17. 直感


「こんな感じでいいのかな……」
 部屋の鏡を眺めながら、美紅は少し困ったように小首を傾げる。
 今日は、日曜日。
 父とともにヴァイオリンのリサイタルに行く日なのだが。
 普段、クラシック音楽自体すら疎いのに。
 ヴァイオリンのリサイタルなんて、一体どんな格好で行けば良いのやらと。
 先程から美紅はずっと、鏡と睨めっこ状態だったのである。
 あまりにもフォーマルすぎる格好はどうかと思うし、かといってカジュアルな格好も雰囲気に合わないだろう。
 そう思い悩みながらも、美紅はちらりと時計に目をやる。
 そして慌てたように、とりあえずあまり派手ではないシンプルで上品な印象のワンピースにカーデガンを羽織り、美紅は2階の自室から父の待つリビングへと移動する。
「そろそろ家を出る時間だが、準備はいいかい?」
「こんな感じの服でいいかな? 何かどんな服着ていけばいいか、迷っちゃって……」
「クラシックとはいえ、余程奇抜でなければ服装にはそうこだわらなくても大丈夫だよ。十分可愛いよ、美紅」
 娘溺愛の和彦は満足そうに瞳を細め、優しく彼女の髪を撫でる。
 その父の言葉に少し安心しつつも、美紅はもう一度身なりを整えた。
 それからふたりは、揃ってリサイタルの催される会場へと向かったのだった。
「ねぇ、お父さん。今日のそのヴァイオリンリサイタルって、どんなものなの?」
 会場へ向かう途中のタクシーの中で、美紅はふと父にそう訊いた。
 そういえば今日のリサイタルについて、美紅は何も聞いていなかった。
 知っているのは、ただヴァイオリンのリサイタルだということだけである。
 とはいってもクラシックに疎いため、曲名や奏者を言われてもたぶんピンとこないだろうが。
 そんな娘のことをよく知っている和彦は、少し考えてから彼女の問いに答えた。
「今日は、お父さんがすごく好きなヴァイオリニストのリサイタルなんだよ。彼女の公演には毎回行っているんだ」
 そこまで言って、和彦は一旦言葉を切る。
 それからふっと優しく微笑み、こう続けたのだった。
「彼女の演奏も彼女自身も、本当に素晴らしいよ。美紅もきっと、気に入ってくれるんじゃないかな」
「うん。あまりクラシックとか聴いたことないけど、でも楽しみにしてるよ」
 父の言葉に素直に頷き、美紅はそっと手櫛で髪を整える。
 和彦は娘の姿を微笑ましげに見つめた後、目の前に見えてきた会場に視線を移した。
 美紅はもう一度身なりを整えるような仕草をし、少しだけ緊張の面持ちになる。
 友達と、人気歌手のコンサートなんかには何度か行ったことはあるが。
 それがヴァイオリンリサイタルとなると、何だかすごく高尚な気分になる。
 そしてそういうところが我ながら庶民っぽい発想だなと小さく苦笑しつつも、美紅は父とともにタクシーを降りた。
 開演前でまだ少しざわついている会場に入って、美紅はきょろきょろと周囲を見回す。
 何だか、空気がとても穏やかな気がする。
 ホールに入った瞬間そんな印象を受けつつも、美紅は自分の席を見つけて座った。
 それからおもむろに、入り口で貰ったリサイタルのプログラムを開く。
 それには、本日のリサイタルの演目が書いてあった。
 だが曲名を見ただけでは、美紅にはどれがどんな曲なのかすら分からない。
 でもそれはそれで、始まったら楽しいはずだと。
 そう気を取り直しながら、美紅はさらにプログラムのページをめくる。
 そして。
 あるページで美紅は、その手をピタリと止めたのだった。
 美紅はじっと真剣な眼差しで、プログラムに視線を落としている。
