26. 勉強と恋の両立


 異様なほどシンと静まり返っている教室内に響くのは、生徒たちが走らせるシャープペンシルの音だけである。
 それを耳にしながら、テスト監督をしている遥河はとりあえずぐるりと教室を一回りする。
 今は――まさに、期末テスト真っ最中。
 テスト最終日の2時間目、この時間は数学の試験が行われていた。
 数日間に及ぶ期末テストに、生徒たちの表情は少し疲れ気味だったが。
 この数学が終われば、あとはテストの科目も時間割の最後に組み込まれた英語を残すのみである。
 そのためか、心なしか生徒たちの表情も昨日よりは幾分明るい。
 遥河は教壇に戻って椅子に座った後、真剣に問題に取り組む生徒たちに視線をやった。
 そして、そんな彼の目にふと留まったのは。
「…………」
 遥河は漆黒の瞳を細め、ある生徒をじっと見つめる。
 その生徒・美紅は自分を見ている遥河の様子にも気づかずに、黙々と解答用紙に答えを書き込んでいた。
 ――あれは、数ヶ月前に行われた高校の同窓会。
 気が向いて参加した遥河は、その席で友人である香澄と再会した。
 そしてその時に交わした会話の中で、彼女からとても気になる話を聞いたのだった。
 それは、あの早瀬のことである。
 たまたまその時の同窓会、早瀬は欠席していたのだが。
 あの早瀬が、香澄のヴァイオリン教室に週2回通っていること。
 そして早瀬は今、自分の生徒と付き合っているのだということ。
 昔から早瀬と何かと因縁のあった遥河はその話に興味を持った。
 あの早瀬のことだ、何か裏にあるに違いない。
 何の打算もなく生徒と恋愛するなど、あの早瀬の柄ではないからである。
 それに早瀬は学生時代から、香澄のことが好きだった。
 いや、本人から聞いたわけではないのだが。
 見ていてそれが一目瞭然だったのである。
 付き合っていた恋人を取られ、その上に妹を弄ばれ、遥河は早瀬のことが以前からずっと許せなかった。
 何を企んでいるかは分からないが。
 そんな早瀬の思惑を阻止してやろうと。
 そう遥河は思い、秋華女子の教師になったのだった。
 そして。
 最初は……早瀬の企みを知るために。
 彼の恋人である美紅に近づいた。
 どうせ早瀬の恋人なんて、たかがしれているだろう。
 そう思っていたが。
 だが美紅のことを知っていくにつれ、遥河の心の中で小さな変化が起こっていった。
 早瀬の企み云々ではなくて。
 純粋に、椎名美紅というひとりの少女に興味を持ち始めたのだった。
 自分の言動に素直に反応を示し、怒ったり笑ったり泣いたり、表情がくるくると変わる。
 実力テストで35点しか取れないくせに、夢は語学留学とか身の程知らずなことを言うし。
 でも……そんな彼女の無謀とも思えるそんな夢に、自分も乗ってやろうと。
 早瀬の企みを探るという意図もあるが、遥河はそう思って美紅に個人補習を課したのだった。
 それにしても、早瀬は何故美紅と付き合っているのだろうか。
 しかも将来、彼女と結婚するとまで言っている。
 それが何故なのか、まだこの時の遥河には分からなかった。
 美紅は秋華女子の理事長である椎名和彦氏の娘である。
 最初は、学園の乗っ取りでも考えているのかと思ったが。
 だがそんな理由だけで美紅と付き合うなんて、あの早瀬の企みにしては弱い気がする。
 何か別に、理由があるに決まっている。
 それをつきとめて、阻止してやる。
 それに……。
 遥河は漆黒の瞳を細め、同じ色の前髪をかき上げた。
 それからテストの残り時間を確認した後、ふっと小さく息をつく。
 それに……美紅が早瀬の良からぬ企みに巻き込まれるのを、黙って見ていられないから。
「…………」
 遥河は椅子から立ち上がり、教室を見回す。
 そしてテストの終わりを告げるチャイムが鳴り始めたため、生徒たちの答案を集め始めた。
 途端にざわざわとした生徒たちの声が、教室を満たす。
 遥河は集めた答案用紙をトントンと教卓で揃えた後、それを小脇に教室を出ようとした。
 だが次のテストが遥河担当の英語であるため、最後の足掻きと言わんばかりの生徒たちに囲まれる。
 遥河はそんな生徒たちの質問攻めに簡潔に答えつつ相手をしながらも、チラリと美紅に視線を向けた。
 美紅は急に遥河と目が合って、一瞬驚いた表情をしたが。
 顔を少し赤らめつつも、すぐにふいっと顔を背ける。
 ……美紅みたいなタイプに有効な作戦は。
 早瀬がやっているようにとことん優しくするか、逆にちょっかいをかけてその気を惹くか。
 そのどちらかである。
 そして遥河は元々の性格もあって、後者の作戦を選択したのである。
 現に美紅は反抗しながらも、遥河のことを何気に意識してはいる。
 このまま早瀬の思惑を探りながらも、美紅の心を少しずつ自分に向かせられればと。
 そう、遥河は考えていたのだった。
 遥河はニッと口元に笑みを宿し、美紅を見た。
 美紅はそんな遥河に怪訝な表情を浮かべつつも、英語の問題集を見直し始める。
 相変わらず分かりやすい反応をする美紅に笑ってから教室を出た遥河は、職員室へと戻り始めた。
 早瀬が一体、何を考えているかは知らないが。
 それを阻止し――そして最後にレースに勝って笑うのは、この自分だと。
 遥河は改めてそう思いながらも、生徒たちの声で賑やかな階段を足早に下りたのだった。
 
