29. ふたりの告白


 ……頭がクラクラする。
 美紅は頭を抱えるようにして大きく息を吐いた。
 自分がこれからどうすればいいのか考える余裕もないくらい、混乱している。
 自分の王子様だと信じて疑っていなかった早瀬にも。
 気に食わないけど根は悪いヤツじゃないと心のどこかで思っていた遥河にも。
 そして父である和彦にさえも、裏切られたという気持ち。
 誰を信じて、誰に寄り添えばいいのか。
 美紅はもう涙さえ出なくなって火照った顔に手を添えた。
 それから大きな溜め息をつき、机に頬杖をつく。
 思考回路が、完全に停止している。
 自分の行動が自分でもよく分からない。
 そのいい例が……今、自分がいる場所。
 何でここに来たのか、よく分からない。
 ――今美紅がいるのは、誰もいない英語教室だった。
 確かに今日は火曜日で個人補習の日だが。
 あんなことがあって、遥河がここに来るわけない。
 いや、というよりも、あんな話を聞かれて自分がここにいるなんて思わないだろう。
 なので、さっさと学校を出て家に帰ろうかとも思ったが。
 一度英語教室の席に座ってしまった美紅は、再び立ち上がって家まで帰る気力すらなかったのだった。
 シンと静まり返った教室内で、ひとり俯いて嘆息するだけ。
 今の美紅には、ただそれだけしかできなかった。
「……やっぱり、帰ろうかな」
 だが、いつまでも誰も来ないだろう英語教室にいても仕方ない。
 美紅はようやくカバンを手にし、席を立ち上がった。
 ――その時だった。
「え……?」
 美紅はふと顔を上げると、驚いたような表情を浮かべる。
 ……おもむろに、ガラリとドアの開く音がしたからである。
 そして、英語教室に現れたのは。
「座れ」
 そう短く言って、現れた人物・遥河はいつも美紅が座る席を指差す。
 美紅は思わぬ遥河の出現に、困惑した顔をする。
 それから少し何かを考えるように俯いた後、言われた通り大人しく椅子に座った。
 何で、遥河がここに。
 それに……一体、どんな顔をすればいいのか。
 ていうか、遥河は一体、どんな顔をしてどんなつもりでここに来たんだろうか。
 だがそれを確認する勇気もなく、美紅は俯いたまま遥河と顔を合わせることをしない。
 遥河は漆黒の髪をかき上げた後、おもむろに美紅の座っている隣の席に腰掛けた。
 相変わらず、顔を上げることは出来ないが。
 遥河が今すぐ近くにいるという気配を、美紅は全身で感じる。
 そして、何故か。
 異様に胸がドキドキし始め、手の平にじわりと変な汗が滲んでいるのが分かった。
 遥河は自分と目を合わせようともしない美紅を、しばらく黙ってじっと見つめる。
 それから、ゆっくりと口を開いた。
「……椎名美紅」
 低いバリトンの声が、静かだった英語教室に響く。
 美紅はおそるおそる顔を上げ、無言で彼に視線を向けた。
 その瞬間、不覚にもドキッとしてしまう。
 神秘的な深い黒を帯びるその両の目が、自分だけを真っ直ぐ映していたから。
 遥河はようやく自分を見た美紅の様子を確認し、続ける。
「さっきの話、全部聞いてたんだろう? もう一度話すまでもないな」
「…………」
 美紅は無言のままその顔に複雑な色を宿す。
 さっき自分が聞いたこと。
 香澄との意外すぎる関係と、早瀬や遥河が自分に近づいてきた理由。
 それだけでもショックを受けるのには十分な内容である。
 遥河はふうっとひとつ息をつき、少し間を取ってから話を切り出す。
「おまえが聞いたことは全部事実だし、それに関して言い訳がましくどうこう言うつもりもない。だが、これだけは言っておきたくてな。最初は打算があっておまえに近づいたが、でも今は違う。いつからか、復讐だとか因縁だとかそういうことは関係なくなってきたんだよ。日が経つにつれ、おまえに興味が沸いてきた。そして……気がついたんだ」
