31. 最後の直線


 ――12月24日。
 この日は、秋華女子高校の2学期の終業式である。
 美紅は自室で制服のリボンを整えてから、父の待つ1階のダイニングへと向かった。
「美紅、おはよう」
 父・和彦は愛娘ににっこりと微笑み、美紅愛用のマグカップにコーヒーを注ぐ。
 ふわりと良い香りのする淹れたてコーヒーに瞳を細めてから、美紅は普段通り父の目の前の椅子に座った。
「おはよう、お父さん」
 美紅はマグカップを受け取って砂糖をひとさじ入れながら、父に挨拶を返す。
 それからひとくちコーヒーを飲み、トーストにバターを塗りながら、何かを考えるように俯く。
 ここ数日、美紅はいろいろと悩んでいた。
 はじめは誰にも相談することができず、ひとりで混乱するばかりであったが。
 日曜日に思い切って香澄の家を訪ね、彼女と話をして。
 かなり、気分が楽になった。
 とはいえ、実際に自分が悩んでいることを香澄に相談したりなどは殆どしていない。
 香澄は美紅よりも前から、自分たちの関係を知ってはいたようだが。
 敢えてそのことを直接美紅に言わなかった。
 なので美紅もそんな香澄に、自分たちが姉妹だという事実を知ったことは口にしなかった。
 むしろ香澄と話をしていくにつれて、そんなことはもうどうでもよくなっていく気さえして。
 ただ彼女と他愛のない世間話をするだけでも、深く考え込み過ぎていた心が軽くなっていくような気がしたのである。
 だが、お互い言葉には出さなかったが。
 見えない姉妹の深い繋がりのようなものを、ふたりは自然と感じていたのだった。
 ……そして、美紅は。
 ようやく自分なりに、納得がいく答えを出すことができたのである。
 その答えが正しいのか間違っているのか、それは分からない。
 自分が決めた答えとはいえ、正直それを口にするのは勇気がいることで。
 やはり別の答えを出すべきかもしれないと、何度も考えを変えようかとも思ったが。
 だがもう、前に進むしかない。
 自分のためにも、そして大切ないろいろな人たちのためにも。
 自分には、言わなければいけないこと、やらなければならないことがある。
 この数日間散々悩んだ挙句、美紅はそう気持ちの切り替えをしたのだった。
 その答えは、自分にとって最善なものかどうかは定かではない。
 正直、自分の気持ちに100%沿うものではないのである。
 でも……。
 美紅はトーストにバターを塗り終わってから、ふと顔を上げた。
 それから、目の前の父に視線を向ける。
 そして父に訊いたのだった。
「ねぇ、お父さん。お父さんにとって娘って、やっぱり大切な存在なんだよね? そしてその娘が将来、お嫁に行くことになったら……その相手に対する一番の条件って、何?」
 美紅の突然の問いに、和彦は不思議そうな顔をする。
 だがすぐに紳士的な微笑みを美紅に向けてから、娘の質問に優しく答えた。
「私にとって娘は、何にも変えがたい最高の宝物に決まっているじゃないか。そんな娘が嫁に行く日が来るなんて、それはすごく父親として寂しいがね。だがそうなった場合、相手に求める一番の条件は……」
 そこまで言って、和彦は一旦言葉を切る。
 それから娘と同じ黒の瞳を細め、こう続けたのだった。
「私の大切な娘のことを、誰よりも一番に想うという気持ちかな」
「娘のことを、一番に……」
 美紅は父の言葉に何かを考えるような仕草をする。
 それから少し照れたように微笑み、頷いた。
「そっか。じゃあお父さんに気に入って貰えるようなそんな相手、ちゃんと選ばないとだね」
「美紅。とはいえ、そんな存在がもし現れでもしたら、きっと私はすごく嫉妬してしまうよ。まだまだ私の元から大切な娘を手放したりしたくないからね」
 和彦はそう言って冗談ぽく笑ったが。
 やはりいつも通り、その目は全く笑っていない。
 そして相変わらず娘溺愛な父の様子に、美紅は苦笑する。
 だが……父の言葉で、さらに美紅は決意を固めたのだった。
 娘のことを、誰よりも一番大切に想う気持ちを持った人。
 そんな相手と娘が一緒になることが、父の願いなのである。
 多少、娘を溺愛しすぎている感は否めない和彦ではあるが。
「心配性なんだから、お父さん。私まだ高校生よ? 少なくても高校卒業するまでは、家にいるし。ただ、ちょっと訊いてみただけ」
 美紅はフォローするように父にそう言って、バターを塗ったトーストを口に運ぶ。
 それからちらりと腕時計を見て時間を気にしつつ、和彦の淹れた美味しいコーヒーをひとくち飲んだのだった。
 
