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「……ちょっと待て。まさか、ここの道を行くのか?」
 ジリジリと照りつける、真夏の太陽の下。
 バスを降りた拓巳は耳につく蝉の鳴き声に顔を顰めてから、ちらりと背後の准を振り返る。
 准は手に持っている地図を見てふっと嘆息し、彼の問いに答えた。
「どうやらそうみたいだよ、拓巳」
「電車で2時間、バスで1時間半、挙句に今から山登りかい……」
 ガクリと肩を落としてから、祥太郎は思わず苦笑する。
 ――夏休み真っ只中の、ある夏の日。
 少年たちは自主訓練合宿を行うべく、場所を提供してくれるという詩音の別荘へ向かっている途中であった。
 詩音はすでに先に数日前から別荘にいるということで、足のない彼らは公共機関を駆使してやって来ているのであるが。
 静かな森の中に佇むという詩音の別荘までの道のりは、思いのほか遠かったのである。
 バスを降りたその場所は、人はおろか車さえ殆ど通っていない。
 そしてさらに少年たちの目の前には、辛うじて道と言えるかもしれない険しい山道が見えていた。
 詩音から貰った地図によると、別荘はこの山をさらに越えた先の湖畔にあるという。
 健人は金色に近いブラウンの前髪を仕方がないようにかき上げた後、ブルーアイを准に向けた。
「姫は、少し遅れて来るんだったよな」
「うん。僕たちの他にも別荘に来る人がいるみたいで、その人と姫が知り合いらしいんだ。だから姫は、その人の車で一緒に来るんだって」
「確かに、お姫様にこんなハードな山登りさせるわけにはいかんけどな。しゃーないわ、仲良くみんなで愉快に山登りと行くか」
 諦めたようにそう言って、祥太郎は山道を歩き始める。
 拓巳はそんな祥太郎に続きながらも、大きく溜め息をついた。
「こんなただでさえ暑い日に、よりによって男4人で山登りかよ!? 暑苦しいったらねーな、おい」
「仕方ないだろう、そう思ってるのはおまえだけじゃない。行くぞ」
 ぽんっと拓巳の肩を叩き、健人も山道へと入っていく。
 准はちらりと時計を見て時間を確認した後もう一度嘆息し、それから3人の後に続いたのだった。




 ――同じ頃。
 行きつけの喫茶店『ひなげし』で珈琲を飲んでいた彼・鳴海将吾は、ふと顔を上げた。
 それと同時に、店のドアにつけられているベルがチリンと鳴る。
 そして現れたのは。
「はろぉっ、お待たせーっ」
「由梨奈……呆れて、もうおまえに何も言う気がしない」
 能天気にやって来た由梨奈に、鳴海先生は切れ長の瞳をじろっと向けてそう言った。
 そんな先生の隣にストンと座り、由梨奈はにっこりと綺麗な顔に笑みを浮かべる。
「やだ、そんな顔しないでよ。私が遅れても大丈夫なように、待ち合わせをここにしたんじゃなーいっ。あ、マスターこんにちはっ。珈琲1杯いただけるかしら?」
「まったく、連絡もなしに待ち合わせに1時間も遅れるというその神経が、私には全く理解できない」
「なるちゃんってば、そう言わないの。私に会えて嬉しいでしょ?」
 鳴海先生はふうっとわざとらしく一息ついた後、改めて由梨奈に目を向けた。
「それで、いつもの如くいきなり急に呼び出して、何か用か?」
「用? やっと仕事の忙しさも落ち着いてきたから、なるちゃんと久しぶりにデートしたくてっ」
 そう言って悪びれもなく微笑んだ後、それから由梨奈はこう続けたのだった。
「あーあ。こっちでやることがあるとはいえ、私も詩音ちゃんの別荘に行きたかったわぁっ。お姫様やボーイズたちはもちろん、今回はあの人も来るんでしょ? って、今日からだっけ?」
「…………」
 先生はその由梨奈の言葉に、ブラウンの瞳を細める。
 それから、小さく頷いた。
「ああ。今日から1週間の予定らしいな」
「そっかぁ。合宿後、いろんな意味で楽しみねぇっ」
 ふふっと楽しそうに笑う由梨奈とは逆に、鳴海先生はもう一度嘆息する。
 そしていい香りのする珈琲をひとくち口に運んでから、こう呟いたのだった。
「私としては、いろいろな意味で心配で仕方がないのだがな……」
 ――その同じ時。
