28. 信じ難い真実


「僕が、美紅を選んだ理由?」
 早瀬はふと表情を変え、遥河に視線を向ける。
 それからすぐに冷めた笑みを取り戻して言った。
「遥河。理由って、一体何が分かったっていうんだ?」
 腕組みをして近くの壁に寄りかかり、早瀬は風に揺れるブラウンの髪をかき上げる。
 遥河は相変わらず鋭い視線を投げたまま、ゆっくりと口を開いた。
「この間、香澄に聞いたんだよ。香澄と椎名美紅の関係をな。それが理由だろう?」
「…………」
 早瀬はブラウンの瞳を細め、言葉を切る。
 そんな早瀬の反応を確認した後、遥河はこう続けたのだった。
「香澄はうちの理事長・椎名和彦氏の娘だそうだな。理事長は結婚前、香澄の母親と恋人同士だった。そしてふたりが別れた後に香澄の母親の妊娠が分かったそうだが、香澄の母親は理事長に言わずにシングルマザーの道を選んだ。それを知らずその後理事長は椎名美紅の母親と結婚し、そしてあいつが生まれた。つまり、香澄と椎名美紅は異母姉妹ってことだ」
 遥河は一気にそこまで言って、ふっと嘆息する。
 その言葉を聞き、先程とは明らかに表情の変わった早瀬だが。
 遥河の言葉に動揺することなく言った。
「それで? 香澄と美紅が姉妹だったとしても、それが僕が美紅を選んだって理由になるって言うのか?」
 遥河はそんな早瀬の言葉に即座に頷いた。
「十分なるだろ。おまえは、香澄のことが好きだからな」
「は? この間も言ったけど、僕は香澄じゃなくて美紅と付き合ってるんだ。美紅と結婚しようとも思ってるよ。それなのに、僕が香澄のことを好きだって? 何でそうなるんだ」
 わざとらしく首を傾げ、早瀬はそう訊き返す。
 だが早瀬のそんな様子も気にせずに遥河はさらに言った。
「香澄は数年前に心臓病の発作で倒れて以来、誰にも頼らずひとりで生きていくことを決めたと言っていた。早瀬、どうせおまえはそんな香澄に、自分の気持ちを伝えることができなかったんだろう? 香澄と一緒になれないから、妹である椎名美紅を選んだ。違うか?」
 確信を持つようにそう言い切って、遥河は早瀬に目をやった。
 だがふっと馬鹿にするように鼻で笑い、早瀬は首を振る。
「違うな。いや、まぁおまえにしては、いい線いってるってカンジか」
 早瀬は前髪をかき上げ、ふうっと一息つく。
 そして開き直るかのように話を始めたのだった。
「確かにおまえの言う通り、僕が美紅を選んだ理由は、彼女が香澄の父親・椎名和彦のひとり娘だったからだよ。でもその後は違う。僕は、理事長が許せなかった。だから美紅に近づいたんだよ」
「理事長が許せなかっただ?」
 少し意外な顔をしつつ、遥河は首を傾げる。
 早瀬はおもむろに視線を伏せ、クッと唇を噛んだ。
 それから声のトーンを落として言葉を続けた。
「香澄が二十歳の時、理事長は彼女が自分の子だと知ったそうだ。でも、認知すらしなかった。香澄は心臓病を患っているのに、だぞ? なのに父親として、同じ娘である美紅にばかり愛情を注いで……だから僕は決めたんだ。理事長の可愛がっている娘・美紅の心を、僕のものにしてやると。そして美紅と結婚して、理事長の築き上げた秋華女子も乗っ取ってやろうとね」
「ていうか、くだらねーな、おい。それにやっぱおまえは、椎名美紅じゃなくて香澄のことが好きなんじゃねーかよ」
 遥河は大きく溜め息をつき、呆れたように言葉を投げる。
 早瀬はそんな遥河の言葉に、一瞬鋭い視線を向けた。
 だがそれから気を取り直したようにすかさず言い返す。
「そういうおまえこそ、何で僕から美紅を奪おうとする? どうせ、昔僕に恋人や妹を弄ばれた復讐とでも言うんだろう? どっちがくだらないんだ、遥河」
