「やあ、お揃いかな。今日もとても天気が良くて気持ちがいいね、騎士たち」
 穏やかな声がトレーニングルームに響き、少年たちは声の主に視線を移す。
 もちろんその場に現れたのは、上品な笑みを宿した傘の紳士だった。
 姿をみせた瞬間にピリピリとした緊張感が漂う鳴海先生と違い、やはり紳士の様子は今日も物腰柔らかで時間にもおおらかである。
「待たせてすまなかったね。この辺りは、都会ではお目にかかれない鳥もたくさんいてね。ついつい小鳥たちとの会話が弾んでしまったよ」
 ふふっと楽しそうに笑う紳士の様子に、少年たちは瞳をぱちくりとさせる。
 そして思ったのだった。
 やはりこの人と詩音は、間違いなく血縁だと。
 だが逆に、あの悪魔のような鳴海先生の父親だなんて到底信じられないとも。
 そんな緊張感が全くない雰囲気の中、紳士は改めて少年たちに目を向ける。
 それから、こう話を切り出したのだった。
「ところで拓巳くん、昨日の私との訓練はどうだったかな?」
 突然振られ、拓巳は漆黒の瞳を大きく瞬きさせる。
 だがその後、すぐにこう答えた。
「幻影を消滅させられなくて、めちゃめちゃ悔しかったな。あの鳴海の姿だったから、余計にだよ」
「なるほど、いい心意気だよ。その悔しい気持ちがもっと君たちを強くするだろうね」
 満足そうにそう言った後、紳士は今度は健人に訊く。
「ところで、何故君たちが昨日あの幻影を消すことができなかったか。その理由、健人くんはどうしてだと思う?」
「どうして消滅させることができなかったか……単純に考えれば、俺たちの力が足りなかったからか?」
「とはいえ、君たちのレベルは高いよ。基礎もきっちりできているし、実戦にもある程度慣れている。では、どうすればその高い能力をもっと高めることができるか。准くん、そのためにはどうすればいい?」
 健人から准に視線を移し、紳士はにっこりと微笑む。
 准は少し考えた後、彼の問いにこう答えた。
「自分自身の能力や力量をしっかりと理解し、訓練と経験を積んでいくことが必要じゃないかと。そう思います」
 優等生な彼らしい准の発言に小さく頷き、紳士は今度は祥太郎に目を向ける。
「君たちと同じ年頃の子は、今頃夏休み真っ只中で楽しく遊んでいるだろうね。だが君たちはこうやって訓練をしなければならない。どうしてだろうって、そう疑問に思ったことはないかい?」
「んー正直、何でこんなコトしとるんやろって思うこともあるけどな。でもまぁ幸か不幸か俺は“能力者”やし、何よりも可愛いお姫様をハンサムな騎士が守ってやらないかんからな」
 祥太郎のその言葉に、他の少年たちも大きく頷く。
 自分たちには、守りたい大切な人がいる。
 確かに“浄化の巫女姫”である眞姫を守ることが、“能力者”である自分たちの使命のひとつではあるのだが。
 それ以前に、ひとりの男として、誰でもない自分が彼女のことを守ってやりたい。
 そう、少年たちはそれぞれが強く思っていた。
 それに確かに鳴海先生の指導は厳しく、心身ともにボロボロになることもあったが。
 同じ境遇の気の合う仲間と一緒にいる時間が、結構楽しくもあったのだった。
 詩音は自然といい表情に変化している少年たちを見つめ、綺麗な顔に柔らかな微笑みを宿した。
 その後、息子と同じ色のブラウンの瞳を細めてから、紳士は再び口を開いた。
「君たちは、本当にいい少年だね。では、今日の訓練を始めようか」
 紳士はそう言うなり、近くの椅子に座る。
 それからこう言ったのだった。
