――眞姫と少年たちが詩音の別荘に着いた、次の日。
 賑やかな繁華街の本屋で、眞姫の友人の立花梨華はちらりと腕時計を見た。
 そして、はあっと大きく溜め息をつく。
 待ち合わせ時間はとうにすぎているというのに、待ち人は一向に姿を見せない。
 梨華は携帯電話にメールが来ていないか確認した後、待つことには慣れているかのように新しい雑誌を手にして開いた。
 その時。
「おはよー、梨華っ。お待たせぇっ」
 能天気な声が背後から聞こえ、梨華は顔を上げて振り返る。
 それからその場にようやく現れた少女・藤咲綾乃に目を向けた。
「綾乃、おはよーじゃないわよ。それにもう、おはようって時間じゃないし」
「あはは、ごめんごめーんっ」
 全く悪びれのなさそうな綾乃に、梨華は諦めたようにもう一度嘆息する。
 綾乃は漆黒の瞳にそんな梨華の姿を映し、はしゃいだように言った。
「綾乃ちゃん、おなかすいちゃったなぁ。ねー梨華、どこかで美味しいもの食べよっ」
「あんたって、本当に暢気でいいわよね。で、何が食べたいの?」
「んー、和食と中華以外なら何でもいいかなー」
「ていうか、それってつまり洋食ってことじゃない。じゃあ、駅ビルのパスタ屋でも行く?」
「うんっ。あそこの店だったら、ランチセットでパフェもついてるしねっ」
 嬉しそうにそう言って、綾乃は梨華の手を引く。
 梨華は子供のような綾乃に仕方がないと言わんばかりの視線を向けつつも、小さく微笑んで彼女に続いた。
 そして、目的のパスタ屋に落ち着いて。
 オーダーを済ませてから、綾乃は梨華にふと訊いた。
「そういえば、今日眞姫ちゃん都合悪いって? 誘ったんでしょ?」
「うん、何か昨日から旅行行くんだって。しばらくこっちにいないのよ」
「ふーん、そっか。眞姫ちゃんとも一緒に遊びたかったのになー、残念」
 そう言った後、綾乃はその顔にニッと笑みを宿す。
 それから、続けてこう続けたのだった。
「ていうかさ、梨華。夏休み、祥太郎くんとデートとかしないの?」
「えっ?」
 綾乃のその言葉に、梨華は途端に表情を変える。
 そして慌てて首を振り、顔を真っ赤にして答えた。
「デッ、デートって……何で祥太郎となのよっ。それに何か祥太郎、昨日から1週間くらい大阪に帰るって言ってたし」
「ふーん、何気にバッチリ彼の予定チェック済み? じゃあ、彼がこっち帰ってきたらデートに誘ったら?」
 悪戯っぽくそう言って、綾乃は楽しそうに笑う。
「バッチリ予定チェックって、そ、そんなんじゃないしっ。それに祥太郎とデートなんて……」
「はいはい、素直じゃないんだからぁっ。私から見ても、祥太郎くんは彼氏にかなりオススメなタイプだからさっ。頑張りなよ、梨華っ」
「もう、綾乃ってば。だからそんなんじゃないんだってっ」
 梨華は耳まで赤くさせながら、ふいっと照れたように綾乃から視線を逸らした。
 そんな素直な梨華の反応に笑った後、綾乃はテーブルに頬杖をついて漆黒の瞳を細める。
 もちろん祥太郎は大阪に帰っているのではなく、合宿で詩音の別荘に行っているのだが。
 一応少年たちは今回の合宿に関して、周囲にはあまり口外しないようにしていた。
 眞姫も旅行に行くとは言いつつも、どこに何をしに行くのかまでは梨華には話していないのだった。
 そんなことは知らないながらも、綾乃は何かを考えるようにそっと長い髪をかき上げる。
 それから印象を変えた瞳を店の窓の外へ向け、おもむろに呟いたのだった。
「そっか、眞姫ちゃんも祥太郎くんも、1週間はこっちにいないんだ……」




 その頃――詩音の別荘。
 午前中の自主訓練を終えた少年たちは、昼食後傘の紳士に指定された一番広いトレーニングルームに集まっていた。
「やあ、騎士たち。ご機嫌いかがかな?」
 相変わらず優雅な雰囲気を醸し出しながら、紳士が指定時間よりも少し遅れて現れる。
 いつも時間通りでしかも厳しい雰囲気の鳴海先生との訓練に慣れている少年たちは、そのギャップに思わずきょとんとしてしまう。
 本当にこの人は、あの先生の父親なのだろうか。
 そう改めて思いながらも、少年たちは紳士に目を向けた。
 それにしても、紳士に訓練の協力をしてもらえるようにはなったのだが。
