27. 努力の成果


 寒さもすっかり本格的になってきた、12月。
 美紅は友人の葵と教室で昼食を取りながら楽しく会話を交わしていた。
 期末テストも終わり、何日か後には二学期の終業式である。
 何だかいろいろとあった二学期だけど。
 今考えたら、あっという間の数ヶ月だった気がする。
 入学したての一学期はまだ学校に慣れることに精一杯だったが。
 この二学期は、少し学校生活に対して気持ちに余裕も出てきた。
 そして学校生活ももちろんだが、私生活においてもそれは言える。
 恋人・早瀬との交際もすごく順調だし。
 誤解してしまうような事もあったが、彼との仲に何も支障はないし今でもラブラブである。
 むしろ誤解したことがきっかけで香澄と仲良くなれたことは、美紅にとって嬉しい出来事だった。
 ただ……この二学期で、問題があったとすれば。
「ねぇ、美紅。次の英語、期末テスト返ってくるかな?」
 昼食のサンドイッチをひとくち食べ、葵はそう美紅に訊いた。
 美紅はパックのジュースにストローを刺しながら小さく首を傾げる。
「どうだろうね。でも、他のクラスは返ってきたところもあるんでしょ? うちのクラスもそろそろかも」
 そう葵に答えながらも美紅は思わず苦笑してしまう。
 二学期に入って、一番大きく変わったことといえば。
 ――あの遥河俊輔が、この学校に赴任してきたことである。
 どこでどう掴んだのか、遥河は自分の弱みをたくさん知っていて。
 その弱みをネタにされ、週に2回もマンツーマンの個人補習を受けないといけない羽目になるし。
 幾度となく強引な遥河の言動に振り回されっぱなしなのだ。
 ……とはいえ。
 嫌味ったらしい遥河の言動に頭にくることも多いが。
 遥河はきちんと、英語の補習だけは真面目にしてくれていた。
 今まで苦手意識からか、どう勉強すればいいのか分からなかった英語だが。
 個人補習のおかげで、少しずつその英語を勉強するコツのようなものを掴めてきている気がする。
 遥河は嫌がらせのように、週2の個人補習でテスト勉強は一切させてくれなかった。
 それでも美紅は、現にこの間行われた期末テストでいつも以上の手ごたえを感じていたのだった。
 まだテストが返ってきていないため、その手ごたえが点数と結びついているかは分からないが。
 その結果が分かるのも……もう後、数分後かもしれない。
 美紅はちらりと時計を見て、時間を確認する。
 昼休みが終わった直後の次の時間割は。
 あの、遥河の英語なのである。
 ほかのクラスではすでに英語の答案が返却されているという話を聞いている。
 おそらく、次の英語の授業で美紅たちのクラスの答案も返ってくるだろう。
 そう思うと美紅は何気に緊張の面持ちになる。
 中間テストではかろうじてクラス平均点を取れたが。
 果たして、今回はどうだろうか。
 なまじいつもよりも出来た感じがしているだけに、妙にドキドキしてしまう。
 美紅は席を立って飲み終わったジュースと空のサンドイッチの袋をゴミ箱に捨てた後、大きく深呼吸をした。
 それと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り始める。
「やっぱり次の時間、英語返ってくるかな? あ、隣のBクラスの英語平均点は73点だったんだって」
 席に戻ってきた美紅に葵はそう言った。
 美紅は何かを考えるような表情を浮かべ、呟く。
「73点か……」
 今までは、英語でそんな点数なんて高嶺の花で。
 50点あれば万々歳、赤点じゃないかと毎回ハラハラであったのだが。
 今は平均点を気にできるくらいまでマシな点数が取れるようになった。
 いや、それだけ勉強して努力したのであるが。
 これも……ある意味、あの遥河のおかげといえばそうである。
 本当に自分の頭にくることばかりする遥河だが。
 ……根は悪いヤツじゃないかもしれない。
 ただ、あの俺様な性格が問題なだけであって……。
 美紅はふと、神秘的な印象を受ける遥河の瞳を思い出す。
 自分の恋人である早瀬とは全然タイプが違うが。
 確かに黙ってさえいれば、遥河も顔だけは端正で格好良いと言える。
 それに、早瀬と引けを取らないほど頭もいいみたいだし。
「…………」
 美紅は口を噤んで小さく俯く。
 だがすぐに顔を上げると、首を大きく左右に振った。
 何を考えているんだ、相手はあの遥河なのに。
 自分はアイツに散々振り回されて、頭にきているというのに。
 美紅はそう気を取り直し、カバンから次の授業である英語の教科書を取り出す。
 それからおもむろに鳴り始めた午後の授業開始のチャイムを聞きながら、横髪をそっと耳に引っ掛けた。
 そして。
「授業始めるぞ、さっさと席に着け」
 ガラリとおもむろに教室のドアが開き、相変わらず横柄な態度で遥河が姿をみせる。
