30. 迷走
……真実を知ったあの日から、数日。
美紅は自宅の自室で大きく息をついた。
今日は、学校も休みの日曜日。
窓の外には清々しいほどの青空が広がっている。
だが、そんな嬉しいはずの休日も。
今の美紅には、楽しむ余裕さえない状況だった。
「はあ……っ」
机の上に突っ伏して、美紅はもう何度目か分からない溜め息をつく。
自分に突然つきつけられたことは信じられないような事実ばかりで
一体どうすればいのか、日が経つにつれ余計に分からなくなっている。
香澄が実は自分と母親の違う姉で。
あの遥河には好きだとか言われるし。
早瀬にはプロポーズされるし。
何からどう、答えを出していけばいいのか……。
まだ幼くいろんな人生経験も浅い美紅にとって、自分の中でそれらの事実を整理することも、まして決断を下すことも簡単に出来ることではなかったのだ。
まずは和彦に、思い切って香澄のことを訊こうかと思ったのだが。
いざ父を目の前にすると、それを口に出す勇気もなかった。
かといって、遥河の告白と早瀬のプロポーズに対して、はっきりとした答えを出すこともできず。
結局この数日、ひとりでグルグルと悩むことしかできなかったのである。
しかも、あんなことがあった後でも。
遥河も早瀬も、美紅の答えを決して急かすことはなかった。
むしろ、まるで何事もなかったかのようなごく普通で自然な態度なのである。
そしてそんなふたりの大人な様子に、さらに美紅はどうすればいいのか分からなくなるのだった。
……そうこうしているうちに、日にちも過ぎていって。
とうとう明後日は二学期の終業式である。
あの日のことは、今は何も言ってこないふたりだが。
遥河は告白してきた日、こう美紅に言っていた。
『返事は来週の終業式まで待ってやる。それまで、じっくり考えろ』
だが今のままでは、到底あと一日や二日で答えが出そうにない。
でもいずれはどんなカタチであるにしろ、何かしら答えを出さないといけない。
いや、実はある程度答えは出ているのだ。
だがどうして美紅がこんなに悩んでいるのかというと。
それには、ある理由があったのだった。
それは……。
美紅は漆黒の前髪をそっとかき上げ、大きく息をつく。
このまま部屋に閉じこもっていても、ますますどうすればいいか悩むばかりだろう。
まずは、今の自分に何ができるか。
美紅は気を取り直したように顔を上げ、窓を開けた。
それと同時に少し冷たい冬の風が美紅の漆黒の髪を揺らす。
美紅は髪と同じ色を湛える瞳を伏せ、ひとつ大きく深呼吸をした。
それから、何かを決意するようにひとつ頷く。
そしておもむろに机の上に置いていた携帯電話を手にし、誰かに電話を掛け始めたのだった。
――上品な印象の家具や雑貨でまとめられた、センスの良いリビング。
広い室内に満ちているのは、耳に優しく響くヴァイオリンの音色。
そして美しい女性のしなやかな手で奏でられる旋律は奏者の雰囲気と同じ、柔らかで穏やかなものである。
……その時だった。
誰かの来訪を告げるチャイムがおもむろに鳴る。
その女性・香澄はふとヴァイオリンを奏でていた手を止めると、玄関へと向かった。
彼女の黒を帯びる長い髪が微かに背中で揺れる。
香澄は家のドアを開け、訪れた人物を確認すると嬉しそうに微笑んだ。
それからその客人を優しく室内へと促す。
「いらっしゃい、美紅ちゃん」
香澄の家を訪れたのは、美紅だった。
「こんにちは、香澄さん。すみません、急にお邪魔しちゃって」
美紅は申し訳なさそうに頭を下げた後、遠慮気味に香澄に目をやる。
そんな彼女の様子に大きく首を振って香澄は柔らかな笑顔を美紅に向けた。
「ううん、美紅ちゃんが来てくれてとても嬉しいわ。どうぞあがって」
自分の目の前で微笑む、とても綺麗で教養に溢れた女性。
美紅はもう一度軽くペコリとお辞儀をし香澄の家にあがりながら、目の前の彼女を見つめる。
背中を流れるような黒の髪と瞳の色は、確かに自分のものと似ている気もする。
