23. 身勝手


 ――勇気を出して香澄の家に行った、その次の日。
 美紅はどう彼らに話を切り出そうか悩んでいた。
 それは誰に、何の話をかというと。
 もちろん早瀬と遥河に、昨日香澄から誘われたことをである。
 日曜日に、早瀬と遥河の3人で遊びに来ないかと。
 そう香澄に言われ、美紅は断るにも断れずに頷いてしまったのだった。
 いや、恋人の早瀬はともかく。
 どうしてあの遥河なんかと一緒に。
 文化祭の日の一件もあるし、早瀬といる時に遥河とも会うなんてものすごく気が引ける。
 だが、一度承諾してしまったものは仕方ない。
 早瀬と香澄に関する誤解も一応昨日で解けたことだし。
 とりあえずは、先に恋人である早瀬に日曜日の予定を訊こうと。
 美紅はこの日の昼休み、彼とこっそり待ち合わせをした数学準備室へと足を向けていたところだった。
 目的の教室の前に着いて、美紅は遠慮気味にドアをノックする。
 それから、そっとドアを開けた。
「美紅」
 数学準備室のデスクで仕事をしていた早瀬は、振り返って王子様のような綺麗な顔に笑顔を宿す。
「お待たせ、早瀬先生」
 自分を見つめる彼のブラウンの瞳にドキッとしながらも、美紅はしっかりとドアを閉めて早瀬に駆け寄った。
 昼休みの特別教室校舎は人の気配もなく、とても静かである。
 早瀬は自分の隣に座った美紅の髪をそっと撫でると、彼女の頬に手を添えた。
 そしてふわりと触れる程度の軽いキスをし、美紅を自分の方へと引き寄せる。
 美紅は恋人の柔らかな唇の感触と自分を包むぬくもりに気持ち良さを感じながら、その身体を彼に預けた。
 学校でふたりでこうやって会うことは、滅多にない。
 誰かにこんなところを見られでもしたら、大変なことになるからである。
 美紅と早瀬は、恋人同士でもあると同時に、教師と生徒という関係なのだから。
 だがたまにこうやって学校内で会うことも実は美紅は好きだった。
 人には内緒で付き合っているというスリル感のようなものが、美紅の心をさらにドキドキさせるのである。
 早瀬はいつも優しいし、自分のことを大切にしてくれている。
 今回は勝手に勘違いして誤解してしまい、気持ちが乱れてしまったが。
 これからは、彼のことを信じよう。
 美紅は早瀬の体温をすぐそばで感じながら、そう思ったのだった。
 そして。
「あ、早瀬先生。あのね、日曜日って先生は暇?」
 美紅はふと顔を上げ、早瀬にそう切り出す。
 早瀬は頷いた後、小さく首を傾げた。
「日曜? 今のところ、予定は入っていないよ。明日の土曜はデートの約束してたよね? 日曜、何かあるのかい?」
「うん、それがね……」
 美紅は少しだけ、彼にどう話そうか考えるように間を取る。
 それから、先日香澄のリサイタルに行ったこと、その後彼女の家に行ったことを彼に話した。
 もちろん……ふたりの仲を誤解したことは、言えなかったのだが。
 早瀬は美紅の話にふと瞳を細める。
 そして、こうポツリと呟いたのだった。
「香澄のリサイタルに、理事長と?」
「うん。お父さんは毎回香澄さんのリサイタルに行ってるみたいで。今回は、私も連れて行って貰ったの」
「毎回? 理事長が……」
 早瀬は何かを考えるように俯く。
 それから、気を取り直したように普段の王子様のような表情に戻し、言った。
「香澄が、日曜に僕たちを家に招待してくれたんだね。いいよ、一緒に行こうか」
 早瀬の返事を聞いて、美紅はホッとしたような顔をする。
 だが、ものすごく言いにくそうにこう続けたのだった。
「それで香澄さんが、私たちだけじゃなくて遥河のヤツ……いや、遥河先生も一緒にって」
「遥河、先生も?」
