16. 王子様のヴァイオリン


 ――次の日、水曜日。
 今日の学校が終われば、大好きな恋人・早瀬とのデートの約束がある。
 放課後を待ち遠しく思いながらも、美紅は葵とともに昼休みの廊下を歩いていた。
 女子校の校舎内には、賑やかな生徒の声が溢れている。
 美紅も葵と他愛のない会話を交わしながら、自分たちの教室へと向かっていた。
 ――その時だった。
「…………」
 美紅はふと微妙に表情を変え、顔を上げた。
 そして口を噤み、そっと耳に横髪を引っ掛ける。
「美紅?」
 そんな美紅の様子に気がついた葵は、小さく首を捻った。
 だがすぐに、言葉を切った美紅の行動の理由が葵には分かったのだった。
 その理由は。
「それでね、早瀬先生が……」
 美紅と葵の前を歩いている、別のクラスの生徒の会話。
 その話題の中心が、美紅の恋人である早瀬のことだったからである。
 王子様のような綺麗な容姿に、優しく柔らかな物腰。
 女ばかりの学校生活の中で、若くて格好良い教師に人気が集まることは当然で。
 しかも早瀬は“秋華のプリンス”とまで言われているほど生徒たちの注目を集めている。
 そんな早瀬が彼氏だということに、少し優越感も感じている美紅だったが。
 ほかの生徒たちが早瀬のことを話題にしていたら、やはり気になる。
 美紅はさり気なく目の前を歩く生徒たちの会話に耳を傾けた。
 聞かれていることにも気がつかず、生徒たちは楽しそうに話を続けている。
「文化祭の演劇部の公演、楽しみにしててよ。特別出演の早瀬先生が、本当に格好良過ぎだからさっ」
「演劇部の公演? そういえばあんたって演劇部だったよね。早瀬先生も公演に出るの?」
 そういえば来月、学園の文化祭があるんだっけ。
 美紅は彼女たちの会話を聞きながら、ふとそう思い返す。
 文化祭と言っても、それほど秋華女子の文化祭は盛り上がらない。
 部活をしていない美紅が参加するものといえば、クラスで開く微妙な喫茶店くらいで。
 あまりにも派手な出し物や出店などは、学園の品格が損なわれると許可してもらえないのだ。
 なので文化祭といっても特に楽しい行事というわけでもなく、授業がなくてラッキー程度の印象なのである。
 そして、そういえば早瀬は演劇部の副顧問をしていたなと。
 彼女たちの会話で、美紅はそのことを思い出した。
 だが副顧問とはいえ、早瀬は普段そんなに積極的に演劇部に顔を出しているわけではない。
 とりあえず誰か顧問の教師を数名つけないといけなかったために名前を貸したと、早瀬自身も言っていたし。
 ……でも。
 文化祭の演劇部の公演に彼が出るということは、美紅にとって初耳だった。
 そのことに少し驚きつつも、美紅はさらに生徒たちの会話に耳を澄ました。
 演劇部員であろう生徒は、意味あり気にふふっと笑う。
 それから、こう隣の友人に言ったのだった。
「あまり詳しく言ったら、お楽しみがなくなるでしょ? でも本当に早瀬先生のヴァイオリン、格好良いんだからっ。絶対公演観に来た方がいいよ、マジで」
 それだけ言ってその生徒たちは、目の前の自分たちの教室へと入って行った。
 美紅は今聞いた彼女たちの会話の内容に、大きく首を傾げる。
 演劇部の副顧問である早瀬が文化祭の公演に出ることは、考えればそれほど不思議ではない。
 だがそのことを、美紅は知らなかった。
 些細なことであるといえばそうなのだが、早瀬とはふたりでよくデートもしているし、会話も尽きる事はない。
 学校であった出来事なんかも、本当によくお互い話しているはずなのに。
 どうして文化祭の演劇部の公演に出ることを、早瀬は話してくれなかったのだろうか。
 それに、もうひとつ。
 美紅には、気になったことがあった。
 先程の生徒の会話で出てきた『早瀬先生のヴァイオリン』とは、一体何なのだろうか。