「今日は、ふたりずつに分かれてもらう。准くんと拓巳くん、健人くんと祥太郎くんでペアになってもらおうか。詩音くんは今回は“空間能力”を高める訓練をしてもらうから、別メニューだよ」
「ふたりずつで? それで、一体何をするんだ?」
 拓巳は紳士の提案に首を捻る。
 その言葉に笑みを返し、紳士は続ける。
「それぞれ、ふたりで自由に訓練してもらうだけだよ。どんなことをしてもらってもいいし、好きに休憩も取ってもらっても構わない。ただひとつだけ、条件があるがね」
「条件?」
 健人は青い瞳を細め、紳士に目を向けた。
 紳士は頷いた後、こう少年たちに訓練の条件を出したのだった。
「拓巳くんは、一切この時間の訓練で攻撃をしてはいけないよ。“気”においても体術においてもね。准くんはその逆で、攻撃だけに徹すること。健人くんと祥太郎くんは、それぞれ5分おきに攻守を交代するように。最初の5分間攻撃のみだった騎士は、次の5分間は防御に徹する、そういうことだよ。詩音くんには、別に“空間能力”を使った課題を与えるよ」
「げっ、ずっと攻撃禁止だって!? うそだろっ」
 拓巳は紳士の訓練内容を聞いて、瞳を大きく見開く。
 そんな拓巳をちらりと見て、准はにっこりと作り笑いを浮かべた。
「そういうことみたいだね。よろしく、拓巳」
「……その思いっきり似非な笑顔がコワイんだよ、おまえは」
 はあっと嘆息し、拓巳はぼそっとそう呟く。
 それから紳士は、近くにあったゴージャスなアンティークの砂時計を健人に手渡した。
「時間の計測は、この砂時計を使うといいよ。トレーニングルームはこの階の反対側の部屋がここと同じくらいの広さだから、そこを使うといい」
「んじゃ、青い瞳の騎士殿っ。ハンサムくんと仲良うしてなーっ」
 ぽんぽんっと健人の肩を叩き、祥太郎はニッと笑う。
 健人はそんな祥太郎の言葉に溜め息をつき、スタスタと歩き出した。
「仲良くはともかく、移動するぞ」
 そう言ってトレーニングルームを出て行く健人と祥太郎を見送った後、詩音は紳士に視線を戻す。
「それで伯父様、王子への課題とは何かな?」
「ここでは少し都合悪いからね。場所を移動して、君への課題の内容を説明するよ。それでは騎士たち、失礼」
 そう言うと紳士は詩音を伴い、准と拓巳に微笑みを向けてトレーニングルームを後にした。
 そんな彼らを見送った後、拓巳は小さく首を傾げる。
「あの紳士、本当に鳴海の父親かよ? 信じられないぜ、あの悪魔と性格も雰囲気も対極じゃねーか?」
「確かに似てないよね、親子なのに。それよりも拓巳、さっさと始めるよ」
 時計に目をやった後、准はふっと嘆息してそう言った。
 拓巳は漆黒の前髪を無造作にかき上げた後、そんな准の言葉に頷いたのだった。




 ――同じ頃。
 賑やかな繁華街の喫茶店で、綾乃は満足そうにケーキを口に運んでいた。
「あー美味しいっ。2個目はどれにしよっかなーっ」
「まだ食う気か? さっき昼食べたばかりなのに、よく入るよな」
 感心したような呆れたような様子でそう言って、綾乃と一緒にいる少年・智也は苦笑する。
「甘いものは別腹、でしょ? 綾乃」
 紅茶をひとくち飲んで、慣れたように同じく一緒にお茶をしているつばさは次のケーキを選んでいる彼女に目を向けた。
 それから小さく息をつき、こう続けたのだった。
「それで綾乃、今日はどうしたのかしら? いきなり呼び出して」
「んー? ここのケーキ食べたかったからさっ」
「それだけかよ、おい」
 抜かりなくツッコミを入れる智也に微笑んでから、綾乃は店員を呼びつけて2個目のケーキを注文する。
 そしてテーブルに頬杖をつき、ふっと漆黒の瞳を細めて言った。
