20. 愛の挨拶


 11月3日――文化の日。
 国民の祝日であるこの日は、大抵の学校は休日であるが。
 秋華女子高等学校の文化祭“秋華祭”は、毎年文化の日であるこの日に行われていた。
 だが、文化祭といっても。
 その内容は特に面白いわけでも奇抜なわけでもなく、地味なクラス展示中心の正直つまらないものだった。
 喫茶店やお化け屋敷なども一応催してはいるが、イマイチ盛り上がりに欠けるものである。
 美紅のクラスは各クラス必須のクラス展示と、教室の前で持ち帰り用のジュースやソフトクリームの販売などをしていた。
 ちょうど販売当番の時間である美紅は、同じ当番である友人とたまにくる客にソフトクリームやジュースを売りながらも、早く自分の当番時間が終わらないか何度も時計に目をやっていた。
 秋華の文化祭なんて、つまらないものであるが。
 だが美紅にとって、今年の文化祭にはある楽しみがあった。
 それは言わずもがな――恋人の早瀬が出演するという、演劇部の公演であった。
 ちょうどこの販売当番が終わって講堂に向かえば、演劇の開演時間にギリギリで間に合う。
 親友の葵と本当は一緒に観に行く予定だったが、葵の販売当番時間が演劇部の公演と重なってしまうため、ひとりでの鑑賞になってしまうが。
 だが早瀬目当てであるため、特にひとりで観ようが何人で観ようが構わないのである。
 美紅はちらりともう一度時計を見た後、そわそわしたように漆黒の前髪をかき上げた。
「あ、美紅。ちょっと任せてもいい?」
 同じ当番の友人は、手を合わせて美紅にそう声を掛ける。
 どうやら彼女の知り合いが来たらしい。
「うん、いいよ。どうせお客さんあまりいないし」
 美紅は頷き、彼女の申し出に応じる。
 クラスメイトは申し訳なさそうに礼を言った後、少しの時間持ち場を離れた。
 美紅はひとり椅子に腰掛け、思わず退屈そうに小さくあくびをする。
 ――その時だった。
「アホ面であくびか? そんな間抜けな顔してたら、来る客も来ねーよ」
 突然そんな嫌みったらしい声が聞こえ、美紅は慌てて手で口を押さえる。
 そして、あからさまに嫌な顔をした。
「うるさいわね、商売の邪魔しないでよねっ」
「商売? 誰も客いないのに邪魔も何もねーだろ。売り子がこれじゃ、商売あがったりだな」
 ニヤニヤと笑みを浮かべ、やって来た人物・遥河はそうからかうように笑う。
 それからソフトクリームの引換券を1枚得意気に取り出し、偉そうに言葉を続けた。
「それにおまえ、お客様にそんな態度か? お客様は神様だ、神様が満足するように丁寧に接待しろ」
「は? 図々しいわね、ホント。ソフトクリーム1個くらいで偉そうに」
 美紅ははあっとわざと大きく嘆息し、仕方なくソフトクリームを作る。
 作ると言っても、ただあらかじめ準備されている機械から出てくるクリームをコーンに流し込むだけであるが。
 美紅はつくったソフトクリームを遥河に手渡す。
 遥河はじろじろと美紅の作ったそれを見つめた後、パクッとひとくち口に運んだ。
「あ? 何なんだ、この味の薄いソフトクリームは。もっとミルクが濃厚なヤツがこの俺の好みなんだよ。それに盛り方も下手くそだな、おい。もっと綺麗にできないのか?」
「ソフトクリーム買い終わったんなら、さっさとどっか行ってよ。営業妨害なんだけど」
 ムッとしたような表情でそう冷たく言い放ち、美紅はふいっと遥河から視線を逸らす。
 それから腕時計を見てから、おもむろにつけていたエプロンを外した。
 待ちに待った、販売当番終了の時間がきたのである。
 席を外していた同じ当番の友人も戻って来て、次の時間の当番のクラスメイトに簡単な引継ぎをした後、美紅はうーんと大きく伸びをする。
 それから嬉しそうに表情を緩め、演劇部の公演が行われる講堂へと足を向けようとした。
 ……その時だった。
「おい」
 ふとそう声がし、美紅は反射的に振り返る。
 その声の主は、ソフトクリームを食べ終わった遥河だった。
「何よ、あんたに構ってる暇ないんだけど」
 美紅は声を掛けてきた遥河に構わず、スタスタと歩き始めた。
 遥河はそんな美紅を追いかけ、すかさず隣に並ぶ。
 それから、こう彼女に言ったのだった。
「おまえ、今から演劇部の公演観に行くんだろ? この俺様も一緒に行ってやる」
「一緒にってね、結構よ。あんたと観るくらいならひとりで観た方がマシよ」
「そうか。そんなに照れなくていいんだぞ、椎名美紅」
 ふっと笑ってそう言う遥河に、美紅は再びわざとらしく大きく嘆息する。
 だいたい、どうしてそうなるんだ。
