18. 苦肉の策


「はあ……っ」
 美紅は誰もいない英語教室で、この日何度目になるか分からない溜め息をついた。
 火曜日の放課後――遥河との、個人補習の時間。
 珍しく美紅は、遥河よりも一足先に英語教室に来ていた。
 そんな彼女の表情は、冴えない。
 美紅は覇気のない顔で机に頬杖をつく。
 それから、再び大きく嘆息した。
 美紅の溜め息の、その理由は。
 言うまでもなく――恋人であるプリンス・早瀬のことである。
 日曜日に行ったヴァイオリンリサイタルの会場で、美紅は早瀬を偶然見かけたのだが。
 何だかその時の早瀬の姿が、自分の知っている彼のものと違うような気がしてならなかった。
 しかも綺麗なヴァイオリニストの女性と、随分と親しそうで。
 そんなふたりの様子を見ていて、妙な胸騒ぎを美紅は感じたのだった。
 その上、そのヴァイオリニストの彼女が、綺麗で女性らしい雰囲気を持っている素敵な人で。
 尚更、美紅の不安も募ったのである。
 もしかしたらふたりは、自分の心配しているようなことなんて何もない、ただの知り合いなだけかもしれない。
 そう思いつつも美紅は、この数日間、怖くて早瀬に彼女とのことを聞けないでいたのだった。
 日曜日のリサイタルが終わり、家に帰宅してから。
 やはり気になり、美紅は改めてプログラムに載っていたそのヴァイオリニストの女性の経歴を見たのだが。
 彼女は黒岩香澄という、国内でも名の知れたヴァイオリニストで。
 幼少の頃から数多くのコンテストで入賞を果たしている。
 そして、出身校は早瀬と同じ慶城高校で。
 その上に彼女の生年月日を見ると、何と早瀬と同じ学年だったのである。
 これであのリサイタルの時に見た人物が、やはり早瀬本人であると美紅は確信したのだった。
 でもどうして、早瀬はヴァイオリンのリサイタルに行くことを自分に一言も言ってくれなかったのだろうか。
 何も言えない様なことがなければ、少しは話題に出てもいいはずなのに。
 それとも……何かそのことを自分に言えない、理由でもあるのだろうか。
 いや、確かに早瀬は前にこうは言っていた。
『学生時代の知り合いが、ヴァイオリニストなんだよ』
 そしてその学生時代の知り合いが、あの香澄という女性だということが今回美紅には分かった。
 そういえば早瀬は、文化祭の演劇でヴァイオリンを演奏することも、美紅が言わなければ話してくれていなかったし。
 最近、早瀬に関して知らないことがたくさんあると。
 美紅はそれを強く感じていた。
 とはいえ、決して恋人のことを信じていないわけではない。
 理想の王子様である早瀬のことは信用しているし、彼は自分には特に優しくしてくれている。
 そんな大好きな彼のことを、信じてはいるのだが……。
 ただ、今すごく不安なのである。
 彼を束縛する気もないし、まして問い詰めるようなことはしたくはない。
 いくら恋人同士だと言っても、相手のすべてに関与することが愛情ではないということも美紅には分かっているのだが。
 それでもやはり早瀬が知らない女性と仲良くしていたら、心配なのである。
 そして学校で何度も、早瀬に日曜日のことを訊こうとしたのだが。
 いざ彼の優しくて柔らかな笑顔を目の前にすると、話を切り出すことができなかったのだった。
 自分の意気地の無さに自己嫌悪しつつも、美紅は再び息をつく。
 今回のことに関して、自分は過剰になりすぎているだけなのだろうか。
 そう思いつつも美紅は自分の感じた胸のざわめきが、妙に引っかかっていた。
 何にも無い、ただの学生時代の知り合いだと。
 早瀬と香澄の関係がそうであると分かりさえすれば、気持ちは晴れるのに。
 だが、早瀬本人に直接訊く勇気は無い。
 そして……出来れば、頼りたくなんてないのだが。
 ふたりの関係を少しでも知りたいという気持ちの強い美紅は、ある苦肉の策を思いついたのだった。
 それは――。
 美紅はふと我に返り、俯き加減だった顔を上げる。
 その瞬間、英語教室のドアがガラリと開いた。
 そして、その場に現れたのは。
「何だ? 今日はやけに早いな。そうか、そんなにこの俺様に会いたかったか。いい心がけだ、椎名美紅」
 先に英語教室に来ていた美紅に、現れた人物・遥河はいつもの調子でそう言った。
 人が悩んでいるというのに、この男は相変わらず図々しい。
 美紅はそう心の中で溜息しつつも、敢えて何も言わずに遥河に視線を向けた。
 美紅の考えた、苦肉の策。
 普段通り自分の目の前の椅子に遥河が座ったことを確認し、それから美紅は彼にこう訊いたのだった。
「ねぇ、あんたさ……黒岩香澄さんって女の人、知ってる?」
 香澄はプログラムによると、早瀬と同じ年でしかも同じ高校の卒業生だという。
 だが、そういえば。
 目の前にいる遥河も、早瀬と同じ年で同じ出身校だということを美紅は思い出したのである。
 本当は、天敵であるコイツにそんなことは訊きたくはないのだが。
