**. エピローグ


 早瀬先生と別れて、そしてアイツと付き合い始めて――早一年。
 王子様のように上品で優しかった元彼・早瀬先生とは、全く性格も言動も正反対。
 そんなアイツと付き合うことは思った以上に大変で。
 よく衝突したり喧嘩したりして、いっぱい泣いたり怒ったりした。
 でも……その逆に。
 笑ったり喜んだり嬉しかったりも、本当にたくさんした。
 照れくさくて、アイツになんて面と向かっては言えないけれど。
 ふたりで過ごしてきた時間は――とても充実していて。
 刺激的で楽しくて、そして何よりも幸せな時間なのだ。
 どうせそんなことを口に出しても、当然だの有難く思えだの、そういうふてぶてしい言葉しか返ってこないことは分かっているけど。
 でもそういう自分だって、私といる時が一番幸せなくせに。
 深い黒を帯びる瞳を細めて子供っぽく笑うアイツの顔を見ながら、私は心の中でいつもそう思うのだった。
 私はふと冬の窓の外を見つめ、それから腕時計で時間を確認する。
 そして、バッグからある一通の封筒を取り出した。
 真っ白で上品な模様のあしらわれた、しっかりした紙質の封筒。
 私はその封筒からあるものを取り出し、思わず笑みを零す。
 先日届いた、嬉しい便り。
 1年前――早瀬先生と、別れたあの時。
 私は先生と、ある約束をした。
 そして彼は、ちゃんとその私との約束を果たしてくれたのである。
 その封筒の中身は――結婚式の、招待状。
 私は1年前のあの日、早瀬先生にこうお願いした。
『自分の気持ちに正直になって、香澄さんを幸せにしてあげてください』と。
 そしてお父さんは昔、私にこう言った。
『娘の結婚相手に求める一番の条件は、私の大切な娘のことを誰よりも一番に想うという気持ちかな』
 その“娘”という言葉は、私はもちろん、香澄さんに対しての気持ちも込められていたのだろう。
 そして早瀬先生は、その条件にぴったりの人。
 早瀬先生は、香澄さん……いや、お姉ちゃんのことを、誰よりも一番に想う気持ちを持っている人だから。
 でもあの早瀬先生も、ひとりで生きていくと決めていた香澄さんを頷かせることは最初はなかなかできなかったらしい。
 でも何度も諦めずに気持ちを伝え、それが次第に香澄さんの心を動かして。
 その甲斐あってふたりは付き合うようになり、そして来月結婚することになったのだ。
 とはいえ、私はずっと早瀬先生が自分の王子様だと信じて疑っていなかったし。
 別れてしばらくは、正直少し引きずったりしたけれど。
 でも今は早瀬先生と香澄さんのことを、心から祝福できる。
 私には……私だけの、かけがえのない大切な人がいるのだから。
 私はある場所に到着したのを確認すると、荷物を手に早足で歩き出した。
 そして賑やかなその場所で立ち止まり、周囲を見回す。
 もしかしてアイツ、また遅刻したんじゃないだろうか。
 あんなに口を酸っぱくして、時間を言っておいたはずなのに……。
 私ははあっと大きく嘆息し、前髪をかき上げた。
 ――その時だった。
「! きゃっ」
 突然背後から腰に腕を回され、私は思わずビクッと身体を震わせてしまう。
 それから振り返り、いつの間にかその場に現れた相手に、呆れたように言った。
「何すんのよ、びっくりするでしょ? てか、セクハラしないでよ」
「あ? おまえがボーッとしてるのが悪いんだろーが。てか、腰に手ぇ回されて感じてたくせによ」
「なっ、か、感じてたって……っ」
 わざとらしく耳に吐息を吹きかけるように囁くアイツの言葉に、不覚にも私はカッと顔を赤らめてしまう。
 そして、アイツ――遥河俊輔は、いつも通りニッと笑った後、私の持っていた荷物をひょいっと抱え、逆手で私の手を握る。
 それからいきなりスタスタと歩き出し、ふてぶてしく口を開いた。
「わざわざこの俺が、空港まで迎えに来てやったんだ。有難く思え」
「何よ、当然でしょ? いつもがいつもなんだから、久しぶりに会う恋人を迎えにくらい来なさいよね」
 私は負けじとそう言い返しながらも、強く握られている遥河の手のぬくもりに思わず笑みを零してしまう。
 ……今、私たちがいる場所。