 思わず一瞬だけ、早瀬はその表情を曇らせる。
 美紅以上に遥河と敵対関係である早瀬としては、そのリアクションは当然のことなのだが。
 だが美紅は、ふたりのそんな仲を知らない。
 無下に嫌だとも言えず、早瀬は彼女に訊いた。
「それで、遥河先生は何て? 行くって言ってたかい?」
「いや、まだ遥河先生には言ってないんだけど……」
「…………」
 早瀬はふっと言葉を切り、色素の薄いブラウンの前髪をかき上げた。
 美紅と自分との仲を邪魔したいあの遥河のことだから、きっと香澄の家に行くと言うだろう。
 それが早瀬には分かっていたが、どうしようもない。
 美紅もそうだが、香澄も自分と遥河が犬猿の仲だとは知らないからである。
 とはいえ、遥河が日曜に香澄の家に来たところで、何かできるわけでもないだろう。
 気に食わないが、今回は仕方ない。
 それに美紅は、自分にもうすっかり夢中なのだから。
 早瀬は自信に満ちた笑みを浮かべた後、隣の美紅に目を向ける。
 それから王子様のような微笑みをにっこりと宿し、甘い声で彼女の耳元で囁いた。
「土曜も日曜も美紅に会えるなんて嬉しいよ。楽しみだね、美紅」
「早瀬先生……」
 美紅は耳に響く早瀬の柔らかな吐息に、頬を赤らめる。
 美紅としては、遥河がもし来ることになればブルー以外の何物でもないが。
 でも恋人である早瀬と日曜も一緒にいられるのは純粋に嬉しい。
 早瀬と香澄のふたりが一緒にいる様子を目の前で見れば、自分の誤解が勘違いだったと分かるだろうし。
 そう考え、美紅は素直に早瀬の言葉に頷いた。
「うん。楽しみだね、早瀬先生」
 早瀬は美紅の返事に笑顔をみせる。
 それから瞳を伏せると、再び美紅の唇にキスを落とした。
 美紅は与えられる接吻けに幸せそうに微笑み、それを受け入れる。
 そしてもう一度ゆっくりと早瀬の胸に身体を預け、彼のぬくもりを改めて感じたのだった。


 ――その日の放課後。
 遥河は手っ取り早く自分の仕事を片付け、職員室を出た。
 そんな彼の向かっている先は、英語教室。
 今日は金曜日、美紅の個人補習の日なのだった。
 遥河は生徒たちの声で溢れる本校舎から特別教室校舎へと移動する。
 それから英語教室の前まで辿り着いて一瞬立ち止まり、漆黒の瞳を細めた。
 すでに美紅は、英語教室に来ているようだ。
 普段は、大抵自分の方が早く来るのに。
 そして美紅が先に来ている時は、決まって彼女から何か特別な話がある時である。
 遥河はふっとひとつ息をついた後、ガラリと英語教室のドアを開けた。
 美紅は遥河が来たことに気がついて顔を上げる。
 そんな美紅に、いつもの調子で遥河は言った。
「何だ? やけに早いな。そんなにこの俺様との濃厚な時間が待ち遠しくて仕方なかったか」
「は? んなワケないでしょ。てか何よ、濃厚な時間って」
 わざとらしく冷たい声で美紅はそう言葉を返す。
 そしてふうっと嘆息してから、言い難そうに話を切り出したのだった。
「あの、さ。今度の日曜なんだけど……あんた、暇じゃないよね?」
「あ? まさかこの俺様をデートにでも誘う気か? 高くつくぞ、椎名美紅」
「バカじゃないの、違うわよ。昨日、黒岩香澄さんと話をしたんだけど……私と早瀬先生とあんたで、今度の日曜に家に遊びに来ないかって言われたの。私はあんたなんかと一緒に行きたくないけど、香澄さんの誘いに断れなくて。14時くらいからお茶でもどうかって」
「香澄が? それに、早瀬も一緒か?」
 遥河は思いがけない美紅の言葉に、そう訊き返す。
 それからおもむろにニッと口元に笑みを浮かべ、言った。
「仕方ないな、一緒に行ってやる。さっきも言ったけどよ、高くつくぞ?」