「あ? 付き合った女はともかく、妹を弄んだおまえは絶対に許せねーよ。それにな、最初はおまえが何か良からぬことを企んでるみたいだから、それを阻止してやろうと椎名美紅に近づいた。だがな、俺はおまえと違って、復讐のためだけに興味のない女なんかに手ぇ出したりしねーんだよ」
「って、それって美紅のことが好きってことか? 何度も言ってるだろ、もう美紅はこの僕にベタ惚れだってね。それに、確かに僕も最初は理事長の件があったから美紅に近づいたけど。でもくだらないおまえの女どもや妹と違い、美紅は従順だし頭も悪くない。僕だっていくら復讐のためとはいえ、何の興味もない馬鹿な女となんて結婚したくないさ。美紅のことは、ちゃんと好きだよ」
 早瀬はそう言った後、ふっとブラウンの両の目を伏せる。
 そして、ゆっくりとこう続けたのだった。
「それに……美紅の笑った時の目が、香澄のものによく似てるんだ。美紅のことは、大切に思っているよ」
「…………」
 遥河はスッと漆黒の瞳を細め、何か言おうとする。
 だが――その時だった。
「!」
「……!」
 突然、遥河と早瀬は同時に顔を上げて表情を一変させる。
 ドサッという、何かが地に落ちるような音がしたのだ。
 そして音のした方へ視線を向けた、ふたりの目に映ったのは。
「美紅!?」
「椎名美紅……」
 何も言えずにその場に立ち尽くし、ふたりをじっと見ている少女。
 それは……誰でもない、美紅だったのである。
 ――数分前。
 個人補習の行われる英語教室に行く前に、美紅は職員室に立ち寄った。
 そこで美紅は、遥河と早瀬が揃って職員室を出て行くのを見かけたのである。
 彼らの犬猿の仲を知らない美紅であったが、ふたりが一緒にいることは珍しい。
 それに妙に真剣な表情を浮かべている彼らの様子が気になり、美紅は興味本位でふたりとともに校舎外の中庭までやって来た。
 そして――先程のふたりの話を、聞いてしまったのだ。
「あ……」
 美紅は取り落としたカバンを拾うことも忘れ、ふたりを交互に見る。
 今、この耳ではっきりと聞いたこと。
 それは、あまりにも美紅にとって受け入れ難い内容だったからである。
 自分の聞き間違いであって欲しい。
 美紅はそう思いつつも、聞いたふたりの会話を頭の中で繰り返す。
 香澄と自分が、母親の違う姉妹だなんて。
 それに遥河も、そして恋人の早瀬さえも……それぞれ打算があって自分に近づいたのだという。
「美紅」
 早瀬は普段彼女の前でみせる王子様のような表情を宿し、優しく彼女に声をかけた。
 そんな早瀬に目を向け、美紅はどうしたらいいか分からない顔をする。
 遥河と話をしていた時の早瀬は、まるで人が違っていた。
 自分が何か悪い夢でも見ているか、はたまた何かの見間違いではないだろうかと。
 そう思わずにはいられないほど、今自分の目の前にいる早瀬は穏やかで優しいいつもの理想の彼である。
 でも……。
「! 来ないで……っ」
 自分に近づこうと一歩踏み出した早瀬に、美紅は思わずそう声を上げた。
 頭の中が真っ白で、何が何だか分からない。
 これから一体、どうすればいいのか。
 思考が停止して軽い眩暈までする。
 それと同時にじわりと涙が滲み、中庭の景色もふたりの姿も途端にぼんやりとぼやけた。
 それから美紅は。
 地に落としたカバンを手にし、くるりとふたりに背を向ける。
 それから堪らず、その場から走り去ったのだった。
 ――信じ難い真実。
 お願いだから、あれは嘘だと言ってくれ。
 むしろ悪い夢ならば、今すぐ覚めてくださいと。
 美紅はポロポロと零れる涙を拭いもせず、バタバタと中庭を後にする。
 そして……そんな彼女の後姿を、ただ黙ってじっと見送ったまま。
 中庭に残された遥河と早瀬のふたりは、それぞれ思い思いの表情を浮かべていたのだった。