 眞姫は賑やかな駅のロータリーで人を待っていた。
 そんな彼女の顔には、楽しそうな笑みが宿っている。
 今日から1週間、眞姫は詩音の別荘に招待されていた。
 とは言っても遊びではなく、映画研究部の自主訓練合宿が目的である。
 少年たちの自主訓練の力になりたいし、自分自身ももっと“気”を使いこなせるようにもなりたい。
 眞姫はそう強く心に思いながらも、仲の良い少年たちと一緒に夏休みを過ごせるということが楽しみでもあった。
 それに加えて、場所もあの詩音の別荘ということで、いかにも豪華そうで期待が高まる。
 聞いた話によると、森の湖畔に佇む大きな洋館であるらしいし。
 目的はバカンスではないにしろ、眞姫にとって日常の喧騒から離れた静かな別荘生活はとても楽しみなものであった。
 それに今回別荘に来るのは、実は少年たちだけではない。
 しかもその人物は、眞姫のよく知る人だったのである。
 そして今彼女は、まさにその人物と待ち合わせをしているのだった。
「あ……!」
 眞姫はふと顔を上げると、駅のロータリーに入ってきた一台の車を見つけて小さく声を上げる。
 それから目の前に止まった車から出てきた人物を見つめ、にっこりとその顔に笑顔を浮かべたのだった。




 ――それから、数時間後。
 うっすらと暗くなってきた窓の外を見つめ、拓巳はふっとひとつ息をつく。
「ったく、まさか山登りするとは思わなかったぜ」
 そんな拓巳の言葉に、詩音は普段と変わらない優雅な微笑みを彼に向けた。
「いらっしゃい、騎士たち。歓迎するよ」
「ある程度予想しとったとはいえ、めちゃめちゃゴージャスな洋館やなぁ」
 ぐるりと周囲を見回し、祥太郎は感心したようにそう呟く。
 バスを降りた少年たちは、あれから1時間ほど山道を歩いて軽くひと山超え、ようやく詩音の別荘に辿り着いたのだった。
 はじめは、延々と続くのではないだろうかと思うほど鬱蒼とした森の風景に、本当に目的の別荘にこの道で辿り着くのだろうかと疑問に思っていた少年たちだったのだが。
 ふと開けた湖畔に出た瞬間、あれが詩音の別荘だろうと見てすぐに分かる、城のような洋館が目の前に現れたのだった。
 そして遠くから見ても、いかにもなその豪華さが分かったが。
 実際に中に入ると、さらに予想以上のゴージャスぶりだったのである。
 家具はすべて高そうなレトロ調のアンティーク、天井にはキラキラと輝くシャンデリア、客間の数は何十もあり、ダイニングは何かのパーティーができそうなくらい広い。
 祥太郎の言葉に、少年たちに紅茶を持ってきた詩音の母親・静香は、にっこりと優しい微笑みを湛える。
「辺鄙な場所だから、広さだけはあるの。それにせっかくいらしてくださったお客様に、優雅でリラックスしたひとときを過ごしていただきたくて。騎士たちもどうぞ、ゆっくりお過ごしになってね」
「詩音のお母様、めちゃめちゃ美人やしな。息子がおるとは思えんくらい、若くて綺麗やし。こちらこそ、大勢でぞろぞろ押しかけてすみません」
 祥太郎はハンサムな顔に人懐っこい笑みを浮かべ、静香に向けた。
 静かは詩音と同じ色をしたサラサラの長い髪をそっとかき上げながら、空気のように澄んだ声でくすくすと笑う。
「あら、騎士はお世辞がお上手なのね。それではごゆっくり」
 全員にお茶を出した後、静香は広いリビングを出て行った。
 健人は出されたジャスミンティーを一口飲んだ後、詩音にブルーアイを向ける。
「詩音、姫は何時くらいにここに着くんだ?」
「お姫様もそろそろ到着する頃だと思うよ、青い瞳の騎士」
「じゃあ、姫が来てから明日からの予定を話し合おうか。今日は今から、特に予定もないしね」
 准は部長らしくそう提案し、全員を見回す。
 詩音は健人から視線を准に移してから、思い出したようにこう口を開いた。
「そうそう、今日の予定といえば。夕食は母君お手製のディナーで皆の歓迎パーティーを催す予定だよ。ボーイズたちの各部屋のクローゼットにタキシードを用意しているから、パーティーの際は正装してお越しいただけるかな」
「ディナーパーティー? 何かこの豪華な別荘といい、合宿って感じ全然しないよな」