 
 ――その日の放課後。
 テストの終わった美紅は、友人の葵と一緒に繁華街の喫茶店でお茶をしていた。
「今日のテスト、美紅どうだった?」
 葵はレアチーズケーキをひとくち食べてから、美紅に訊いた。
「数学と古文はいつも通りかな。あと、英語は……」
 そこまで言って、ふと美紅は言葉を切る。
 それから少し遠慮気味に、こう続けたのだった。
「英語は……今回、何かすごく出来た気がする」
「マジで? 確かに美紅、英語の試験勉強頑張ってたもんね。でも美紅の口からそんなことが聞けるなんて、ちょっとビックリ」
 美紅の今までの英語の点数を知っている葵は嬉しそうに微笑みながらも、驚いた顔をする。
「でも、いつもよりも出来たって程度かもしれないし。何せ少し前までが酷かったからさ」
 そんな葵の言葉に少し謙遜しつつも、美紅はその顔に笑みを宿した。
 ――今回の期末テスト。
 何だかものすごく、美紅は英語のテストに手ごたえを感じていたのだった。
 だが自分がどれだけ英語が苦手かは、よく分かっている。
 まだテストが戻ってくるまで油断は禁物だ。
 もしかしたらみんな出来たのかもしれないし、実際の点数は大したことないかもしれない。
 だが、そうは思いつつも。
 美紅は今までにない手ごたえに、かなり満足していたのだった。
 葵は紅茶を飲み、テーブルに頬杖をつく。
 それから、からかうように美紅に言った。
「美紅ってば、勉強も恋も絶好調ねーっ。少し前に悩んでたことも、無事解決したんでしょ? 勉強と恋の両立なんて、偉いぞっ」
「うん。すごく今、何か充実してるよ」
 素直に頷き、美紅はお気に入りのフルーツロールを口に運ぶ。
 それと同時にフルーツと生クリームの絶妙な甘さが口いっぱいに広がった。
 その味に幸せそうに笑顔を湛え、美紅は瞳を細める。
 早瀬との交際も順調だし、何よりも不安に思っていた香澄と早瀬の関係も自分の誤解だったと分かったし。
 それに頑張った甲斐あって、テストも今回はいつも以上に点数が取れたような手ごたえを感じた。
 勉強と恋の両立――まさに今の自分には、それが出来ている気がする。
 そしてテストも終わったため、明日は早瀬と久しぶりのデートである。
 こんなに幸せでいいのだろうか。
 そう思いながらも、美紅は明日の恋人とのデートに胸を躍らせる。
 それからアイスレモンティーをストローでかき混ぜながら、葵との会話を楽しんだのだった。


 ――同じ頃。
 まだ学校で仕事の残っていた遥河は、一服しようと校舎の外へと出ていた。
 それからふと何かを思いついたようにポケットから携帯電話を取り出す。
 そして、誰かに電話をかけ始めたのだった。
 その相手とは。
『もしもし、遥河くん?』
 数コール後、そう耳に穏やかな印象の声が聞こえる。
 遥河は近くの壁に背をもたれ、風に小さく揺れる前髪をかき上げた。
「おう、香澄。今話しても大丈夫か? ちょっと仕事の合間に時間できたからよ」
『うん、大丈夫よ。私も今、仕事がひと段落ついたところなの』
 電話の相手・香澄は、嬉しそうにそう言葉を返す。
 そしてふたりは、何気ない世間話を始めたのだった。
 ……香澄のことを学生時代に振っている遥河だが、別に彼女のことが嫌いだったわけではない。
 むしろ友人として考えれば、彼女とは気が合うと思っている。
 ただそれが、恋人となると話は別で。
 香澄はいい友人ではあるが、遥河の好みではなかった。
 だから告白を断わりはしたが、今もこうして遥河と香澄は友人として付き合いを続けている。
 遥河もそんなことを気にするタイプではないし、香澄も同じだったからである。
 それがあの早瀬にとっては、ものすごく気に食わないわけなのだが……。
 ――その時だった。
「……え? おい、ちょっと待て」
 香澄と話をしていた遥河は、突然表情を変えて瞳を見開いた。
 それから、香澄にゆっくりと訊き返す。
「香澄、それ本当か? その話、もっと詳しく聞かせろ」
 遥河はそう言って、耳に響く香澄の声に今まで以上に耳を傾ける。
 そして香澄から返ってくる言葉に、驚いた表情を浮かべた。
 その内容とは――。
「そうだったのか……あ、そうか。じゃあ、またな」
 電話の向こうの香澄に来客があり、そこでふたりの会話は終わった。
 電話を切ってポケットに携帯をしまった後、しばらく遥河はじっと何かを考えるような仕草をする。
 それから漆黒の瞳をふっと細めた後、こうポツリと呟いたのだった。
「ようやく理由が分かったぞ……早瀬のヤツが、何で椎名美紅を選んだのかがな」