「いや、別に来なくていいし。大体、高くつくって何よ」
 はあっと大きく嘆息する美紅に遥河は楽しそうに笑う。
 美紅は自分をからかうような彼の態度に気に食わない顔をしながらも、ふと口を噤んだ。
 それから再び、ゆっくりとこう口を開いたのだった。
「それで……その、あの時のことなんだけど」
「あ? あの時?」
 遥河はドカッと近くの椅子に踏ん反り返り、首を捻る。
 そんな遥河にちらりと目を向けてから美紅は続けた。
「あの時って、文化祭の時よ。演劇部の公演の後、屋上で……何であんなことしたのよ、いつもの嫌がらせ?」
 美紅の言葉に、遥河はふと瞳を細める。
 あの時……文化祭の時、屋上で。
 早瀬と香澄の関係に不安を感じ、涙を流す美紅を抱きしめて。
 遥河は、彼女のその唇にキスをした。
 しかもそれを美紅は、不思議なほど素直に受け止めたのだった。
 だが遥河はキスをしたその後も、一切態度を変えることはなくて。
 一体どういうつもりであんなことをしたのか。
 美紅は日曜に香澄の家に行く前に、そのことを遥河に訊いておきたかったのだった。
 やはりいくら心が乱れていたとはいえ、恋人以外の相手とそんなことをしてしまうなんて。
 自分の行動に罪悪感を覚えつつも、今後の自分と早瀬の関係を保つためにと、美紅はその話を遥河としようと思ったのである。
 遥河は美紅の問いに、はあっと大きく溜め息をついた。
 それから逆に、彼女に訊き返す。
「そういうおまえは、どういうつもりだったんだ? 嫌がる素振りも見せなかったじゃねーかよ」
「そ、それは……流れでついというか、あの時は気持ちがぐちゃぐちゃで判断力が鈍ってたっていうか」
 美紅はしどろもどろになりつつも、そう答える。
 遥河はそんな彼女の返答に首を振った。
 そして、言ったのだった。
「身勝手なヤツだな、おまえ。流れ? 判断力が鈍っただ? キスした相手であるこの俺様に失礼だろ、それ」
「み、身勝手ってっ。そういうあんたこそ、どうしてあんなことしたのよ? 人の弱みに付け込むようなことしてっ。嫌がらせにもほどがあるんじゃない!?」
 ムッとしたように言い返し、美紅はじわりと瞳に涙を溜める。
 身勝手なのは、自分でよく分かっている。
 それに遥河になんて――絶対に、言えないけれど。
 あの時……不覚にも遥河から与えられたキスで、心が少し落ち着いたのは事実だから。
 でもそんなにはっきりと、身勝手だなんて言わなくてもいいじゃないか。
 美紅は何だか悔しくなり、必死に涙を堪えながらも遥河を睨み付ける。
「…………」
 遥河はそんな彼女をじっと見つめた。
 それからもう一度息をつき、こう口を開いたのだった。
「勘違いすんな。弱みに付け込んだつもりもないし、嫌がらせでもねーよ。この俺がしたいと思ったから、あの時おまえにキスをした。ただそれだけだ」
 それだけ言い終わると、遥河は持ってきた英語のプリントを美紅に渡す。
 そして、普段と変わらない声で言った。
「そのプリントを今から30分でしろ。問答無用で30分後から解説する。さっさとやれ」
「…………」
 美紅はバサッと乱暴に渡された英語のプリントに視線を落とす。
 ていうか、身勝手なのはどっちだ。
 したいと思ったからキスをしただなんて。
 美紅はそう言い返したい気持ちをグッと抑えて、仕方なくプリントに取り掛かる。
 これ以上言い返したら、泣いてしまいそうだったから。
 遥河は、下を向いて泣きそうな顔を見せまいとする美紅の姿を黒の瞳に映す。
 その表情は、何か言いた気なものだったが。
 だが遥河はそれ以上何も言わず大きく息を吐き、ザッと前髪をかき上げただけだった。