 
 ――その日の午前中。
 終業式であるこの日、講堂で行われる式典のみで学校は終わりである。
 式典が終わったばかりのこの時間は、各クラスで帰りのホームルームが行われていた。
 そしてまだ担任を持っていない早瀬は、帰りのホームルーム真っ只中で静かな校舎内を職員室に向かって歩いていた。
 その表情は学校内ということもあり、“秋華のプリンス”の名に恥じない穏やかなものである。
 だが、その心中は。
 早瀬はふっと小さく息をつき、色素の薄いブラウンの前髪をかき上げた。
 ……もうそろそろ、何か言ってくるだろう。
 終業式の今日、早瀬は美紅から何かしら自分のプロポーズに対しての返事が返ってくるだろうと予想していた。
 いや、何かしらというか。
 彼女が自分に何と返事をするのか。
 早瀬にはそれが想像できたし、その考えに自信もあった。
 美紅は事実を知って以来、かなり悩んでいたようであるが。
 そんな彼女に決して答えを急かすことをしなかったのも、早瀬の作戦のひとつであった。
 正直、あの日の遥河との会話を美紅に聞かれるなんて思ってもいなかった。
 それは早瀬にとって、かなりの誤算ではあったが。
 誤算であると同時に、自分にとってはかなり有利であったと。
 そうも同時に思ったのである。
 美紅と自分の仲を邪魔しようと、あの遥河も今までいろいろと動いていたみたいだったが。
 遥河にとってもあの日、彼女に真実を聞かれたことは全くの予想外であっただろう。
 その上に自分が見ている限りでは、まだろくに遥河は美紅の心を動かせてはいないようであるし。
 それに比べ自分は、今まで恋人として美紅にこれでもかというほど優しくしてきた。
 そして美紅はそんな自分に、すっかり夢中なのである。
 自分は遥河なんかよりも、かなり先にスタートを切っていたのだから。
 そんな自分の思惑が阻まれるわけがないと。
 そういう揺ぎ無い自信が、早瀬にはあったのである。
 もちろん美紅に対する優しさも、多少の打算はあるにしろ、すべてが演技なわけではない。
 あの日遥河にも言ったように、美紅のことは大切に思っているし、結婚だって真剣に考えている。
 そして、彼女にプロポーズをした今。
 すでにレースは最終コーナーを曲がり、最後の直線に差し掛かっているのだ。
 あとは美紅の返事を聞き、ゴールテープを切るだけである。
 ――その時だった。
「…………」
 早瀬はふと表情を変え、スッと瞳を細めた。
 ……そんな彼の視線の先には。
 いくら帰りのホームルーム真っ只中で、周囲に人がいないとはいえ。
 学校内でもお構いなしでカチカチと携帯電話を弄る、教師としてあるまじき男の姿。
 それは早瀬のレースのライバル――遥河俊輔、その人だった。
 遥河は正面から歩いてくる早瀬に気がつき、途端に気に食わない表情を浮かべる。
 それから鋭い視線を早瀬に向けた後、弄っていた携帯電話を閉じた。
 早瀬は敢えてそんな遥河に何も言わず、ふっと小馬鹿にしたような笑みをその顔に宿す。
 そして嫌味っぽくわざと丁寧に会釈をした後、スタスタと彼の横を通り過ぎた。
 遥河はそんな早瀬の様子にチッと舌打ちをする。
 その後、手に持っていた携帯電話をポケットにしまい早瀬に背を向け、彼とは逆方向に歩いて行ったのだった。
 もう――長かったこのレースは、最後の直線に差し掛かっている。
 ゴールは、すぐ目の前なのだ。
 小さくなっていく遥河の背中を一瞬だけ見てから、早瀬は瞳を伏せる。
 学生時代から成績はもちろん、何に関してでも遥河にだけは勝っていたいと。
 初めて屈辱を味合わされた中学以来、早瀬は密かにそう心の中で強く思っていた。
 だが……そんなレースも、もうすぐ終わる。
 もちろん、自分の勝ちという最高の結末で。
 そして、これでよかったんだと。
 レースに勝利してゴールテープを切った後、きっと自分はそう思えるだろうと、信じている。
 そのために、自分は今までずっと走ってきたのだから……。
 早瀬は小さく息をついた後、閉じていた瞳を開いた。
 それからふっと王子様のような笑顔を取り戻し、サラサラの髪をそっとかき上げたのだった。
 
 
 その数十分後――帰りのホームルームが終了した、1年Aクラスで。
 美紅はひとつ、深呼吸をした。
 終業式の今日、自分の気持ちを勇気を出して彼らに伝えようと。
 美紅はそう改めて決意し、大きく頷いた。
 それからカバンを手に取って周囲の友人たちと軽く挨拶を交わしつつ、教室を後にする。
 そんな彼女の、向かった先は。
 生徒や教師の声で賑やかな職員室だった。
 美紅は職員室に足を踏み入れてから、周囲をきょろきょろと見回す。
 彼女が探しているのは、あるひとりの人物。
 放課後になったばかりの職員室は、生徒や教師の姿でいっぱいだったが。
 美紅がその探している人物を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。
 美紅はもう一度小さく息を吐き、グッと手の平を握り締める。
 それから気持ちを奮い立たせるかのように、漆黒の瞳を真っ直ぐに彼へと向けた。
 そして、自分の決めた気持ちを彼に伝えるため。
 その人物の元へと、一歩足を踏み出したのだった。