 背に腹は変えられない。
 美紅は苦肉の策として、早瀬に香澄のことを訊こうと決意したのだった。
 遥河は突然の美紅の問いに、神秘的な色を湛える黒の瞳を細める。
 それからスッと前髪をかき上げ、逆に美紅に訊き返した。
「何でそんなコト訊くんだ?」
「え? な、何でって……」
 遥河の問いに、美紅は思わず口篭ってしまう。
 だがすぐに思いついたようにこう言った。
「何でって、日曜日にその黒岩香澄さんのヴァイオリンのリサイタルに行ったのよ。それで彼女のプロフィールみたら、あんたと同じ年で慶城高校の卒業生って書いてあったから」
 誤魔化すように答えた美紅の言葉に、遥河はふうっと息をつく。
 そしてよく響くバリトンの声で、ゆっくりと口を開いたのだった。
「それでおまえ。その香澄のリサイタルで、早瀬でも見たのか?」
「えっ!? な、なっ、何でそれをっ」
 ガタッと思わず立ち上がり、美紅は声を上げる。
 その後ハッと我に返ると、バツの悪そうな表情を浮かべた。
 遥河は素直な美紅の反応を見て笑い、腕組みをして椅子に背を預ける。
 それからニッと口元に笑みを宿し、からかうように美紅に言った。
「そうか、早瀬と香澄のふたりの関係が気になって仕方ないってカンジか、おい」
「う、うるさいわねっ。ていうかその香澄さんと早瀬先生って……やっぱり学生時代から、仲良かったりするの?」
 図星を突かれてカッと顔を赤くしながらも、美紅は遥河に訊く。
 遥河はその美紅の問いに、少しだけ考える仕草をした。
 そして、こう答えた。
「あ? 確かに仲良かったみたいだけどな、詳しくは知らねーよ」
「な、仲良かったって……まさかふたりは付き合ってた、とか?」
 美紅は気になって仕方がなかったことを、思わず口に出してしまう。
 それから、しまったという顔をする。
 こいつにこれ以上、弱みをみせてどうするんだ。
 ただでさえ、いくつも弱みを握られているというのに。
 美紅は自分の失言に後悔した。
 だが、時すでに遅し。
 きっとまた遥河に何か嫌なことを言われるに違いない。
 美紅はそう覚悟した。
 だが遥河はそんな美紅の姿をじっと見つめ、ふと椅子から立ち上がる。
 そして愛想なく、ボソッと口を開いた。
「何で俺に訊く? 気になるなら早瀬本人に訊けばいいだろーが。それにおまえの英語力は破滅的なんだ、そんなくだらないコト言ってる暇があったら英単語のひとつくらい覚えろ」
「本人に直接って、それが訊けないからアンタに訊いてるんでしょ!? それに破滅的ってねっ、いちいち嫌味ったらしいわねっ」
 キッと遥河を睨み、美紅はそう言い返す。
 遥河にとってはくだないことかもしれないが。
 自分にとっては、かなり深刻なことなのに。
 それに早瀬本人に訊けるのならば、こんなに苦労していない。
 そうでなければ、遥河なんかにこんなこと訊きたくないのに。
 美紅はそう一気に言ってしまいたい気持ちをグッと抑え、目の前の遥河に視線を向けた。
 だがそんな美紅の様子とは逆に、遥河はふっと整った顔に笑みを宿す。
 そして、嬉しそうにこう言ったのだった。
「やっぱ、その威勢の良さが一番おまえらしいな。悩んでシュンとしてるなんて、おまえには似合わねーんだよ」
「……え?」
 美紅は遥河の意外な言葉に、きょとんとしてしまう。
 遥河はそんな美紅の様子にも構わず、持ってきたプリントを彼女に手渡した。
 それから、普段通りの調子で続けた。
「聞こえなかったか? さっさと補習始めるぞ。そのプリントを、今から15分でやれ」
「じゅ、15分ってっ。そんな短い時間で、こんなに解けるわけないでしょ!?」
「あ? ガタガタ言ってる暇あったらやれ。俺様が15分って言ったら15分だ、分かったな」
 遥河はそれだけ言って、再び椅子にドカッと座った。
 美紅はそんな遥河のふてぶてしい様子に溜め息をつき、前髪をかき上げる。
 そして、渋々手渡されたプリントに取り掛かり始めた。
 結局……早瀬と香澄のことは、詳しく分からなかったが。
 だが美紅の心は、何故か先程までと比べて少しだけ落ち着いていた。
 とはいえ、もちろん今でもふたりの関係は気になるし、できれば知りたいが。
 でも――悩んでシュンとしているなんて、私らしくない。
 遥河から言われた言葉を聞いて、美紅はようやくそう気がついたのである。
 それに自分は、早瀬のことを信じている。
 あの優しい早瀬が自分のことを裏切るようなことをするはずがない。
 もう、余計な詮索はやめよう。
 美紅はそう開き直り、自分自身にそう言い聞かせ、目の前の英語のプリントを解き始めた。
 そして。
「…………」
 遥河はプリントに取り掛かった美紅に、じっと視線を向ける。
 その表情は、何とも言えない微妙な色を湛えていた。
 それから遥河は時間を確認するようにちらりと時計を見た後、何かを考えるようにふっと漆黒の瞳を細めたのだった。