21. 罪悪感と決断


 ――文化祭が終わって、数日。
 美紅は学校帰りに、駅の近くのケーキ屋で友人の葵とお茶をしていた。
 それは楽しい、親友との放課後のはずだが。
 美紅は紅茶を飲んだ後、テーブルに頬杖をついて大きく溜め息を漏らした。
 いつもなら一口食べれば幸せを感じるくらい大好きなフルーツロールも。
 今日は、その味すら分からない。
 いや、今日に限らず――ここ数日。
 ずっと美紅は、こんな調子なのである。
「美紅、最近どうしたの? 何かヘンよ」
 葵は明らかに様子のおかしい美紅に、そう訊いた。
 そんな友人の問いに美紅は思わず苦笑する。
 葵は、信頼できる気の置けない友人であるが。
 まさか……あんなこと、言えない。
 早瀬という恋人がいるのに――あの遥河と、キスをしてしまったなんて。
 以前も一度、英語教室でヤツにキスをされたことがあったが。
 あれはただの嫌がらせだと思っていたし、美紅の合意のもとではなかった。
 それでも恋人以外の男とキスするなんて、言語道断なことなのだが……。
 でもあの時は、単なる事故だったと。
 そう簡単に気持ちを整理することができたのだが。
 今回は……その時とは、ちょっと違っていた。
 早瀬と香澄のふたりの様子を見て、取り乱していたとはいえ。
 自分は遥河の接吻けを、不思議なくらい自然に受け入れてしまったのである。
 しかもそんな遥河から与えられたキスは、乱れていた美紅の心を落ち着かせた。
 その上不覚にも、心地良さまで感じてしまったのだった。
 ……だが、その反面。
 あの日から時間が経つにつれ、美紅は大きな罪悪感を感じるようになっていた。
「ねぇ、美紅。もしかして、プリンスと何かあったの?」
 葵は美紅をちらりと見て、今度は少し核心をつくような訊き方をする。
 その言葉に美紅は数度瞬きをさせた。
 それから少し考えるように俯いた後、ゆっくりと口を開いたのだった。
「あのさ、例えばの話なんだけど……やっぱり彼氏いるのに彼氏以外の男とキスしたら、浮気だと思う?」
 美紅の思わぬ返答に、葵は瞳をぱちくりとさせる。
 そして、驚いたように言ったのだった。
「何、美紅っ。プリンス以外の男とキスしたのっ!?」
「ちょっ、ちょっと声が大きいってっ。それに、その……これは、例え話だってばっ」
 美紅は慌てた様に周囲を見回し、大きく首を振る。
 そんな美紅の様子に敢えて突っ込むのを止め、葵はうーんと考える仕草をした。
「そうねぇ。その時の状況や相手に対する気持ちとかにもよるだろうから、一概には言えないけど」
 そこまで言って葵はちらりと美紅を見てから、さらにこう続ける。
「でも自分が逆の立場だったら、どういう理由があれ嫌だもんね。いいことじゃないかもね」
「やっぱり、そうだよね……」
 美紅ははあっと息をつき、ガクリとうな垂れる。
 自分は早瀬と香澄が仲良く話をしているだけでも嫉妬して不安になっているのに。
 そういう自分は、遥河とキスしてしまうなんて。
 考えれば考えるほど、本当に自分はなんて最低なんだ。
 そうさらに自己嫌悪に陥り、美紅は頭を抱えた。
 葵はそんな美紅を慰めるように言葉を掛ける。
「そのキスの後、キスしてきた相手の態度がどうかによるけど。一度だけの過ちなんて誰にでもあるし、恋人と別れる気がなくてバレてないなら、しちゃったものは仕方ないんじゃない? まぁ後ろめたいとは思うけど、今まで通り恋人のことを大切にしていけば」
「キスしてきた相手の、態度」
 美紅はそう呟き、漆黒の前髪をそっとかき上げた。
 文化祭の後、キスしてきた相手・遥河の様子はというと。
 まるで何事もなかったかのように、普段と何ら変わらないのである。
 別にキスしたことを口に出してくることもないし、自分に対する態度も全く変化なしで。
 あの時のことは夢だったんじゃないかと思うほど、遥河は普通なのだ。