 そんな娘の様子に気がつき、隣の席の父が声を掛けた。
「美紅、何か興味のあることでも載っていたかい?」
「え? あ、うん」
 父の言葉に顔を上げ、美紅は短くそれだけ答える。
 それから、再びプログラムに目を戻した。
 美紅が見ている、そのページには。
 今日のリサイタルの主役であるヴァイオリニストの、写真と経歴が載っていた。
 とても女性らしい雰囲気を持つ、綺麗な人。
 そのヴァイオリニストの写真を見て、まず最初に美紅はそう思った。
 その上に今までの経歴を見ても、幼少の頃からいろいろなコンテストなどで入賞している。
 こんなに美人で、しかもヴァイオリンまで上手だなんて。
 天は与える人には二物も三物も与えるものなのだなと。
 感心したように、美紅はほうっと溜め息をついた。
 そして――何よりも、一番美紅が注目したところは。
「この人も、慶城高校の卒業生か……頭もいいんだ」
 彼女の出身校は、恋人の早瀬や遥河と同じ慶城高校だったのである。
 慶城といえば、日本でも一・二を争う屈指の名門進学校。
 美紅はますます憧れるように、写真のヴァイオリニストの女性を見つめた。
 ――その時だった。
「美紅。そろそろ始まるみたいだよ」
 和彦のその言葉と同時に、会場の照明が少し落とされる。
 そして観客の拍手とともに、ステージにライトが当たった。
 ステージの袖から出てきたヴァイオリニストの女性は、拍手に応えるように丁寧にお辞儀をする。
 背中を流れるような綺麗な漆黒のストレートの長い髪に、柔らかで優し気な印象を受ける同じ色の瞳。
 その仕草はとてもたおやかで、写真で見るよりもさらに綺麗な女性である。
 美紅はこれから始まるリサイタルに、期待で胸を弾ませた。
 それからステージの中央に立った彼女は、ゆっくりと最初の曲目を演奏し始めたのだった。


「すごく素敵……」
 美紅はそう呟き、満足そうに漆黒の瞳を細めた。
 和彦はそんな娘の様子に笑い、満足そうな表情を浮かべる。
 ――リサイタルの前半が終了し、今は後半が始まる前の休憩時間である。
 小さい頃に一度だけ、このようなヴァイオリンのリサイタルに連れて行って貰ったことのあった美紅だったが。
 正直その時はまだ、よく良さが分からなかった。
 だが今回は、前半が終わった今の段階だけでも美紅はすっかりその世界に酔いしれていた。
 ヴァイオリンから奏でられる旋律は、ヴァイオリニストの女性と同じように優しくて上品で柔らかで。
 何よりも、すごく澄んだような綺麗な印象を受けたのだった。
 始まる前にプログラムで題名を見てもピンとこなかったが、中には美紅も聴いたことのある曲もあった。
 美紅は思い出したようにプログラムを開き、そして父に言った。
「結構聴いたことある曲もあったよ。休憩に入る前の前の曲とか」
「休憩に入る前の前の曲? ああ、エルガーの“愛の挨拶”だね。有名な曲だからね」
「えーっと、そうそう、“愛の挨拶”。すごく明るくて親しみやすくて、可愛らしい感じの曲だよね」
 プログラムで曲名を確認し、美紅は頷く。
 和彦はそんな娘に笑顔を向け、続けた。
「この曲はね、エルガーが結婚する時、最愛の妻に送った曲なんだよ」
「だから“愛の挨拶”か。すごくロマンチックだね」
 美紅はパタンとプログラムを閉じ、それからふと席を立つ。
 そして小振りのバッグを手に、周囲を見回しながら言った。
「何かちょっと喉渇いちゃったな。ロビーなら飲み物飲んでもよかったよね? まだ時間あるかな」
「まだ大丈夫だよ、行っておいで」
 時計を見て時間を確認し、和彦は頷く。