 人の英語力を壊滅的とか言う前に、自分の日本語の理解力をどうにかしてくれ。
 そう思ったが、どうせ何を言ってもろくな返事しか返ってこないだろう。
 それよりも、楽しみなのは演劇部の公演である。
 いや、演劇部の公演というよりも、恋人である早瀬の晴れ姿が見れること。
 早瀬は公演の中で、ヴァイオリンを弾くという。
 きっとすごく格好良いんだろうなと、美紅は期待に胸を膨らませる。
 そして思わず顔がニヤけてしまっている美紅を横目で見つつも、遥河は黙って彼女とともに演劇部の公演が行われる講堂へと歩を進めたのだった。


 それから――数分後。
 ちょうど美紅と遥河が講堂に着いてすぐ、演劇部の公演が始まった。
 美紅は入り口に程近い席に座り、漆黒の瞳をステージへと向ける。
 遥河もそんな美紅の隣に腰掛けると、いつものようにふてぶてしく踏ん反り返って始まった公演に目をやった。
 演劇部の公演は、脚本もすべて自分たちで考えたというオリジナルストーリーだった。
 ――策略結婚させられる前の晩、ある国の姫が今は亡き恋人だった宮廷音楽家のことを思い出して涙する。
 その涙のあまりの美しさに心を打たれた月の妖精が、姫の願いをひとつだけ叶えてくれると現れる。
 もちろん姫はまず、死んだ恋人を生き返らせて欲しいと頼むが。
 だがいくら妖精でも、死者を生き返らせることはできないという。
 そして考えた挙句、姫が頼んだ願いは。
 自分が自分らしく自由に生きること、だった。
 それから王族という立場を捨て旅に出た姫は長い道のりの末、ある街でひとりの少年と恋に落ちる。
 やがてふたりは情熱的に愛し合い、真実の愛に目覚めるのだった――。
 簡単なあらすじを見ると、どうやらそんな感じのちょっとファンタジックなラブストーリーのようである。
 だが美紅にとって、別にストーリーなんて正直どうでもよかった。
 要は、恋人の早瀬の姿が見られるだけで。
 それだけで、満足なのである。
 早瀬の役は、姫の死んだ昔の恋人役らしい。
 特に台詞も多くなく、恋人を思い出し涙する姫の回想シーンに少し出てくる程度の出演らしいが。
 それでも、ヴァイオリンの曲を1曲演奏するのだという。
 美紅は進んでいく劇を見つめながら、早瀬の出番を今か今かと待った。
 ――そして。
「!」
 美紅はその瞬間、漆黒の瞳を大きく見開く。
 それから、食い入るようにステージに注目した。
 そんな美紅の瞳に映っているのは――中世風の衣装を身に纏った、早瀬の姿。
 王子様のようなその衣装が、また早瀬にはとてもよく似合っている。
 早瀬の出演はサプライズ企画のため、思わぬ彼の登場に周囲の生徒たちが一瞬ザワザワと騒ぎ出す。
 だがそのざわめきが感嘆の声に変わるのに、時間はかからなかった。
「愛する姫のために奏でるこの曲を、どうかお聴きください」
 よく透る柔らかな声でそう台詞を言った後、早瀬はヴァイオリンを抱える。
 そしてゆっくりと、曲を弾き始めたのだった。
 早瀬の奏でるその音色に、先程まで騒がしかった会場がシンと静まり返る。
 広い講堂に、美しいヴァイオリンの音色だけが響き渡った。
 そして……そんな、静まり返った中。
「この曲って……」
 美紅は早瀬の演奏するその曲を聴いて、そう思わず呟いてしまう。
 今、目の前で早瀬が弾いている曲。
 それは、あの日――黒岩香澄というヴァイオリニストのリサイタルでも演奏された、“愛の挨拶”という曲だった。
「…………」
 美紅はその曲をじっと聴きながらも、複雑な表情を浮かべる。
 父によると、この曲は作曲者のエルガーが愛する妻に贈った曲だという。
 そして……きっと早瀬は愛を奏でるこの曲を、あの香住という女性に習ったのだろう。
 美紅はステージ上の恋人の姿に見惚れつつも、同時に居た堪れない気持ちも感じる。
 途端に胸の中に湧き上がる、不安。
 ザワザワとした抑えきれない感情が、自分でもどうしようもなくて。
 美紅は漆黒の瞳を早瀬に向けたまま、ギュッと唇を噛み締めることしかできなかった。
 早瀬は3分程度の短いこの曲を、完璧に演奏し終える。
 それと同時に、ワアッと拍手が沸き起こった。
 早瀬はにっこりと微笑んで上品に一礼した後、ステージの袖に引っ込む。
 彼の出番は、どうやらこれで終わりのようだ。
 予想外の早瀬の出演に興奮気味な周囲の観客をよそに、ひとり美紅は複雑な表情を浮かべる。
 そしてそんな彼女には、ステージ上で繰り広げられている演劇の続きを見る余裕すらなくなっていたのだった。


 ――ようやく演劇もクライマックスを告げ、公演が終わってから。