 美紅は目の前の遥河をじっと見ている。
 そして遥河は、こう美紅に告げたのだった。
「おまえのことを、誰でもないこの俺が大切にしてやりたいと。おまえのことが好きだと、気がついたんだよ」
「……え?」
 あまりにも唐突で思いがけない遥河の告白に、美紅は瞳を見開く。
 あの遥河が――自分のことを、好きだなんて。
 これも何かの冗談で、嫌がらせなのだろうか。
 一瞬そうも思った美紅だが。
 だが遥河の表情は、見たことがないくらい真剣なもので。
 どう見ても冗談だとは思えない。
 そして端正な遥河の顔が自分の近くにあることを急に意識し、美紅は思わず頬を赤らめてしまう。
 むしろ心臓が有り得ないくらい早い鼓動を刻み、喉から飛び出てしまうのではないかと思うくらい、胸が張り裂けそうで。
 美紅は何も言うことができず、固まってしまっていた。
 遥河はそんな美紅の様子に小さく笑った後、そっと彼女の頭に手を添える。
「別に返事は今すぐじゃなくていい。今、ここで答えを聞かせろなんて言わねーよ」
 そう言って美紅の頭をくしゃっと撫でた後、遥河は椅子から立ち上がった。
 そしてスタスタと英語教室のドアへと歩を進めながら言った。
「返事は来週の終業式まで待ってやる。それまで、じっくり考えろ」
 そんな、相変わらず俺様な遥河の言葉にも。
 いつものように美紅は言い返すことすらできなかった。
 この時はただ、彼の言うことに小さく頷くことしか出来なかったのだった。
 遥河は美紅を残したまま、英語教室を後にする。
 ピシャリとドアが閉まり、再び美紅は広い教室にひとりになった。
 美紅ははあっと大きく息を漏らし、小さく首を左右に振る。
 もう……何が何だか、分からない。
 いろいろなことが一気にありすぎて、混乱してしまっている。
 美紅はそう頭を抱えながらも、自分を見つめていた遥河の黒の瞳を思い出す。
 ドキドキしてしまうような整った容姿。
 そして魅力的なその目は、不思議と澄んでいるような気がした。
「…………」
 美紅は前髪をそっとかき上げ、おもむろに席を立つ。
 それからカバンを手にすると、遥河に続いて英語教室を出たのだった。


 ――その日の夕方。
 学校を出たものの、真っ直ぐ家に帰る気にもなれず。
 美紅は賑やかな繁華街を目的もなく歩く。
 先程まであんなに赤かった空も、今では薄っすらと闇に覆われ始めていた。
 だが今から夜を迎える繁華街は、美紅の心とは裏腹に賑やかな様相をみせている。
 ……その時だった。
 カバンの中に入れている携帯電話が、誰かからの着信を知らせる。
 美紅はそれに気がつき、カバンをあさった。
 それから困惑の表情を浮かべ、しばらく携帯電話をじっと見つめる。
 今まで全然気がつかなかったが。
 何度も美紅の携帯には、不在着信があったようだ。
 そして、その掛けてきていた相手は。
「……もしもし」
 どうしようか迷った挙句、美紅はその電話に出る。
 そんな彼女の耳に聞こえてきた声は。
『美紅、僕だけど……今、どこにいるんだい?』
 穏やかで優しくて、王子様のような上品な声。
 電話の相手は、早瀬だった。
「…………」
 美紅はそんな彼の声を聞いて、思わず泣きそうになる。
 大好きな恋人の声。
 今日学校の中庭で聞いたことは、全部嘘だったと。
 悪い夢だったと……そう思えたら、どんなにいいことか。
 電話の向こうの早瀬は、何も言葉を発することができない美紅に優しく声を掛ける。
『美紅、今どこにいるの? 美紅に会いたいよ。会って、話がしたい』
「…………」
 美紅はどうしようか悩むように目を伏せる。
 会いたくないけど、でも会いたい。
 会って話をすることが何だか怖いような気持ちと、彼と会って話をしたい気持ち。
 そんな矛盾したふたつの感情がグルグルと頭の中を駆け巡る。
 いや、でも……やはり、会って話をすべきだ。