「智也愛しの眞姫ちゃん、1週間くらい旅行でこっちにいないんだって」
「眞姫ちゃんが? それは残念だなぁ、彼女と久々にデートしたかったのにな」
「それにね、祥太郎くんもやっぱり1週間こっちにいないんだって」
 綾乃はそれから、つばさに視線を向ける。
「ま、単なる偶然かもしれないけど。ねぇつばさちゃん、試しに今この付近に“能力者”が誰かいないか、探ってみてもらえないかな?」
「今? ええ、それは構わないけど。でも“空間能力”を使っても、せいぜい繁華街とその周辺程度の範囲しか探れないわよ?」
「うん、それでも全然オッケーだよ。でもせっかくの夏休みなのに、誰も繁華街にいないってコトはないんじゃなーい?」
「おまえはいつも、繁華街フラフラしすぎなんだよ。でもまぁ、どんな結果が出るか興味はあるな」
 テーブルに頬杖をつき、智也も興味深そうにつばさに目を移した。
 つばさはそんなふたりの言葉を聞いてから、おもむろに漆黒の瞳を閉じる。
 その瞬間、ボウッと淡い光が彼女の身体から立ち上る。
 そして数秒後、再びつばさはその目を開いた。
「なかなか面白い結果が出たわよ、ふたりとも」
 そう言って小さく微笑んだ後、彼女はこう続けたのだった。
「繁華街とその周辺に“能力者”の気配は一切感じられなかったわ。“邪者四天王”は、3人も繁華街にいるのにね」
「3人?」
 その言葉に、智也は首を傾げる。
 つばさは頷き、もうひとくち紅茶を飲んで言った。
「ええ。渚も偶然このすぐ近くにいるようよ」
「渚が? メールしてみるか」
 智也はそう呟き、携帯電話を取り出してメールを打ち始める。
 そんな智也を見てから、綾乃は長い髪を弄り頷いた。
「やっぱりね、“能力者”誰もいないんだ……」
「まぁ、本当に偶然繁華街付近にはいないっていうだけなのかもしれないけれど。でも“浄化の巫女姫”がしばらくいないっていうだけでも、杜木様にご報告する価値はあるわね」
 冷静にそう言った後、つばさはふと顔を上げる。
 それと同時に店に姿を現したのは。
「お、来た来た。本当に近くにいたんだな」
「げっ! つばさもいるのかよっ。てか、この僕はおまえら暇人と違って忙しいんだからな。もちろん当然おまえらの奢りだろ?」
 その場に現れたその少年・渚の相変わらずな様子のに苦笑してから、智也は気を取り直して笑う。
「だっておまえ、つばさちゃんがいるって言ったら来ないって言うだろーが。ま、座れよ」
「おまえに言われなくても座るっての。てか綾乃、また甘いものバカみたいに食ってるのかよ」
「いつ会ってもその生意気な口は治らないのねぇ、渚」
 綾乃は渚の毒舌にも構わず、パクッと美味しそうにケーキを口に運んだ。
 つばさはあからさまににっこりと作った笑顔を渚に向け、彼にわざとらしく言った。
「ご機嫌いかがかしら、渚。私がいたら、何か不都合でもあるの?」
「つばさ……決まってるだろ、いつだって不都合だよ。ピーピーうるさく説教されるんだからな」
「あら、ピーピー説教される要因を作っているのは、どこの誰だと思ってるのかしら?」
 その可愛らしい顔に似合わずしかめっ面をして、渚はつばさに言い返せず大きく溜め息をつく。
 それから八つ当たりのように、智也にじろっと大きな瞳を向けた。
「ていうか何やってんだよ、おまえら。まぁどーせくだらないコトなんだろーけど」
「くだらないこと? 眞姫ちゃんのこと話してたんだよ、渚」
 ニッと笑みを浮かべてそう言った智也に、渚は途端に表情を変える。
「清家先輩のことだって? 僕の清家先輩がどうかしたのか?」