 一体この紳士は、どんなことをやるのだろうか。
 訓練という雰囲気とはかけ離れた彼の立ち振る舞いから、少年たちはその内容を全く想像できないでいたのだった。
 ひとり血縁である詩音だけは、何だか楽しそうに普段通りの微笑みを浮かべている。
 紳士は緊張の面持ちである少年たちににっこりと笑顔を向けると、近くの椅子に座った。
 そして、くすくすと笑う。
「そんなに構えなくても大丈夫だよ。その様子だと、将吾は君たちに随分厳しいみたいだね」
 少年たちの様子を見て、紳士はそう言った。
 准はそんな紳士に改まってぺこりと頭を下げる。
「休暇でこちらにいらしているのに、僕たちのために時間割いてもらってすみません」
「構わないよ、私にできることがあれば君たちの力になろう。では早速だが、君たちがどれくらいの能力を持っているのか、それを私に見せてもらおうかな」
「能力を見せるって……」
 紳士の言葉に、健人は小さく首を傾げつつもブルーアイを細める。
 この紳士が自分たちの相手をするのだろうか。
 でもそれにしては、紳士は相変わらず高そうで上品なスーツ姿である。
 紳士はにこにこと笑みを浮かべたまま、詩音に視線を移した。
「そうだ、詩音くん。今回は、君には私の手伝いをしてもらうよ。では、始めようか」
 そう紳士が言った、その瞬間だった。
 パチンと、おもむろにひとつ紳士の指が鳴る音がした。
 そして。
「なっ!?」
 少年たちは突然変化した周囲の様子に、驚いた表情を浮かべた。
 ――彼らの周りに、一瞬にして強力な“結界”が張られたのだ。
 いや、ただの“結界”ならばそれ程驚かないのであるが。
「これ、どういうことだよ!? 何で俺たちだけが“結界”内に!?」
 拓巳はそう言って、ぐるりと周囲を見回す。
「あの紳士、やっぱただの上品なオジサマやないってことか?」
 ふっと一息つき、祥太郎はそう呟く。
 准は冷静に状況を確認した後、少し考えるような仕草をした。
「詩音に手伝って欲しいって言うことは、この特殊な“結界”も“空間能力”の一種かな」
「だろうな。姫も言ってたしな、あの紳士は“空間能力者”だって」
 健人は准の言葉に頷き、彼に同意する。
 普通“結界”が張られた場合、その“結界”を作り出した張本人もその内側にいるはずなのだが。
 紳士の作り出した“結界”の中には、詩音を除いた少年たちの姿しかなかったのだ。
 しかも紳士の気配は、作り出された“結界”の外に感じる。
 一体、今から何を始めるのだろうか。
 今までにない状況に、少年たちは表情を一層引き締めた。
 そして、“結界”の外では。
「“空間能力”の応用だよ、詩音くん。自分は外にいながらも、相手だけを作り出した“結界”内に移動させることができる。普通の“能力者”は直接的に相手に攻撃をする戦い方だが、“空間能力者”は違うだろう? 我々“空間能力者”特有の特殊な“結界”だよ」
 紳士はそう詩音に言った後、さらに言葉を続けた。
「だがこの能力は自分が“結界”内にいない分、敵を決定的に追い詰めることは難しい。直接内部にいない分、“空間”を長い間維持することもできない。とはいえ、君特有の空間を具体化できる能力と組み合わせれば、敵を撹乱するにはかなり有効だろうからね。それに君なら、すぐにマスターできるだろうし」
「なるほどね。それで伯父様、王子は何をお手伝いすればいいのかな?」
 紳士の言葉に頷きながらも、詩音は色素の薄いブラウンの瞳を細める。
 紳士はにっこりと上品な笑顔を宿し、彼の質問に答えた。
「私の空間を、君のサポートで具体化して欲しくてね。なかなか面白そうじゃないかい? それに将吾にうるさく言われてるんだ、君に関しては“空間能力”を集中的に訓練して欲しいと」
「伯父様の空間の具体化か、分かったよ。では、こんな感じでどうかな?」
 詩音はそう言って手を翳すと、スッと瞳を閉じる。
 そんな彼の様子にふっと笑みを浮かべると、紳士は少年たちのいる“結界”内に目を向けた。
 そして、“結界”の中では。
「げっ、な、何だよ!? 何でっ」
 微妙な空気の変化を感じ取って顔を上げた拓巳は、思わずそう呟いて顔を顰める。
