19. あと一歩の勇気


 十月も終わりに近づいた、晴れた日の夕方。
 この日の学校もすでに終わって、数時間が経っている。
 だが彼女の足は、家とは別の場所に向いていた。
 学校から少し離れた、いつもの待ち合わせ場所。
 そう、今日は恋人とのデートの日。
 美紅はもうすぐしたら自分を迎えに来るだろう白馬のプリンスを待っていたのだった。
 爽やかな秋風が彼女の頬を撫で、漆黒の髪を揺らす。
 美紅は携帯電話を弄りながら、そっと少し乱れた髪をかき上げた。
 そしてふと顔を上げ、嬉しそうに微笑みを宿す。
 そんな美紅の目の前に飛び込んできたのは。
 早瀬の愛車――白のスカイライン。
「美紅」
 車を止め外に出て、早瀬は助手席のドアを開けて彼女の名を呼んだ。
 優しくて柔らかな声。
 そして、自分だけに向けられた王子様の笑顔。
 美紅は思わず頬を緩め、彼に笑みを返す。
 それから、彼の愛車に乗り込んだ。
「ごめん美紅、職員会議が少し長引いちゃって。待っただろう?」
「ううん、大丈夫。そんなに待ってないよ、早瀬先生」
 ゆっくりと流れ出した景色には目も向けず、美紅はすぐ隣の早瀬だけを見つめる。
 いつ見ても本当に綺麗で、上品な顔立ち。
 近くで見ているだけで自然と胸がドキドキしてしまう。
 早瀬は自分に視線を向けている美紅に、にっこりと微笑む。
「待たせたお詫びに、今日は美味しいもの食べに行こうか。美紅は何が食べたい?」
「美味しいもの? うーん、何がいいかなぁ。先生は何が食べたい? 先生の食べたいものでいいよ」
「それじゃ待たせたお詫びにならないよ、美紅」
 早瀬はふっと笑って、左手でそっと美紅の黒髪を撫でた。
 彼のしなやかな指が頬に触れ、美紅はほのかに顔を赤らめる。
 夕食に何を食べるかや、これからどこに行くかも確かに大切だけど。
 一番嬉しいのは、大好きな恋人とふたりで同じ時間が過ごせるということ。
 早瀬と一緒にいられるだけで、美紅の心は満たされるのだった。
 早瀬は少し考えた後、そっとブラウンの前髪をかき上げる。
「じゃあ美紅、そこの紅茶専門店でお茶した後、いつもの美紅の好きなイタリアンレストランに行こうか」
「うん、そうだね。夕食には少し時間早いし、お茶しよっか。それにあそこのレストランのパスタ美味しいもんね」
 美紅は早瀬の提案に頷き、漆黒の瞳を細めた。
 彼女の返答を聞き、早瀬は愛車のハンドルを切る。
 青から赤に変わり始めた空を窓越しに見つめ、美紅は改めて思った。
 早瀬は自分には勿体無いくらい、素敵な王子様だと。
 そんな早瀬が、自分のことを裏切るようなことをするはずがない。
 結局美紅は、日曜日のヴァイオリンリサイタルのことを早瀬に訊かなかった。
 きっと、何にもないだろう。
 だって自分と早瀬は、こんなに順調に交際しているのだから。
 それに彼は自分には特に優しい。
 それなのに、勝手に妙な疑いを持って不安になるなんて。
 自分のことを大切にしてくれている彼にも申し訳ない。
 日にちが経つにつれ、美紅はそう考えるようにしたのだった。
 いや、あの日曜のことがもう気にならないかというと、当然本音は気にはなるが。
 今のふたりの関係を、くだらない疑いで壊したくはない。
 だから美紅は気にはなりつつも、早瀬に敢えてヴァイオリンリサイタルのことも、あの香澄という女性のことも訊かなかったのだった。
「美紅?」
 ふと口を噤んだ美紅に、早瀬は声を掛ける。
 その声に、美紅は再び早瀬に視線を向けた。
 そして彼に笑顔を返し、当たり障りない話題を振る。
「そうだ、早瀬先生。今度の休みはどこに行く?」
「どこに行こうか、美紅。季節もいいし、少し遠くにドライブにでも行こうか」
 それは、恋人たちの幸せな会話。
