22. ふたりの時間


 広いリビングに通された美紅は、落ち着かない様子で漆黒の髪をかき上げた。
 勢いで押しかけ、香澄と会えたのはいいが。
 何からどう話を切り出せばいいのか。
 もう少し考えてから来ればよかったかもしれない。
 美紅はそうちょっぴり後悔しながらも、周囲をぐるりと見回した。
 そんな彼女の耳に優しく響くのは、コンポから優雅に流れるクラシック音楽。
 リビングに置かれてあるものは彼女のセンスか、さり気なく女性らしくてお洒落なものばかりである。
 そして何よりも、改めて近くで見た香澄という女性は。
 落ち着いた雰囲気を持つ、とても綺麗な人。
 ふんわりとした穏やかな空気を身に纏い、美しい微笑みは見ているだけで心が癒されるような気がする。
 そんな彼女に、早瀬とはどういう関係ですか、なんて。
 突然家にやって来て上がりこんだ挙句、到底そんな失礼なことは言えない。
 とはいえ、やはり早瀬と彼女の関係が気になるのは確かで。
 せっかくここまで来たからには、何か少しでも情報を得て帰りたい。
 だが問題は、どうやってその話題に持っていくかである。
 うーんと悩むように美紅がそんなことを考えていた――その時。
 リビングのドアが開き、ティーセットを運んで来た香澄がリビングに姿を現す。
 彼女が歩くたびに、黒を帯びる長いストレートの髪が小さく揺れた。
「紅茶とケーキ、どうぞ召し上がって」
 香澄はにっこりと微笑み、美紅に紅茶とケーキを出した。
 白を基調とした可愛らしい小花柄のティーカップに注がれた紅茶の良い香りが、鼻をくすぐる。
「ちょうど今日、シフォンケーキ焼いたの。よかったら食べてね」
「あ、すみません」
 ペコリと頭を下げ、美紅は申し訳なさそうに香澄に目をやった。
 香澄は綺麗な顔に柔らかな笑みを宿し、美紅の目の前のソファーに座ると紅茶を口に運ぶ。
 それから、口を開いた。
「椎名美紅ちゃん、だったわね。この間の私のリサイタルに来てくれたの?」
「あ、はい。父が香澄さんのリサイタルにいつも行っていて、今回は私も一緒に」
「美紅ちゃんのお父様が? そうなの……すごく嬉しいわ」
 香澄は漆黒の瞳を細め、美紅に笑顔を向ける。
 ひとつひとつの動作がとても女性らしく、大和撫子という言葉がぴったりだ。
 まだほんの少ししか香澄と一緒にいないが、美紅はそう彼女を見て感じた。
 美紅はシュガーポットから砂糖を一つ入れた後、紅茶を飲む。
 濃くも薄くもないちょうどよい濃さの少しフルーティーな味が、口の中に広がった。
 香澄は紅茶を飲んで少し表情を緩めた美紅に、優しい視線を向ける。
 そして、おもむろに美紅に訊いたのだった。
「美紅ちゃんは、秋華女子に通っているの?」
「あ、はい。そうです」
 学校帰りで制服姿だったため、一目瞭然といえばそうなのだが。
 美紅は少し驚いたようにコクンと頷いた。
 香澄はそんな美紅の返事を聞いてから、続けてこう美紅に訊いたのだった。
「じゃあ、早瀬くん知ってる? 早瀬歩くん。彼、秋華の先生よね」
「えっ?」
 美紅は思わず勢いよくその顔を上げる。
 どうやって早瀬のことを切り出そうか、悩んでいた矢先。
 まさか香澄の方から早瀬の話題が出てくるなんて。
 思わぬ展開に、美紅は何度も瞳を瞬きさせる。
 そんな美紅の様子にも気がつかず、香澄は相変わらず穏やかな口調で言った。
「彼ね、私の学生時代からの友人なの。うちのヴァイオリン教室にも来てくれてるのよ」