 何のことなのか全く検討がつかず、美紅は何度も瞬きをさせる。
 早瀬のことは、恋人である自分が一番よく知っているはずなのに。
 自分の知らない彼のことを、別の人が知っている。
 そのことが、美紅の心を妙に不安にさせた。
「美紅、さっきのこと……知らなかったの?」
 隣で美紅と一緒に会話を聞いていた葵が、遠慮気味にそう訊く。
 その言葉に頷き、美紅はポツリと口を開いた。
「うん、知らなかったよ。初めて聞いた……」
 複雑な表情を浮かべている美紅を気遣うように、葵はポンッと美紅の肩を軽く叩く。
 そして、努めて明るい声で言った。
「プリンス、文化祭直前に実は公演に出るんだぞって言って、美紅のこと驚かせたかったんじゃない? そんなに深い意味なんてないって」
 美紅は葵のその言葉に小さく微笑み、気を取り直すかのようにひとつ息を吐く。
 それから普段通りの表情を取り戻して呟く。
「そうよね、何も深い意味なんてないよね」
「別に訊き難いことでもないし、気になるならプリンス本人に訊いてみたら?」
 葵のその提案に、美紅はもう一度頷く。
 あの演劇部の生徒だって、早瀬は特別出演だと言っていた。
 演劇の主役をするとかならまだしも、そんなに焦って大層に報告するほどの出演じゃないのだろう。
 だから、早瀬は自分にまだ言わなかったのかもしれない。
 それに今日、その早瀬とデートの約束をしている。
 機会があれば、直接本人に訊いてみればいいことだ。
 美紅はそう自分で自分を納得させる。
 それから少し心配そうに自分を見ている葵の様子に気がつき、会話の話題を変えたのだった。


 ――その日の夕方。
 白のスカイラインの助手席で、美紅は運転席の早瀬に目をやる。
 まさに自分にとって、白馬の王子様。
 そう表現することがぴったりなくらい、早瀬は格好良くて優しい恋人である。
 彼とふたりでいるこの時間が、美紅にとって何よりも幸せを感じる至福の時なのだ。
「今日行った喫茶店のデザート、なかなか美味しかったね。今度はこの間美紅の言ってた、新しくできたケーキの店に行ってみようか」
 早瀬はそう言って美紅に視線を向け、彼女ににっこりと微笑む。
 それからふと手を伸ばし、カーオーディオのスイッチを押した。
 それと同時に流れ出したのは――美しい、ヴァイオリンの旋律。
 あまりクラシック音楽に興味のない美紅には、それが何という曲なのか分からなかった。
 だが、何だか聴いていて高尚な気分になる気がする。
 そして。
「あ、そうだ。早瀬先生に、訊きたいことがあったんだ」
 美紅はふと、そう早瀬に話を切り出した。
 ヴァイオリンの曲を聴いて、思い出したのだ。
 今日の昼休みに聞いた、演劇部の生徒の話の内容を。
 美紅は思い切って、そのことを早瀬に訊いてみることにした。
「あのね、先生。演劇部の子が言ってたんだけど……早瀬先生、文化祭の演劇部の公演に出るの?」
 美紅のその問いに、早瀬は少し驚いたような表情をする。
 だがすぐに綺麗な顔に笑顔を宿し、彼女の疑問にこう答えたのだった。
「参ったな。僕が演劇部の公演に特別出演することは、サプライズ的な企画でまだ公にしないようにしてたんだけど……うん、そうだよ。一応副顧問だからね、出番は少しなんだけど、出てくれって頼まれて」
「サプライズ的な、企画」
 やっぱりそうだったのかと、美紅は心の中でホッと安心する。
 まだ公にできなかったしそんなに出番も多くないため、自分にもまだ言っていなかっただけなのだと。
 特に意図して内緒にしていたわけでもなく、まして言わなかったことに深い意味なんてなかったんだと。
 美紅はそう改めて納得し、胸のつかえがすっきりしたような気持ちになる。
 それからその顔に笑みを取り戻し、彼に再び訊いたのだった。
「その演劇部の子が、早瀬先生のヴァイオリンって言ってたんだけど。どういう役なの?」
