25. 絡み合う糸
揺ぎ無いと、信じて疑っていなかった。
居心地が良く、自分のためだけにあるような特別な定位置。
誰もそんな自分の上に立つことなんてないだろう。
……そう、思っていたのに。
だがある日突然、それは奪われたのだった。
そしてそれを自分から奪ったのは、知らない名前。
――遥河俊輔。
ほんの数週間前に転入してきたという、違うクラスの生徒だった。
だが自分が彼の存在を初めて知ったのは、学校の掲示板に貼られたテスト上位者の紙の上。
今まで一度たりとも手放したことのない定位置に、自分以外の名前が書かれるなんて。
生まれて初めて感じた、“屈辱”という感情。
そしてこの日――遥河という存在を知ったその時から、ゴールの見えないレースが始まったのである。
いや、成績だけならば、すぐに一番高い位置を取り返すことも出来た。
成績においては負けない自信もあったし、学生時代幾度となく行われたテスト結果を見ても決して負けてなんかいなかったと今でも思っている。
でも――それだけではなかったのだ。
遥河という男は、その“屈辱”という感情を再び自分に味合わせた。
しかも、成績なんかよりも……もっと、かけがえのないことで。
「早瀬くん」
――今日は、火曜日。
普段通り香澄のヴァイオリン教室でレッスンを終えた早瀬は、その声にふと顔を上げる。
香澄はそんな彼の前にティーカップを置いて、紅茶を注いだ。
白のティーカップに満ちていく薄茶色の紅茶の良い香りがふわりと漂う。
そして目の前の香澄を見つめながら、早瀬はふと表情を変えてブラウンの瞳を細めた。
成績で負けることよりも、大きな“屈辱”。
……いつも彼女の近くにいたのは、誰でもない自分だったのに。
『遥河くんに告白したんだけど、振られちゃった。おまえは俺の好みじゃないって、はっきり断られたの』
人前で涙なんてみせたことのない、芯の強い彼女。
そんな彼女の涙を、この時、初めて見た。
どうしてアイツなんだ、何故自分ではないのか。
そう言いたいのをグッと堪え、自分は失恋に涙する彼女をただ慰めることしかできなかった。
そしてその時、再びあの何とも言えない“屈辱”という感情が湧き上がったのだった。
じゃあ、どんな女が好みだと言うのか。
そんなに言うくらいだから、さぞ彼女よりもいい女なのだろうなと。
だが、アイツの付き合う女はことごとくろくでもない女で。
それがまた、自分の神経を逆撫でした。
だからアイツからそんな女どもを奪い、そしてすぐに捨ててやった。
それでも……まだ気が収まることはなく。
大切な存在を傷つけられた気持ちを、アイツにも味合わせてやろうと。
アイツの妹を誘惑して散々その気にさせた後、くだらない女どもと同じように捨ててやった。
言葉だけで言うと、それは酷いことをしているように聞こえるが。
もちろん自分に不利になるようなことは決して言わないし、しない。
だから馬鹿な女どもは、揃いも揃って誰一人自分のことを恨むことはなかった。
むしろ別れを切り出した自分に、いい思い出をありがとう、とまで言う始末。
本当に救いようのない女ばかりだった。
そして自分のした復讐に気がつき、その行為を憎んだのはアイツだけ。
だがすべてそれも、思惑通りだった。
彼女を傷つけるようなヤツは――決して、許さない。
それは恋とか愛とか、そういう次元の言葉とはまた別の感情で。
一緒になんて、なれなくてもいいから。
彼女の涙を、もう見たくないんだ。
そう、そしてその気持ちは……今も昔も、変わってはいない。
「あ、そういえば早瀬くん」
香澄は自分の淹れた紅茶をひとくち飲んだ後、思い出したように口を開いた。
そしてサラサラの黒髪をそっとかき上げ、彼にこう訊いたのだった。
「美紅ちゃんのお父様って、もしかして秋華の理事長・椎名和彦さん?」
「……え?」
早瀬は彼女の問いに、思わずブラウンの瞳を見開く。
そんな彼の反応を見て、香澄は小さく微笑んだ。
「やっぱりそうなのね。そうじゃないかなって思ったの」
「…………」
早瀬は何かを考えるようにふと言葉を切る。
そしてゆっくりと、彼女に言った。
「そうだよ、美紅の父親はうちの理事長だよ。理事長……君のリサイタルに、毎回来ているようだけど」
「ええ、知っているわ。美紅ちゃんも言っていたし」
