「今年の夏合宿は行わない」
 ――明日から夏休みである、夏期補習最終日。
 いつものように視聴覚準備室に集められた映画研究部員の面々は、予想外の鳴海先生の言葉に全員きょとんとしてしまった。
 毎年恒例の、夏合宿という名の地獄の訓練。
 今年も例外なく行われるだろうと覚悟していた少年たちは、思わぬ展開に驚きを隠せない。
 そんな全員を見回した後、部長である准は先生に訊いた。
「今年の夏合宿を行わないって、どういうことですか?」
「どうもこうもない、言葉の通りだ。今年の夏は、私の都合がつかない」
 准の問いに表情を変えず、鳴海先生はそう答える。
「ていうか、おまえの都合かよ。相変わらず勝手なヤツだなっ」
 気に食わない表情を浮かべ、拓巳は反抗的な視線を先生に投げた。
「ま、いいやん。あの地獄のようなしごきがないんやで? 今年は、夏休みを思いっきり満喫できるっちゅーわけや」
 拓巳を宥めるようにそう言って、祥太郎はハンサムな顔にニッと笑みを浮かべる。
 健人はそんな祥太郎の言葉に、小さく首を振った。
「そう上手くはいかないんじゃないか? 今までのことを考えたら」
「そうだね。何もないってことはないんだろう? 鳴海先生」
 健人の言葉に頷き、詩音は優雅な微笑みを先生に向ける。
 鳴海先生は全員を一通り見回して、そして言った。
「夏合宿は行わない。だが、おまえたちが訓練を怠ることはいただけない。ただでさえ、今のおまえたち程度の実力では使い物にならないのだからな」
「……何だと!?」
「拓巳」
 先生の言葉にくってかかる拓巳に声を掛け、准は彼を宥める。
 チッと舌打ちし、拓巳は面白くなさそうに机に頬杖をついた。
 鳴海先生はそんないつものやり取りに大きく嘆息した後、話を続ける。
「夏合宿は行わないが、夏休み終盤におまえらがどれだけ自主訓練を行ったかテストをする。無様な目に遭いたくなければ、死に物狂いで夏休み期間訓練をすることだな」
 そこまで言って、先生は今度は眞姫に視線を移した。
 今まで黙って全員の話を聞いていた眞姫は、自分に向けられた先生の切れ長の瞳にドキッとする。
 鳴海先生は、緊張の面持ちをしている彼女にこう言った。
「清家。おまえは無理をする必要はないが、少しでも“気”を使うことに慣れ、素早く“気”を集結させることができるように日々訓練をしておけ」
「え? あ、はい」
 今までは身体に負担がかかるため、極力“気”を使わないようにとの指示が多かっただけに、眞姫は少し驚いた表情をしつつも先生の言葉に頷いた。
 鳴海先生は眞姫の返事を聞いた後、もう一度全員に視線を向ける。
 そして、こう締めたのだった。
「話は以上だ、ミーティングを終了する」




 それから、鳴海先生が職員室に戻った後。
 少年たちと眞姫は、まだ視聴覚教室に残っていた。
「鳴海の野郎、見てろよっ。夏休みの終わりには、絶対にぶっ飛ばしてやるっ」
 拓巳はグッと拳を握り締め、鳴海先生の様子を思い出して顔を顰める。
「いつものように返り討ちにあわんようにな、たっくん」
「そうだよ。いつも気合だけは立派なんだから」
 そんな拓巳にすかさずツッこみ、祥太郎と准は同時にそう言った。
 健人はブルーアイを部長である准に向け、口を開く。
「ていうか、どうする? 自主トレって言っても、ひとりひとりでやるのは効率悪くないか?」
 健人のその言葉に、准は大きく頷いた。
「そうだね。何度か全員で集まる機会は作った方がいいよね」
「そうやなぁ。どうせテスト内容って、センセが俺らの相手するってことやろうしな」
 祥太郎も同意するようにそう言って、少し長めの前髪をかき上げる。
 拓巳は首を傾げ、大きな漆黒の瞳を全員に向けた。
「でも、今年は合宿はないんだぜ。どこで全員集まって訓練するって言うんだ?」
「それなんだよね、問題は。鳴海先生の許可なしじゃ、高校入学前に訓練に使っていた例の場所は使えないだろうし」
 うーんと考える仕草をする准に、詩音はふっと微笑む。
 そして、こう穏やかな声で言ったのだった。
「じゃあ、こうしないかい? 僕の別荘に、みんなを招待しよう。山の中の静かな場所にあるし広さも十分あるから、訓練をするのにもうってつけだと思うよ」
 それから詩音は眞姫の手をそっと取り、にっこりと彼女に笑顔を向ける。
「お姫様も是非、一緒にいかがかな?」
「詩音くんちの別荘? わぁっ、行ってもいいの?」
 細くて長いしなやかな詩音の指の感触に照れたような表情をしながらも、眞姫は嬉しそうに彼に訊いた。
 詩音はこくんと頷き、色素の薄いブラウンの瞳を優しく細める。
「別荘なんて持ってるのかよ、おまえんち」
「やっぱ王子様は違うわ。別荘で夏休みか、何かリッチな気分やなぁ」
 拓巳と祥太郎は、感心したようにそう呟く。
 准は詩音に目を向け、もう一度彼に訊いた。
「でも、本当にいいの? 詩音」
「構わないよ。むしろ歓迎するよ、騎士たち」