 ぱちくりと大きな瞳を瞬きさせ、拓巳はそう呟く。
 そんな拓巳の言葉にうんうんと頷きながらも、祥太郎はやたら広い別荘の見取り図を見てふと首を傾げた。
「確かに合宿ってより、別荘で優雅な夏休みってカンジやなぁ。ていうか、それよりも不思議なんやけど……何でこんな豪華な別荘に、いくつもトレーニングルームがあるんや? 何かゴージャスなこのお城に似つかわしくない気がするんやけど」
 その問いに、詩音はにっこりと微笑む。
 そして、こう祥太郎に答えたのだった。
「王子の家系は能力者が多いからね。そうだろう? 騎士」
「能力者が多い家系?」
 詩音の家系、いわゆる鳴海一族のことをまだ知らない健人と拓巳と准は、小さく首を傾げる。
 少年たちの中で唯一詩音と鳴海先生の関係を聞いたことがあった祥太郎は、思い出したように手を打つ。
「おおっ、そうやったなぁ。そういえば詩音の従兄弟は……」
 ――その時だった。
 祥太郎の言葉を遮るかのように、別荘のチャイムがリビングに鳴り響く。
「おや、お姫様のご到着かな?」
 詩音はカチャリとソーサーにティーカップを置き、ふっとブラウンの瞳を細めた。
 そして、その数秒後。
 リビングのドアが開き、少年たちの待ちに待ったお姫様が顔をみせたのだった。
「こんばんは、みんな」
「おっ、姫!」
「姫……」
「おおっ、愛しのお姫様のご登場やな」
「姫、こんばんは」
 彼女の到着を待ちわびていた少年たちは、それぞれ口を開く。
「いらっしゃい、お姫様」
 眞姫の手をスッと紳士的に取り、詩音は彼女に笑顔を向けた。
 それから眞姫に遅れてリビングに顔をみせたある人物に、声を掛けたのだった。
「こんばんは、伯父様」
「やあ、詩音くん。お招きいただいて嬉しいよ」
 上品な顔に柔らかな笑みを宿し、現れたその人物・傘の紳士は彼に言葉を返す。
 そんな紳士に、准はふと口を開いた。
「あっ、貴方は……うちの学校の」
 今年の入学式の時に傘の紳士と会ったことがある准は、紳士を見て思い出したようにそう呟く。
 紳士はにっこりと微笑み、そして少年たちにこう自己紹介したのだった。
「こんばんは、騎士たち。私は詩音くんの伯父の、鳴海秀秋という者だよ。お姫様同様、傘の紳士とでも呼んでくれて構わないから」
「って、何で傘の紳士なんだ? ……ていうか、鳴海って!?」
 紳士の自己紹介にさらに首を傾げながらも、拓巳は思わず声を上げる。
 詩音はふっと優雅な笑みをその顔に宿し、拓巳の問いに答えた。
「彼はあの鳴海先生の父君で、僕の母君の兄上でもあるんだ。だから、僕と鳴海先生は従兄弟同士なんだよ。僕の血族は、能力者が多くてね」
「あの鳴海先生の父親だって? それに、詩音と先生が従兄弟?」
 健人も始めて聞いた意外な事実に、さすがに驚いた表情をする。
 紳士は鳴海先生と同じ色をしたブラウンの瞳を、ふっと優しく細めた。
「今回は、私もこの別荘で休暇を満喫させていただくよ。よろしく、騎士たち」
「あ、こちらこそよろしくお願いします」
 准は紳士の言葉に、ぺこりと丁寧に頭を下げる。
 まだ驚いた様子の拓巳は、紳士と詩音を交互に見ながら呟いた。
「鳴海の父親だって!? てか、全然鳴海に似てないっていうか、詩音にそっくりっていうか……」
「姫はこの紳士的なオジサマと、前からの知り合いなんか?」
「うん。もう随分前から、おじ様にはお世話になってるよ」
 祥太郎の言葉に頷き、眞姫は栗色の髪をそっと揺らす。
 紳士はそんな眞姫に視線を向け、彼女に言った。
「さあ、お姫様。一度部屋に荷物を置きに行きましょうか」
「そうだね。部屋まで案内するよ、ふたりとも」
「じゃあみんな、またすぐリビングに来るね」
 そう言って可愛らしく手を小さく振り、眞姫は紳士と詩音とともに一旦リビングを後にする。
 リビングに残された少年たちは愛しのお姫様の到着を嬉しく思いながらも、あの鳴海先生の父という思いがけない紳士の登場にまだ驚きを隠せない表情をしていた。
 それから気を取り直すかのようにフカフカのソファーに座ると、詩音の母親の淹れた紅茶を口に運んだのだった。