 そんな少年たちの前に現れたのは。
「うわっ、鳴海センセ!?」
 祥太郎は大きく瞳を見開き、そう呟く。
 准も眉を顰めながら、一番近くにいる健人に言った。
「これも、“空間能力”の幻惑?」
「たぶんそうだろ。でもそれにしては、やたらリアリティーあるな」
 小さく息を吐き、健人は現れた鳴海先生に青い瞳を向ける。
 その時だった。
「どうした、もう怖気づいたか? ボーッとしている暇があれば、全員でかかってこい」
 目の前の鳴海先生が、いつもの威圧的な調子でそう言葉を発する。
「……いつもそんなことを言っているんだね、あの子は」
 楽しそうにそう笑って、“結界”の外にいる紳士は隣の詩音に言った。
 詩音はふっと同じように上品に笑みを浮かべると、再び精神を集中させる。
「ちっ、詩音のヤツか? 結構悪趣味だな、あいつ。てか幻惑なのに妙に頭にくるな、鳴海の野郎の姿だとよ」
 鬱陶しそうに漆黒の髪をかき上げてそう言ってから、拓巳は面白くない顔をした。
「やあ、騎士たち。これからやることを説明しよう」
 ふっと今度は、紳士が“結界”内に姿をみせる。
 いや、紳士の気配は依然として“結界”の外から感じるため、目の前の彼も幻惑なのだろう。
 少年たちの前に現れた紳士は、柔らかな微笑みを浮かべて言葉を続けた。
「君たちには、将吾の幻影の相手をしてもらうよ。君たちも分かっているように、普通の戦いならば幻影を作りだす本体を攻撃しなければ何もならないんだが、今回は敢えてこの幻影と戦ってもらおう。今回は、君たちひとりひとりの能力の高さと特徴を見せて貰うことが目的だからね」
「でも作り出された幻惑相手だったら、僕たちの攻撃はすり抜けて効かないですよね?」
 准は紳士の説明を聞いた後、そう質問する。
 紳士は准に目を移し、彼に笑顔を向けた。
「大丈夫だよ。この幻影はただの幻影ではなく、私の作り出した“空間”を詩音くんに手伝って貰って具体化させているんだ。君たちにも馴染みの深い“結界”がダメージを受けると砕かれるように、私の“空間”も一定ダメージを受けると消滅する。要は君たちは、この幻影の将吾にダメージを与えて消滅させることを目標にすればいいということだよ。それにこの特殊な“空間”を保つのにも限界がある。君たちが見事幻影を消滅させるか、特殊空間の制限時間が切れるか。普段通り将吾と訓練をしているように動いて貰って構わないから、それまで君たちには幻影と手合わせを続けて貰うよ」
 紳士の説明を聞いて納得した少年たちは、思い思いに呟く。
「簡単に言うと、俺たちは目の前の先生の幻影を消滅させればいいってことか」
「ちゅーか、よりによってセンセの姿なんてな。やり易いんかやり難いんか、分からんな」
「鳴海の野郎の姿なら、遠慮なくぶっ飛ばせるじゃねーかよ。面白ぇ、やってやるぜ」
「逆に幻影にもぶっ飛ばされないようにね、拓巳」
 今からやることの主旨を理解した少年たちの様子に、紳士は満足そうな表情を浮かべる。
 それから、楽しそうに言ったのだった。
「では、特に質問がなければ始めようか、騎士たち」
 それだけ言って、紳士の幻影はふっとその場から姿を消す。
 それと同時に、鳴海先生の幻影がこう彼らに言い放った。
「最初は誰が痛い目をみるか? 健人か、拓巳か?」
「……幻影とは分かっていても、頭にくるな。てか、詩音が言わせてると思うと余計に何かムカつく」
「あー鳴海の姿だけでもムカつくのに、声や言うことまでそっくりかよっ。早いとこ、ぶっ飛ばしてやろうぜっ」
 名指しされた健人と拓巳は、ムッとした顔をして鳴海先生に視線を向ける。
 幻影の先生の動き自体は“空間”のマスターである紳士が操作しているものであるが、それを視覚的・聴覚的に具体化させているのは詩音である。
 遊び心満載の彼のことだ、きっと先生の幻影を使って少年たちを煽り、“結界”の外で楽しんでいるに違いない。
 拓巳と健人は一瞬顔を見合わせて頷くと、その手に“気”を漲らせる。
 そして同時に地を蹴り、先生との間合いをつめた。
 次の瞬間、カアッと大きな光が“結界”内に弾ける。
 拓巳から繰り出された手刀と健人から放たれた衝撃を難なくかわし、鳴海先生はふたりに切れ長の瞳を向けた。