 美紅は足早にホールからロビーに出て、自動販売機で飲み物を買う。
 それからロビーの隅にある椅子に腰掛け、それをひとくち口にした。
 ――その時だった。
「……あれ?」
 美紅はふとロビーの人波を見つめ、首を傾げる。
 少し――美紅のいる場所から、離れてはいるが。
 遠くにいるひとりの人物の姿が、自分の知っているものとよく似ていたのだった。
 美紅は数度瞬きをさせてから、瞳を凝らす。
 だがすぐにその人物の姿は、人の波で見えなくなった。
「人違い、かな」
 美紅はそう呟き、もうひとくち飲み物を口に運ぶ。
 それから腕時計を見て、ロビーの椅子から立ち上がったのだった。


 会場を包むのは――割れんばかりの拍手の嵐。
 後半の演目もすべて終わり、観客は立ち上がってステージの彼女に賞賛の拍手を送っていた。
 もちろん美紅も、精一杯ヴァイオリニストの彼女に拍手をする。
 今までクラシックなんて、ろくに聴いたことなかったが。
 今回のリサイタルに来て、本当によかったと。
 美紅はリサイタルに連れてきてくれた父に感謝しつつ、演奏の余韻に浸っていた。
 今まで体験したことのないような、優雅で穏やかな時間。
 ヴァイオリンの音色は思っていたよりもずっと気持ちよく、美紅の心に響いたのだった。
 ステージ上で鳴り止まない拍手に丁寧に応えるように、ヴァイオリニストの彼女が観客に頭を下げている。
 観客の中には、ステージの下まで赴いて花束を渡す人の姿もあった。
 そんな手渡される花束をひとつずつ受け取り、彼女は綺麗な顔に微笑みを宿している。
 美紅はそれを何気なく見つめながらも、小さく感嘆の溜め息を漏らした。
 ――その時だった。
「……えっ!?」
 美紅は拍手をしていた手を突然止め、瞳を大きく見開く。
 和彦は不思議そうに美紅を見て、首を捻った。
「どうしたんだい? 美紅」
「あれ……あの、今花束渡してる人って」
 美紅の呟きを聞き、和彦はステージに視線を戻す。
 それから、こう言ったのだった。
「花束を渡している人? あれは……早瀬くん?」
「だよね、早瀬先生だよね」
 ステージ上の彼女に一段と大きな花束を渡している、その人物。
 それは間違いなく、美紅の恋人である早瀬だったのである。
 先程の――リサイタルの合間の、休憩時間。
 ロビーで美紅は、早瀬らしき人物の姿を目にした。
 だが遠目であったし、早瀬がこの会場に来ているなんて。
 それにそんなこと、本人から全く聞いていなかった。
 なので、きっと他人の空似だろうと、その時は思ったのだが。
 やはり自分の見た人物は、早瀬本人だったのだ。
 美紅は驚いたように早瀬を見つめた。
 優しくて顔も格好良い、自分の理想の王子様。
 だが……自分の知らない彼が、その場にはいた。
 ヴァイオリニストの彼女と早瀬は、花束とともにいくつか言葉を交わし合っている。
 いや、たまたま偶然早瀬がこのリサイタルに来ていたとしても。
 そしてあのヴァイオリニストに花束を渡していても、特に何も不思議ではないのであるが。
 でも……。
 美紅は親し気なふたりの様子を見て、妙に落ち着かない気持ちになる。
 ――直感、というヤツだろうか。
 胸がザワザワして、ギュッと締め付けられるような感覚を覚える。
 どうしてこんな感情が生まれるのか、自分でも分からない。
 でも何だかふたりを見ていると、いてもたってもいられなくなるは何故だろうか……。
 美紅はそう思いながらも、じっと早瀬の姿を漆黒の瞳に映した。
 そしてそんな彼女の耳には、鳴り止まない観客の賞賛の拍手も、自分に声を掛ける父の声すらも聞こえてはいなかったのだった。