コクンと頷き、香澄は早瀬に、黒を帯びる綺麗な目を向ける。
それからにっこりと笑みを湛え、続けた。
「嬉しいわ、私。あの人にも、そして美紅ちゃんにもリサイタルに来てもらえるなんて」
「香澄……」
早瀬は複雑な表情を浮かべながらも彼女に視線を返す。
だがその後すぐにいつも通り柔らかな微笑みを作ると、さり気なく話題を変えた。
「そうだ、香澄。今度のレッスンの課題曲、もう一度お手本聴かせてもらえないかな」
「今度のレッスンの課題曲? ええ、いいわよ」
早瀬の言葉に頷き、香澄はソファーから立ち上がる。
それからヴァイオリンを構え、ゆっくりと旋律を奏で始めた。
美しい音色が途端にリビングに広がる。
早瀬は彼女の奏でる旋律に耳を傾け、そっと瞳を伏せた。
優しくて穏やかな音は、まるで彼女自身みたいで。
自然と閉じた瞼の裏に、美しいイメージがパアッと浮かび上がってくるのだ。
心が和やかに満たされるのを感じながら、早瀬は表情を緩める。
そしてしばらくの間、その美しいヴァイオリンの音色に酔いしれたのだった。
数年前――彼女が、持病の心臓病で倒れた時。
彼女は自分に、はっきりとこう言った。
自分の恋人はヴァイオリンだけだ。
誰にも頼らず、ヴァイオリンとともに生きると。
そしてその決意が揺ぎ無く固いものだということが、近くで彼女を見てきた自分にはよく分かった。
だから、自分は決めたのだ。
一緒になんてなれなくてもいい。
ただ……彼女を悲しませる存在だけは、決して許せないと。
そして、自分がすべきことは一体何なのだろうかと考えた。
いや、彼女のためというよりも、むしろそれは自分の気持ちの問題かもしれない。
でも誰にも、邪魔なんてさせない。
例えアイツが何をしてこようとも、最後に勝つのは自分だ。
もう自分はゴールに向かって、かなり前から走り始めているのだから……。
――同じ頃。
「あ? よくこんな哀れな点数、毎回毎回取れるよな。特にこの問7の英作文の答えなんて、ある意味芸術的で笑えるぞ」
「うるさいわねっ、そんなに言わなくてもいいでしょ!?」
美紅は相変わらず英語教室で遥河のふてぶてしい言動に苛立っていた。
季節も秋が終わり、何気にもう12月である。
そして来週には、二学期の期末テストが控えていた。
だがもちろん、遥河の個人補習でテスト勉強なんてさせてもらえるはずもなく。
嫌がらせのように、テスト範囲と全く関係ない問題を解かされていたのだった。
美紅は、自分の答案を見て小馬鹿にしたように鼻で笑う遥河をキッと睨み付ける。
今はそうやって笑ってるけど。
いずれ留学という夢を叶えて、絶対に見返してやる。
美紅は遥河を見ながら、そう改めて心に誓った。
それから気を取り直すように、漆黒の前髪をそっとかき上げる。
それにしても、日曜は驚いた。
あの香澄が……こんな男のことを、好きだったなんて。
美紅は日曜日に香澄が言っていたことを、ふと思い出す。
『遥河くんって、すごく魅力的じゃない? 話していてもいろんなこと知っててすごく新鮮だし、とても優しい人だし。それに頭も良くて運動神経も抜群で、ずっと憧れてたの』
確かに頭はいいみたいだし、黙っていれば顔だっていいのかもしれない。
その漆黒の瞳は神秘的で、向けられると不覚にもドキッとしてしまうこともある。
でも口を開けば癇に障ることばかりしか言わないし、嫌がることを言っては自分の反応を楽しんでいる。
そしてニヤリと浮かぶ意味あり気なあの笑みが、さらに頭にくるのだ。
それに比べて自分の恋人である早瀬は、本当に優しくて。
彼こそ、理想の白馬の王子様である。
そんな早瀬の爪の垢でも煎じて、コイツに飲ませてやりたいくらいだ。
美紅はじろっと目の前の遥河を見て大きく溜め息をつく。
「何だ? そんなに熱い視線で見つめて。この俺様に見惚れたか?」
美紅をからかうようにそう言って、遥河は楽しそうに笑みを宿した。
本当にコイツは何様のつもりだろうか。
美紅はもう一度わざとらしく呆れたように嘆息し、ふいっと遥河からそっぽを向く。
そんな彼女とは、逆に。
――本当に面白いヤツ。
遥河はクックッと笑った後、美紅を見つめた。
それから彼女の答案に視線を落とすと、再び問題の解説を続けたのだった。