「じゃあ、場所は決まりか。日にちはいつにするんだ?」
 健人はちらりと詩音を見た後、ふとそう口を開く。
 その言葉に、准は少し考えて言った。
「日程は、詩音の別荘の使える都合と、みんなの夏休みの予定を聞いて決めようか。全員、なるべく早く予定を僕に教えて。今ここじゃ分からないだろう?」
「そうだな、そうしようぜ」
 自分の提案にうんうんと頷く拓巳に、准はちらりと目を向けて嘆息する。
「そういう拓巳が、いつも何でも一番遅いだろ。ちゃんと早めに予定教えてよね」
「訓練のためなんだけど、何だか楽しみっ」
 眞姫はワクワクしたように大きな瞳を細め、楽しそうに微笑む。
 そんな彼女の様子に、少年たちも頷いた。
 今回は鳴海先生がいないため、鬼のようなスケジュールに縛られることもない。
 その上に、想いを寄せる眞姫も来るというのだ。
 ライバルは多いとはいえ、夏休みの数日間を彼女と一緒に過ごせることは純粋に嬉しかった。
「自主トレもバリバリやってやるけどよ、楽しみだなっ」
「そうやな。いつもはあの悪魔がおるけど、今回は俺らだけやしな」
「一番の目的は訓練だけど、せっかくだから楽しい思い出も作ろうね、姫」
「姫も来るなら、楽しみだな」
「喜んでもらえて王子も嬉しいよ、お姫様」
 少年たちはそれぞれお姫様と過ごす夏の休日に思いを馳せながら、そう口々に言った。
 眞姫はにっこりとそんな彼らに笑顔を向け、大きく頷いたのだった。
「うんっ、私もできることは一生懸命やっていきたいし。頑張ろうね、みんな」




 その帰り道。
 家の方向が同じである健人と眞姫は、ふたり並んで駅へと向かっていた。
「訓練が目的なんだけど、楽しみだね。詩音くんちの別荘って、すごく素敵そうだし」
「素敵っていうか、何かある意味すごそうだ……あいつの別荘」
 詩音の普段の言動を思い浮かべながら、健人はそう呟く。
 どうしても詩音の別荘というと、煌びやかでお城のようなゴージャスなイメージが抜けない。
 いや、きっとその想像に間違いはなさそうであるが。
 そんなことを思いつつも、健人は隣で嬉しそうな様子の眞姫を見つめる。
 眞姫は本当に何をする時でも楽しそうで、些細なことでもよく笑う。
 そんな彼女の意外と天真爛漫なところが、健人は特に好きなのである。
 自分の隣で、眞姫が笑っている。
 それだけで不思議と心が満たされ、幸せな気持ちになるのだった。
「あ、でももちろん、楽しみではあるんだけど」
 眞姫はふとポンッと手を打って、それから健人に目を向ける。
 そして、にっこりと微笑んで言ったのだった。
「私も鳴海先生に言われた通り、少しでも“気”に慣れるように頑張るよ」
「姫……」
 眞姫のことを、全身全霊をかけて守りたい。
 少年たちはいつも、彼女に対してそう強く思っている。
 だが眞姫自身は、決して自分は守られるだけの存在ではないと。
 自分自身の運命と向き合い立ち向かっていこうと、一生懸命努力している。
 彼女を見ていて、それがよく分かる。
 そんな姿がまた健気で、守ってやりたくなるのだった。
「ああ。俺らもテストで先生にぶっ飛ばされないように、気合入れて頑張るよ、姫」
 ふっと綺麗なブルーアイを細め、健人は眞姫の頭に軽く手を添える。
 眞姫は健人の大きな手の感触に照れたように笑いながら、もう一度大きく頷いたのだった。
 ――その、同じ頃。
 まだ学校に残っていた鳴海先生は、廊下を歩いていた。
 だが、すぐにピタリと足を止める。
「鳴海先生」
 それと同時に、彼の背後から穏やかな声が発せられた。
 先生は表情を変えずに振り返り、声を掛けてきた少年・詩音に目を向ける。
 詩音は優雅な笑みを湛え、そして先生に言ったのだった。
「鳴海先生、きちんと先生の指示通りにしたよ。それよりも、素直じゃないな。こんな回りくどいことしなくても、自分で普通に言えばいいのに」
「あいつらの場合、少し煽っておいた方が効果的だ。詩音、分かっているだろうが……」
「余計なことは言うな、でしょう? 分かってるよ、先生。それで後は、あの人も王子の別荘にご招待すればいいんだろう?」
「…………」
 その詩音の言葉に、鳴海先生はふと複雑な表情をする。
 それから、ふっとひとつ嘆息して口を開いた。
「ああ。私的にはそれもそれで不安だが、仕方がない。話はすでにつけてある」
「王子的には、すごく楽しみなんだけどね」
 先生の様子を見て、詩音はくすっと笑う。
 鳴海先生はそんな詩音に切れ長の瞳を向けた後、再び廊下を歩き出した。
 そして、振り返らずにこう言ったのだった。
「また何かあれば、追って指示をする。それまでは、勝手な言動は控えろ」
 詩音は黙って先生の背中を見送り、ブラウンの瞳を細める。
 それから上品な顔に楽しそうに微笑みを宿し、呟いたのだった。
「今年の夏は、いろいろな意味で楽しいバカンスになりそうだよ」