 美紅はどうしようか悩んだが、とりあえずステージ袖にいるだろう早瀬に一言声を掛けようと席を立った。
「…………」
 遥河はまだ席に座ったまま、俯き加減の美紅をじっと黙って見つめている。
 美紅はそんな遥河の存在を気にも留めず、一歩足を踏み出した。
 だが――その時だった。
「! あ……」
 美紅は突然、ピタリとその場で足を止める。
 そしてある一点を見つめたまま、固まったようにその場に立ち尽くしてしまったのだった。
 その理由は。
 遥河は漆黒の瞳を細め、美紅と同じ場所に視線を向ける。
 そこには……公演を終えたばかりで衣装を着たままの早瀬と、美しいひとりの女性の姿。
 その女性は、あのヴァイオリニスト・黒岩香澄だったのである。
 流れるようなしなやかな黒髪と、女性らしいたおやかな雰囲気。
 美形で王子様みたいな早瀬と並んでいても、遜色ない美しさを持つ女性。
 そんなふたりは、何か楽しそうに会話を交わしていた。
 美紅はその様子を見つめたまま、戸惑いの色を隠せない表情を浮かべる。
 そして。
「……!」
 遥河はおもむろに席から立ち上がり、漆黒の瞳を見開く。
 それと同時に美紅は、その場から逃げるように駆け出したのだった。
 恋人である早瀬と香澄の仲の良い様子を、これ以上見ていられなかったのである。
「椎名美紅……っ」
 遥河は講堂を飛び出した美紅を追いかけ、彼女の名を呼ぶ。
 だがその声にも止まらず、美紅は校舎の階段を駆け上がった。
 自分が今、どこをどう走っているのか。
 それすら、この時の美紅には分かっていなかった。
 ただ――この一心だけ。
 とりあえず、誰にもいないところに行きたい……。
 美紅は階段を上り詰め、目の前のドアを開ける。
 それと同時に、ビュウッと強い風が吹き付けた。
 いつの間にか美紅は、学校の屋上に来ていたのだった。
 爽やかな秋風が、彼女の漆黒の髪を揺らす。
 美紅は風に乱れる髪も気にせずに、晴れた青空を見上げた。
 だがそんな青を湛える空は、すぐにじわりと滲んで。
 思わず堪えていた涙が、ポロポロと美紅の頬を伝った。
 自分は、恋人である早瀬のことを信じているはずなのに。
 なのに、どうしてこんな気持ちになるのだろうか……。
 美紅は湧き出る不安や嫉妬の感情に自分で嫌悪感を覚えながらも、仲の良さそうなふたりの様子を思い出す。
 そして自分の意思では止まらなくなってしまった涙を、ぐいっと拭った。
 ――その時。
「……椎名美紅」
 ふと背後から、そう声が聞こえる。
 美紅はその声に振り返り、驚いた表情をした。
「遥河……」
 その場にいたのは、美紅を追いかけてきた遥河の姿があった。
 美紅は慌てて再び涙を拭き、バツの悪そうな表情を浮かべる。
 よりによって、遥河にこんな姿を見せてしまうなんて。
 きっとまた、何か言われるに違いないだろう。
 でも今の自分には、遥河の嫌味に言い返せるだけの気持ちの余裕がない。
 だが、そう美紅が思った――その瞬間だった。
「……え?」
 遥河の取った次の行動に、美紅は驚いたように瞳を見開く。
 スタスタと美紅のそばまで歩を進め、やって来た遥河が。
 ギュッと強く……美紅の小さな身体を、抱きしめたのだった。
 美紅は予想外の出来事に、その場を一歩も動くことができなかった。
 そして同時に、ふわりと自分の全身を優しく包む遥河の体温を感じる。
 そんな美紅の耳元で、遥河はこう彼女に囁いた。
「泣きたい時は、思い切り泣けばいいだろーが……我慢しなくていいぞ」
 美紅はその言葉に、再び溜まった涙を零してしまう。
 それから堪えていた気持ちが切れたかのように、遥河の広い胸に身体を預け、ひっくひっくと泣き出した。
 遥河は泣き始めた美紅の頭を優しく大きな手で撫でる。
 心に染みるような、遥河のぬくもり。
 今の美紅のとって、それは不思議ととても心地が良くて。
 妙な胸のざわめきが、すうっと消えていくような感覚さえ覚える。
 思わず美紅は、その心地良さにその身を委ねてしまっていたのだった。
 ――そして。
 しばらく泣いている美紅を見守っていた遥河は、長い指でそっと美紅の涙を拭う。
 それから彼女の顎を微かに持ち上げ、おもむろに神秘的な色を湛える漆黒の瞳を伏せた。
 ……次の瞬間。
 遥河は自分の唇を、ゆっくりと彼女のものに重ねた。
 美紅は何故かそれを拒否する気になれず、そんな彼のキスを素直に受け入れてしまったのだった。
 今の彼女の心には……そのキスは、とても優しすぎて。
 美紅はキスを受け入れた後溜まらずに、再びポロポロとその瞳から涙を零し始めたのだった。