 美紅は大好きな彼とふたりだけの空間に安心感を覚えながら、楽しそうに笑う。
 そしてふたりを乗せた白のスカイラインは、行きつけであるちょっとお洒落な紅茶専門店の駐車場に入っていったのだった。


 ――同じ頃。
 残っていた仕事を片付けた後、遥河は帰宅するために学校の校舎を出た。
 そして職員駐車場に止めてある愛車の元へと歩き出した。
 空を染める夕陽に照らされ、遥河の漆黒の髪がほんのりと紅を帯びる。
 遥河はちらりと腕時計を見て時間を確認した後、車のキーを取り出した。
 それを愛車の黒のスープラに差込み、ドアを開けようとした――その時。
「…………」
 遥河はふと動きを止め、着信を知らせて震える携帯電話を取り出した。
 それから着信者を確かめると、おもむろに黒を帯びる瞳を細める。
 そして、ピッと受話ボタンを押した。
「もしもし。おう……今か? ああ、大丈夫だ」
 遥河は耳に聞こえる相手の声に、そう短く答えた。
 遥河の返事を聞き、相手は話を始める。
 そんな相手の言葉に、遥河は何かを考えるように俯いた。
 そして、こう言ったのだった。
「うちの学校の文化祭? ああ、俺は教員だからな。その日も学校には行かなきゃなんねーよ。ていうか、おまえもくるのか?」
 遥河の問いに、電話の向こうの相手はすぐに答える。
 それを聞いた遥河は、ふとその表情を変えた。
「何だ、それ? ……ああ、俺は知らねーよ。って、そうなのか……?」
 遥河はそう相槌を打ちながら、秋風に揺れる前髪をもう一度かき上げる。
 それから数分相手との会話を続けてから、電話を切った。
 遥河は携帯電話をしまい、黒のスープラのドアを開ける。
 そしてふっとひとつ息をつき、ポツリと呟いたのだった。
「来週の文化祭、か」


 ――夕食を取り終わった美紅と早瀬は、再び車で賑やかな街を走っていた。
 すっかり周囲も暗くなり、夜を迎えた街は活気に溢れている。
 だが美紅は、少し寂しそうに俯いた。
 楽しい時間というのは、どうしてこんなにすぐに過ぎてしまうんだろうか。
 もっと大好きな恋人と一緒にいたいのに。
 明日も学校だし、父に早瀬との交際を内緒にしているため、もうそろそろ家に帰らないといけない。
 この帰りの車の中が、一番美紅にとって寂しい時間だった。
「また明日も学校でも会えるから、美紅」
 早瀬はそんな美紅を慰めるように、そう優しく声を掛ける。
 ふたりは恋人同士ではあるが、同時に教師と生徒という関係でもある。
 ただでさえそんなふたりが付き合っていることは、公にはできない。
 それに美紅の父の和彦は、娘のことを溺愛している。
 そんな可愛い娘が、よりによって自分の部下である早瀬と恋人同士だなんて。
 知られたら、大変なことになる。
 早瀬は誠意をみせるために和彦に挨拶したいと前から言っているのだが。
 美紅が頑なにそれを拒んでいるのだった。
 まだ、父に言うのは早い。
 美紅は、せめてふたりの関係が教師と生徒でなくなってからだと密かに思っていた。
 自分たち以外の誰かに知られることで、ふたりの仲が引き裂かれるようなことになったら嫌だから。
 だから美紅は、父はもちろん、学校の友人たちにも知られないように細心の注意を払って早瀬と交際しているのだった。
「帰らないといけないけど、帰りたくないな」
 美紅はふうっと嘆息し、そう呟く。
 早瀬はそんな美紅の頭を左手でゆっくりと撫でた後、ふと何かを考えるようにブラウンの瞳を細める。
 そして車の車線変更をし、美紅の家とは違う方向へと進路を変えたのだった。
「え? 早瀬先生?」
 美紅はそんな彼の行動に、少し驚いた表情を浮かべる。
 早瀬は美紅ににっこりと微笑み、それから数分後、ある場所で車を止めた。