「学生時代からの、友人……それに早瀬先生が、香澄さんのヴァイオリン教室に?」
「ええ、火曜と金曜の週に2回。あ、美紅ちゃんは秋華の文化祭の時、演劇部の公演観たかしら? 最近はそのレッスンのために通っていたの」
 火曜日と金曜日の謎。
 その謎が、やっと明らかになった。
 毎週火曜と金曜、早瀬はヴァイオリンレッスンのために香澄の教室に通っていたのだ。
 それに……。
「あのっ。早瀬先生とは、学生時代からの……友人、なんですか?」
 美紅は思い切って、一番気になっていることを勇気を出して訊いてみる。
 真剣な眼差しで自分にそう質問する美紅に、香澄は一瞬きょとんとした。
 だがすぐにクスクスと上品に笑う。
 それから、こう美紅の問いに答えたのだった。
「ええ。早瀬くんとは、学生時代からのお友達よ。もしかして美紅ちゃん、私と早瀬くんが恋人か何かと思った?」
「あっ、いや、その……」
 図星をつかれて何と言っていいか分からず、美紅は気まずそうに俯いてしまう。
 そんな美紅に微笑んでから、香澄は続けた。
「早瀬くんの恋人っていう生徒って、美紅ちゃんのことだったのね」
「えっ!? ど、どうして」
 美紅は漆黒の瞳を見開き、香澄の言葉に驚いた表情を浮かべる。
 もうひとくち紅茶を口に運んだ後、香澄は笑った。
「やっぱりそうなのね。早瀬くんから、今自分の生徒と付き合っているって聞いてたから」
「早瀬先生から……」
 今までの自分の考えは、全部誤解だったようだ。
 早瀬と香澄は、本当にただの友人で。
 自分が心配しているような関係ではないようである。
 そう香澄と話をして分かった美紅は、ホッと溜め息を漏らす。
 それと同時に、ひとりで勘違いしてバタバタしていた自分が恥ずかしくなる。
 恋人である早瀬に対しても、本当に申し訳なかったと。
 そんな後悔の気持ちと安堵の気持ちで、心の中がじわりと満たされるのを美紅は感じた。
 でも……あの異様な胸騒ぎは、一体何だったのだろう。
 やはりふたりを見た瞬間に感じた直感も、ただの気のせいだったのだろうか。
 とはいえ、とりあえずは安心した。
 何かやましい関係であるならば、早瀬はわざわざ香澄に自分という恋人がいるなんて言わないだろうから。
「そういう香澄さんは、恋人いるんですか?」
 美紅は何気なくそう香澄に訊いた。
 香澄にも恋人がいれば、自分の考えが完璧に誤解だったとさらに確信が持てるし。
 それにこれだけ綺麗で教養もある人なのだから、きっとモテるだろう。
 だが香澄から返ってきた答えは意外なものだった。
「ううん、いないわ。作る気もないし……それに私の恋人は、一生ヴァイオリンだけだって決めてるから」
「ヴァイオリンが、恋人?」
 美紅はふと小さく首を傾げて、瞳をぱちくりさせる。
 こんなに美人なのに恋人を作る気がないなんて、勿体無い。
 いや、ヴァイオリンが恋人というその言葉が、ヴァイオリニストとしてのプロ意識の高さなのだろうか。
 そう思いながらも、美紅はさらに訊いた。
「香澄さんは有名なヴァイオリニストだから、海外とかにも行かれるんですよね。やっぱりお忙しいんですか?」
 ヴァイオリニストとしての仕事に忙しいから、恋人もいらないと思うんだろうかと。
 そう思って訊いた美紅だったが。
 香澄はそんな美紅の言葉に、小さく首を振った。
「ううん、海外でのお仕事は受けないの。受けないというか……受けられない、が正しいかな」
「え?」
 香澄の言葉の意味がよく分からず、美紅は視線を彼女に向ける。