「……今、繁華街の駅のそばにいるよ」
 美紅はようやく、ポツリとそう早瀬に告げる。
『じゃあ今から、駅まで迎えに行くよ。すぐ行くから、待っててくれないかな』
「うん……待ってる」
 美紅は早瀬の言葉に小さく返事を返し、ピッと携帯電話を切った。
 それからいつもデートの時に待ち合わせをする、駅のロータリーへと足を運ぶ。
 きっと中庭での話を聞いた限りでは、早瀬は自分との関係をこれからも続けようと言うだろう。
 早瀬のことは今でも好きだし、早瀬も美紅のことは大切に思っていると言っていた。
 いくら思惑があって自分と付き合い始めたのだとはいえ、早瀬が自分のことを今まですごく大切にしてくれていたのは事実で。
 このことが発覚するまでは、彼といるだけで幸せを感じられたのは確かだ。
 ただ……。
 ――その時だった。
 美紅は駅のロータリーに入って来た白のスカイラインに気がつき、顔を上げる。
 そして、白馬のようなその愛車から出てきたのは。
「早瀬先生……」
 美紅はそう呟きながらも、なかなか現れた早瀬の元へと足を向けることができない。
「……美紅」
 早瀬はそんな美紅のそばまで歩み寄り、そっと彼女の肩を抱く。
 それから優しく彼女を促し、車に乗せた。
「…………」
 美紅はゆっくりと動き出した窓の外の景色を見つめ、俯く。
 愛車を発進させながら、早瀬は口を開いた。
「美紅。僕が美紅に言いたいことは、ひとつだけだよ。確かにいろいろと事情はあったけど……僕は今までも美紅のことは大切に思っていたし、これからも大切にしていきたいと思っているよ。それだけは、信じて欲しいんだ」
 美紅はその言葉に、ふと顔を上げる。
 自分を優しく見つめる、彼の柔らかで優しい瞳。
 同じ視線でも、遥河のものとは受ける印象がまるで違う。
 その王子様のような早瀬の視線は、不思議と安心感を覚える。
 彼は、大好きな自分だけの王子様。
 綺麗な早瀬の顔を見つめながら、美紅は何も言えずに彼の次の言葉を待った。
 そして早瀬はそんな美紅に、さらにこう告げたのだった。
「美紅。これからは、結婚を前提に僕と付き合ってくれないかな。確かに最初は、いろいろな思いを抱えて君と付き合ってたけど……でも僕には美紅が必要だし、君と結婚したいと強く思っている気持ちは本物だから。信じてくれなんて虫のいい話かもしれないけど……でも僕は、美紅のことが好きだよ」
 美紅は早瀬の言葉に、どう答えていいか分からない表情をする。
 早瀬のことは大好きだし、自分を大切に思ってくれていることだって分かっている。
 付き合うきっかけはどうであれ、自分と彼が恋人同士として幸せだった時間は嘘ではないとも思っている。
 今すぐにでも、今まで通りの恋人同士に戻りたい。
 だが……美紅の心に引っかかっているのは、ある些細なこと。
 そのほんの小さなことが、美紅の首を縦に振らせることを躊躇させていたのだった。
 美紅は考えるように少しの間漆黒の瞳を伏せた後、早瀬にこう返事をした。
「早瀬先生……もうちょっとだけ、考えさせてください。今頭がゴチャゴチャで、どうしたらいいか考える余裕がないの……」
 早瀬はそんな美紅の返答にコクンと頷く。
「分かったよ。美紅の気持ちの整理がつくまで、いつまででも僕は待つから」
 それと同時に早瀬はブレーキを踏み、車を止めた。
 いつの間にか白のスカイラインは美紅の自宅の前まで来ていた。
 美紅はようやくそれに気がつき、カバンを手にする。
 それから助手席のドアを開けて外に出て、ペコリと運転席の早瀬に頭を下げた。
 早瀬はそんな美紅に、いつも通りの優しい微笑みを向ける。
 王子様のような、その笑顔。
 自分だけに向けられるその彼の綺麗な笑みが、自分は好きなのだと。
 そう改めて感じながらも、美紅は彼に背を向けた。
 そして振り返らず、足早に自宅へと歩き出したのだった。