24. 意外すぎる過去


「いらっしゃい、どうぞ」
 一緒にやって来た美紅と早瀬を笑顔で迎え、香澄は漆黒の瞳を細める。
 美紅はぺこりと頭を下げ、脱いだ靴を丁寧に揃えた。
「こんにちは、香澄さん。お邪魔します」
 ――今日は日曜日。
 家に遊びに来ないかと誘われた美紅は、恋人である早瀬とともに香澄の家を訪れていた。
 香澄の家に上がった早瀬はにっこりと微笑み、あらかじめ買っておいた土産を彼女に渡す。
「こんにちは、香澄。これ、お土産だよ。捻りもなくいつものやつだけど」
「早瀬くん、ありがとう。ここの紅茶葉、すごく好きなのよね。いつもごめんね」
 香澄は早瀬の土産を受け取り、香澄は早瀬にそう言葉を返す。
 そんな、何気ないふたりのやり取り。
 美紅は自分の不安が誤解だったと思っていながらも、その心境は少し複雑だった。
 いつも早瀬は、香澄にこのお土産をこうやって持ってきているのだと。
 そう思うと、やはり何だかちょっぴり嫉妬してしまう。
 だが早瀬はすごく優しいし、香澄はとてもいい人だ。
 あまり余計な心配をしてまた気持ちが不安定になってしまうのもどうかと。
 せっかく香澄も好意で誘ってくれたのだし、楽しい時間を過ごしたい。
 美紅はそう気を取り直し、その顔に笑顔を取り戻した。
 とはいえ楽しく過ごしたいと言っても、大きな問題もあるのだが……。
 そんな美紅の心境も知らず、香澄はふたりをリビングへと案内する。
 そしてコンポのスイッチを入れてからふたりに言った。
「ゆっくり寛いでて。ケーキ焼いたんだけど、今紅茶と一緒に出すから」
 リビングに優雅に響くクラシック音楽を耳にしながら、美紅は遠慮気味に勧められたソファーに座る。
 早瀬はそんな美紅の隣に座り、そっと彼女の髪を撫でた。
 ――その時だった。
 おもむろに、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。
 香澄はそれを聞いて、再び嬉しそうな表情を浮かべた。
 逆に美紅は、思わず複雑な顔をする。
 美紅にとって、この日最大の心配事。
 それは言わずもがな。
「あ、遥河くんかしら」
 香澄はそう呟き、リビングから玄関へと向かった。
 やっぱり来たんだ……。
 小さく溜め息をつき、美紅は漆黒の髪をかき上げる。
 毎日のように、学校で嫌でも顔を合わせているのに。
 今日のような休日まで、何でわざわざアイツの顔を見なきゃいけないのだろうか。
 そう美紅が思っているうちに、香澄がリビングに戻ってくる。
 そしてもちろん、彼女と一緒にリビングにやって来たのは。
「よう、椎名美紅」
 ニッと口元に笑みを宿し、現れた遥河はわざとらしく美紅に言った。
 あの意味深な笑みが、本当にいやらしい。
 だが早瀬や香澄の手前、あからさまに邪険にも扱えない。
 美紅はもう一度溜息しつつ、仕方なく遥河に視線を返す。
 そして。
「……こんにちは、遥河」
 早瀬はこれでもかというくらい作った笑顔で、遥河にそう声を掛ける。
 そんな様子に小さく舌打ちしてから、遥河はおもむろに早瀬から一番遠いソファーにドカッと座った。
 広いリビングに、何だか妙な空気が流れる。
 だがそんな空気に全く気付かず、香澄はひとり本当に楽しそうに笑った。
「みんな揃ったわね。ゆっくりしてて、今お茶淹れるから」
「あっ、香澄さんっ。私も何か手伝います」
 美紅は咄嗟に立ち上がり、香澄にそう申し出た。
 自分と早瀬が一緒の時に遥河もいるなんて、何となく居辛い。
「いいのよ、美紅ちゃん。座ってて」
「いえ、手伝わせてくださいっ。えっと、その……私も、ケーキ作りとか興味あるし」
「そう? じゃあ、少し手伝ってもらおうかな」
 香澄は必死な美紅の様子に小さく首を傾げつつも、その申し出に素直に頷いた。
 苦し紛れの理由だったが。
 なんとか美紅は、香澄とともにリビングを出て行くことに成功する。
 そんなふたりの様子を、早瀬は何も言わずに見送った。
 そして……パタンとドアが閉まった後。
「ていうか、遥河。おまえ何しに来たんだ?」
 先程とはうって変わった声で、早瀬は遥河にそう訊く。
 遥河は早瀬の豹変振りに顔を顰めてから、面白くなさそうに言った。
「あ? うるせーな。俺が何しようとどうしようと、おまえには関係ないだろ」
「まぁ別におまえが何考えてようが、何しようが関係ないけど。でも、相当目障りなんだよ」
「それはこっちの台詞だ。おまえと同じ部屋の空気吸うだけで、胸クソ悪い」
「じゃあ、さっさと帰れば? 僕だっておまえと仲良くお茶するなんて御免だよ」