 何か言ってきたり態度に出された方が困るのだが。
 それでも、あまりにも何事もなかったかのような遥河を見ていると、美紅はますます混乱してしまうのだった。
「どういう経緯でそうなっちゃったの? それに美紅は、そのキスした相手のことをどう思ってるの? それが今後を決める、一番重要なことじゃないかなぁ」
 葵は考え込むように口を噤んだ美紅にそう訊く。
 美紅は小さく首を傾けてから、ゆっくりと答えた。
「少し気持ちが乱れてて、気持ち的に折れちゃいそうで……その時に優しくされて、流れでっていうか。でも早瀬先生のことは変わらず大好きだし、キスした相手に特別な感情が芽生えたとか……そういうことは、ないと思うんだけど」
「じゃあ今回のことは忘れて、今まで通りプリンスと何事もなかったように付き合っていけばいいじゃない」
「でもそんなこと、早瀬先生に申し訳ないよ。先生は、私にあんなに優しくしてくれてるのに……」
 シュンとしたように俯く美紅の肩を、葵はポンッと叩く。
 そして、ふっと意味あり気に笑った。
「美紅ってば、本当に真面目なんだから。もうキスしちゃったものは仕方ないし、プリンスに悪いなって思うなら、これから今まで以上に誠意持って付き合っていけばいいじゃない。ていうか、美紅……誰とキスしたのかなー?」
 その葵の言葉に、美紅はハッと顔を上げる。
 それから途端に顔を真っ赤にさせ、言葉を失った。
 葵の言葉に簡単に乗せられ、自分のことだと言わんばかりにいろいろ喋ってしまうなんて。
 だが、もう言ってしまったものは仕方がない。
 美紅は諦めたように溜め息をつき、ようやく好物のフルーツロールを口に運んだ。
 そしてそんな美紅の様子に笑いながらも、葵はこう言葉を続けたのだった。
「ていうか、気持ちが乱れてたって言ってたけど。その原因はもう解決したの? 解決できることなら、今後のためにきちんとしておいた方がいいかもよ?」
「解決……」
 自分の気持ちが乱れた原因。
 それは、早瀬とあの香澄という綺麗な女性の関係。
 でもそれを、早瀬本人に訊く勇気が美紅にはなかった。
 だがら不安や憶測が大きくなって、心が乱れてしまったのだった。
 とはいえ、やはり今でも早瀬本人にそのことを直接訊くなんて、できそうにない。
 かと言って、あのふたりの関係を全く気にしないでおこうと吹っ切ることもできないし。
 それに葵の言う通り、事実をはっきりとさせることが今後のためにもいいことだとは分かってはいるのだが……。
 こんないつまでも煮え切らない自分の考えが嫌になりつつも、美紅は何か打開策がないか頭を悩ませる。
 ――その時だった。
「! あ……」
 美紅は何かを思いついたように、ふとカバンから手帳を取り出す。
 それから手帳に挟んであったメモ紙を見つけ、真剣な眼差しを向けた。
 ……自分と早瀬の幸せを、これからも続けるためにも。
 少しの勇気くらいは出さないといけない。
 美紅はある決意し、無言で大きく頷いた。
 それから顔を上げて、葵にこう言ったのだった。
「ありがとう、葵。私、頑張ってみる」


 ――数時間後。
 駅前のケーキ屋で、葵と別れた後。
 美紅は真っ直ぐ家には帰らず、普段あまり使わない地下鉄の駅で電車を降りた。
 そんな美紅の手に握られているのは、小さなメモ紙。
 それには、ある場所の住所が書かれていた。
 自分の気持ちを整理するために、勇気を出さないといけないと。
 そう思った美紅は、ある決断をしたのだった。
 その決断とは。
 美紅は駅にある周辺地図と手に持っているメモ紙を何度も見比べながら、目的地の位置を確認する。
 そして大きく深呼吸をし、地下鉄の階段を上り始めた。
 ――『黒岩香澄ヴァイオリン教室』。
 美紅の握り締めているメモには、その教室の住所が記されていた。
 この間のリサイタルで貰ったプログラムに、彼女が開いている教室の連絡先が載っていて。