だが、自分と血が繋がっているとは思えないくらい香澄は落ち着いていて。
何だか言葉を交わすだけで心が穏やかな気持ちになる。
母親が違うとはいえ、こんな素敵な人が自分の姉だなんて。
美紅はまだ信じられない心境の中、以前も通された広いリビングに足を踏み入れた。
「美紅ちゃん、ソファーに座って寛いでてね」
香澄は美紅にそう言った後、お茶とお菓子を取りにキッチンへと向かう。
そんな香澄の言葉に頷き、美紅は勧められたソファーに腰を下ろした。
ここ最近――いろいろなことが、一気に目まぐるしく起こって。
美紅はどうしていいのか分からず、混乱していた。
父に事実を聞く勇気もなければ、早瀬や遥河に告げられたことに対して自分がどう答えを出していいのかも分からず。
ひとりで悶々と悩んでいたのだが。
でもこのままでは、何も解決しない。
そう思い、気分転換も兼ね、美紅は香澄に連絡を取った。
そしてひとりで彼女の家までやって来たのだった。
もちろん、香澄と自分が姉妹であることが事実なのかも気になっていたが。
それよりも美紅は、純粋に香澄と話がしたかったのだ。
香澄とは初めて会った時から何となくフィーリングが合っている気がしていたし、何よりも穏やかな物腰の彼女と話をすると落ち着くような気がして。
今の混乱した自分の気持ちを整理するため、美紅は香澄の家を訪れたのである。
それからしばらくしてカチャリとドアが開き、ティーセットを手に香澄がリビングへ戻ってくる。
そして美紅の前に、香りの良い紅茶とケーキを出した。
美紅は自分の前に置かれたそれらを見て、思わず頬を緩める。
「あ、ここのお店のケーキ……私、すごく大好きなんです。特にこのフルーツロールが一番好きで、よくお店にも食べに行ってます」
「本当に? 実は私もここのフルーツロール、すごく好きなの。よかった、喜んで貰えて」
香澄は漆黒の瞳を細め、柔らかな笑みを宿した。
それから美紅の正面のソファーに座り、続ける。
「でもすごく嬉しいけど驚いたわ、美紅ちゃんがうちに遊びに来てくれるなんて。今日は何も予定入っていないし、ゆっくりしていってね」
「すみません、いきなり押しかけて。香澄さんと、いろんなお話がしたくて」
美紅はもう一度小さく頭を下げてから、目の前の彼女に視線を向けた。
そして、こう香澄に訊いたのだった。
「あの、香澄さん。香澄さんは、ひとり暮らしなんですか?」
「ええ。以前は母と一緒に住んでいたんだけど、その母も数年前に病気で他界したの。母はシングルマザーで私たちは母ひとり子ひとりだったから、今はひとり暮らしよ」
「母ひとり子ひとり……」
香澄から返ってきた言葉に、美紅は思わず俯く。
早瀬と遥河が言っていた通りなら、香澄の父親は自分の父でもある椎名和彦で。
そして父はそのことを知りつつも、香澄のことを娘として椎名家に迎えなかったのだという。
あの父が、まさかそんなひどいことを……。
美紅は複雑な表情をし、何も言えずに言葉を切った。
だがそんな美紅に小さく微笑んで、香澄はこう話を続けたのだった。
「確かに母ひとり子ひとりで暮らしてきたんだけどね。私の父もとても素敵な人なのよ、美紅ちゃん」
「……え?」
香澄の意外な言葉に美紅は顔を上げる。
香澄はコクンと頷き、笑った。
「母と父は昔恋人同士だったけど、私ができたと分かった時にはもう別れていて。それに母は父に私が生まれたことを言わなかったから、父は私のことを最近まで知らなかったの。でもそのことを知った時、もうすでに母は亡くなった後だった。それでも父は私に、自分のところに来ないかって言ってくれた。その時、本当に嬉しかったわ。でもどうしようか悩んだけど、もう私はすでに成人していたし、その気持ちだけ受け取ることにしたの」
「香澄さん……」
美紅は彼女の言葉に、表情を変える。
早瀬の言い方だと、父は自分の娘である香澄のことを見捨てたのだというような口振りであったが。
だが、実際に父は香澄に養子の話を持ちかけていたのである。