 生徒たちはまだ昼休みの余韻でザワザワしつつも、慌てて自分の席に着き始めた。
 それから始業の号令がかかった後、遥河は持ってきた紙の束を教壇に置いた。
 それは――英語の答案。
 それが分かった生徒たちは、再び落ち着かないように騒ぎ始める。
 遥河は鬱陶しそうに漆黒の髪をかき上げた後、愛想なく言った。
「答案を返す。出席番号順に取りに来い」
 美紅はその言葉に緊張した面持ちをする。
 自分では出来たつもりだが。
 もしかしたら、全然大したことないかもしれない。
 もしクラス平均点取れていなかったら、遥河に何と言われるか分からないし。
 でも……手ごたえを感じたのは確かだ。
 美紅は大きく息をつき、自分の順番がくるのを今か今かと待つ。
 そして、ついに。
 美紅は席を立ち、教壇の遥河の元へと答案を取りに行く。
 遥河はそんな美紅をちらりと見て、ふっと漆黒の瞳を細めた。
 その笑みは、一体何なんだ。
 点数が良かったのか、はたまた悪かったのか。
 遥河の表情からは、そのどちらとも判断がつかない。
 美紅はドキドキしながらも答案を受け取る。
 だがすぐにそれを見ることができず、とりあえず自分の席へと戻った。
「美紅、どうだった?」
「ま、まだ見てないんだけど……」
 葵に声を掛けられて美紅はそう答えながらも、ついに思い切って視線を落とした。
 それから、その瞳を大きく見開く。
「……美紅?」
 答案を見つめたまま固まっている美紅に、葵は首を傾げる。
 美紅は何度も何度も瞬きをさせた。
 それから、思わずこう呟いたのだった。
「うそ……信じられない」
 それと同時に教壇でテストをすべて返し終わった遥河は、興奮冷めやらぬ様子の生徒たちに言い放つ。
「今回の期末テスト、このクラスの平均点は75点だ。ていうかおまえら、ガタガタ騒ぐな。解説するぞ」
 そんな遥河の言葉とは逆に、平均点が発表された教室がさらにざわめいた。
 だがそんな遥河の声も、教室に溢れる教室のざわめきも。
 この時の美紅の耳には届いてはいなかった。
 彼女の答案に記されていた、点数。
 ――90点。
 美紅は自分でも信じられない表情を浮かべながら、答案をじっと見つめていた。
 これは本当に自分の答案なのだろうかと。
 美紅は何度も自分の名前とその点数を見比べていたのである。
 そして。
 テストの解説を始めながらも、遥河はそんな美紅の姿に何気に嬉しそうな顔をしていたのだった。
 
 
 ――その日の放課後。
「またね、美紅」
「うん、また明日」
 すれ違うクラスメイトたちと軽く挨拶を交わしながら、美紅は廊下を歩いていた。
 その表情は心なしか明るい。
 それも、そのはず。
 一生懸命勉強した甲斐があって、苦手な英語で90点という高得点が取れたからである。
 今まで苦手な英語で、こんな点数取ったことがない。
 あの自分の答案に書かれた90点の文字を思い出すたび、美紅の頬は緩むのだった。
 そして――今日は、火曜日。
 遥河との英語の個人補習の日である。
 これだけ点数が伸びれば、あの遥河だって何も言えまい。
 平均点どころか、それ以上の点数を取ったのだから。
 美紅は初めて遥河との個人補習を楽しみに思いながら、英語教室に向かっていた。
 だが、まだ少しだけ個人補習の時間には早い。
「あ、そうだ。化学のプリント提出してから行こうかな」
 美紅はそう思い出すように呟き、方向を変えた。
 それから弾むように階段を駆け下り、職員室へと足を向けたのだった。
 ――同じ頃。
 職員室のデスクで仕事をしていた早瀬は、人の気配を感じてふと顔を上げた。
 それから一瞬だけ表情を変えたが、すぐにいつも通りの王子様のような笑顔を宿す。
 そして、これでもかというくらいに作った穏やかな声で言った。
「何か御用ですか? 遥河先生」
「…………」
 そんな早瀬の様子に露骨に嫌な顔をして、遥河は大きく嘆息する。
 その後、作り笑顔をみせる早瀬とは逆に、無愛想に口を開いた。
「早瀬先生。ちょっとお話があるんですけど、よろしいですか?」
 早瀬はふっと色素の薄いブラウンの瞳を細める。
 それから席を立ち、頷いた。
「ええ、もちろん構いませよ」
 遥河は彼の返答を聞いて、スタスタと足早に職員室を出た。
 早瀬もそれに続き、瞳と同じ色の前髪をそっとかき上げる。
 職員室のそばの会議室が使用中であったため、ふたりは人気のない校舎の外まで足を運んだ。
 誰もいない中庭の隅で、遥河はようやく立ち止まる。
「ていうか、こんなところまで呼び出して何の用? おまえに構ってるほど暇じゃないんだけど」
 途端に態度を豹変させ、早瀬は遥河にそう言葉を投げた。
 そんな言葉に舌打ちをし遥河は早瀬に鋭い視線を向ける。
 そして、こう話を切り出したのだった。
「俺だっておまえなんかと話したかねーよ。ただ……やっと分かったんでな、おまえが椎名美紅を選んだ理由が」