 美紅はその教室の住所を、手帳にメモしていたのだった。
 そして葵と話をした美紅は、勇気を出して彼女のヴァイオリン教室に行ってみようと。
 そう決意したのである。
 美紅は見慣れない街を歩きながら、周囲をきょろきょろと見回した。
 それから数分後――ついに目的の場所を見つけ、足を止める。
 『黒岩香澄ヴァイオリン教室』という、小さな看板が掲げてある一軒家。
 決して派手ではないが、何気なく玄関前に飾られている雑貨などに上品なセンスを感じる。
 住所を頼りに香澄の家に到着した美紅は、玄関の前までやって来て立ち止まった。
 とはいえ、勢いでここまで来たのはいいが。
 あの女性と会って、一体何と言えばいいんだろうか。
 早瀬とどういう関係かと突然家に押しかけて訊くなんて、考えれば失礼だし。
 美紅はふとそう思いつつも、首を小さく左右に振る。
 でもここまで来たからには、もう後には引けない。
 それに訊きたいことをいきなり直球で訊くのではなく、さり気なくふたりの関係を探ることができれば。
 まずはヴァイオリンの話なんかをしつつ、少しずつ様子を見ていけばいいのではと美紅は思ったのだった。
 実際リサイタルに行って、彼女のヴァイオリンに心を打たれたことは事実であるし。
 もうこうなれば、なるようになれと。
「さぁ、勇気を出すのよ……っ」
 自分で自分をそう奮い立たせ、美紅は恐る恐る腕を伸ばす。
 そして勇気を振り絞り、玄関のチャイムを押した。
 同時に、ピンポーンとチャイムの音が家の中に鳴り響くのが聞こえる。
 バクバクする心臓を手の平で押さえ、美紅は大きく深呼吸をした。
 誰か玄関に出てきたら、とりあえず名乗って。
 それから、この間のリサイタルに行ったことを伝えて……。
 頭の中で一生懸命段取りを考え、美紅は人が出てくるのを待った。
 ……だが。
「留守、かな?」
 一向に人の出て来る気配が感じられない家の前で、美紅はそう呟く。
 考えたら、来る前に電話の1本でもしておけば良かったと。
 美紅はふうっと息をつき、漆黒の前髪をかき上げた。
 焦った自分が悪いのだが、何だか急に気が抜けてしまった。
 今日は思いつきだけで来てしまったが。
 今度来る時はちゃんといろいろ考えてから、連絡を入れて出直そう。
 そう思って、帰ろうとした――その時だった。
「あの、うちに何かご用ですか?」
 おもむろに背後から聞こえてきたのは、透き通るような綺麗な声。
 美紅は慌てて振り返り、漆黒の瞳を大きく見開いてしまう。
 そんな、美紅の目の前にいたのは。
 黒岩香澄、その人だったのだった。
「あ……」
 美紅は驚いたような表情を浮かべ、そして何も言えなくなってしまう。
 近くで見る彼女は、本当にとても美人で。
 穏やかで柔らかな女性らしい雰囲気がその場に漂う。
 でも、いざ実際に彼女を目の前にした今。
 頭が真っ白になってしまい、どうしたらいいのか美紅は分からなくなっていた。
 そして戸惑ったように、何度も瞳を瞬きをさせた。
 そんな美紅の様子に、香澄は不思議そうに小さく首を傾げている。
 このままではいけない。
 美紅は気を取り直し、懸命に口を開く。
「あっ、あの……私、椎名美紅と言います。この間の、貴女のヴァイオリンリサイタルを観て……」
 美紅はしどろもどろになりながらも、ようやくそれだけ言った。
「椎名、美紅さん……?」
 美紅の言葉に、香澄は漆黒の瞳をぱちくりとさせる。
 だがそれからすぐに、綺麗なその顔ににっこりと微笑みを浮かべた。
 そして。
「こんなところで立ち話もなんだから、中へどうぞ」
「えっ?」
 香澄の思わぬ申し出に、美紅は再び驚いた表情をする。
 香澄は美紅にもう一度笑顔を向けて家のドアを開けると、美紅を中へと促した。
「……お邪魔、します」
 恐縮しつつも美紅はそう言って、おそるおそる歩を進める。
 それから促されるまま、彼女の家へと入っていったのだった。