 バチバチと、見えない火花がふたりの間に散る。
 遥河は鬱陶しそうに漆黒の前髪をかき上げ、露骨に嫌な顔をした。
 人を小馬鹿にしたように鼻で笑った後、早瀬もわざとらしく大きな溜め息をつく。
 その瞬間、リビングにシンとした異様な静寂が訪れた。
 そして広い室内には、オーディオから流れるクラシックの美しい音色だけが響いていたのだった。


 リビングからキッチンへと移動した美紅と香澄のふたりは、逆に和やかな雰囲気で会話を弾ませていた。
 キッチンには、ケーキの美味しそうな匂いと紅茶の良い香りが漂っている。
 そして手作りのレモンのシフォンケーキに生クリームを添え上品にお皿に盛っている香澄に、美紅はふとこう訊いた。
「あの、香澄さん。早瀬先生だけじゃなくて、遥河のヤツ……いえ、遥河先生とも、仲良かったんですか?」
「ええ、そうね。遥河くんとも、とてもいいお友達よ」
 美紅の問いに香澄はコクンと頷く。
 それと同時に、後ろに束ねられた彼女の長い黒髪が小さく揺れた。
 あの最悪な遥河のヤツが、こんなにいい人である香澄と友達だなんて。
 何だか意外な組み合わせだと、美紅は首を傾げた。
 いや、香澄は穏やかで社交的であるため、誰とでも仲良くなれそうなタイプである。
 きっとそんな香澄の広い心ゆえに、あんなヤツでも友達だと言っているに違いない。
 そう勝手に自分を納得させ、美紅は首を縦に振る。
 ――だが。
 香澄は、さらに美紅を驚かせるようなことを話し始めたのだった。
「実はね、美紅ちゃん。私、学生時代に遥河くんのことが好きだったの。しかも彼に告白して、振られちゃったの」
「……へっ?」
 美紅は思わず素っ頓狂な声を上げ、きょとんとする。
 そして。
「えええっ!!? う、うそっ、香澄さんが遥河のことをっ!? し、しかも振られたってっ」
「ええ。思い切って告白したんだけど、はっきり“おまえは俺の好みじゃない”って断られちゃった。でも今も彼とはいいお友達だし、振られたこともいい思い出よ」
「は!? ていうか一体アイツ、何様っ!?」
 こんなに美人で性格もいい香澄を、好みじゃないなんて振るとは。
 美紅は驚きに瞳を見開き、唖然とする。
 それから何度も瞬きしつつも、おそるおそる香澄に訊いた。
「あの、香澄さん。あの遥河の、どこが好きだったんですか?」
 何よりも最大の謎は、何で香澄のような人が、よりによってあんなヤツのことなんかを。
 遥河なんかに、香澄みたいな素敵な女性は勿体無さ過ぎる。
 美紅はそう思わず口にしそうになるのを堪えながらも、彼女の答えを待った。
 香澄は昔を思い出すように笑った後、その問いに答える。
「遥河くんって、すごく魅力的でしょ。話していてもいろんなこと知っててすごく新鮮だし、とても優しい人だし。それに頭も良くて運動神経も抜群で、ずっと憧れてたの」
 ……それって、本当にあの遥河のことなのだろうか。
 美紅は香澄の言葉にそう思いつつ、瞳をぱちくりさせる。
 香澄はそんな驚く美紅の様子を後目に話を続けた。
「遥河くんはね、中学の時に私の通っていた学校に転校してきて。それまでは早瀬くんが学校でも常に成績トップで、2位以下を寄せ付けないくらいダントツだったんだけど。でも遥河くんは転校して来て最初のテストで、そんな早瀬くんよりもいい点数取って1位だったの。もう、すごく驚いたのよ。それからずっと中学高校と、あのふたりだけレベルが違うトップ争いしてたわ。早瀬くんは理系で遥河くんは文系だから、基本的なタイプは違ったんだけど」
「ふたりだけ、レベルが違ってた……」
 あのふたりの授業を受けている美紅は、その言葉に納得してしまう。
 早瀬が頭がいいことはもちろん知っているが、あの遥河も教え方は確かに上手い。
 しかもあの入るだけでも相当大変だという名門中の名門・慶城高校で、成績トップだったなんて。
 だが、遥河が頭がいいのは認めるが。
 それでもやはり美紅は、香澄があの遥河のことを好きだったなんて到底信じられなかった。
 でも……逆に考えれば。
 これで香澄と早瀬のふたりがただの友人だったということは、確実なのではないか。
 ふとそう気を取り直し、美紅は考える仕草をする。
 それから自分の考えを確信に変えようと、美紅は思わず香澄にこう訊いた。
「じゃあ香澄さんにとって早瀬先生は、本当に普通のお友達なんですね?」
 美紅のその言葉に、香澄は一瞬きょとんとする。
 それからクスクスと笑い、頷いた。
「ええ、そうよ。心配しないで、美紅ちゃん。早瀬くんとは、本当に普通のいいお友達よ」