「図々しいわねぇ、ホント。眞姫ちゃんみたいな可愛くていい子が、あんたみたいなガキ相手にするわけないじゃなーい」
 きゃははっと笑って、綾乃はアイスティーを飲んだ。
 その言葉にムッとした表情をしてから、負けじと渚は言い返す。
「あ? 僕ほどの完璧な人間こそ、清家先輩に相応しいんだよ。おまえこそ、その身の程知らずな口を慎めよな」
「はいはい、もうそれくらいにしとけ。それで結局、繁華街とその周辺に“能力者”はいなかったんだよな。それに眞姫ちゃんもしばらくいないし、少なくともあの関西弁の“能力者”もいないと。そういうことだな」
 渚と綾乃を宥めてから、智也は改めてそうまとめる。
「そうみたいね。ま、別に“能力者”がいないからってすぐに何かするワケじゃないんだけどさ、気になるよね」
 再びメニューを広げながらも、綾乃は漆黒の瞳を細める。
 つばさはそんな綾乃の言葉に頷き、それから少し考えるような仕草をして言ったのだった。
「でも……杜木様にご報告する価値はあるわね」




 ――その日の夜。
 夕食を終えた後、自室で本を読み終わった眞姫はふと時計に目をやった。
 それから大きく伸びをしてから1枚薄手のカーディガンを羽織り、本を小脇に抱えて部屋を出る。
 今日一日、鳴海先生の母である晶の膨大な日記をすべて読んだ眞姫だったが。
 改めて“浄化の巫女姫”の使命の重さ、自分の能力について考えさせられた。
 そして、彼女の家族に対する深い愛情も同時に感じたのだった。
 文面から見ると、紳士も言っているように鳴海先生と母である晶は性格も考え方もよく似ているようである。
 晶の日記を読んでいると、一見冷静で厳しい雰囲気を醸し出している反面、素直に自分の感情や考えを表に出すことが苦手な不器用な一面も見え隠れしていたのだった。
 眞姫は栗色の髪をそっとかき上げて小さく微笑むと、書庫に向けて進路を取る。
「明日からは、私も“気”の練習しなきゃ」
 眞姫は改めて決意を固めたように呟き、表情を引き締めた。
 夏休み前に鳴海先生からも“気”の鍛錬をしておくように言われていたため、今回の自主合宿で自分も“気”をもっと自在に使えるようになろうと。
 そう思って、この合宿に臨んだ眞姫だったが。
 その前にこの別荘の書庫に行ってみるといいと、紳士が勧めてくれたのである。
 そして理由が、眞姫にはよく分かったのだった。
 晶の日記はもちろん、この別荘の書庫には“能力者”や“気”について書かれている蔵書が多数あった。
 まずそれらを見ることによって、眞姫の中でもより理解が深まり、訓練のイメージもしやすくなったからである。
 眞姫は書庫の大きな扉の前に到着し、足を止める。
 それから扉を開けようと、ポケットから紳士に貰っていた書庫の鍵を取り出した。
 ……だが。
「あれ、鍵が開いてる……?」
 眞姫は数度鍵を回し、そう言って首を傾げる。
 自分が夕方ここを離れる際、鍵をかけ忘れたのだろうか。
 そう思いつつ、眞姫はゆっくりと書庫のドアを開けた。
 広い室内を、ほのかな明かりだけがぼんやりと照らしている。
 そして、その場にいたのは。
「あ、姫?」
 本棚に向けられていたその少年の目が、ふっと眞姫の姿を映し出す。
 眞姫は相手を確認し、にっこりとその顔に笑顔を宿した。
「あれ、准くん? どうしたの?」
「詩音に書庫があるって聞いてね、寝る前に本でも読もうかなって鍵を借りて来てみたんだよ」
 優しく眞姫に笑みを返して、その場にいた准はそう口を開く。
 書庫にあるのは“能力者”や“気”に関するものばかりでなく、普通の物語文学などの様々なジャンルの本が所狭しと並んでいた。