 それを逃がすまいと追従し、さらにふたりの攻撃が先生の幻影を襲う。
「あいつら、幻影にもまんまと煽られとるやん。てか、幻影ていうよりも王子様にか?」
「本当に単純なんだから、ふたりとも」
 とりあえず戦況を見守っている祥太郎のそんな楽しそうな言葉に、はあっと准は溜め息を漏らす。
 それから表情を引き締め、改めて言った。
「でも僕たちも、このまま見物してるままのわけにはいかないからね」
「そうやな。んじゃ、次はこのハンサムくんの華麗な出番か?」
 ふっと笑みを宿し、祥太郎もその手に眩い“気”を漲らせる。
 准は無言でコクンと頷き、鳴海先生に視線を移した。
「くらえっ、おらぁっ!!」
 その声と同時に、拓巳の手刀が再び鋭く空気を切り裂く。
 健人はそれを大きく跳躍して避けた先生の動きを読み、間髪入れずに距離を縮めて蹴りを繰り出した。
 だが先生の幻影は表情ひとつ変えずにそれを受け流す。
 ……その時だった。
 カアッと複数の光の衝撃が、四方八方から先生に襲い掛かる。
 先生は素早く掌に“気”を宿すと、咄嗟に“気”の防御壁を張った。
 刹那、激しい轟音が“結界”内に響く。
 近接攻撃をする拓巳と健人の攻撃とのタイミングをはかり、遠距離から祥太郎と准の“気”が放たれたのだった。
「それぞれの能力を考えた戦法か、とても息も合ってるね。それにあの若さに満ち溢れた果敢な戦い方は、見ていても好感が持てるよ」
 楽しそうに笑い、“結界”の外で紳士は呟く。
 それからふっとブラウンの瞳を細め、こう言葉を続けたのだった。
「ではそろそろ、今度はこちらが反撃する番かな。そうだな、将吾ならきっと……こんな感じかな?」
 紳士のその言葉と、同時だった。
「!」
 “結界”内の少年たちは、一斉に顔を上げて表情を変える。
「くっ!」
 その中でいち早く先生の強大な“気”が弾けるのを感じた准は、素早く防御壁を形成させた。
 ドオンッという衝撃音が鳴り、“気”の衝撃と防御壁がぶつかり合って大きな光が発生する。
 拓巳はその隙をついて再び先生との間合いを詰め、握り締めた拳を先生目がけて繰り出した。
 それを掌で受け止めた後、先生は逆手に“気”を漲らせて近距離で拓巳に放つ。
「ちっ!!」
 その衝撃を何とか受け止め、拓巳は顔を顰めた。
 だが、彼が体勢を整えるその前に。
 一瞬の隙をついた先生の攻撃が拓巳の身体を捉える。
「! かは……っ」
 モロに腹部に入った鋭い膝蹴りの衝撃に、拓巳は堪らず肩膝をついた。
 先生は尚も攻撃の手を緩めず、グッと拳を握り締める。
 その時だった。
 拓巳に向けられていた先生の切れ長の瞳が、別の場所へと移った。
 次の瞬間、健人の手から眩い衝撃が繰り出される。
 先生はそれを同じく“気”の衝撃で相殺させた後、間を取らずに健人よりも早く第二波を放った。
「!」
 健人は思わぬ素早い反撃に、ブルーアイを見開く。
 そして咄嗟に襲い掛かる衝撃を受け止めはしたものの、威力に押されて数歩後退りした。
 先生はそんな健人に目を向けた後、今度はふと上空に視線を移す。
「似非センセ、今度はこっちやっ!」
 バッと跳躍した祥太郎は、そう言って掌に“気”を漲らせた。
 先生は狙いを定めるように瞳を細めてから、上空の彼に衝撃を放つ。
 だが、その攻撃は祥太郎には届かなかった。
 祥太郎の前に形成された准の防御壁が、先生の攻撃の威力を消す。
 ニッとハンサムな顔に笑みを宿し、祥太郎は振り下ろすように幾重にも枝分かれさせた“気”を繰り出した。
 地面をえぐる様に、いくつもの衝撃音が発生する。
 そして余波が“結界”内に立ち込め、一瞬視界が失われた。
 だが、その時だった。
「なっ!?」
「!!」
 准と祥太郎は、同時に表情を変える。
 刹那、立ち込める余波を吹き飛ばすような強大な“気”がふたりに襲いかかる。
 唸りを上げる衝撃に防御壁を張る暇もなく、准と祥太郎はクッと唇を結んだ。
 それから正面からその“気”の攻撃をガッと受け止めると、何とかその威力を浄化させたのだった。
「どうした、この程度で終わりか?」
 少年たちをぐるりと見回し、幻影の鳴海先生は本物と同じような口調でそう言い放つ。