香澄がそれを断ったため、早瀬はそのことを知らなかったのだろう。
父のことが信じられなくなっていた美紅は、その事実を聞いて少しだけホッとする。
そして香澄は、そんな美紅の表情の変化を見てから、さらにこう続けたのだった。
「父はね、毎回私のリサイタルに必ず来てくれていて。それにこの前なんて、大切な人も一緒に連れて来てくれたのよ? ね、美紅ちゃん」
「大切な人……」
それが一体、誰であるか。
敢えて言われなくても、美紅にはそれが誰だか分かった。
それに香澄は、前から知っていたのだ。
――美紅が、自分の妹であるということを。
それが分かった美紅は何だか急に照れくさくなり、うっすら頬を染めて俯く。
だがすぐにその顔に笑顔を浮かべた。
香澄みたいな姉がいたらいいと。
美紅は初めて彼女と話をした時、そう思ったのだった。
そして実際、香澄と自分は母親は違うが血を分けた姉妹で。
こんなに素敵な姉がいるなんて、少し照れるけどすごく嬉しい。
美紅はそう強く思いながら、ようやく大好物のフルーツロールを口に運ぶ。
笑顔が戻った美紅の表情に優しく微笑み、それから香澄は訊いた。
「そうそう、美紅ちゃん。早瀬くんや遥河くんは元気?」
何気ない香澄のその言葉に、美紅は再び表情を変える。
そして気を取り直すように紅茶を飲んでから答えた。
「ええ。元気……だと思います」
毎日学校で見る姿は、いたってふたりとも元気そうであるが。
あの告白の日以来、美紅は早瀬とも遥河とも少し距離を置いている。
いや、美紅がそうしているというよりも。
美紅の混乱した心境を考え、彼女の答えが出るまでふたりが待っているといった状態なのである。
確かに自分は今、早瀬と付き合っているが。
彼のプロポーズをそう簡単に受け入れることもできず、また遥河の告白にどう答えていいのかも分からない。
しかもふたりが話していた会話の中で、美紅はあるひとつのことが大きく引っかかっていた。
それは、本当にほんの些細なことなのであるが。
美紅が答えを出すのに悩んでいるのも、そのあることのせいなのである。
それを確かめたくて……美紅は今、香澄の元に来ているということもあったのだった。
美紅はカチャリとティーカップをソーサーに置いた後、香澄に視線を戻す。
それから、彼女にこう訊いたのだった。
「この間、香澄さんはヴァイオリンが恋人だって言ってましたよね。香澄さんは、結婚とかしないんですか? 香澄さんって美人だし優しいし、男の人が放っておかないでしょう?」
「そんな男の人が放っておかないなんて、全然よ。それに結婚は今のところ考えてないかな。今はヴァイオリンを弾けるお仕事ができるだけで幸せだし」
香澄は小さく首を振り、謙虚に笑う。
そしてふっと漆黒の瞳を細め、こう言葉を続けたのだった。
「それに私、持病の心臓病があるでしょう? いつ発作が起きたりして、どうなるか分からないから。もし相手がいたとしても、その相手に申し訳ないわ」
柔らかで女性らしい印象は全く変わらない、目の前の香澄の微笑み。
だがその表情は少しだけ寂しそうな色が見え隠れしているような気がした。
そして美紅はその言葉を聞き、ようやく分かったのだ。
香澄がひとりで生きていくと言っている、その理由が。
自分の心臓の持病のために、人に迷惑をかけたくないと。
誰かに迷惑をかけるかもしれないのであれば、ひとりで生きていこうと。
そう彼女は思っているのだ。
そしてそれは、とても心の優しい香澄らしい考え方だと。
美紅はこの時そう思いつつも、再び彼女に訊く。
「でも心臓病のことがあっても、それでも香澄さんと一緒にいたいって言う人が現れたら?」
香澄はそんな美紅の問いに、僅かに首を傾ける。
それからぽつりと、こう言ったのだった。
「そうね、そんな人がいてくれたら気持ちはとても嬉しいけど……でも、やっぱり私は今の生活で満足よ」
美紅はその答えを聞いて、ふと何かを考えるように俯く。
それから、姉と同じ色をしている漆黒の前髪を、そっとかき上げたのだった。