「そうなんだ、何か面白そうな本あった?」
「うん、いくつか読んでみたいなって思ってた本があったよ」
 眞姫と准は読書という共通の趣味があり、よく本の話題で盛り上がることも少なくない。
 眞姫は准のそばまで歩みを進め、本棚に目を向ける。
「それにしても、本当にたくさんの本があるよね。何だか嬉しい気分になるな」
「そうだね、姫」
 本に目を向け大きな瞳を輝かせる眞姫を見つめて、准は大きく頷いた。
 目の前の楽しそうな彼女の表情は、いつ見ても心が癒されるような感覚を覚える。
 思いがけず訪れたふたりだけの幸せな時間を噛み締めるように、准は瞳を細めた。
「あ、まずこの本を返さなきゃ」
 眞姫は思い出したようにそう言うと、持っている数冊の本を元あった本棚へと戻し始める。
 本をしまう彼女の栗色の髪が、ふわりと揺れた。
「姫、手伝おうか?」
 准は複数本を抱えている姫にそう言うと、彼女に近づく。
 ……その時だった。
「!? きゃっ!」
「姫っ!!」
 踏み台に乗って手を伸ばしていた眞姫が、一瞬バランスを崩す。
 咄嗟にそんな彼女に駆け寄り、准はその身体を間一髪で支えた。
 バサバサと音を立て、床に本が散らばる。
 だがそんな様子など気にも留めず、准は眞姫に声を掛けた。
「姫、大丈夫だった?」
「あっ、ごめんね。私、何やってるんだろ……ありがとう、准くん」
 慌ててそう礼を言い、眞姫は恥ずかしそうに俯いた。
 准は自分の腕の中にいる彼女の小さな身体をしっかりと抱き、柔らかな笑顔を宿す。
「ううん、姫に怪我がなくてよかったよ」
「准くん……」
 眞姫は顔を上げ、照れたように顔を赤らめた。
 それと同時に自分を支えている准の腕の感触が伝わり、お互いの体温が混ざり合うのを感じる。
 何だか妙に意識してしまい、眞姫はどうしていいか分からない表情を浮かべた。
「……姫」
 准は真っ直ぐに彼女に視線を向け、ふと彼女の名を呼ぶ。
 眞姫は准に視線を返し、大きな瞳で彼を見つめる。
 窓からうっすらと射し込める月明かりが、そんな眞姫の顔を照らしている。
 准はおもむろに瞳を閉じ、彼女の頬にそっと手を添える。
 そして――ゆっくりと、眞姫に顔を近づけたのだった。
 眞姫はそんな准の行動に驚いた表情を浮かべながらも、異様に早くなる胸の鼓動を感じ、動くことができなかった。
 ……その時。
「!」
「あ……っ」
 ふたりは同時に顔を上げ、ふっとお互いから離れる。
 書庫の大きな柱時計が、22時ちょうどの鐘を鳴らし始めたからである。
 まだドキドキといっている胸を押さえながら、眞姫は気持ちを落ち着かせようと小さく深呼吸をする。
 一瞬……准の唇が、自分のものと重なるのではないかと。
 そう思ってしまったのだが。
 でも自分と准は仲の良い友達で、そんなことあるはずがない。
 眞姫は自分の勘違いだと納得させた後、ちらりと准を見る。
 だが准は動揺する様子も見せず、眞姫に普段通りの笑顔を向けた。
「もう10時か。明日も早いし、部屋に戻ろうか。姫、危ないから本は僕がしまうよ」
「えっ? あ、う、うん。ありがとう、准くん」
 眞姫は瞳をぱちくりさせながらも、床に散らばった本を手にとって彼に渡す。
 准はそれを受け取ると、元にあった場所に片付け始めた。
 眞姫はもう一度息を整えた後、気を取り直して本棚に目を向け、部屋で読む本を物色しだす。
 時を告げる時計の鐘の音を聞きながら、准はそんな彼女の横顔をさり気なく見つめた。
 そして、ひとつ小さな溜め息をついたのだった。