 そこは、成田空港だった。
 私が飛行機で成田に到着したのを、遥河が迎えに来てくれたのだ。
 そして私が、今までどこに行っていたのかというと。
「海外留学帰りの恋人を労わろうって気持ち、あんたにはないワケ? あーおなかすいた、日本食が食べたい」
「あ? 日本食だぁ? 俺は洋食が食いたい気分だ、日本食食いたけりゃ勝手に自分で食え。てか、海外留学って言ってもな、たった2週間ぽっちじゃねーかよ。それにそんなシケたものでもな、壊滅的だったおまえの英語力を伸ばして留学できるまでにしてやったのは、一体誰だと思ってる?」
「決まってるでしょ、私の努力の成果よ。それよりも留学中我慢してたんだから、日本食が食べたいって言ってるのよ」
 ……そう、私は。
 有り得ないだの壊滅的だの言われながらも、あれからも遥河との英語の個人補習を続けて。
 冬休みだけの短期間なものだけど、ついに夢だった海外留学をすることができたのだった。
 心の中では、遥河にはすごく感謝している。
 実際に英語の成績は見違えるほど上がったし、今では英語が得意教科だと言えるまでになった。
 でもそんな感謝の言葉をコイツに言えば、つけあがるに決まっている。
 なので私はいつも、こっそりと心の中だけで感謝しているのである。
 ――その時だった。
「…………」
 遥河は漆黒の瞳をちらりと私に向け、ふうっと嘆息する。
 それから急にピタリと立ち止まった。
 私は突然立ち止まった遥河の様子に首を傾げ、同じように足を止める。
 そんな私に、遥河はこう言ったのだった。
「ていうか、もう我慢できねーよ」
「え? ……!」
 次の瞬間。
 私は遥河の次の行動に、思わず目を見張った。
 大勢の人で賑やかな空港のど真ん中で。
 くるりと振り返った遥河が……私の身体を、ぎゅっと抱きしめたのだった。
「俺だって我慢してたんだ。でももう、我慢できない」
 人の目も全く気にせず、遥河はそう低い響きの声で囁く。
 それから、ゆっくりとこう続けた。
「この2週間、おまえが帰ってくるのを待ってたんだぞ……おかえり、美紅」
 全身をふわりと包む遥河の体温を感じ、私はにっこりと微笑む。
 意見がぶつかって喧嘩した時も、些細なことで言い合いになった時も。
 遥河に抱きしめられただけで、不思議と気持ちが癒されるのだった。
「ただいま。帰ってきたよ」
 私は遥河の背中に腕を回し、彼の胸に身体を預ける。
 遥河はそんな私の頭を黙って優しく撫でてから、ふっと笑う。
 そして、からかうように言った。
「言っただろ、我慢できないってな。日本食も洋食も後だ、さっさとふたりになれるところに行くぞ」
「なっ、ふ、ふたりになれるところってね……っ」
 本当にコイツは教師なんだろうか。
 公共の場で堂々と生徒を抱きしめ、セクハラまがいなことまで言うなんて。
 私は急に今更周囲の目が気になって、恥ずかしくなって俯いてしまう。
 逆に遥河はそんな私を楽しそうに見てクックッと笑った後、ポンッと私の頭を軽く叩いた。
 それから再び歩き出したのだった。
 私は火照った顔に手を当て、はあっと嘆息する。
 本当に自分勝手で俺様で、頭にくる言動も多い遥河だけど。
 でも……その心の奥底では、私のことを大切に想ってくれているのが分かる。
 私はぎゅっと遥河の手を握り返し、彼の隣に並んだ。
 同時に、じわりと繋いだ手から遥河のぬくもりを感じ、私の体温と混ざり合う。
 優しい言葉なんて、滅多にかけてくれないけれど。
 自分に伝わる彼のあたたかさが何よりも心地良く、そしてそのぬくもりを感じるたび不思議と安心するのだった。


 ――初めて遥河と出会った、1年前の夏の日。
 まさかコイツとこんな関係になるなんて、予想もしてなかったけれど。
 でも、今は……彼との出逢いは運命だったと、信じている。
 そして同時に、私は確信している。
 人生のゴールテープを一緒に切るのは。
 きっと彼――遥河俊輔なのだろうなということを。


THE RACE ・完



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