「あっ……ご、ごめんなさい」
 美紅は香澄の答えを聞いて、顔を真っ赤にさせる。
 これでは、ふたりの仲を気にしていたことがバレバレじゃないかと。
 でもこれで……完全に、ふたりに対する誤解は解けた。
 美紅はホッと小さく安堵の溜め息をつく。
 初めてふたりを見た時に感じた妙な胸騒ぎは、やはり自分の思い違いだったんだと。
 きっとあの時の感情は、香澄があまりにも素敵な女性だったから。
 早瀬と綺麗な女の人が楽しそうに話をしていたから、不安になったに違いない。
 そう美紅は思い直し、ようやく心からの笑顔をその顔に宿した。
 そして漆黒の髪をそっとかき上げ、鼻をくすぐるケーキと紅茶の香りに瞳を細めたのだった。


 ――その頃、リビングでは。
 相変わらず険悪な雰囲気のまま、ふたりは黙ってソファーに座っている。
 だがふと早瀬は、いかにも不機嫌な遥河をおもむろに見た。
 そして、こう口を開く。
「そうそう、遥河。まだおまえ、この僕から美紅を奪おうなんてバカなこと思ってるの?」
 その言葉に、遥河はじろっと漆黒の瞳を早瀬に向ける。
 それから、面倒臭そうに答えた。
「当たり前だ。言っただろう? おまえから、椎名美紅を奪うってな」
「何でそんなことをしようとする? 残念だけど、美紅はもうこの僕に夢中だよ。無駄なことはやめたらどう? 自分が惨めになるだけだよ」
「無駄だと? 誰に向かってそんなコト言ってる。それに惨めになるのは、おまえの方だ」
 遥河はそう言った後、スッと漆黒の瞳を細める。
 そして、ゆっくりと続けたのだった。
「そういうおまえこそ、何で椎名美紅と付き合ったりしてんだ? ていうかおまえ、どうせまだ香澄のことが好きなんだろーが。なのに何で」
 遥河の言葉に、早瀬は一瞬ピクリと反応を示す。
 その後、ふっと笑みを浮かべて大きく首を振った。
「僕が香澄のことを好きだって? 僕は今、美紅と付き合ってるんだ。美紅と結婚だって考えてるよ。それなのに何を」
「だから、何で椎名美紅なんだって言ってんだよ。どうせ何か裏があるんだろ」
「そんなこと、おまえに言う義理はないよ。それに何だ? おまえが僕から美紅を奪うって言っているのって、もしかして昔僕にされたことの復讐のつもりか?」
「…………」
 そう言う早瀬に、遥河は鋭い視線を向ける。
 そんな遥河の様子を見てから、早瀬は冷たい口調でさらに言った。
「おまえの付き合う女って、ことごとくろくでもない女ばっかりだったよな。この僕が少し気があるフリしただけで、ホイホイついてくるし。まぁどの女も付き合ってても面白くもなんともないから、ソッコーで捨てたけど。でも、特にその中でも……おまえの妹なんて、本当につまんない女だったよ」
「……っ!」
 遥河はその言葉を聞いた途端、ソファーから立ち上がり、ガッと早瀬の胸ぐらを掴む。
 ふっと王子様とは程遠い笑みを浮かべてから、早瀬は掴まれた手を振り払った。
 遥河はキッと早瀬を睨み付けたまま、負けじと言葉を返す。
「おまえ、香澄がこの俺に告ったのがそんなに気に食わなかったのか? 俺が香澄のことを振って以来、俺の女をことごとく横からドロボウみたいに掻っ攫いやがって。それに女だけならともかく、妹にまで手を出すなんてな。最低のヤツだ」
「最低? それはおまえだ。香澄の気持ちを踏みにじるようなことして……なのにおまえの付き合う女は、大したことない馬鹿女ばかりだ。それにおまえのことは、香澄の一件がある前からずっと気に食わなかったんだよ」
 早瀬はブラウンの瞳を遥河に向け、そう厳しい口調で言い放った。
 漆黒の前髪をかき上げ、遥河は大きく息を吐く。
 それから再びソファーにドカッと腰を下ろし、言ったのだった。
「とにかく、だ。何企んでるか知らねーけどよ、おまえから必ず椎名美紅を奪ってやる。覚悟しとけ」
「言っただろう、遥河。僕は美紅と結婚するつもりだってね。それに美紅はもうすっかりこの僕に夢中だ、無駄なことはやめた方がいいよ」
 早瀬はそこまで言った後、ふと口を噤む。
 遥河もリビングのドアにちらりと視線を向け、言葉を切った。
 それと同時に、ドアの向こうから香澄と美紅の楽しそうな話し声が聞こえる。
 それからすぐにドアが開き、ふたりがケーキと紅茶を持ってリビングへと戻って来た。
 そんな彼女たちに、早瀬はうって変わって王子様のような優しい笑顔を向ける。
 遥河は早瀬の変わり様にチッと舌打ちをしつつも、何も言わずに前髪をかき上げた。
 そして早瀬に駆け寄り、幸せそうに微笑みを返す美紅を見て、小さく嘆息したのだった。