「……え?」
 早瀬は美紅の言葉を聞いて、一瞬だけその言葉を切る。
 それからふっと嘆息し、一呼吸置いて言ったのだった。
「そんなことまで聞いたのかい? 女の子はお喋りだね。ていうか、本当にちょっとした役だよ。脚本自体が演劇部のオリジナル作品なんだけど、僕の役はある国の有名なヴァイオリン弾きなんだ」
「ヴァイオリン弾き? じゃあ先生、劇の中でヴァイオリンを弾くの?」
「うん、一曲だけだけど。最初は断ったんだけどね、強引に決められて断れなくなったんだよ」
 早瀬はちらりと信号が赤になったことを確認し、ブレーキを踏む。
 漆黒の瞳を数度瞬きさせてから、美紅は感心したように呟いた。
「早瀬先生って、本当に何でもできるのね。ヴァイオリンも弾けるなんて」
「学生時代の知り合いがヴァイオリニストなんだよ。僕は所詮素人の趣味でやってるからそんなに上手なわけじゃないんだけど、その知り合いに教えて貰って少しだけ弾けるんだ」
 早瀬はそう謙遜し、ブラウンの瞳を細める。
 それにしても、こんなに顔も綺麗で性格も良くて。
 その上にヴァイオリンまで弾けるなんて。
 しかも上品な顔立ちをしている早瀬には、ヴァイオリンがとてもよく似合うだろうと。
 美紅は自分の恋人の完璧さに、思わずうっとりとしてしまった。
 演劇部の子が格好良いと言うのも、実際見ていないのに納得してしまう。
「そんなに期待されると緊張しちゃうよ、美紅。本当に弾けるって言っても、そんなに大した腕でもないからね」
「ううん、弾けるだけでもすごいよっ。楽しみだな、文化祭」
 美紅はそう言って、頬を緩ませた。
 きっとヴァイオリンを弾く早瀬はすごく素敵なんだろうなと、今から期待してしまう。
 自分にはあまり関係ないと思っていた文化祭も、何だかすごく楽しみになってきた。
 美紅は満面の笑顔を浮かべ、流れる夕方の街並みに視線を移す。
 そして、満足そうに黒を帯びた瞳を細めた。
「…………」
 早瀬はそんな美紅の様子を見ながら、ふと何かを考えるような仕草をする。
 それから青に変わった信号に気がつき、白のスカイラインを再び走らせ始めたのだった。


 ――その日の夜。
「美紅」
 ドアがゆっくりとノックされ、部屋の外から父・和彦の声が聞こえる。
 部屋で次の日の数学の予習をしていた美紅はシャープペンシルを机に置き、ふと振り返った。
「何、お父さん?」
 ガチャリと部屋のドアが開き、和彦は首を傾げる美紅に視線を向ける。
 それからあるものを娘に差し出し、こう言ったのだった。
「私は毎回足を運んでいるんだが、今週の日曜にあるヴァイオリンのコンサートのチケットを2枚貰ったんだ。前に美紅が、ヴァイオリンの話をしていたことを思い出してね。興味があったら、一緒にどうかなと思ってね」
「ヴァイオリンのコンサート?」
 なんてタイムリーな話題だろう。
 今日の早瀬とのデートの時、ちょうどヴァイオリンの話をしたばかりである。
 早瀬と自分の関係を知らない父には、決してそんなことは言えないが……。
 美紅はそんなことを思いながらも、父の誘いに大きく頷く。
「日曜日なら何も予定ないよ。いいよ、行こうかな」
「そうか、よかった。私も美紅と一緒に行けて嬉しいよ」
 娘を溺愛している和彦は、そんな美紅の返事に本当に嬉しそうな表情を浮かべた。
 ちょうど早瀬とのデートも、前の日の土曜日に予定している。
 日曜日は特に予定もないし、少しヴァイオリンに対して興味が出てきていることも確かだ。
 美紅は父の差し出すチケットを素直に受け取る。
 それをすぐに、失くさない様にと財布にしまった。
 そして無意識に笑みを零す。
 自分の理想の王子様と、ヴァイオリン。
 改めて自分が早瀬の恋人であることを誇らしく思いながら、美紅は幸せそうに微笑んだのだった。