「うるせーなっ、あームカつくっ」
「…………」
 ガッと拳で地面に八つ当たりする拓巳をちらりと見てから、健人は同じくムッとした表情で鋭い視線を鳴海先生の幻影へと向けた。
 祥太郎はふっとひとつ息をついた後、呟く。
「てか、まるで本物のセンセと戦っとるみたいや。姿かたちはともかく、戦い方や動きまであの悪魔みたいやし」
「そうだね、本物とそっくりだよ」
 小さく頷いてそう言い、准は注意深く先生の幻影の動きを探った。
「なかなか訓練が行き届いていて、思った以上にレベルも高い。なかなか楽しませてくれるな、騎士たちは」
 “結界”の外で、紳士はにっこりと相変わらずな優雅な微笑みを上品な顔に湛える。
 詩音はそんな伯父に目を向け、ふっとそれを細めた。
 自分は彼の操る空間を、少年たちにも見えるように鳴海先生の姿で具体化させているだけである。
 “空間”を具体化させることは詩音に任せているとはいえ、幻影に少年たちの攻撃をただかわさせるだけでなく、紳士は鳴海先生の動きの特徴を完璧に把握している。
 いくら彼が先生の父親であり、先生に戦い方を教えた張本人とはいえ、あそこまで忠実に再現できるなんて。
 詩音は改めて、伯父の戦闘センスの高さを感じた。
「さて、今度はどう動こうかな」
 紳士は息子と同じ色の瞳を再び“結界”に向けてそう言った後、その身体に淡くて柔らかな“気”の光を漲らせたのだった。




 ――その頃。
 眞姫はひとり、少年たちとは別の場所にいた。
 そこは、大きな別荘の書庫だった。
 夏休み前に鳴海先生に言われたように、眞姫自身も少しでも“気”の使い方に慣れる自主訓練をすべきだと。
 そういう意気込みで合宿に臨んだ眞姫だったが。
 実際に“気”を使う訓練の前に、書庫に立ち寄ってみるといいと。
 傘の紳士に、そう眞姫は言われたのだった。
 最初は“気”の訓練と書庫と、どう関係があるのか分からなかった眞姫だったが。
 実際にこの場所を訪れ、そう言われた理由がよく分かったのだ。
 眞姫は1冊の本を開いて、熱心にその内容に目を通している。
 明らかに詩音たち一族の好みだろうというような普通の物語文学も数多くあるのだが。
 元々“能力者”の多い家系である鳴海一族の別荘に置かれている書物は、“能力者”についてや“気”について詳しく書かれているものが多かったのである。
 眞姫は手に持っていた本を読み終わり、元あった本棚にその本を返す。
 そして一息ついて大きく伸びをし、腕時計を見た。
 まだ少年たちが訓練を終える時間には、少し早い。
 自分の部屋に書庫の本を持ち出してもいいと言われていたことを思い出し、眞姫は目ぼしいものがないかと大量の本に再び目を向けた。
 そしてあるものを見つけて小首を傾げると、ふと手を伸ばす。
 眞姫の目にとまったのは。
 本棚の一番隅に立てられていた、ノートのようなものだった。
「あっ、これって……」
 その古ぼけたノートを開いて中身を確認した眞姫は、ブラウンの瞳を大きく見開く。
 それは……。
『11月1日。今日は息子・将吾の誕生日である。この子が生まれて早3年、まさか息子の成長をここまで見守れるとは思ってもいなかった。そして将吾はやはり、“能力者”としての高い資質を持っているようだ。“浄化の巫女姫”である私が言うのも何だが、この子には“能力者”としてではなく普通の人生を送ってもらいたい。そう私は強く望んでいる……』
「鳴海先生のお母さんの、日記?」
 そのノートは、鳴海先生の母であり傘の紳士の妻であり、そして先代の“浄化の巫女姫”である晶の日記だった。
 眞姫はページをめくって、最初の目次を見る。
 そこには、こう書かれていた。
『いつかこの日記が、次代を担う“浄化の巫女姫”や“能力者”の若者の役に少しでも立てばいいと、私は願っている』
 眞姫は何かを考えるように、じっとその文章を見つめる。
 やはり親子ということもあり、晶の筆跡は鳴海先生のものとよく似ていた。
 几帳面で真面目そうな丁寧な彼女の字を見てそう思った後、眞姫は一旦ノートを閉じる。
 それから何冊かある日記の日付が古いものを探し数冊小脇に抱えると、書庫を出たのだった。