 香澄はそっと長い漆黒の髪を耳に掛けてから、ゆっくりと続けた。
「私ね、中学の時に心臓の病気にかかって。長い間飛行機に乗ると心臓に負担かかるから、海外遠征とか行けないの。だから今は日本で定期的にリサイタル開きながら、自宅でヴァイオリン教室してるんだ」
「心臓の病気? あ……ごめんなさい」
 美紅は驚いたように香澄を見つめた後、申し訳なさそうにする。
 そんな美紅の様子に再び首を振り、香澄はにっこりと微笑んだ。
「確かに海外でのお仕事はできないけど。でも好きなヴァイオリンの仕事ができるだけで、とても私は幸せよ」
「香澄さん……」
 見た目穏やかで、のんびりした雰囲気を醸し出している香澄だが。
 でも本当はこの人は、芯の強い女性なのだと。
 美紅はそう強く感じたとともに、そんな彼女に憧れの気持ちを抱く。
 そして、自分にこんなお姉さんがいたらいいなと。
 一人っ子で姉妹もおらず母も早くに亡くし、父とふたり暮らしが長い美紅はそう思ったのだった。
 香澄は美紅に柔らかな笑顔を向ける。
 それから何かを思い出したように、ポンッと手を叩く。
 そして、こう美紅に話を振った。
「あ、そういえば。秋華といえば、早瀬くんだけじゃなくて遥河くんも先生しているのよね?」
「えっ? あ、はい……」
 いきなり天敵・遥河の名前が出てきて、美紅は驚きつつも頷く。
 そして香澄は驚く美紅を後目に、さらにこんなことを言い出したのだった。
「そうだわ。今度の日曜日、美紅ちゃんは暇? よかったら早瀬くんと遥河くんと3人で、うちに遊びに来ない?」
「えっ!? さっ、三人でですかっ?」
「ええ。どうかしら?」
 嬉しそうにそう言う香澄に、美紅は冗談じゃないとは到底言えなかった。
 いや、香澄の家に招待してもらえることはむしろ嬉しいのであるが。
 問題は、あの遥河も一緒というところである。
 どうして遥河のヤツなんかと一緒に。
 それに個人的にもあのキスの一件があるために、早瀬と自分が一緒の時に遥河もいるなんて、少し後ろめたい気持ちもある。
 そう、思ったのだが。
 3人で遊びに来て欲しいと楽しそうに誘ってくれている香澄に、そんなことは言えない。
 美紅は作った笑みを返し、仕方なく頷いた。
「た、楽しそうですね……先生たちにも、私から都合聞いてみます」
「ええ、考えただけですごく楽しそうね。日曜が待ち遠しいわ」
 香澄は綺麗な顔に笑みを宿し、黒を湛える優しい瞳を細める。
 日曜日、一体どうなるのか予想もつかない。
 そう一抹の不安を感じつつも、美紅は香澄の作ったシフォンケーキを口に運んだ。
 その瞬間、甘すぎないバニラの味が口いっぱいに広がり、思わず表情が緩む。
 確かに日曜日、不安もあるが。
 香澄も一緒であるし、たぶん何もないだろう。
 早瀬の本性と遥河との仲の悪さを知らない美紅は、そう暢気に思ったのだった。
 それよりも、何よりも。
 早瀬と香澄の誤解はすっかり解け、美紅はモヤモヤしていた気持ちがパアッと晴れた気がしていた。
 かなり唐突に思い立って行動してしまったが、今日香澄と話ができてよかったと。
 むしろほぼ初対面なのだが、香澄とは不思議とフィーリングが合うというか。
 彼女とふたりで過ごすこの時間が、不思議と美紅の心を落ち着かせていたのである。
 美紅は満足そうに笑顔を浮かべると、漆黒の髪をかき上げる。
 そして香りの良い紅茶と美味しい手作りケーキを幸せそうに味わったのだった。