「ずっと一緒にはいられないけど、もう少しだけ一緒にいよう」
 美紅は周囲を見回してから、嬉しそうにコクンと頷いた。
 そこは――人通りの少ない、夜の公園の入り口だった。
 さすがに、帰らないわけにはいかないけれど。
 でもあと少しだけでも、ふたりの時間が過ごせる。
 美紅は笑顔を取り戻し、早瀬を見つめた。
 早瀬はよく、帰りたくないと言う美紅のために、こうやってどこかにしばらく車を止めることがあった。
 そうすれば帰る前に、ふたりでもう少し話ができるからと。
 そしてそんな早瀬の細やかな気遣いが、美紅は嬉しかったのである。
 早瀬は時計で時間を確認した後、口を開いた。
「そういえば美紅、文化祭の演劇部の公演は観に来てくれるよね?」
「うん、行くよ。来週の文化祭、すごく楽しみにしてるんだ。だって早瀬先生が公演に出るんだもん、絶対観に行くから」
「出るって言ってもゲスト出演の、ほんのちょい役だよ。そんなに期待してたらガッカリするよ」
 早瀬は美紅に笑顔を返し、そう言って笑った。
 そして、何気なくカーオディオのスイッチを押した。
 ――その時だった。
「あ、この曲……」
 美紅は車内に響くその旋律に、ふと表情を変える。
 カーオーディオから流れ出したのは、美しいヴァイオリンの音色だった。
 ……しかも。
 それは、日曜のリサイタルで演奏されたものと同じ曲だったのである。
「美紅?」
 早瀬は途端に黙ってしまった美紅に、不思議そうに目を向ける。
 ……もう、気にしないでおこうと思っていたのに。
 美紅は再び湧き出した不安な感情に、ぎゅっと唇を結んだ。
 そして早瀬に視線を向け、彼の手をそっと握りしめる。
「ねぇ、早瀬先生……私のこと、好き?」
 気がつけば美紅は、そう彼に訊いていた。
 早瀬は突然の美紅の言葉に少し驚きつつも、いつもの微笑みをその顔に宿す。
「どうしたんだい、美紅? 当然だろう、好きだよ」
 自分を映す、彼の綺麗な瞳。
 もちろん彼のことは信用しているし、大好きだ。
 でも……あと一歩の勇気が、自分にはないのだ。
 早瀬を完全に信じてあの日曜のことを忘れる勇気も、逆に彼にそのことを訊く勇気も。
 そのどちらもないのである。
 美紅は握り締めた早瀬の手のぬくもりを感じながら、自分のそういう煮え切らない感情に嫌気がさす。
 もう気にせずに忘れるか、早瀬に訊くかできれば、楽になるのに。
 どちらかを行動に移すあと一歩の勇気が、美紅にはなかったのである。
 早瀬は不安気な顔をしている美紅の頬を、繋いでいない逆手で撫でる。
 それから柔らかな声で、彼女に言ったのだった。
「愛してるよ、美紅」
 早瀬の指が、美紅の顎をそっと持ち上げる。
 そして早瀬の瞳が伏せられたのと同時に。
 羽のように柔らかなキスが、ふわりと美紅に落とされた。
 美紅は早瀬の接吻けを受け入れながら、漆黒の瞳を閉じる。
 それから溢れ出す気持ちを抑えきれないように、彼の首に腕を回した。
 早瀬はゆっくりと、美紅の唇にキスを重ねる。
 身体の芯がじわりと熱くなる感覚を覚えながらも、美紅は改めて思ったのだった。
 愛している――その言葉を、信じないと。
 こんなに自分に優しくしてくれる彼に、悪いじゃないかと。
 あと一歩が踏み出せない自分にせめてできることは、この胸のモヤモヤを我慢すること。
 楽になれないのは自業自得で、自分に意気地がない所為なのだから。
「ん……、先生……っ」
 美紅は与えられるキスの感触に小さく声を漏らし、頭が真っ白になるような感覚に陥る。
 それから、堪らず早瀬の胸に自分の身体を預けた。
 そして、そんな美紅の耳には。
 カーオーディオから流れるヴァイオリンの音色は、すでに聴こえなくなっていたのだった。